【ローレル】
――ヤバイヤバイヤバイっ!!
その日、二度目となる焦り。
全身の毛穴から変な汗が一気に吹き出した。
だがローレルの身体は動けない。並みの人よりも動体視力や瞬発力、跳躍力に自信のあるローレルだからこそ、今目の前にいる者に対して動かなければという意思を全身が拒絶する。
隣にいるムッタローザやミネルヴァ、スザンナも目を見開いたままだ。
何故このメンバーで屋根の陰に隠れているかというと、長い話になる。
オウミとデートに行かせたぞと、テラコッタとムッタローザに言っていたミネルヴァの話を聞いたローレルが、ムッタローザと二人を追いかけることにしたのだが、そこに面白がったミネルヴァとスザンナが付いてきた。
テラコッタも性格上来るつもりだったのだが、彼女は協会や他国の王を迎えるための準備はどうなっているのかと聞きに来たレーシーに捕まったのだ。
先程ノヴァーリスが追いかけた、シウンによく似た少年のこともローレルには驚愕だったが、その後のオウミの接吻の時も非常に焦った。
だが今はその沸き上がる衝動とは正反対の焦燥感に駆られる。
「ノヴァーリスっ!!」
屋根の陰に隠れているローレルたちの恐怖を断ち切るように、路地裏にオウミが飛び込んできた。
彼はこの路地裏にノヴァーリスが連れていかれたかどうかも一つの賭けに過ぎなかったに違いない。彼女の姿を見付けたときの安堵も束の間、ノヴァーリスを捕らえている者の姿を直視した瞬間言葉を失っていた。
「……なんなんだ、あれは……っ!」
「……わ、我がハイドランジアの南にある未開の地に住んでいると言われていた――」
「――獣人……っ」
ミネルヴァの声にムッタローザが震えながら呟き、その呟きにローレルの吐き出した言葉が重なった。
――この間も遭遇したとこなのに、くそっ、獣人を立て続けに見るなんて、まさかだぞ!
だが確かに路地裏でノヴァーリスを肩に担いでいる男は、人ではない。
頭の上に生えた獣の耳と尻から伸びる尻尾。
人ではない獣の薄黒い鼻。
つい先日、戦場でダリアのクライスラーが使ってきた獣人とはタイプが違うが、やはり体つきはバカでかい。
身体を隠すための灰色のローブはしているものの、色々と身体的特徴がはみ出していた。
そしてその獣人の横には小さい獣人もいる。こちらは神経質なほど特徴を隠そうと必死だったが、獣の素足だけはハッキリと目に見てとれた。
――ダメだ!今動かないとっ!!
オウミの握る銀の刀身が僅かに震えている。
きっと彼も動けないのだ。
「よしっ、スザンナっ!!いつも通りオレのあの能力を上げよ!」
「は、はひっ!!」
気持ちだけ先走るローレルの真横で、ミネルヴァがスザンナに口早に命令した。
淡い光がスザンナの手から溢れ、ミネルヴァの全身を包み込む。
「よし、そこの筋肉達磨の女従者に、三白眼も!好きな能力を上げて貰え。突っ込むぞ!」
「で、では、力の増加をっ」
「はいっ!ローレルさんは?」
文句を言いかけたところで、素直に欲しい能力を口にしたムッタローザに言葉を飲み込み、スザンナの真っ直ぐな瞳にローレルは自身の頭を掻いた。
「あーっ!くそっ、俺はっ」
――目ではあいつの動きを追えた。が、この畏怖は身体が反応できないことを悟ってるからだ。ならば、欲しいのは勿論っ
「瞬発力!それを強化できるか?!」
「いけますっ!瞬間的な筋力のバネの力を強化すればいいんですよね!」
スザンナの返答に大きく頷いてローレルは屋根の上で立ち上がった。薄暗い路地裏に僅かに差し込んでいた日光が、ローレルの体で隠れる。
「悟られるようなことをわざとするとは、なかなか阿呆だな。まぁよい。嵐呼戦姫ミネルヴァ!突っ込むぞ!!」
「「?!」」
獣人の大男が上から降ってきたミネルヴァの小柄な身体を爪で切り裂こうとした。だが一見無防備に見えたミネルヴァはギリギリのところで躱すと、空中で軌道を修正する。それから背中に背負っていた大太刀を抜くと、それを振り回した。
「グガァっ!!」
