【ローレル】
ジェイドの案内を受けながら、シウンたちはウツギの村から東にある山の獣道を登っていく。
焦りの見えるシウンとレオニダスの後頭部を眺めながら、アキトの後ろ――つまり最後尾を歩いているローレルは眉間に皺を寄せたまま、うーんと一人唸っていた。
いつも澄ました顔で微笑んでいる筈のシウンは仏頂面で冷静さが欠けているし、レオニダスの顔色も悪い。アキトはいつも通りのように見えたが、ただその足はいつもよりも重そうだった。これは先頭を行くジェイドの覚束無い足取りと同じようなものだ。
――やっぱ変だよな……。
ローレルは溜め息を吐いてから、そっと高く跳躍し、頭の上の木の枝に飛び移った。
音もなくそうした為か、それとも全員いつもと様子が違うからか、ローレルが離れたことに気付かない。それはそれで有り難いとローレルは木々の間を移動し始める。
目指すべき場所は分かっていた。
アルベリックとジェイドの言う通り、紅の針葉樹のアジトはこの山の中だ。
――ただ入口はこっちなんだよな……っと。
「あっぶね!」
切り立った崖から落ちそうになって、ローレルは冷や汗をかく。
ここには何度も訪れていたが、やはり慣れないなと頭を掻いた。
ローレルは紅の針葉樹と取引をしていた黒の月桂樹の幹部の一人である。
だから彼はウツギの村にやって来た時、襲っている彼らの装束ですぐに紅の針葉樹だと分かったし、仲間の命と利益を比べ、釣り合わないことはしないという信条を持っている彼らが危険を冒してまでノヴァーリスを拐ったということが俄に信じられなかった。
「つか、これ……ぜってぇー睡眠薬の後遺症じゃね?」
たまに来る脳の揺れにローレルは蟀谷を押さえると、少しだけ深呼吸する。
睡眠薬の後遺症なら、犯人はすぐに見当がついた。
――だから、これは最終確認だ。
するりと崖に不自然に空いていた穴に身を滑らせると、穴の先は紅の針葉樹のアジト内だった。
ローレルはアジト内を巡回している山賊たちに見つからないよう、慎重に天井に張り付いて移動する。
長い時間張り付いて移動すると筋肉が痙攣し始めるので、目的の場所についてローレルはホッと安堵した。
その場所はやけに山賊に似つかわしくない桃色の布地や可愛らしいアクセサリーが飾っている部屋だ。
入ってきた扉を音も立てずに閉めると、部屋の隅っこのベッドで寝息を立てている女の前に立つ。
燃えるような紅い髪を波立つように腰の辺りまで伸ばしている女の右目の下には黒子が二つ真横に並んでいた。
「……おい、おいって!」
ローレルは一瞬悩んだが、首を横に振ると勢いよく女の肩を揺らした。
「ん、……んー?」
「起きろよ、カヤ!」
ローレルが女の名前を呼ぶと、うっすらと瞼を上げた女――カヤは彼を視界に入れた瞬間、遠慮なく首に巻き付いてその豊満な胸をローレルの体に押し当てる。
「あはーん!ダーリン!!遂に夜這いをしに来てくれたんだね!アタイ、嬉しいよ!!」
「違う!!誰がお前なんかに夜這いを仕掛けるか!取り敢えず、俺の話を聞けっ!」
ローレルはカヤの布地の面積が少なすぎる衣服と胸の感触に顔を赤らめながら、精一杯の理性でカヤを引き離した。
「ダーリンの話って……結婚の申し込み?!あんっ、プロポーズね!死んじゃったと思ってたダーリンが生きてて、アタイにプロポーズしに来てくれるなんて、なんて素敵な物語っ!!」
「だーっ!!プロポーズなんてするかー!!その妄想癖をどうにかしろ!そして少しは黙れ!」
くねくねと腰を動かし一人の世界に旅立とうとするカヤの頭を叩くと、ローレルは懐からノヴァーリスの似顔絵を取り出す。それは黒の月桂樹がロサを襲撃する時に標的の一人として配られた似顔絵であり、数日が経過していたからか紙にはくしゃくしゃと皺がついていた。
「……何この女?……まさか付き合ってるとか言わないわよね?!」
「……知らないんだな?」
ムスッとした表情のカヤを見て、ローレルは確信する。
――やはり姫さんを拐ったのは、紅の針葉樹じゃねぇ。
目の前にいるカヤは紅の針葉樹の頭領の娘であり、襲う先を決めたり作戦を立てるのは決まって彼女だった。その彼女が手下に襲わせたノヴァーリスの顔を知らない筈がない。
