【ジョエル】
十歳になったばかりの少年は、この日いつもと変わらない午後を過ごしていた。
町の大人たちの何人かが、領主だったレオニダスの手助けに馬車を走らせに行っているという事以外は。
レオニダスが犯したとされる罪を領地の皆は信じていなかったし、少年も自分が見てきたレオニダスの優しく明るい姿を信じていた。
「……え?燃えてる……」
少年は領主の館がある町に住んでいた為、領地の中では王都から一番離れている場所だった。
その為、他の村があった場所から火の手が上がっているのを高台から見た時は思考が停止するほど呆気に取られていた。
「ジョエル!馬に乗って逃げなさい!」
そんな彼――ジョエルの意識を戻したのは、枯らしたような声を出した母であった。
ジョエルの母は妹二人と手を繋ぎながら、ジョエルに馬に乗れと急かしている。
「待って、母さん!一体何がっ、どうしてロサの騎士団が村を燃やしているの?国を守るのが彼らの務めなのに」
「今は何も聞かないで!早く馬に乗って逃げるのよ!お前一人なら馬は早く走れる!」
そこまで聞いてジョエルは母たちはどうするつもりなのかとハッとした。
父はレオニダスに協力して家の馬車を持ち出している。家にある馬は一頭しか残されていない。
「母さんたちは走って後でお前に追い付くから!いいかい、決してレオニダス様の領地の者だと口に出してはいけないよ!」
母と十にも満たない幼い妹たちが、どうして追い付けるものかとジョエルは思っていた。
母は嘘をついている。だがジョエルを安心させようと一生懸命微笑む母の姿に彼は騙された振りをした。
「わかった!母さん、大好きだよ!アンもプルダも母さんのいう事を聞いて頑張って走れ!」
馬の背に乗ると手綱を握り、ジョエルも精一杯泣き出しそうになるのを堪えた。妹たちは何度もコクコクと頷いていた。
ジョエルが馬を走らせた頃には、町の手前の田畑が焼け焦げていた。
逃げ出す人々の悲鳴や叫び声がジョエルの脳裏にこびりついた。
母と妹たちは一度町の奥の森に逃げ隠れる様子だったが、間に合っただろうか。
ジョエルは振り返らずにただひたすら馬を走らせる。
西の小さい林を抜け他の領地に入ったが、その領地の村と町は通り過ぎた。
襲ってきた者たちが想像できないほどの場所にしなければ。
――レオニダス様に教えないと。ダリアの王子がいたこと、兵を動かしていたのは黒い鎧の騎士だったこと!
ジョエルは子供ながらも、この国がダリアの干渉を受け始めていることを理解した。
今の王はダメだ。国を売っている。と悲嘆にも暮れるが、顔をあげ馬を走らせ続ける。
夜になり、朝になった。
馬は既に走るのを止めてトボトボと歩を進めていた。
砂土に蹄の後がくっきりと付くが、風が吹くと塵のような砂粒がすぐにそれを埋める。
何時間その砂の上を歩いていただろう。
ジョエルは朦朧とする意識の中、人影を見た。
「レオ……ニ、ダス様……っ」
馬は疲労から完全に歩を止める。
白い馬に跨がった灰色のローブを身に纏った大柄の人物がレオニダスに見えたのか、ジョエルは一瞬手を伸ばして馬から崩れ落ちた。
馬が短く苦しげに鳴く。
「少年、大丈夫か?!しっかりしろ!!」
前にいた人影はその異変に気づき引き返してきた。
声を聞いて、ジョエルはレオニダスでないことを悟る。だがもう何も出来なかった。
顔中についた砂でさえ、振り払う気力もない。
「これを飲むんだ、さぁ!」
ジョエルは喉に水が流れ込んでくるのを感じると、途端にげほごほっと咳き込んだ。
「っ、僕の家族が……」
じわりと浮かんだ涙が一粒だけジョエルの頬を伝う。そしてそのままジョエルは意識を手放した。
「……一体何があったというのだ……」
砂の上に落馬したジョエルの元に駆け寄って来たのは、テラコッタを探してジロードゥランを追っているレーシーだった。
レーシーはジョエルを肩に担ぐと、僅かでも木がある場所を探す。彼の馬にも水をやると、野宿ができそうな場所に移動した。
ジョエルはいつの間にか、ロサの西の辺境近くまで馬を走らせていたのだった。