異世界女子、精霊にイタズラされる
この物語はファンタジーでフィクションです。
普通の女子大生が王様とか騎士団長のような地位が高くて人生経験豊富な人たちと対等に渡り合うなど並大抵のことではなく。
彼らが部屋を出た後の記憶が全くないままで千早は大きなローベッドの上で目覚めた。柔らかくスプリングの効いたマットレスの上には肌触りの良いシーツ。薄手で驚くほど軽いのにちょうどいい具合に保温してくれる薄掛けが体にかけられ、何より目覚めて最初に目に入ったのがレスタの寝顔だったことに小さく笑った千早は嬉しそうに規則正しく呼吸する大きな身体に寄り添い、もう一度目を瞑った。
「あら……まぁ」
よほど疲れていたのか昨日の夕食を取ることもなく眠り続けた千早を起こしにきたメイサは小さく声を上げて微笑んだ。
自然を愛する精霊の部屋であるがゆえにカーテンはレースのみで、寝室には朝の爽やかな日差しが差し込んでいる。そんな柔らかな光と淡いモスグリーンで統一された部屋の中、白いシーツの上には部屋の主である黄金のライオンが悠然と寝そべっており、その前足の間にはこちらも健やかに眠る千早が宝物のように抱き込まれていた。
その穏やかな光景を微笑みながら見守っていたメイサだが、しばらくしてから表情を引き締めて二人に声をかける。
「レスタ様、チハヤ様、おはようございます。朝でございますよ、お目覚め下さいませ」
挨拶だけでは身じろぎもしなかった二人に続けて声をかけると、レスタがその蒼い目を開けて腕の中の千早を見た。そして熟睡する様子にレスタの懇願するような視線がメイサに向けられるものの、専属侍女は首を横に振ってそれを拒否する。
「昨夜もお食事をお召し上がりになっておられないのです。チハヤ様のお身体を考えれば無理に起こしてでも召し上がっていただくことの方が大事でございます」
睡眠よりも体に栄養を取り込む方が千早のためにも大事だと言われればレスタといえども反論はできない。しかたなさそうに太い前足を退けると千早の白い頬をペロリと舐めた。
「千早、おはよう。起きられるか?」
耳元で低いバリトンがささやくが千早は顔をしかめて手足を動かしながらも目を開けることはなく。それを見た肉食獣を模した蒼い目がキラリと光った。
「千早? さぁ起きて、食事にしよう。起きないと私が食べてしまうよ?」
それでも目覚めることのない彼女を鼻先で優しく揺らしてから、最終手段とばかりにむき出しの耳を甘噛みする。
「うひゃ!! っ!? はぅっ!」
突然、敏感な場所への刺激で悲鳴を上げながら目覚めた千早に止めとばかりにザラザラした舌で耳の穴までべろりと舐めて、くすぐったさに喘ぐ様子を満足そうに見物するレスタ。
普段はないありえない場所への強い刺激に涙目になりながらベッドの上でようやく落ち着いた千早が見たものは、仁王立ちの侍女の前で反省するように行儀よくお座りする精霊王の姿だった。
「ごちそうさまでした」
朝食をとり終えた千早は口当たりのさっぱりしたお茶を飲みながら機嫌のいいレスタを見やる。千早の起こし方であれだけメイサに怒られたにも関わらず、彼は鼻歌を歌わんがばかりにご機嫌オーラを飛ばしていた。さすがに真面目なメイサも、ようやく契約者を得られた敬愛する精霊の浮かれように思うところがあるらしく、いつもの忠実な侍女に戻っている。
「さて、今日の予定だが……」
「午後に仕立て屋がチハヤ様のお召し物を仕立てに参ります」
メイサの予定を聞いてレスタは千早についてくるように促し、ゆっくりと大きな窓から外へと出ていく。千早が若草色のワンピースを揺らしながら素足のまま続けて窓を潜ると、目の前には緑あふれた美しい庭と大きく枝葉を広げた立派な樹木がそびえ立っていた。
バラのような大輪の花を咲かせているものはないが、白く小さな野ばらが垣根を作り、芝生のかわりにシロツメクサに似た植物が絨毯のように広がっている。茂っている草木は人の手を入れていないように見えるのに、建物近くは広く、背の低い植物から高い植物へと順番に行儀よく生えていた。
