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【ノヴァーリス】★

 ノヴァーリスは誰にも言えない小さな秘密があった。

 それは幼き頃より幾度となく城下町へと忍び下りていることではない。耳うるさい礼儀作法の先生から逃れていた際、父親が賞翫(しょうがん)していた絵皿を割ってしまったことでもなかった。


「ノヴァーリス様、こちらでしたか」


 庭師たちの仕事をぼんやりテラスから眺めていたノヴァーリスの元に、優しく穏やかな声音(こわね)の持ち主が現れる。彼女を探し回っていたのか、うっすらと額に玉の汗を浮かべていた青年は上品な香りのする絹のハンカチでそれを拭った。たったそれだけのことなのに、ノヴァーリスは自身の胸が高鳴るのを感じた。


「シウン、汗くさいからこっちに来ないで!」

「え!そ、そんなことは……」


 怪訝(けげん)そうに首をかしげて、自身の二の腕に鼻を押し当てるように臭いを嗅ぎ始めた青年――シウンに知られぬよう、ノヴァーリスはゆっくりと溜め息を吐く。

 四六時中、燕尾服(えんびふく)に身を包んでいる彼の正体はノヴァーリスの執事ではなく、執事のふりをした姫君専属の護衛剣士であった。その為か、シウンの仕草は執事が持つ洗練された優美さの欠片もなかったが、どこか高潔な気品漂う不思議な雰囲気の青年でもあった。勿論、それには彼が城中の侍女たちから熱い視線を向けられるほどの中性的な美形ということも貢献しているに違いない。


「それで何かあったの?」


 シウンの一挙一動に目を奪われている事実を誤魔化(ごまか)すように、大きく咳払いしながらノヴァーリスはそう尋ねた。


「いえ、特には」

「汗をかくほど探していたくせに?」


 つい声が上擦ってしまった。

 ノヴァーリスは少し焦ってしまうが、相手はいつもの綺麗な微笑みを崩さぬまま、手首より短い白手袋をはめた手で、彼女の蜂蜜色(はちみついろ)の長い髪を一房(ひとふさ)(すく)う。


「大切な貴女の姿が見えないと焦りますから」


 護衛剣士として。

 ノヴァーリスはその言葉を頭の中で強く念じるように復唱した。

 破顔(はがん)してしまいそうになるが、なんとか(こら)えて目の前のシウンを睨み付けるように見上げる。

 精巧な人形のように整った綺麗な顔に腹が立った。長い睫毛(まつげ)も透き通るような肌も男のくせにと苛立つ。だが本当の原因はそこじゃないのだ。


 シウンの仕草に見惚れるのも、彼の言葉に一喜一憂するのも、全部――私がシウンを好きになってしまったからだ。と、ノヴァーリスは心でも頭でもわかっていた。

 あってはいけない恋心。これがノヴァーリスの抱えている秘密かと尋ねられたら、無関係ではないがそれも違った。この恋心は当人以外には周知の事実であり、侍女からはからかわれる始末だ。所詮(しょせん)、実らないものでノヴァーリス自身もそれを理解している。世間で不吉な王女だと陰口を言われようが、彼女は一国の後継ぎであったからだ。


 ノヴァーリスには顔も見たことのない婚約者がいる。

 隣国ダリアの次子だ。ダリアの後継者たる長子のクライスラー王子の名は大陸に(とどろ)くほどで、政治には明るく戦上手だということだが、その弟はどうやら政治や戦に関して鈍才(どんさい)らしい。

 愚鈍(ぐどん)のリド。それがノヴァーリスの婚約者の名前だ。

 青薔薇(あおばら)の姫には愚鈍でちょうどいいということなのだろう。と、またノヴァーリスの口から溜め息が出る。


「またそんな溜め息をついて。幸せが逃げますよ」

「名前をつけてもらった時から幸せが逃げ出してるわよ」

「それは違います」


 ノヴァーリスはシウンの真っ直ぐな、それでいてどこか厳しい声音にビクッと身を硬直させた。普段の彼から想像できないほどの鋭い視線を一身に受け、思わず息を止めてしまう。


「青のダリアは名を受けることなく殺されました。だけど、姫様はノヴァーリスという名を受けたのです。女王様の母としての愛の賜物(たまもの)でした。今まで十五年、なに不自由なく生きた姫様のどこが不幸せというのでしょうか」

「……ご、めんなさい。私が悪かったわ」


 謝罪の言葉を吐き出したあと、ノヴァーリスはやっと息を吸うことができた。

 恐る恐るもう一度シウンを見れば、いつもの柔和な笑みを浮かべていて、先刻の様子が夢だったかのようだ。


「シウン――」

「ああ、ノヴァーリス様。肝心なことを忘れていました。お誕生日おめでとうございます」


 ポンッと小さな空気の破裂音がしたと思ったら、シウンの手には色とりどりの薔薇の花束が現れる。驚いたように目をぱちぱちさせていたノヴァーリスだったが、薔薇の数が十五本だとわかると途端に(まぶた)を伏せた。