大きく頷くとローレルはカヤの頭を撫でるようにポンポンと叩いた。
その行動に頬を紅潮させたカヤは手をもじもじと落ち着かなさそうに動かす。
「夜中に起こして悪かったな。俺の用事はこれで終わりだ。……あーあと、今日の昼間お前んとこの手下を何人か殺しちまったが、正当防衛だかんな。それに俺はもう黒の月桂樹じゃねぇし。……うん、じゃまぁ……達者に暮らせ」
ローレルがそう早口で話してから部屋を出ようとすると、カヤの表情は泣き出しそうな切ないものになっていた。何故か罪悪感を感じるそれに、ローレルは思わず下がり眉になる。
「う、うぅ、アタイのこと、捨てるんだぁ……!」
「す、捨てるも何も?!俺、お前と何の関係も結んだ覚えないんだけど?!」
「あんなに熱い夜を過ごしたのにぃぃ。キスだっていっぱいっ」
「それ全部お前の妄想だからな?!そんなことしたらお前の熊よりデカい親父に捻り殺されるわ!!」
身に覚えのないカヤの話を全部否定してから、ローレルは早く戻らないといけないことを思い出した。
涙目のカヤに「お前らに罪を被せようとしてるやつがいるから、暫く目立つなよ!」と言い残し、部屋を出る。それからまた天井に張り付くと慎重に元来た道を戻った。
「おい、シウン!レオニダスのおっさん!」
「お前っ?!どこ行ってたんだ!あと誰がおっさんだ!」
レオニダスの返事に口許を緩めると、ローレルは睨み付けるように自分を見ているシウンに視線を向ける。
「紅の針葉樹は関係ねぇ」
「……何故貴方にそれがわかるんです?」
「説明すると長くなる。それに一刻を争う今はそんな細かいことどうでもいいだろ。ただ、ここに俺らがいるのは時間の無駄だ」
真剣な顔をして言葉を紡ぐローレルにシウンは表情を少し変えた。
「俺らは時間稼ぎに当ての外れた場所を捜索させられてるだけだ。確かに紅の針葉樹はこの山にアジトがあるが、元々奴等は姫さんの誘拐に関係ねぇんだよ。それにおかしいだろ?俺らが全員同じタイミングで寝入るなんて。襲われたなら、物音だってしたはずだ。なのに姫さんが拐われ、アルベリックのおっさんがやり合ってるのに誰も起きなかったのか?」
「それは……確かにおかしいと思っていました」
シウンは己が焦燥感によって軽率な行動をしていることに気付いたのか、眉間に皺を寄せ俯く。
レオニダスもアキトと顔を見合わせると、ある考えに至ったのか困惑したような顔色になった。
「……ローレルくん、それはつまり……」
「……アルベリックが俺たちを騙したと」
レオニダスが言い難そうに言葉を詰まらせると、木に背を預けていたジェイドがきっぱりと言い放つ。
「確かに疲労回復に良いと言われたあの実がおかしかったんだ。それと俺のグラスにも薬が塗られていた可能性がある」
握った拳を悔しそうに震わせると、ジェイドは若葉色の瞳をギラリと光らせた。
その様子を見ながらもアルベリックを信じたいという気持ちが強いのか、戸惑っているのはレオニダスだ。
「レオニダス様、一先ず本人に直接聞きましょう」
「あ、あぁ……」
レオニダスはアキトの提案に曖昧に頷く。
シウンは短く息を吐き出してから、腰に手を当てて全員を見回しているローレルの前に立った。
「……、します」
「は?」
突然目の前に来たシウンがほんの少し頭を下げたのを見て、ローレルは目を白黒させる。しかし肝心な部分が消え入るような小声だったせいで聞こえなかった。
「だ、だからっ、感謝しますって言ってるんですよっ!」
黒の革手袋をした手で顔を覆うように隠しながら声を上げたシウンにローレルは顔面が見事に崩壊した。
「ほほう、このローレル様に感謝したのか。へー、ほー、はー。あのシウンさんがねー、ぐふふ、これは面白――ぐはぁっ?!」
ニヤニヤとしつこく笑っていたローレルの顔面にシウンの拳が真っ直ぐに入った。それを見てアキトがぷっと吹き出す。
「……さぁ時間がありません。行きましょう!」
「こんのぉ~……クソ執事……っ」
颯爽と山道を駆け降りていくシウンの背中に向けた罵倒は虚しく木々の葉音に吸い込まれるのだった。