「暖かい……」
頬をくすぐる風は柔らかく、牢にいた時は冬だと思っていた外は春のような陽気で千早を迎える。先を行くレスタが気持ちよさそうな木陰を作っていた木の下で寝そべり、空の青より濃い蒼い目が慈しみながら日差しを浴びている千早を見つめた。
「チハヤ様、靴を……」
庭に出た二人を追ってメイサが靴をもって追いかけるも、千早は困ったように眉を下げて首を振る。
「メイサさん、ごめんなさい。レスタに痛い思いをさせたくないの。この部屋だけでいいから靴を脱ぐのを許してくれませんか?」
今朝のひと騒動の後、着替えた千早がレスタに近寄ろうとした時に彼の足を靴で踏みそうになったのだ。今まで裸足でいたために不便は感じなかったが、気軽にレスタに触れられない不安に千早が取った選択は靴を履かないというものだった。
千早は自分がまだ精神的に不安定だという自覚がある。今は牢屋からでてレスタのそばを離れることがないので表面上は落ち着いていられるが、剣を持った男たちに囲まれて身動きが取れなくなった時のようにストレスで平静が簡単に崩れることは判っていた。そしてそれをレスタ以外が認識していないことも。
「それに何か月も裸足でいたから慣れてるし、平気」
だからこの世界の常識がないのをいいことに、相手の罪悪感もくすぐって主張を通そうと試みる。精霊の言葉ではなく、千早個人として要求を通す練習として。
「……承知いたしました」
引き下がったメイサに謝罪の気持ちを込めて小さくお辞儀をすると、自分を待ちわびて横たわるライオンの元へと歩み寄り足の間へと座り込んだ。下はひんやりとした柔らかい草で覆われ、爽やかな風が千早の黒髪を優しく撫でる。木漏れ日は青白い肌に降り注いで、微かに上気した頬が健康的なピンク色に染まった。
「外に出て日の光を浴びて……そして言葉が通じる理由も昨日話したな。それから……この世界の話と私の話はゆっくり話していこう。時間はたっぷりあるのだから」
昨日、元の世界に帰ることができないと判った後に無理やり立ち直った千早が上げた言葉を覚えていたレスタは、契約者の願いをすべてかなえるために庭に連れ出したと告げる。
「……覚えていてくれたんだ……」
思わずポツリと本音を呟いた千早はレスタの豊かなたてがみをゆっくりと撫でながら小さく笑った。心外だとばかりに見つめてくる蒼い目に謝ってから、謝りついでに質問する。
「ごめん、レスタ。でもレスタはどうして牢屋に入っていたの? 聞いていた話では『魔女の呪い』とか病気とか言っていた気がするんだけど、もう治ったの?」
この世界のことも知りたいが、千早の一番の関心事はレスタのことである。この世界で最も信頼できる彼のことを知りたいと訴えると、レスタはしばし熟考してから深みのある声で話し始めた。
「話したと思うが精霊の肉体は仮初であり精霊力で作られたものだから、病気やケガと言った不調とは本来なら縁遠いのだ。だが唯一精霊を狂わせるのが『魔女の呪い』なのだよ」
頼りがいのある不動の声は淡々と事実を語った。
「ある日突然言葉を話せなくなるのだ。そして個体差はあるが一か月から半年で模した生き物の本能に侵され、二度と戻ることがなかった」
知り合いでもいたのだろうか。どことなく沈んだ声に、千早はただ黙って寄り添いレスタを撫でる。
「そうなれば精霊といえども処分されるのだが、人の王たっての願いで正気を失うまでは生かされることになり、私は自身を地下牢に閉じ込めるように望んだのだ。たとえ呪いに侵されようとも人を傷つけることはしたくなかったのでね」
それで近衛騎士団長がレスタの牢に入れられたことを問題視していた理由がようやく判った。精霊が人に敬われ人の友人として在るこの国で、緑の制服の男は獣の本能に侵されているとはいえ敬愛していた精霊王に人を食い殺させようとしたのだ。
動物の姿をした精霊を見下す目に見えない微かな差別を感じて、偉そうにふんぞり返っていた緑の制服たちに怒りがわく。