「……ありがとう」


 十五回目の誕生日だから十五本なのだと言い聞かせるが、薔薇の数が十五本である意味をシウンが知っていたのだとしたら、それはノヴァーリスにとってとても悲しいことだった。


『へぇ、薔薇の花言葉って数でも変わるのか!』


 八年前のあの日、初めて城下町に忍び下りた日に出会った少年は七歳のノヴァーリスより少しだけ年が上のようだった。

 裏路地に迷い込んでしまい、危うく悪漢に襲われそうになったところを助けてくれたのが少年だったが、助けたあとも悪漢への恐怖で泣き止まないノヴァーリスにひどく困惑していた。そして彼は青と緑の細長い風船二つで薔薇を一本作って渡してくれたのだ。


『……私に一目惚れしたの?』

『……は?』


 薔薇を一本贈るということは、一目惚れだという意味だと教えれば、少年は先刻の頓珍漢(とんちんかん)なノヴァーリスの言葉に納得できたようだった。


『変なやつだなー。まぁいいけど、他に意味のある数があるなら教えてくれ。変な女に勘違いされると困る』


 そう言って笑った少年の顔をノヴァーリスは片時も忘れたことはない。忘れたことはないが、その記憶は年々模糊(もこ)としてはっきりしない。だが確かに――


「こちらも忘れていました。薔薇のブローチです。少し俺の給金では高かったんですから、大切にしてくださいね。……これで俺から贈った薔薇は合計二十一本ですね」


 過去の記憶に浸かっていたノヴァーリスは自身の左鎖骨下辺りをはたと見る。

 シウンによって淡い水色のドレスに取り付けられたブローチには六本の薔薇が咲いていて、そのまま目を見張った。


挿絵(By みてみん)


 “あなただけに尽くします”


 顔をあげれば霧が晴れたかのような過去の映像と現在が重なる。黒い髪に黄昏色(たそがれいろ)の瞳。面影(おもかげ)もある。

 ノヴァーリスは押さえられなくなった衝動で、気付いたときにはシウンに抱き付いていた。彼は驚きつつも、小さな妹をあやすかのように優しく彼女の頭を撫でる。


「……ふふ、突然どうしたんですか?」

「何も!ただ貴方が協会(カーネーション)の魔法使いみたいなことをするからよ!」

「それはそれは。喜んで頂けて嬉しい限りです」


 優しいシウンの手つきと胸元に当てた耳に聴こえる彼の心音が心地好くて目を伏せた。細波(さざなみ)のようにまた過去の情景が脳裏に押し寄せてくる。


 八年前、再び城下町へ例の少年に会いに行った時には彼が他の町へと旅立つ日だった。


『へぇ、もう一度会えるなんて思ってもみなかった。あぁ、団長が次の町に行くって言うから。世界を旅する旅芸人なんてこんなもんだよ。だけどまぁ、今度もしまたもう一度会えたら、今度は百八本の薔薇の花束でも贈ってやるよ』


 そう笑った少年の笑顔が夕日と重なって眩しかったのを覚えている。そして次の瞬間には、七歳のノヴァーリスは膝を曲げて頭を撫でてくれた彼の唇に何故か自分の唇を重ねていた。

 たった一瞬の口付けだったが、次期女王という立場上重いものだったのかもしれない。そう暫くしてから後悔したノヴァーリスはこの出来事を思い出の中にしまうことにした。

 これが彼女の誰にも言えない小さな秘密である。


「明日の祝賀パーティで初めてダリアの第二王子様にお会いするんですね。やはり緊張しますか?」


 不意に体を離したシウンは、動揺も何もないままいつもの口調でそう言った。


「緊張するのは夫になる人じゃなくて、その家族の方よね」


 それを寂しいと思ってしまいながらも、表情に出すまいとノヴァーリスは腕を組んでバルコニーから中庭を見下ろす。

 生まれたての赤子が国を滅ぼす青いダリアだと告げられると、問答無用で我が子を殺した王――スパルタカス。そしてその父親を超える冷酷さを持つと噂される戦鬼(いくさおに)クライスラー。

 結婚し親族になれば、否が応にもこの二人と対峙(たいじ)しなければいけないことが多くなるのだろう。


「あ、ダメだわ。考えるだけで頭痛がしてきた」


 国の運命を導いていく未来を考えれば考えるほど、ノヴァーリスには分不相応(ぶんふそうおう)な気がしてたまらなかった。


「大丈夫ですよ。ノヴァーリス様なら出来ます」


 笑顔で断言したシウンを見て、ノヴァーリスはまたぞろあの八年前の少年を思い出した。シウンに惹かれたのも、あの少年がきっかけであったのだ。同一人物なのではと何度思ったことだろう。だが、五年前に護衛剣士として女王が雇ったシウンは、その時既に二十歳を超えていた。


 ――だが確かによく似ている。例え別人だとわかっていても。

 ノヴァーリスは曖昧(あいまい)な笑みを浮かべて短くシウンに頷いたのだった。

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