【ルピナス】☆
青の線が二本入った黄色い金糸雀が雲一つない青空の中を飛んでいた。
か細く鳴きながら、彼女はゆっくりと塔の小さな窓についている鉄格子の間を通り抜け、円形の中を見下ろす。
「……アシュ、ラム……、ノヴァー……リス……」
譫言のように愛する者の名を口にしてうつ伏せで眠っている女を金色の瞳が捉えていた。
食事もろくにしていないのか、朝に其処に置かれたと思われる白い食器の上には、固くなっているパンと乾いた野菜と肉。すっかり冷めてしまったスープがある。
「嫌よ、嫌……行かないで、アシュラムっ!」
繰り返す悪夢に魘されているのか、何度も苦し気に女の肢体はバタバタとシーツの上で暴れていた。
嘗ては綺麗に結っていたであろう髪型もボロボロに崩れ、白い肌は荒れ放題だ。伸びた爪もマニキュアの色が剥がれている。
ピィっと短く鳴くと、金糸雀――ルピナスは羽を広げまた空に戻った。
青の中に決して溶け込まないその黄色は、やけに空の上で目に留まる。
「あー!金糸雀さんだぁ!」
どこまで飛んだのだろうか。
流石に軋む羽の付根部分にルピナスは眉を寄せていた。
やっと目的地に辿り着いたと羽を休めるため、美しい白のバルコニーの手すりに足を下ろす。
「ほらほら可愛い金糸雀!見て!この子、青の線が二本入ってる!珍しいなぁ!」
先刻から無邪気にルピナスに対しての台詞を吐いているのは、幼さの残る少年だった。
サラサラの肩に掛かるほどの長い髪は山吹色と水色が斑に入った珍しい色味をしている。瞳の色はやはり髪と同じ二色だったが、丁度斜めに線が入るようにハッキリと色が分れていた。
――これが小国パンジーの少年王、デルフトか。
ぶかぶかの無理矢理仕立てたような王衣を身に纏い、重そうな質の良い茶色いマントはズルズルと床を擦っている。頭の上に載った王冠は見ているだけでも肩が凝りそうだ。
「ねぇねぇ!モルフォ!早く!!この子を捕まえてよ!僕は鳥籠にこの子を飼いたいんだ」
恰幅の良い白髪頭の中年である宰相がデルフトの言葉を聞いて、ルピナスを捕まえようとする。だが彼女はヒラリと躱すと、また空に舞い上がった。
眼下では、ふぅふぅっと息を荒くして汗を拭っているモルフォの姿が見える。隣ではデルフトが悲しそうな声を出して残念がっていた。
――確か齢七で王位に付き、それから五年間、協会の協力を得ているとはいえ、内政も外交も満点に近い……。
特に彼が王位についてからは小国パンジーは領地を一切減らしていないのだ。それはこの国の民にとって一番の幸せだっただろう。
――今では飢えもなく、誰もが笑って暮らせる生活をしている。
ルピナスは始め、彼についている宰相がやり手なのだと思っていた。だが今のやり取りを見る限り、モルフォという人物は凡庸だ。そして噂通り、少年王デルフトは天才なのだろう。
彼が生まれたとき、協会の占い師は名付けの義にこう言ったとされている。
『色のないパンジーです』と。
色のない魂。
それは青のダリアや薔薇よりも衝撃だったのを、ルピナスは覚えていた。その話を聞かされたとき、協会の占い師ですら未来を見ることのできなかった赤子なのだと、ルピナスは怖れた。
だが今目の前で見た限り、普通の子供より聡明そうではあるものの、魔力など微塵も感じない少年だった。
ルピナスは西に傾いてきた太陽の光に目を細めながら、東の空へと羽を動かす。
何時間も飛び続けると、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
もう少し大きな鳥にすれば良かったと、ルピナスが嘆き始めていた頃、やっと目的地である宮殿が目に入る。
――皇国アマリリス……
現在、ルピナスが一番気にかけている国だ。
宮殿にある庭木の枝に留まると、争い事を嫌う皇帝ルードヴィッヒの姿が見えた。
美しい勝色の髪を一つに結い、たらりと背中に垂らしている。他の国では見られない独特の衣装は何枚も色の違う薄い絹の布地を重ね着したものだ。
吹き抜けの廊下を歩いているルードヴィッヒの顔色は悪い。
それは別に彼の体調が悪いわけではなかった。
「父上!ラビドの容態は……!」
パタパタとルードヴィッヒに駆け寄って来たのは、二人の女の護衛を連れた皇女ミネルヴァだ。
父親と同じ髪色と、藍色の瞳が二人を見紛う事なき親子だと認識させる。
「大声を出すな。ラビドは生きている」
「でもっ」
ルードヴィッヒは何か口にしようとしたミネルヴァの口を塞ぐと、悲しそうな瞳で彼女を見下ろしていた。
「今はただ、弟を信じるんだ」
――やはり、この国の皇子は病に伏せているのだ。
二人の様子からそれを嗅ぎ取ると、ルピナスは小さく鳴いた。
闇夜に響いた美しい鳥の鳴き声に、ミネルヴァは目を丸くして闇の中を睨んでいる。
「もし歌を唄うならば、どうかラビドを癒してあげて」
それから優しく微笑み直すと、ミネルヴァは長い廊下を戻っていった。
――やはりこの状態の皇国に、他国を相手にする準備があるとは到底思えない。
ルピナスは闇の中一人頷くと、今度は北に向かって飛ぶのだった。