【リド】★
血濡れられた会場から庭に続くテラスに出るための硝子戸を背後にして、リドは震えながらもそこに立っていた。
「……まだ死んでなかったのか」
何の感情も持ち合わせていない声が淡々とそう呟く。
リドはわかっていたことなのに、やはり動揺した。目の前にいるのは半分とはいえ血の繋がった兄であるはずだった。そしてその後ろに控えているのは父であるはずだった。
「やはり……僕の死をお望みだったのですか」
ロサの姫の十五歳の祝賀会。
初めて婚約者である彼女に会えるならばと、パーティーよりも前に会ってみたかったリドは、先に赴いていいかと、玉砕覚悟で父と兄に願い出た。
返事は予想を覆して肯定。
――どれほど嬉しかったことだろう。どれほど勇気付けられたことだろう。
だけどそれはぬか喜びだった。
楽しめと微かに笑って見送ってくれたのは、今生の別れだったからだ。
始めから処分するつもりだったのだ。
兄にとっての愚弟を、父にとっての愚息を、始めから。
リドは目頭が熱くなり、ドクドクと自分の脈の音が次第に大きくなるのを感じた。
「ここから先へは行かせません」
震える声はあまりにもか細い。
だがリドの声は不思議とよく響いた。
「お前は何を言っているのかわかっているのか?」
クライスラーの冷徹な声が死人だらけになったホールに静かに落ちる。
彼の後ろでスパルタカスが長い息を吐き出した。
「わかっています。姫を……ノヴァーリスを殺させはしない!」
リドがそう大声を上げた瞬間、彼の右肩に矢が刺さった。激痛が走る。
「あぁっ?!」
今度は左肩。右腕。左手首。右太股。
次々とクライスラーの横に立っていた女のダリア兵がクロスボウの矢をリドに命中させていった。
「……ジェシカ、止めろ」
クライスラーがそう言うと、やっとジェシカという女兵士は矢を放つのを止める。
リドの方はぜぇぜぇと呼吸が既に荒く、立っていられずに膝をついて泣いていた。鼻水も汗も、身体中の穴という穴から体内の水分が吹き出しているようだ。
――痛い、痛い、怖い……っ!
リドは眼前にも死が迫ってきているのがわかった。
カツカツと革靴の音が近付いてくる。
クライスラーの物だとは理解しつつも、リドには声を出す胆力もなかった。相手の顔を見上げる動作ですら、息苦しさと電気が走り続けているような痛みで儘ならない。
――僕はここで死ぬ。
死を悟った時、リドはノヴァーリスのことを考えていた。
どうか彼女が無事に生き残りますようにと。
そして彼女の隣にいたシウンのことも考えた。
彼は十月ほどだけ城に滞在していたことがあったのだ。彼の叔母がまだ生存していた頃に。
「言い残すことはあるか?」
気付いたときにはクライスラーは目の前に立っていた。
冷たい光を放つ双眸が、汚いものでも見るかのようにリドを見下ろしている。
――いつから僕を嫌いでしたか?
リドの言葉は口から放たれることはなかった。
代わりにヒューヒューと苦し気な息だけが漏れていた。
と、同時にホールのテーブルの上に用意されていたグラスの幾つかが音を立てて突然割れる。
――僕は貴方を兄として尊敬していたのに
今度はリドの背後の硝子が音を立てて割れた。
ビリビリとした細かい振動から、どこからか人間の耳に届かないほどの高音が出ている。それがグラスや硝子を割っているのだ。
だがクライスラーは周囲を訝しげに見た後、すぐにリドへと剣を振り下ろした。
「…………え?」
リドは暫く経過しても、自分が斬り殺されてないことに気付いて顔を上げた。身体中を走っていたあの痛みもすっかり鳴りを潜めている。
「やぁ~」
目の前にはリドの首目掛けて振り下ろされた剣の切っ先が迫っていた。迫っていたが、いっこうに動く気配はない。クライスラーもピクリとも微動だにしなかった。
そしていつの間にいたのか、リドの真横には白いローブを着た金の髪と翡翠色の瞳を持つ美男子が立っていた。どうやらこの場で自由に動き回れるのは彼と自分だけらしい、とリドは悟った。スパルタカスも他のダリア兵も、テーブルから零れ落ちる赤い雫でさえ凍ったかのように止まっていたのだ。
「君はリドだね~。君が音の魔法使いだから協会に入らないか勧誘に来たよ~」
「音の魔法使い……?僕が?」
「うん、そうだねぇ~。死を前にして君の才能は見事に開花したよ~。協会は君の能力を高く評価している」
独特の間延びした口調に眉根を寄せながら、ローブの男を見上げる。
魔法使いと聞いて、今の状況が少し理解できた。
きっと彼は時を止めることができるのだ。
「ふふ、私はムーンダストっていうんだ~。神童と言われた私も万能ではない。だから君に早く決めて欲しい」
「な、何を……」
「勿論、私たちの協会へ来るか。それともこのまま彼に斬られて死ぬかだよ~」
綺麗に口角を上げ目を細めて微笑んだムーダストを見つめながら、リドは小さく「協会へ」と頷いたのだった。
そして時は動き出す。
「?!」
クライスラーは目を丸くした。
そこにいた筈のリドの姿は跡形もなく忽然と消えてしまっていたのだから。
空を斬った剣が空しい音を出したのだった。