「この間までは不治の呪いであった。原因も判らず、どれだけ調べてもそなたが見つけたような棘などどこにも見つからなかったのだよ。だから千早は私の命の恩人なのだ。本当に感謝している」
何も特別なことはしていないと否定するよりも早いレスタの感謝に千早はその大きな身体を力いっぱい抱きしめた。
「命を救われたのは私も一緒。でも私が契約者でいいの?」
部屋の外の人間に契約者に相応しくないと思われているのは聞いている。それでもレスタの意思を確認したくて問いかけると、彼は低く喉を鳴らして笑った。
「私が今、慈しみ守りたいのはそなただけだ。もう変えることはできぬ。そなたがどれだけ望んでもな」
レスタが頬を合わせるように頭を擦り付けてきて、くすぐったさに身をよじる千早を追うように覆いかぶさってくる。大きな前足が背後からウエストに回り、支えきれなくて草むらに倒れこんだところで首筋をベロリと舐められ思わず首をすくめた。
なんだろう。言葉を交わせるようになってからそこはかとなくレスタの行動が肉食獣のようだ。言っている言葉は渋くて誠実そうに聞こえるのに、触れてくる仕草が微妙に自分は彼にとって獲物なのだと思わせられる。
「うん。私が望むのもレスタのそばにいること、だよ」
それでも壊れかけた自分を救ってくれたのは家族でも友人でも、王様でも騎士でもない。人の姿をとらぬ精霊レスタだ。この心優しい精霊のおかげで世界にたった一人の孤独から救われ、今もなお守られている。
転がされるままに仰向けになると見下ろしてくる蒼玉に手を伸ばし、百獣の王の丸い耳をさわさわと撫でながら千早は微笑んだ。
「あー、いいところにお邪魔するね~」
見つめあう二人に軽やかな声がかかる。二人で顔を横に向ければ、小さなネズミが片手をあげて嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「ロイ、こんにちは」
レスタが上からどいたので千早は起き上がりながら小さな友人に挨拶する。ついでに庭を見回すもロイの契約者たる男性の姿はなく、不思議に思って首を傾げると察しの良いネズミの精霊が説明してくれた。
「ジークは仕事中だよ。それにここは王宮でも奥にあるから、ジークの身分じゃ昨日のようにレスタの許可でもなければ来られる場所じゃないからね。今日は僕だけ」
精霊はどこでも出入り自由なんだよ~とご機嫌でつづけた彼は二人を見守っていたレスタに向き直る。
「今日はちょっと確認に来たんだ」
その声は今までの軽い調子とは異なった真剣なもの。レスタを見上げる小さな黒い目も親愛の色から鋭いナニかを浮かべて。
「君の呪いは解けた。だから君と僕の契約も終了、でいいかな?」
問いかけは軽いのに空気が緊張に張り詰める。訳が分からない千早を置いて精霊たちは話を続けた。
「ああ。すまなかったな。嫌な役目を押し付けた」
「……まぁ、僕にしかできそうになかったしね。本当に、レスタの首を落とすようなことにならなくて良かったよ」
ヒュッと息をのんだ音が千早の喉から漏れた。ぎゅっとたてがみを握りしめていた手に嫌な汗が浮かんでくる。
「お前の察しの良さに私は救われた。感謝しているよ。私のことも、千早のことも」
穏やかに笑うレスタと頭を掻いて気まずそうなロイを交互に見る。無言で説明を求めていると判ったのだろう。レスタの蒼い目が千早を映した。
「呪いを受けた精霊は模した生き物の本能に侵されると話しただろう? 私がそうなった場合、彼に処分をしてくれるように頼んだのだ。だから彼は私の様子を見にあの地下牢へと来ていたのだよ」
「呪いを受けた精霊は精霊同士でも言葉が通じなくなるんだ。ある日突然別の牢屋を気にし始めたレスタを見て、とうとうその時が来たのかと絶望したよ。千早を食べたいのかと思って」
落ち着かないのか忙しなく尻尾をいじるロイ。
