【セイリュウ】
長年使っている古びた橙色の天幕。
外側から見れば、空き地に設営されたこの小さな天幕の中に、巨大な舞台と客席が収まってるなどとは誰も想像しないだろう。
乱暴に天幕の入り口を捲ると、セイリュウは中へと続く階段を駆け下りていく。
手に持っていた麻の買い物袋の中で、カチャカチャと度数の強い酒瓶が二つ擦れあっていた。
「あっらー♪お帰りなさい!早かったじゃない~♪」
「煩いよ、酔っ払い!」
買い物袋を奪い取ろうとする艶かしい女性の白い手に反抗するように、セイリュウはぐっと拳を握りしめた。
「……セイリュウくん?離してもらえるかしらぁ?」
にっこりと笑顔で微笑んでいる女性ではあるが、その妖艶な雰囲気がだんだんと冷気を纏う物になっていく。
短くタイトな黒のワンピース型の魔女服を着用している女性はだんだんと前のめりになっていた。
「ん!」
セイリュウが手を広げて顎を動かす。
「……はぁー。どれだけケチなのよぉ。わかったわよ~、ほらこれでいいんでしょ?!」
腰を色っぽくくねらせると、女性は胸元から銀貨を数枚取り出してセイリュウの手に握らせた。
これでいつもなら彼の機嫌は治り、たちまち演技満載の笑顔が向けられるのだが、その時は全く違っていた。
「デルフィニウム姐さん」
「な、何よぉ?」
ムスッとした表情で続けるセイリュウに、買い物袋から取り出した酒瓶を大事そうに抱えていた女性――デルフィニウムは焦ったように若干腰を引く。
「……金貯めてた理由思い出したんだけど。思い出した瞬間に、なんかもうどうでもよくなった。つかやっぱ女は面倒臭い。見た瞬間、俺は気付いたのに……っ、あー、クソッ!誰だよ、シウンって!あとあのイケメンも誰だよっ!うがーっ!!」
「せ、セイリュウくん?貴方が何を言ってるのか、私にはちょっとよくわからないんだけど……守銭奴のあんたが金貯めてた理由があったのも驚きだし、女関連とかさらに驚きなんだけどぉ?!」
勢いで捲し立てるセイリュウに驚きながらも、デルフィニウムも負けじと早口で返す。が、彼は全く耳に入ってないのか頭をガリガリと掻き毟って地団駄を踏んでいた。
――つぅか。あの男がアイツを『ノヴァーリス』って呼んだんだ。
セイリュウの表情が陰り、これでもかというほどの舌打ちが大きく響く。
「……住んでる世界が違いすぎるだろっ!クソッ!なんつーオチっ!趣味の悪いシナリオだぞっ」
セイリュウの独り言にデルフィニウムは少しだけ難しい顔を浮かべていた。
発言の意図ははっきりと掴めたわけじゃないが、彼女にもセイリュウに話していない秘密があり、ちょうどその秘密の中に出てくる単語が彼の口から飛び出していることに気付いていたのだ。
「…………セイリュウくん、もしかしなくても失恋でもしたの?」
秘密を匂わすことはしないまま、デルフィニウムはポツリと禁句を呟いた。
セイリュウの動きがピクリと凍ったように固まる。
「……失恋?は?恋を失う……?」
「そうよ。さっきから変な様子だし。……ほらぁ、アンタがまだ可愛げあった頃、ここに一度巡業に来たじゃない?その時、言ってたわよね。すごく可愛い子がいたって話。セイリュウくんの初恋だったじゃない、それ。だから、もしかして……その子に会った、とか?それで既に男がいたとか!」
デルフィニウムの言葉にセイリュウはひどい雷に打たれてしまっていた。
――初恋?!俺は既に初恋ってやつしてたのか?!
動揺したセイリュウは小道具が置かれてある棚にぶつかり、うっかりボロボロと懐から商売道具を落とす。
刺さらないナイフやら、青い布で作った薔薇の造花などが散らばっていた。
「…………造花の薔薇五本で作った花束を渡したんだ。一目見た瞬間にアイツだって……過去に会った、デルフィニウム姐さんが今言ったヤツだってすぐにわかったから」
道具を拾い上げながら、セイリュウは小声でそう話し始めた。
「薔薇五本の花束はさ、あなたに出会えた事の心からの喜びって意味があるんだ。だから……」
――嬉しかった。
人違いからでも、アイツに再び会えたことが嬉しかった。けれど……
脳裏に駆けてきた男が後ろから彼女を引き寄せて、唇を奪ったシーンが甦る。
「……やっぱ面倒臭い。考えたくない」
――いつか本当に再会できたら、百八本の薔薇を買ってやろうと思ってたんだ。
「……それに、住む世界が――」
「セイリュウ!デルフィニウム!」
「――あ?リンドウのオッサン……ととっ、団長」
天幕に慌てて入ってきた男――リンドウは酷く焦っているのか、息切れが激しい。頭の毛が薄くなっている部分がぺたりと汗で地肌に引っ付いていた。
「こ、今晩、お城の夕食会で……!芸を披露することになった!」
「あらあらぁ、それは急ね」
「はぁ?!今晩かよ?!」
――しかも、城って……!ノヴァーリスだぞ?この国来てから何度も聞かされた新しい女王の名前で……そして女王はアイツなんだ!
「お、俺は行かないからな?!」
「な、何を言ってるんだ、セイリュウ!それはダメだよ!今晩の夕食会には協会の最高幹部もいるんだぞ。それに……っ」
そこまで口にしてから、ハッとリンドウは口を押さえる。それからセイリュウの背後にいるデルフィニウムに睨まれて目を閉じた。
「……お願いだ。セイリュウがいなくては、意味がないんだ」
「は?それってどういう……」
「出ないとダメよ。逃げ出そうとしたら、アンタを拘束して漆黒の闇の空間に閉じ込めてやるからね?」
懇願するような、どこか悲しげなリンドウの台詞に胸が痛む。それから、にこりと微笑んだデルフィニウムを見て、逃げ場がないことを悟ると、セイリュウは自身の不幸を心の底から呪ったのだった。