【ジェイド】
ハイドランジアの南にある未開の地の蛮族の姿をジェイドは片時も忘れたことがない。
獣のような耳に獣のような尻尾。手足も耳と尻尾のように毛深かった。
初めてその姿を見た時、ジェイドはこの大陸に人間とは違う種族がいたことをはっきりと認識し、その姿に目を見張った。
そして次の瞬間には両親の腸が体から飛び出した。
目の前に仁王立ちしていた獣のような男が、ふーふーっと息を荒くし、ジェイドを見下ろしている。
『お兄ちゃん!!』
それが妹の最後の言葉だった。
ジェイドに振り下ろされた獣の爪は、彼の前に飛び出して両手を広げた妹――エクレールの胸を直撃する。
赤い花が咲き乱れ、そこら中に飛び散った。
ぐったりとしたエクレールの体を抱き締めて、ジェイドはその場から逃げるので精一杯だった。
妹の体はこんなにも重かっただろうかというほど重量感があり、抱き締めている腕がどんどんと怠くなり痺れ始める。
後ろを振り返れば、あの獣がいそうで振り向けないまま、唯ひたすらにジェイドは走ったのだ。
陰々滅々とした憂鬱な気分で、ジェイドは見つけた洞穴の中で座り込む。
気付いたときには、抱き締めていたエクレールの体は幾つかのパーツを落としてしまっていた。
――こんなことならば、父に開拓の仕事を募集しているなどと口にするんじゃなかった。あんなにも給金が高かったのは、命の危険があったからなんだ!国は、国王ウィローサは知っていたに違いない……!
ジェイドの家は立派な爵位を持った家柄だったが、父親の事業が失敗し更に多くの命を犠牲にしてしまったことで、罪人にされてしまったのだ。そして没落した貴族は職を探し求め、ハイドランジアの辺境――未開の地の開拓を任された。
『おー、生きてるな』
洞穴に踞ってから何時間経過したのか分からない。だがその人――アルベリックは妹の死体を抱くジェイドを見付けてくれた。
それからまだ腐ってないならと、妹の体のパーツを使い、人形を完成させた。それは彼に取って趣味と仕事の延長線上にあっただけで、ジェイドを助けてくれた訳ではなかったのかもしれない。
だがエクレールと同じ瞳、同じ手足を持つ人形のエクレールが動いた時、彼女がいつもの優しい目で自分をその眼に映した時、ジェイドはどれ程嬉しかっただろうか。
どれ程アルベリックに感謝しただろうか。
エクレールとは身長差ができ、自分が見上げることになってしまったがジェイドに不満はなかった。
生前と同じ様に傷付いた人を魔法で癒すエクレールは、まさに妹のエクレールそのものだったからだ。
貴族の長男として育ってきたジェイドは生意気で天邪鬼だったし、それをすぐに改心できるほど簡単にはいかなかった。だから口では憎まれ口を叩いてしまっていたが、アルベリックへの感謝を返すために、彼の医療技術を全て自身に叩き込んだ。
それほどジェイドはアルベリックを尊敬していたのだ。
――それなのに、俺にまで睡眠薬を……!俺を騙したなんて……!
ジェイドは急ぎ足で前を行くシウンの後を追う。
後ろにレオニダスとアキト、ローレルが付いてきていた。
「アルベリックっっ!!」
声は怒りに満ちていた。
胸の奥から沸き起こるこの激情をアルベリックにぶつけねば気が済まない。
だというのに――
「アル――……は?」
家の扉を蹴破り、中に入ったジェイドはシウンと供に絶句した。
薄暗い部屋の中で、エクレールの手から放たれる淡い色の光だけが細々と横たわるアルベリックの体を照らしていた。
「エクレール?!」
そしてエクレールの首には頭が乗ってはなく、帽子を被った頭は彼女の左脇に抱えられている。
右腕を伸ばし魔法で治療しているアルベリックの腹部からはゴポゴポと音が漏れるほど血が溢れ落ちていた。
皮膚を修復しようとも、破れては血が溢れる。既に床は大量の出血でぬるぬると照っていた。
「おい、アルベリック!これは一体どういうことなんだ!」
レオニダスが悲痛な声を出して濡れた床に膝をつく。
アルベリックの瞳が僅かな揺らぎを見せ、一度瞬きをした。罅割れた眼鏡のレンズ向こうから僅かにそれらが見てとれる。
「……かった、すま……った」
ヒューヒューと音を出す口から漏れた台詞は「すまなかった」と謝っているようだ。
ゴポっと口から血が漏れる。
「エクレール、もっと……強く!」
ジェイドが泣きながら叫んだ。
その声に反応したのか、エクレールの手から漏れる光は目を覆いたくなるほど強く発光する。
「……レオニー、俺が……間違ってた、あいつらは、始めから……約束を守るつもりなど……っ」
塞がった腹部のお陰か、アルベリックの声が少しずつ聞き取れやすくなった。それでも顔色は青白く、最早虫の息だ。
「お前、何がしたかったんだ!誰にノヴァーリスを売った?!」
「すまない……、彼女さえ渡せばお前を殺さず……この国で隠れて生きていけると……っ、ぐ……!アシュラムだけでなく、お前まで女王の犠牲にならなくても……っ」
「馬鹿野郎っ!!俺がいつ姪や義姉を見殺しにして生きていたいと言った!兄貴も二人を生かしたいがために犠牲になったんだぞ!」
「すまな……っ、恩もあったのだ、あの人には……死体を、くれた、定期的に……だから」
虚ろな目が再び瞬きをすると、つぅっと目尻から滴が溢れ落ちる。
「……ジェイド、すまない……お前なら、いい医者になれる……」
「アルベリック……?」
それがアルベリックの最期だった。
エクレールは手を翳すのを止め、脇に抱えている頭の目をそっと閉じる。
ジェイドはエクレールと交代するようにレオニダスの横に座り込み、アルベリックの体を揺すった。
白いジェイドの衣服がアルベリックの血で赤く染まっていく。
「嘘だろ……おい、やめろよ、ふざけんな……!俺もレオニダスもお前を殴り飛ばそうと思ってたんだぞ!お前を信じていたのにって!!こんなんじゃ殴れねぇだろうがっ!」
ボロボロと涙がジェイドの目から溢れ落ちた。
「……先に行ってる兄貴に殴られろっ、後からそこに行ったときは俺も絶対殴ってやるっ」
レオニダスは低い声でそう言うと、泣きじゃくるジェイドの肩を叩く。
それはまるで自分自身を慰めているようだと、アキトは思った。
ローレルも何も言葉を発することはしない。
それだけそこにある空気が重く、沈黙は語るよりも雄弁だった。
「……死体を定期的にアルベリックさんに渡していた相手を知っていますか?」
沈黙の後、シウンがジェイドに尋ねた。
ジェイドは目を擦ると首を縦に振る。
「アルベリックに死体を定期的に渡して、引き換えに毒や媚薬やらを作らせてた相手は一人だけだ」
ジェイドの目が忌々しげに細められた。
「……ビブレイ王妃、その人だ」