異世界女子、精霊の契約者になる
この物語はファンタジーでフィクションです。
大学からの帰り道。
馴染みのコンビニの前を通り、アパートへ向かっていつもの道を歩いていく。人通りの少ない道に外灯がポツポツ灯り、道を青白く照らしていた。ここに住んで3年も経った通い慣れた帰宅路でスマホを操作しながらいつもの角を曲がった時。
曲がった先の外灯は樹木によって遮られ、そこだけ現れる一際濃い影を気にすることなく踏み出した一歩が。
「え?」
靴はアスファルトを踏むことなく、携帯の画面から目を向けても仄かな明るさに慣れた目に映るのは真の闇だけ。悲鳴を上げる間もなく本能的に身を固くして衝撃に備えると、スプリングのきいた肌触りのいいベッドの上に勢いよく落ちていた…………金髪碧眼の王子様っぽい美形の男性と長い茶色の髪のグラマラスな女性が全裸で睦み合っていたその隣りに。フィニッシュ寸前に邪魔してごめん、と脳内で謝罪しながら二人と視線をあわせること数秒後。
女性が上げた悲鳴は「キャアァァァァ」だ。
そして男性が厳しい視線で怒鳴った言葉は。
「***! ***! ****!」
まったく聞き覚えもなく、聞き取りすらできない言語だった。
以上の経緯で私は捕まった。手に持っていたスマホとバッグは落ちてこなかったらしく、身分を証明するものもない。そもそも言語が違うので日本語の学生証などあっても役に経たなかっただろうが、今にして思うとどうでも良いことを考えていたものだ。
あれから後ろ手に捻られて身動きが取れない私は、深緑の服を着たごつい男性3人に引き立てられ、長い廊下と階段を下りて灰色の壁に囲まれた小部屋に連れてこられた。そこで身に付けていた服を脱がされ、同じく深緑の服を身につけた女性に念入りに身体検査をされ(もともと婦人科の常連だったから良かったようなものの、これが慣れない女性なら軽くトラウマになるだろう場所もだ)、今度は簡素な下着と筒状の布を組み合わせたような長袖とズボンを渡されて身につけた。そして甲冑男はイスにすわり、私は立ったままで尋問が始まった……のだ。恐らく。
恐らくというのも言葉が判らない。唾を飛ばし激高している様子だが、何を言っているのか判らないのでは怖さも半減だということを実感しているところだ。
「私は皆川千早、チハヤ・ミナガワ。判る? 名前、チハヤ」
着替えが終わると同時に嵌められた枷のまま自分を指して名乗ってみるものの、見た目頑固そうなおじさんは質問の答えでないからなのか、腰の剣に手を掛けて立ち上がった。……剣?
「ここ、どこ? 私、日本人よ。判る? 日本。ジャパン、ジャポン……他にはどんな言い方があったっけ?……って私、丸腰だよ! 何もしてないよ!」
なんとか説明を試みようとしている間にスラリと抜き取られた剣がこちらに向けられる。その時なぜか『銃を向けられても手を上げれば撃たれないと思っているのは日本人くらいなものだ』という何かの記事を思い出した。
こんな時に不吉なことを思い出すな!と自分の思考を呪いながら、今にも剣を振るいそうな男性を見上げる。このまま何も判らないまま殺される……という考えがジワリジワリと脳に浸透してきて、膝が震え頭も真っ白になった。
そんな私の様子に満足したのか、男は小さく言葉を吐き捨てると剣をしまってイスに戻っていく。うるさくしゃべったのが悪かったんだろうか?と思い当たり、それ以降は怖くて声が出せなくなった。
「***、**? ******?」
何かを質問してくる男性。何を言われているのか判らないので首を横に振り続けていた私を、彼らは再びどこかへと連れだした。石造りのせまい廊下と階段を更に奥深くへと潜っていく。もともと薄暗かった周囲が足下もおぼつかなくなるほど暗くなり、じめじめとした湿気も多くなってくると、なんだかかび臭い匂いまで漂ってきた。
このまま何かの生け贄にされたりしないよね……と現実離れした不安になるも前後を挟む男たちに聞くことはできず、それでも最初に落ちた豪勢な部屋があった建物から出ていないことになんとか希望を持つ。やがて廊下の先に鉄格子が現れると躊躇いもなく開けられ、奥にあった同じ扉を3つくぐって横壁に5つの鉄格子が等間隔にならび最奧の壁にも一つ鉄格子が嵌められた廊下のようなところに出た。
入り口近くに灯されたランプの灯りは最奧まで届くことはなく、それどころか一番近い牢屋ですら奥は薄ぼんやりと見える程度。湿気が酷くて足の裏がヌルつく石床を歩きながら、ここにきてようやく裸足だったことに気が付く。
「***! ****」
不衛生な床に足の止まった私の肩を男たちが乱暴に押して歩き出すと、横壁に並んだ牢屋の一番奥で手首につながれた鎖を引かれ、女でも少し屈まないと潜れない小さめの入り口が開けられた。恐怖心から抵抗することなく入ろうとした目の端に、その時一瞬だけ見えた淡い蒼い光。