だが振り回した筈の大太刀の刀身は硬化な獣の手に掴まれる。いや感触的に斬れてはいるのに、丈夫な骨で止まったのか、激痛をものともせず、大男は刀を受け止めたのだ。
「ぐぬぬっ!」
「うぉぉおっ」
もう片方の大男の手が、ハエを叩き落とすようにミネルヴァへと振り落とされた。だがそれを飛び下りてきたムッタローザが勢いのまま掴む。ビキビキと筋力の音が耳に届くほどだった。
肩に担がれていたままのノヴァーリスの身体が振り落とされそうになっていた。
「おらっ!そこのチャラ王子っ!いい加減動け!ボケっ!」
「ろ、ローレル?!お前まで一緒に……っ」
「はーい、オウミ様。スザンナも一緒なんですぅ。というわけで、オウミ様には足りないのは動体視力かなっと、エイっ!」
オウミの両隣に着地したローレルとスザンナがそれぞれオウミの背中を叩く。刹那、ローレルはミネルヴァごと刀を放り投げた大男の懐へと飛び込んだ。
スザンナの手からは淡い光が溢れ、背中からオウミの全身を包み込む。そしてオウミの目は、素早い獣人の動きを捉えることが出来るようになった。
「はー……少し回復したとこなのに、四人につかっちゃいましたぁ。皇国に帰るにはまだまだかかりそうですねぇ~うえーん、温泉に入りたいのにーっ」
スザンナがそんな場違いなことを呟いた頃には、大男の懐へと飛び込んでいたローレルの蹴りが、獣人の顎の骨を僅かに砕いたところだった。そして反動で獣人の肩から振り落とされたノヴァーリスの身体をローレルが抱き止める。
温かなノヴァーリスの体温にローレルはやっとホッとした。
「グォオオオッ!!」
大男は、右腕を掴んでいるムッタローザを振りほどこうとするが、地に両足を着け、しっかりと踏ん張っている彼女の身体はピクリとも動かない。
そこへ、体勢を建て直したミネルヴァと震えの止まったオウミが同時に突っ込んでくる。
――よしっ、これで……!
「や……やめてくださいっ!!わたしたちは、ノヴァーリスにあって、たいせつなはなしがしたかっただけなのっっ!」
ローレルが勝利を確信した瞬間、目の前に飛び込んできたのは、獣人の幼女。
泣きそうな表情で訴えてくるその子は、どうみても悪人には見えない。
「うむっ!オレの直感が訴えてくるぞ!各人、戦闘態勢解除っ!!」
「え、え、ちょっ?!」
ギリギリで踏ん張って攻撃モーションを放棄したミネルヴァとは違い、オウミの振り上げた剣が止まらない。止めようにも勢いをつけ過ぎたのだ。
「ふんぬっ!!」
「……っ?!」
驚いたのはローレルたちだけではなかった。獣人の二人組も、特に大男の方が目を剥くほど見開く。
今しがたまで自分の腕を掴んで離さなかったムッタローザが、自分を守るように立ち、オウミの刀身を手の平で左右から挟んで受け止めたのだ。つまり真剣白羽取りである。
「あ、あっぶねーっ!!」
「ム、ムム、ムッタローザ!大丈夫か?!」
「あ、はい。大丈夫です」
ローレルとオウミがそれぞれどっと大量の冷や汗を流した。
ムッタローザも少し汗をかいていたが、平然そうに頭を下げる。
「……人間、女、何故俺、助ける……?」
「え?いや、そちらの方が話したいだけだと言われたので」
大男の片言の言葉に丁寧に返事を返すと、ムッタローザは大胸筋をピクピク動かしながら、小さな獣人に向き直った。
「話し合い、応じましょう。それから今度からはノヴァーリス様を拐うような真似はしないようにしてください」
「うむ、そうだぞ!人質を取られていてはまともに話し合いはできぬからな!」
ムッタローザの台詞にミネルヴァがうんうん頷きながらそう言った。大男の方は左手から流れ出ている自身の血を舐めると、鼻息荒く喉を鳴らす。
「……こちらを」
「なに……?」
止血の為にとムッタローザが差し出した手拭いに目を白黒させている大男を横目で見ながら、獣人の幼女は一歩前に進み出た。
「わたしはシルバー・ベビー。もりのたみの、おうのむすめ。こっちはヘッドボーンです」
賢そうな銀色の瞳が輝く。
リィン……と微かに響いたのは、彼女の身に付けている小さな鈴の音だった。