「それからジークに頼んで千早を調べてもらったんだ。君がなぜあそこにいて、何のために拘束されているのかをレスタに話すためにね。冷静になってみれば僕を襲わなかったことこそがレスタが狂っていない証拠だったのに、すごい勘違いをしていて恥ずかしかった」
頬に手を当てていやいやと身もだえるネズミに癒されながら、千早はどうしても疑問に思ったことをつっかえつつも口にした。
「ロイ、が、レスタを殺せるの?」
文法としては間違っているが言いたいことは伝わったらしい。「え? 聞きたいのはそっち?!」と驚きながらロイは何でもないことのように告げた。
「精霊は自分より強い者を契約者とすることができない。ジークは平民出身だから下級騎士だけど、この国でも十本の指に入る強者なんだ。そして僕はこの形でジークよりも強いんだよ」
精霊も見かけによらないということか。この小さくて愛らしい友人が隠していた牙は思いの外鋭いらしいのだが、自慢げに小さな胸を張る様子を見るとどうしても庇護欲が湧いてしまう。
「それより、千早。千早はその……怒らないの? 僕もジークも、最初は千早を助けようとして近付いたわけじゃないんだよ?」
いつもは快活なロイがやはり尻尾をいじりながら上目づかいで見上げてきて、千早はようやく彼がなにを不安に思っているのかを理解した。
「怒るどころか感謝しかないよ。私はお城に突然現れた言葉の通じない不審人物だったし、ロイのことは本当にネズミだと思っていたから餌を与えるなんて失礼なことをしちゃったし。ジークさんたちも気を配ってくれていたのは判っていたし、私をひどく扱ったのは緑の制服たちだしね。最初はどういう理由であれ、あなたたちがいてくれたことが私にはどれだけ嬉しかったか」
言いながら昨日のジークの態度に納得がいく。彼がお礼を受け取ることを拒んだのは職務と精霊との契約に縛られて千早に近づいたから。そして同時にレスタの言葉の意味も判る。ロイとジークの裏の事情を知っても知らなくても千早は彼らに礼を言うだろうと代弁してくれたのだと。
「だからロイ。あなたは牢屋の大切な友達よ。ジークさんにもまた話したいし、お世話になった騎士さんたちとも会いたい」
数少ないこの世界で知る人物を上げるとロイは困ったようにポリポリと頭を掻いた。
「それはちょっと難しいかも。今回のことでジークたち、上の不評を買っちゃって国境に飛ばされるって話が出てるんだ」
その言葉にザッと血の気が引いた。それに気づかずロイは愚痴るように話を続ける。
「もともと牢番だってあいつらの嫌がらせだったんだ。この間の武術大会で勝ち上がったからって本来任務じゃない場所をわざとあてがってきたくせにさぁ。それで千早に親切にすればお前も間諜なんじゃないかとか難癖付けてくるし、レスタの牢に千早を入れたのはジークたちだって濡れ衣きせるし。その上、千早とレスタに信用されたのに嫉妬して国境任務なんて! 僕たちは半年前に帰ってきたばっかりだってのに!」
話している間に増した怒りで憤慨していた小さな精霊は話していた相手を見上げて、凍り付いた。
木漏れ日の中、緑の上にぺたんと座っているのは背中まで伸びた黒髪と光の加減で漆黒にも大地の色にも見える瞳を持つか弱い女性。少なくとも昨日は男たちに囲まれて動けなくなるほど傷ついたレスタの契約者だった、はずだ。
「あ、え、えっと?」
そこにいたのは弱弱しく涙を流すのが精一杯の可憐な女性……ではなく。薄い唇を引き結び、手を白くなるほど握りしめ、肩を震わせて、いつもなら寂しそうで優しい目に憤怒を浮かべた大人の女性だった。
「レスタ。ジークさんたちが国境に配置されるなら私も着いていく。国境でもこの世界のことは学べるよね」
「ああ、そうだな」
突拍子もないことを言い出した千早にレスタはにこやかに笑いながら追随する。躊躇や反対といった反応どころか即答されたそれにロイが仰天した。
「それでしたらドレスの仕立ても中止にしましょう。騎士団の辞令発布後は一週間で移動のはずです。とても仕立てが間に合うとは思えません。チハヤ様、しばらくは既成の服でもよろしいでしょうか」
