エピローグ
「リド様っ!リド様どこですか?!」
デュールアルベールの大声が遠退いていくのを感じても、リドは頭を覆っている手を下げようとはしなかった。
青々とした茂みの横で一人踞って震える。
――ご、ごめんなさい!デュールアルベールが悪いんじゃないんだ。ただ、僕には無理だから……っ!
勇気がなく、根性もない自身に嫌気が差しながら、リドは短く息を吐いた。極度の緊張やストレスからか、吐いた息の量よりも多く空気を肺の中に吸い込む。段々と呼吸のリズムが狂ってきた。
――あ、あ、ダメだ、わかってるのにっ
「……大丈夫?」
優しい穏やかな声音がリドの丸くなっている背中に掛けられる。涙目で恐る恐る顔を向けると、そこには同い年くらいの少年の姿があった。
リドはすぐに彼が誰だかわかった。
二ヶ月前に正式に王妃として迎え入れられたロゼアという女性の甥っ子だ。両親が亡くなり、ロゼア以外に身寄りがないということで特別に城に上がることが許された珍しい人間だった。
「大丈夫?」
返事のしないリドに、聞こえていないのかと思ったのか、彼はもう一度同じ台詞を繰り返す。
先刻と変わらない穏やかな口調は、リドの呼吸を落ち着かせていた。
「ぼ、僕は……」
「第二王子のリド様ですよね。生意気にもお声をかけたりしてすみません」
顔を上げたリドにハッとすると、黒髪の少年は瞼を伏せ、そのまま両膝を芝生の上につく。
「い、いいから!ぼ、僕は出来損ないだしっ、今は誰もいないから気にしないで!」
必死に紡いだ言葉に、俯いていた少年は突如声を上げて笑い始めた。
「あははっ!リド様は他の方とだいぶ違いますね!あ、俺は――」
その時、少年は名前を教えてくれたのだが、どうしてもその時の記憶がリドの頭から綺麗に抜け落ちていた。
それから二ヶ月に一度だけ、少年とリドは言葉を交わすようになった。少年とたった数分言葉を交わしたいがために、リドはデュールアルベールの乗馬や剣の稽古に自ら声をかけるほどだった。
だがある日、その二ヶ月に一度だけの数分の会話をクライスラーに見つかってしまったのだ。
「リド。やはりお前は愚鈍だ。そのような下民と言葉を交わすなど」
「に、兄さん、そのっ」
「黙れ。最近、剣や乗馬に勤しんでいると聞いて、少し見直したのだが……やはり、卑怯な手を使って王妃になったあの女の息子だ。……まぁその女も死んだが」
――母様を侮辱するな!
心で叫んでも声にならない。
唇は震え、足も手も動くことすらできない。
情けないと思った。リドはそんな自分が本当に嫌いだった。
「大丈夫」
その時だ。踵を返し、その場から去っていくクライスラーの背中に聞こえないような小声が耳元に囁かれる。
ぎゅっと握られた手には、何かの感触がした。
横を見れば、綺麗な黄昏色。
リドの父親であるスパルタカスと似ているその燃えるような瞳は、優しい光を灯している。そこが冷たい父親と違うところで、リドはその瞳に見つめられると心から安心できた。
「これあげるよ。朝顔の押し花の栞。俺が作ったんだ」
「え……?」
「これ以上リドに迷惑はかけられないから。リドと会ってから八か月間、嫌な場所だと思っていた城の中で、唯一楽しかった!ありがとう」
それはこちらの台詞だとリドが声を出そうにも、うまく言葉が出てこない。
握らされた栞の感触をただ確かめるだけだった。
「叔母さんの子供が生まれて、大人たちの理不尽に負けないように、それぞれが大きくなったら……その時はまた会おう。そして一緒にご飯でも食べような!今度から城の中で俺を見かけても無視しろよ。じゃあな!」
――あ、あ、行ってしまう!
リドは必死に腕を伸ばすが、少年の背中を掴むことは出来なかった。ぎゅっと握り締めていた手を開けると、白色の朝顔が顔を覗かせる。
――白い朝顔の花言葉は『あふれる喜び』……それから
「『固い絆』……だったよね」
きちんとお礼すらも言えなかったリドだったが、それすらも『大丈夫』だと言われているようで、思わず涙が頬を伝った。
少年がロゼア王妃と共に城に入り、十ヶ月と少し。
リドと初めて会話を交わしてから、八か月。
第三王子である、青のダリアが生まれるのは次の満月の夜のことだった。