【スパルタカス】
「父上」
スパルタカスは扉を開けて部屋に入ってきたクライスラーを一瞥すると、ベッドの横にあるテーブルに置いてあったグラスの水を飲み干す。
温くなったそれは喉を潤すには若干不快だった。
「……クライスラー、もう戦の準備は出来ておるのか」
「はい。明日には皇国に向けて出発できるかと」
フンっと鼻を鳴らしたスパルタカスは、重ねた大きな枕を背凭れにしながら、再び冷たい視線をクライスラーに向けた。
自身と同じ金髪の髪が少し乱れていることに気付くと、スパルタカスは全てを察したように長い息を吐き出す。
「そういえば、国王である父親が毒で倒れたというのに、お前は昨日一日城を空けていたな……」
「隣国の王女から招待を受けましたので」
「ふん、お前は本当に私に似ているな。だから敢えて言っておこう。子種をそこら中に撒き散らすなよ。落とし子など、混乱を招くだけだ」
馬鹿にしたように笑ってから、スパルタカスは目を閉じた。
その瞼の裏に誰かの姿を描きながら、決して口にはしない。
美しい黒い長い髪が風に揺れる。
あの時燃え上がったほどの熱情を今はもう忘れてしまった。
思い出せぬ笑顔に、気が狂ったように啜り泣く、第三王妃だったロゼアの姿が重なった。
かつて心の底から愛した女の身代わりに近い形で奪った女は、顔が似ていてもやはり彼女とは別人だった。
息子を殺さないでと縋りつかれても、ロゼアには何の感傷も湧かない。
だから殺せたのだろう。
だからロゼアが死んでも少しも悲しくなかったのだろう。
――ただ、また彼女を……あの熱を、忘れていくだけだった。
私が心から愛した女は彼女だけなのだ。
「……父上?」
スパルタカスが想い出からハッとするように我に返った時、目線を合わせるようにクライスラーが膝をついていた。
ベッドの脇で心配そうな、どこか不信感に溢れたようなその視線は死んだ第一王妃によく似ている。
「……クライスラーよ。例の王女はどうなったのだ?」
「はい……、ギネが待ち伏せをして殺す予定ですが」
「まだ予定なのか。では失敗した時はどうする?」
「ジェシカも付いていかせましたので、よもや失敗など――」
スパルタカスの言葉に丁寧に答えていたクライスラーだったが、廊下を走る慌ただしい足音に眉間に皺を寄せた。
「で、伝令ですっ!クライスラー様、ロサの死神男爵の領地で戦闘が発生しましたが、ギネ様は兵の半数を失い撤退されました!」
扉向こうで声をあげている兵の言葉にクライスラーは一度溜め息を吐いた。
スパルタカスの方は、クククッと口角を上げ肩を揺らしている。
「……ジェシカは生存しているのか」
「あ、はい!ジェシカ隊長は生きて戻られるとのことです!ですがギネ様の方が……」
言いにくそうに口籠る兵にクライスラーは苛ついた。目の前のスパルタカスが嘲笑するように自分を見ていることも理由かもしれない。
「ギネがどうしたのだ!」
「クライスラー、そう怒鳴ってやるな。扉越しでも怯えの色が見えるわ。……伝令兵よ。ギネは消えたのだろう?」
声を荒らげたクライスラーに、スパルタカスは冷静な声で続けた。
扉向こうから「は、はい。その通りでございます」との言葉が小さく返ってくる。
「消えた……だと?」
「元々あの男は我らに付いたわけではないのだ。口では色々言っておったが、あの男には既に別の王がいたのだろう。今回の皇国の動きもそうだが、何者かが背後で絵を描いておるのは明白だ」
スパルタカスはそれが何者であっても、その絵をぶち壊せばいいだけだと顎に手を置いた。
数日間寝ていたせいか、髭が生えてきている。元々髭が伸びることが珍しい体質ではあったが、流石に薄く口回りに生えたそれらを指で擦って彼は可笑しそうに目を細めた。
「別の王とは……やはり、クレマチス……?」
「それはわからん。ハイドランジアの日和見主義のウィローサはともかく女王蜂気取りのビブレイはなかなかの悪女だからな。また自国の儲け優先とはいえ、アザレア共和国の元首も食わせ者だぞ」
スパルタカスは脳内で地図を描くと、不意に表情を変えた。
――協会と小国パンジーの動きも気になる。中立を唄う協会がどうしてあそこまでパンジーに拘るのか。
即位式で見た無邪気な子供の王を思い出す。
部屋を後にしようとしたクライスラーの背中に声をかけようかと迷ってから、スパルタカスは押し黙った。
――いずれ判る、か。
これにて第五章は終了となります。
次回からは六章が始まります。
今後とも宜しくお願い致します<(_ _*)>