そばに控えていたメイサもためらうことなく予定変更を告げ千早の同意を得ると、これから忙しくなると下がっていく。
「あれ? え? 僕、ちょっと愚痴っただけだよね? これ、僕のせい?」
おろおろと狼狽えるロイに千早はニッコリ笑って安心するように言った。
「大丈夫だよ。王様にも言ってあるの。私が不快に思うようなことがあればこの城を出ていくって。だから心配しないで。私は私の行きたいところに行くだけだから」
正直に言えばまだこの部屋を出たくはない。この世界に来てから会った人間はごくわずかで、気分は某国のダウンタウンやとある馴染みのない宗教が政治に食い込む国家に旅行に行くことになったときのようだ。いや、実際行ったことがないのであくまで想像でしかないのだが、自分の常識が役に立たないと判っているのは一緒である。
けれど千早は引くつもりはない。レスタの契約者であるということがどういうことなのかも判らないままだが、千早たちの件に関してジークに落ち度はないはずだ。あったとすれば千早とレスタにだろう。あんな人前で彼を贔屓するような言動を謀らずとも取ったのだから。
「そうだな。城の外に出れば私たちを煩わすものもしがらみも少なくなる。千早が信用する人間がそばにいる。いいことばかりじゃないか」
千早の意を受けてレスタがのっそりと立ち上がり。
「レスタ! それ、本気で言ってる?! ジーク! 僕じゃ手に負えない! 助けて!」
ロイの悲鳴の後半はここにいない契約者へのもので、ふざけた様子に余裕があるなぁと笑いながら千早は頭を掻きむしっているネズミをすくい上げたのだった。
三日後。
意外と時間がかかったなというのが千早の感想である。おかげで自分が今彼らにどのように思われているのかが良く判ったのでいいイベントだったと言えるだろうと、固い表情で対峙する彼らをまったり眺めながら千早は思った。
ここはレスタの居住区の客間。初日に千早が入って国王たちと話をした部屋とは異なる場所である。
部屋にいるのは前回もいた黒服の近衛騎士団長と、軍服よりは緩いが似たような制服を着た文官の男性だ。近衛騎士団長が筋肉ムキムキの体格のいい厳つい男性であるのに対し、文官長と紹介された人物は国王と同じ薄茶色の髪と綺麗な翡翠の目を持つ長身細身の年齢不詳の人物だった。
私、王家の血筋でクールな腹黒策士なんですとか言いそうという勝手な妄想など少しも出すことなく、千早はすました顔で前回と同じようにレスタと同じオットマンに座って話を待つ。制服を見るに近衛騎士団長の方が上役のように思えるのだが、なぜか彼は近衛騎士団長の上座に迷うことなく座り、にこやかに微笑みながら出されたお茶を礼儀として一口飲んでレスタを見た。
「レスタ。病からの回復を嬉しく思うよ。私たち王家は全力で君の治療方法を探したのだが力及ばなくてね。何もできなくてすまなかった」
本当に心配したのだと思わせるような声音だが、顔に張り付いた笑みがすべてを台無しにしていた。本当に心配していたことを隠す笑みなのか、心配などしていないしできればさっさとくたばってくれた方が良かったと思っているのを隠す笑みなのかは判らないが、感情を掴ませないこれがこの人の処世術なのだろう。
案の定、レスタはうなずくだけで返事を終え、前置きはいいと続きを促す。
「今日、訪ねてきたのは君の契約者が騎士団の人事に口を出してきた件についてなんだ」
聞こえた言葉に身に覚えがない千早はレスタと視線を合わせてお互いに小さく首を傾げるも、とにかくすべての話を聞こうと客人に向き直る。息の合ったその様子に近衛騎士団長はさりげなく視線をそらした。
「困るんだよね。自分のお気に入りを近くに置きたいのは判るけど、ここは王宮でも王族の居住に近いから平民上がりの下級青騎士なんて立ち入ることすらできないと判らないらしい。そして緑や近衛に昇格させて近くに侍らせたいとも言っているそうじゃないか。君が契約者を得られて嬉しいし、契約者の願いをかなえてあげたい気持ちも判るけど、国政に口出すのは人と精霊との取り決めに反する行為なはずだ」
