【アストリット】
その日、いやここずっと彼女――アストリットの機嫌は悪いままであった。
ロサの王族。女王の兄であるグレフィンの一人娘として、彼女は優雅に暮らしていた人間だった。
生まれもった美貌もある。
特にすらりと伸びた綺麗な脚は自慢で、身長が伸びないと悩んでいた従妹のノヴァーリスに必ず勝っていると断言できるものだった。
つまりそれは脚以外の部分に置いて、ノヴァーリスに勝っていると自負心を持てるものがないということでもある。
蜂蜜色のつややかな金髪。
コバルトブルーの、まるで空から降ってきた宝石を閉じ込めたかのような大きな瞳。
お人形のような長めの睫毛も、白い肌も、男を誘うような柔らかそうな唇も。
小鳥が歌うような、耳触りの良い声も。
――昔から大っ嫌いだったのよ!
アストリットは吐き捨てるように頭の中で罵倒すると、口を噤んだ。
大嫌いだと罵っても、アストリットは命を脅かすほどの憎しみがノヴァーリスにあったわけではない。
どちらかと言えば好敵手だと思っていた。
相手は王位継承権のある姫であったが、アストリットも姫であることに代わりはない。
だから昔から何かにつけてノヴァーリスと張り合った。相手はあまり乗り気ではなかったが、それでも年齢が近いこともあり、お互いに意識しあっていたはずだ。
「……どうして……っ」
簒奪者の娘になんて成りたくなかった。
父親の欲望が妻を殺してまで手に入れたいものだとも思いたくなかった。
そして手に入れたモノが砂上の楼閣だなんて、なんて愚かな父なんだろう。とアストリットは自暴自棄に近い表情で笑った。
握り締めた拳はドレスの布地を一緒に巻き込んでいて、ぐしゃっとした皺が高級そうな布地についてしまう。
――このままではいけない!
父の計画は杜撰なもので、案の定ノヴァーリスを逃してしまっていたし、未だルドゥーテは生存したままだ。
こんな未来を決して望んでいた訳じゃなかった。
だが嘆いてなどいられない。
既に事は起こってしまったのだ。
アストリットは顔を上げると、鏡に映った自身をよくよく観察した。母親の死に泣き腫れた目はとても酷いものだ。顔を洗って気を引き締めようと決意する。化粧もとびっきり綺麗にしてもらわなくては、と鏡の向こうのアストリットが微笑んだ。
手に入れられる筈のなかった未来が今目の前に広がっている。
ノヴァーリスには悪いが、最早この国の次期女王は私だとアストリットは頷いた。
それを確固たるものにするために、ルドゥーテとノヴァーリスの二人には死んでもらうしかない。
そして自身の身を守るためにも、ダリアの第一王子クライスラーとの結婚は必須条件だ。
――だけど、お父様もスパルタカス王も詰めが甘いわ。
あんなアシュラムの言うことを律儀に守っているだなんて。
アストリットは自身の部屋の窓から丁度見える、城の離れである塔を睨んだ。
そこには幽閉しているルドゥーテがいる。
閉じ込めておかなくても殺せばいいのだ。
それは今すぐにでもした方がいいとアストリットは思っていた。
ルドゥーテが死ねば、ノヴァーリスは必ず出てくる筈なのに、と。縦ロールの見事な金髪を揺らしてから、アストリットは両手を合わせた。
「そうだわ……!」
グレフィンとスパルタカスが出来ないのならば、私がしようとアストリットは口角を上げ目を三日月のように細める。
「……っ」
一瞬、アストリットの脳裏に黒髪の青年の姿がちらついた。
黄昏色の綺麗な瞳を持つ彼はアストリットの初恋である。
「……シウン」
ぽつりと呟いた台詞に自身の覚悟が揺らぎそうになって、慌てて首を振った。
もう二度と彼に会うことはないだろう。
――私が結婚すべきはクライスラー様よ。
冷酷な美貌の王子だ。そして彼は間違いなくこの大陸で名を馳せる人間になる。
まだ手紙への返事は来ていなかったが彼は必ず自身に会いに来るだろうと、アストリットには自信があった。
それが双方の利点になるなら尚更だ。
もう一度笑みを浮かべると、アストリットはシウンへの気持ちに封をして心の奥底に沈めた。
そして氷のように冷たい鬼に成る道を選ぶ。
――私は絶対に奪われないわ。貴女とは違うのよ。
翻したドレスのスカートが波打つ様は、まるで人の人生を表した浮き沈みのグラフのようだった。