【クライスラー】
クライスラーは酷く焦っていた。
それは死神男爵との戦いで敗北を喫したことも理由の一つではあったが勿論それだけではない。
急ぎ足でダリア王城の長い廊下を進めば、途中の窓からギネが医療班に何やら喚いている姿が見えた。
クライスラーはそれを一瞥してから、無言のまま父スパルタカスの部屋の前まで歩く。
ノックを数回するが、中から聞こえてくるのは呻き声だけだった。彼は一瞬躊躇してから、覚悟を決めて部屋の扉を開ける。
「父上!」
兵を引き上げたことへの叱責なら甘んじて受けるつもりだった。
中に入ると、スパルタカスは大きなベッドの中心で魘されるように眉間に皺を寄せて眠っていた。
スパルタカスの様子を診ていたらしい医者がクライスラーに頭を下げる為に立ち上がろうとする。
「いらぬ。それよりも父上の容態はどうなのだ」
「は、はぁ。……どうも少し毒が体内に入ったようですが、解毒薬のおかげで今は回復に向かっております」
ひそひそ声で話す背の低い医者の説明を聞きながら、クライスラーは短く溜め息を吐いた。
ギネの暴走を止めて自国まで性急に戻ってきたのには訳があった。
伝令がクライスラーに耳打ちしたのは、スパルタカスが暗殺未遂で倒れられたとの言葉だったのだ。
俄には信じ難いことだったが、魘され額に玉の汗を浮かべているスパルタカスの姿を見て、クライスラーは報告は真実だったのだとやっと理解する。
「……どこの仕業だ」
クライスラーの低い声に医者は頭を振ったが、クライスラーの冷たい視線に観念したように引き出しに入れていた木の札を取り出した。
それを受け取ると、クライスラーはぴくりと眉毛を動かす。
「……それは王を襲った者が落としました……いえ、正確には摩訶不思議なことに、その者は騎士たちに斬られた後……泥のように溶けて消えたのです……そして残っていたのが――」
「朱頂蘭の紋章……」
――皇国アマリリスか。
クライスラーは眉間にいつもよりも深く皺を刻む。
彼がこのような反応になるのも、今皇国は他国に構っていられるような状況では無かったからだ。
無論、クライスラーが手にした情報が正しいのであれば。
「皇子は病に倒れた筈だ……、あの争い事を嫌う皇帝がこんな愚かな行為に及ぶのか……?」
「畏れ多いですが……破れかぶれになったということでは」
「たかが医者風情が偉そうに外交に口を出すな」
思わず呟いていた台詞に答えを返してきた医者を睨み付けると、クライスラーは更に低い音を出す。
医者は「ひぃっ!」と短く悲鳴を上げると、クライスラーに土下座するように頭を下げた。床に擦り付けるようにした額がほんのりと赤くなる。
「お前は父上の回復だけを考えておけ」
「は、はいっ!」
医者の怯えた返事を聞く前にクライスラーは部屋を後にした。
扉だけはスパルタカスの為に静かに閉めたが、廊下に出ると乱暴に歩を進める。
革靴の音が大理石の廊下に響いた。
「クライスラー様っ!」
自室に向かうと、部屋の前にジェシカの姿がある。
赤みがかった茶色の長い髪を頭の上で一つに束ねている彼女は、クライスラーの姿を見つけると嬉しそうに声を弾ませた。
「い、いかがでしたか……?」
「……父上は無事だ」
「それは良かったです。これで今晩はよく眠れますね」
クライスラーは自室の中に入ると、ジェシカに上着や剣などを預ける。彼がここ数日あまり寝てないことを知っていたジェシカは気遣ってそう言ったのだが、やがて上半身裸になったクライスラーから視線を慌てて外した。
――……ロサの王女も未だ捕らえられず……か。
窓の外に輝く月を眺めながら、クライスラーはジェシカの言葉など耳に入っていなかった。
当初の予定では既にロサの王族はグレフィンとアストリット以外死んでいる筈なのだ。
「あ、そう言えば……ロサの簒奪者……い、いえ、グレフィン王の娘であるアストリット様が殿下にお会いしたいと、何度も連絡があったようです」
ジェシカは不満そうな顔でそう言うと、クライスラーに聞こえない声で「……あんな女、クライスラー様には釣り合わない」と漏らした。
「……アストリット……、ふっ、全くもって顔を思い出せぬな」
――興味がなかったのだから当たり前だが。
肩を揺らすとクライスラーはベッドに腰掛ける。
クライスラーの呟きにジェシカは嬉しそうな表情になったが、すぐにクライスラーの視界には自分すら映ってないことに気付き、唇を噛み締めた。
――そういえば、ロサの王女は何と言う名前だったか。
脳裏にロサの女王だった者と同じ蜂蜜色の髪をした少女が浮かぶ。
顔ははっきりと覚えていなかった。
どうせ死ぬ運命だと興味もなかったからだ。
――だが、あのリドが……私に逆らってまで守りたかった姫か。
そんな感情を持ち合わせた事がないクライスラーは、あの時リドの変化に大きく戸惑ったのを覚えている。
スパルタカスを狙った皇国の狙いも興味深かったが、リドを変えたロサの王女のこともクライスラーは気になり始めた。
それは今夜の月の淡い光が、まるであの日の王女の髪に似ていたからかもしれない。
逃げる後姿を思い出し、クライスラーは無意識に口角を上げていた。
「……クライスラー様……?」
クライスラーの珍しい表情に、ジェシカは一抹の不安を感じる。
何かが変わってしまうのではないかと、それは漠然とした不安だった。
伸ばした手が矢庭にクライスラーに掴まれた。
「……何をしようとした?」
「あ、わ、私は……っ」
鋭い眼光にジェシカはしどろもどろになる。
心此処に在らずだったクライスラーが気になってなどと、口にできるわけはなかった。
「……それほど怯えなくてもいい。……ジェシカ」
「は、はい!」
冷たい目がジェシカを捕らえる。
「今晩はよく眠れると先刻言ったな。……眠れるよう、今晩は付き合え」
掴まれていた手首が痛かったが、それを訴える前にジェシカの身体はクライスラーに引き寄せられた。
クライスラーの体温が直接的にジェシカの頬に当たる。
「……お、お付き合いします……」
何の感情も、何の意味も持ち合わせていない行為だったとしても、心から敬愛している人に抱かれるならとジェシカは喜びに震えていた。
それが底無し沼のような、深く沈むだけの救われぬ愛の結末を迎えようとも、この時の彼女にはこれが幸福だったのだ。
破滅の――不幸せへの階段を上っているとは気付かぬまま、軈て襲う後悔の味をまだ知らない。
――どんな女なのだろう……。
ジェシカの想いを露知らず、クライスラーは何度も月を盗み見しながら、ぼんやりとロサの王女の姿を求めるのだった。