言いたいことを吐き出したのか、どこか中途半端なところで話が終わる。お互いしばらく沈黙をはさんだ後、レスタは理知的な蒼い目になんの感情も浮かべることもなく近衛騎士団長を見た。
「ジラール殿。すまないが彼は王族なのか?」
ここにロイがいれば「え? そこ?」という突っ込みが入ったに違いない。残念なことに千早には彼が誰かは判らないし、レスタと王族の関係も未だ正確に把握していないこともあって無表情に流した。
「はい。陛下の従兄弟になります。まだ未婚ですので籍は王家に」
「何度もお会いしているでしょう。病気で私のことを忘れたとでもいうつもりですか」
クスクスといかにも余裕があるように笑ってはいるが、彼はレスタが近衛騎士団長を名で呼んだ時に一瞬だけ悔しそうな顔をしているのを千早ははっきりと目撃していた。そしてレスタが嫌みや嫌がらせをするようには思えないから、この役人に覚えがないというのなら本当に知らないのだろう。
「私は直系の王族以外にあまり関心を寄せないのだ。それでなくとも先々王メルの子供たちを覚えるのに苦労したからね。さて……名は?」
「……フェニルです」
ここまでレスタに覚えられていないということは、長の役職についているものの重職ではないのだろう。だから千早はとばっちりを受けぬように視線を合わせず、そして口を開きもせずに成り行きを見守った。
「フェニル文官長。どうやらそなたは人違いをしているようだ。私も、私の契約者も騎士団の人事に口をだしたことなど一度もないしこれからもないだろう。文官がなぜ騎士団の話を持ってきたのかは知らぬが、もう一度確認してきてはいかがかな?」
「しかし」
「それにジラール殿。そなたからの面会故に許可したのだ。次からは身に覚えのない用事で私たちの邪魔をしないでもらおうか」
口調は変わらないのに千早は落ち着かせるようにレスタの背中をそっと撫でる。なんとなく怒っているような気がしたからだ。似たような言いがかりなら国王にもさんざんされたが、それとは別の何かがレスタの勘気に触れたらしい。
あからさまに千早を睨んだ文官長と付き添いに徹した近衛騎士団長が退室し、お茶を下げるメイサも部屋から出てからレスタが甘えるように頭を擦り付けてきた。
「なにか気に障った?」
ライオンの不機嫌さなど意に介さない千早は甘えてくるレスタを受け止めつつ、彼の頭を太ももに乗せる。けれどしばらく口を開かない精霊にこれは自分のことなのだと見当がついた。
「レスタ」
貴方のことを教えて欲しいという懇願を口にすれば、彼は諦めたように大きなため息を吐く。
「あの……なんとかという男。そなたを始終無視して話を進めていたのでね」
もう名前を忘れたらしい。相手はレスタが自分を知っていて当然の態度をとっていたから、それだけで相当屈辱だったはずなのだが精霊には思いつかないことだったようだ。
やっぱりあれ、わざとじゃなかったんだ。
彼の言い分にクスクス笑っていると膝の上のライオンは更に不貞腐れる。さすがにこれ以上は悪いと千早はレスタのご機嫌を取るように戻ってきたメイサに話しかけた。
「確かに私をわざと無視していたようだけど、レスタがあの人のプライドを粉砕する勢いで貶してたから気にしてないの。ね、メイサさん」
部屋の隅で話を聞いていた優秀な侍女は間食用の軽い食事を用意しながら微笑む。
「そうでございます。レスタ様もお見事でございましたし、チハヤ様も素晴らしいあしらいでした」
忠実な侍女の言葉が理解できなかったレスタが首を傾げると、彼女は千早に食事を勧めながら淡々と説明した。
