【ノヴァーリス】
「うむ、昨日は見事な戴冠式だったな!」
ミネルヴァの明るい声に微かな笑みを浮かべることしか反応できなかったのは、普段着ていた青のドレスに着替え終えたノヴァーリスだった。
本来ならば、民たちの前に王としての姿を披露する予定ではあったが、ルドゥーテが亡くなった直後ではどうもそういう気分になれなかった。
王都にいる民たちもそうらしく、昨日の勢いがどこか萎れているように感じる。
「母君のことは……ご愁傷様だ。だが気をしっかり持て。昨日、散々涙を流したのだろう。それで最後にしておくのだ。お主は既に国を背負うべき王なのだから」
「ミネルヴァ……」
性別も年齢も近い王族。
そのせいだろうか。二人はどことなく惹かれつつあった。
――あの、泥のように溶けた暗殺者……少なくとも、ミネルヴァは関わりない気がする……。
ノヴァーリスの部屋の青いカーテンが、開いた窓から入ってきた風に撫でられるように揺れた。
この部屋の調度品は、幸いなことに一切手を加えられていなかった。懐かしい匂いそのままに、ノヴァーリスはぎゅっと胸元近くに飾ってあるブローチを手の中に包む。
「む?ノヴァーリス、あれはなんだ?」
「え?」
シウンがくれたブローチから意識を離したノヴァーリスは、ミネルヴァの指差した窓の向こう側を見つめた。
パンパンっと色取り取りの小さな花火が、朝の空に浮かび上がる。薄い青に色を乗せていくそれはとても興味をそそられた。
「……おお!何年か前に我が国にも来ていた旅芸人の一座ではないか!ノヴァーリス、あやつらを知っておるか?なかなか芸のある者たちだったぞ!」
「……ショーを見た記憶はないわ」
ミネルヴァの問いかけにノヴァーリスが首を振ると同時に、部屋の扉がノックされる。
「ノヴァーリス、いる?オウミだけど……ちょっと気分転換に城下町へ降りてみないかなって……」
扉をノックした相手がハイドランジアの王子オウミだと気付くと、ミネルヴァはニヤァッと極悪人が浮かべそうな笑みを溢した。
「むふふっ、ノヴァーリスよ、オウミと是非にデートしてくるのだ!気分転換になるぞ?なに、午後までに戻ってくればよい。少しぐらい遅れても、協会の魔法使いなど恐れるに足らず!」
ノヴァーリスの反論も聞かず勝手に扉を開け放すと、ミネルヴァはそこに立っていたオウミの胸元に彼女を放り投げる。
蜂蜜色の髪がふわりと舞い、一瞬呆気に取られていたオウミではあったが流石に馴れた手つきで、飛び込んできたノヴァーリスの肩をそっと抱き止めた。
「お、オウミ、これはそのっ!」
「ミネルヴァ様っ!なんて乱暴なっ!!」
「失礼ですよ」
焦ったように顔をあげたノヴァーリスの言葉に重ねるように、廊下で待機していたスザンナとアンビアンスが声を上げる。だがミネルヴァは気にする素振りもなく、オウミに向かってグッと握り拳から親指を立てた。
「よくわかんないけど、ありがとっ!行ってきますっ!!」
「うむっ!行って参れ!」
オウミも親指を立てて礼を述べると、ノヴァーリスの手を引いて廊下を駆け出す。
彼らが去った反対側の廊下からテラコッタとムッタローザが走ってやってきていたが、止めるには既に手遅れだった。
「お、オウミ!待ってっ」
「やだよ。待ったら冷静になったノヴァーリスは城に戻っちゃうでしょ」
ペロリと舌を出してそう言ったオウミに、ノヴァーリスは目眩を起こしそうになった。
――女王になったというのに……
まだまともに女王らしいことをしていない。午後には協会からの使者を迎えなければいけないというのに、何故かオウミと城下町へと逃避行中だ。
しかも厄介なことに、その逃避行に胸がワクワクと踊るような感覚になっている。ノヴァーリスは幼い頃に通った秘密の抜け道を思い出して目を輝かせ始めていた。
「いい?少しだけ深呼吸してこの国をその目で見て」
オウミの台詞に、ノヴァーリスは目を閉じた。
昨日は一日中泣いていた。そして今朝目覚めた時も気分は憂鬱で。
その前はこの国を取り戻すことだけを考え、大事なものを失いたくないという想いばかりで前を向いていた。
ノヴァーリスはそっと瞬きを繰り返し、深呼吸をする。
「……やっと空気吸えた?」
「……そうね。オウミとミネルヴァのお陰で、少し楽になったみたい」
ふっと溢した笑みは、心から笑っていた。
その笑顔にオウミは嬉しそうに目を細めると「僕はノヴァーリスとは逆だから」と小さく呟く。
「……ノヴァーリスはたまに逃げたら?僕はちょっとだけ苦手なものに立ち向かうから」
「……オウミ」
旅芸人たちが張った天幕が近くにあるのだろう。
抜け出した二人の周囲にどんどんと人が集まってくる。
オウミの腕がノヴァーリスの肩を抱いて、人の波に彼女が拐われないようにと気遣っていた。
多種多様な風船がふわふわと浮いている。
子供たちの笑い声が響き渡り、甘い匂いがどこからか漂ってきていた。
「……あ、のさ。ノヴァーリス。……もし、僕がハイドランジアで立場を取り戻したら……その時は――」
「――シウン……?」
「――え?」
それはすれ違い様に見た夢だろうか。
ノヴァーリスは人混みの中、今先程通り過ぎた者たちの中にシウンを見た。
――あの、滾るような黄昏色の瞳。
柔らかい黒髪。似ていた。似ていたどころか……っ!
「シウンっ、シウン……っ!待って!!」
「ノヴァーリスっ?!」
オウミの手を振りほどいて、ノヴァーリスは人の波の中へと飛び込んだ。
必死に彼の後ろ姿に手を伸ばす。
――謝りたいことがあるの!
どうしても伝えたいことがあるの!
私は、私は……っ!!
いつの間にかノヴァーリスは泣きじゃくっていた。
鼻を啜りながら、足を動かす。
あの日掴めなかった背中を掴みたくて。
「シウンっ!!」
「……は?」
さらりと首の後ろで一つに束ねている少年の長い黒髪が揺れる。
振り向いた彼の眉間に寄った皺は、彼が発した一言をそのまま表情で表していた。