「あの方は王族であるという身分を振りかざしてここに来たようですが、レスタ様が名前どころか顔も覚えていないと言われたことで恥ずかしい思いをなさいました。それにチハヤ様の目の前で話をして、チハヤ様が話に割り込んできた時に王族と平民という身分差で黙らせご自分が優位に立つつもりだったようですが、こちらはチハヤ様が一切口を出さなかったことで逆に一人だけ盛り上がって騒ぎ立てたような形になってしまい、自尊心が大いに傷つけられたようですわ」
「でも近衛騎士団長さんが連れてきたってことはそれなりに地位と立場のある人なんだよね? ここ数日の私たちの動きに対する国の対応がアレだってことでいいのかな?」
ここ数日、千早たちは本当に王城を出ていく準備をしていた。仕立て屋を断り、そのかわり旅に必要な物を購入し、移動の足として馬車の予約と、レスタは城に残る精霊たちに挨拶をしたりと隠すこともなく行ってきたのだ。
さっきの彼はジークたちの移動と千早たちの行動を結び付けて話をしに来ていたから、少なくともこの城の人たちは千早たちがジークたちの移動に抗議の意味を込めて王城を出ていくと判ってはいるようだが、それを千早のわがままとして押さえつけようとしたのはこの国の総意なのか、否かの判断が難しかった。
「あれはおそらくですがあの方の独断専行かと。レスタ様への話し合いにあの程度の身分の者をよこすはずがありません」
辛辣に言い切ったメイサに小さなサンドイッチを飲み込んでから千早は首を傾げる。
「王族、なんでしょ?」
偉いんじゃないの?の問いに。
「王族にも様々な方がいらっしゃいます。文官長などという地位は結婚できない王族男子に仮に与えられる一時役職です。本当に文官を束ねるのは宰相を筆頭に各機関の長ですのでお間違えにならぬように」
何も知らない千早の為に丁寧に地位関係を教えてくれるメイサ。
要はいきなり現れた不審者小娘をこの機会に震え上がらせ黙らせて、国王と近衛騎士団長としか面会していない千早に自分のことを格上だと思わせたかったらしい。そうして千早が外に出た時にあの男に頭を下げさせることで周囲に自分を偉く見せたかったのかもしれない。
なぜ近衛騎士団長が黙って連れてきたのか、あんな男が好きなようにできるこの国は大丈夫なのかといろいろと思うことはあるが。
「まぁ、最悪じゃないだけマシかな」
ポツリと呟いた千早は小さくため息を吐く。
想像する中で最も悪手はジーク自身に千早を説得させることだ。説得の内容にもよるが、仮にこの任務地移動を納得しているなどと一言でも漏らせば……千早は国境への移動だけではすませないと決めていた。はっきり言ってレスタを人質にとった脅迫に近いんだろうなと遠くを見ながら、なるべく穏便にすむといいなぁと独り言ちる。
「もうしばらく様子を見てもいいだろう。すでに辞令は出ているのだ。騎士団とて間違いだった、ではすまぬのだろう」
憤る千早を今度はレスタが慰める。先ほどより落ち着いたライオンにもたれ掛かりながら靴を脱ぎ、しばらく嫌な気分をモフモフで癒してから小さく告げた。
「レスタが王様たちを信用しているから、私も信じて待ってみる」
千早の願いは自分のせいで狂ってしまったジークたちの人生を元に戻すこと。別に彼らを特別待遇にしろと言っている訳ではないから、レスタもメイサも快く手伝ってくれるのだ。とにかく今は平穏な生活を送ることができるように努力するしかないのだろう。
【次回嘘予告】
「私だって怒るときもあるんだよ。そんなに驚かないで、ロイ」
「千早のはかないイメージと違ったからね。でも他人のために怒るところは君らしいと思うよ」
「そうかな」
「ところでその手に持ってる鞭はなに?」
「私って怒っても迫力に欠けるから、こういうので怒ってるんだぞって表現しようかと」
「皮の下着みたいな服を着て、目の部分を覆うマスクを付けて、ニーハイピンヒールブーツを身に着けるのが、異世界の怒りを表現する方法なの?」
「……ちょっとやりすぎたかも」
「そんな可愛く首を傾げられてもね。レスタは逃げちゃったじゃん。カイなら腹を出して喜びそうだよ」
「あ、銀狼のカイだ……あれ? ロイ? どこに行っちゃったの?」