「?」
呪いのような模様の彫られた一番奥の一番頑丈そうな鉄格子、その奥の蒼はなぜか印象に残り。
「**! ***!」
始終怒鳴られて小突かれて訳のわからないまま突き飛ばされた私の背後で、牢屋の閉まる音がうるさく鳴った。
私が自宅に帰っていたのは20時過ぎ。ここに落ちたのも夜だったのだろう。折り畳み式の板のベッドの上で、薄い布にくるまりながら一睡もせずに時間が過ぎると食事が運ばれてきた。
硬いパンに水一杯くらいに思っていたのだが、冷えてはいるものの普通の朝食だった。バターの塗られた薄いパンと野菜の入った透き通ったスープ、ジャガイモのマッシュと塩漬けの小さな肉が混ざったサラダだ。
運んできたのは昨夜とは違う色の制服を着た男だが、体格は彼の方が立派だった。小さな音にもビクついていた私に話しかけることなくトレーを置くと、立ち去ることなく、けれど睨むでもなく格子越しに観察している。居心地の悪さにしばらく見つめ合っていたが、彼が小さく顎をしゃくったことで食事をするように促されていることに気が付いた。
「……いただきます」
寝台にしていた台にトレーを置いて手を合わせるものの、食欲などあるわけもなくスープを半分ほど啜ってスプーンが止まってしまう。これ以上無理に食べれば戻してしまいそうだと涙目で見上げても、男性は仁王立ちで見下ろすだけで何も言わない。妙なプレッシャーの中、とにかくスープだけでも腹に入れようと無理矢理口に入れて嚥下した。
塩味のきいた冷たいソレが胃に溜まり、身体の中から徐々に冷やしていく。
「……ごちそうさまでした」
スプーンを置き、食事の残ったトレーを持って近付いても男性は扉を開けて受け取ろうとはせず、格子越しに見つめ合うことしばし。
「****、*****」
低く不機嫌そうな声で何かを言われたが判るわけもなく、とにかく俯いていると大きなため息と共に格子戸を開けてトレーを受け取ってくれた。そのまま立ち去る男性を見送り、再び板ベッドに上がってひたすら丸くなる。頭の中は帰りたい、助けての繰り返し。睡眠不足も相まってひたすら悪い予想ばかりが駆けめぐる。
やがて昨夜と同じ深緑色の制服を着た太ったオヤジがやってきて牢屋から小部屋に移され、髪を引っ張られたり、頬を叩かれたり、腕を捻り上げられたり、腹を蹴り上げられたりした。
「****! ******、***!」
私をいたぶるうちに息が切れた男が何かを怒鳴って剣に手を掛けたところで、朝食を持ってきてくれた群青色の制服の男がドアから入ってくる。突然のことに緑の制服男も驚いたのだろう、あからさまに侮蔑を込めた目で入ってきた男を睨むと彼を罵って部屋を出ていった。
罵ってといっても言葉が判った訳じゃない。雰囲気というか、態度というか、視線というか、とにかく言葉の通じない私は言葉以外で周囲の状況を把握するしかなかったのだ。
「******。**?」
群青の男が静かに声をかけてくるが、何を言われているのか判らない私は肯定も否定もできずに再び牢屋に戻される。そしてようやく恐怖と痛みに泣くことができたのであった。
こんな生活をもう何日送っているのだろう。飲み会続きで少しダイエットしなきゃなぁなんて思っていた日々が懐かしく感じるくらいには時間が過ぎていた。見下ろす身体はやせ細り手足は汚れ、身体は不潔で匂いも酷いだろう。
それでも辛うじて正気を保っていられるのは、世話係の男たちとの挨拶と牢屋の中に遊びに来るネズミのお陰かもしれない。
相変わらず言葉は判らないが――判らないというより、お互い聞き取ることができないと言った方が正確なのではないかと最近思い始めている――群青の制服を着た男達は拷問など一切せず、何かと声をかけてきてくれる。看守とも違う三人の男が交代で世話をしてくれていると気が付いてからは、意味は判らないものの彼らの言葉に返事を返せるようになった。
朝食事を持ってきたときは「おはようございます」
食器を下げるときは「ご馳走様でした」
夕食を持ってきたときは「ありがとうございます」というように。
それ以外の時は鉄格子の間から入ってくる小さなネズミに話しかける。その子はドブネズミのように大きくはなく、ハムスターよりは大きくて体の長さと同じくらいの肌色の尻尾を持っていた。最初は怖くて追い出していたけれど人恋しさに負けたのだ。そしてパンくず目当てにどこからか入り込むネズミに、深緑の制服の悪口や真っ黒いローブを被って拷問する男達の愚痴を零すようになった。
そんな日々の中、命に関わるような怪我はなかったけれど男達の尋問は私の精神を極限まで追いつめていた。このままここで死ぬんだろうかと考えて、どうしてそうまでして生きていなければならないのかとも考えるのに、いざ死のうと思うと後込みしてしまう。身体を傷付けるためのフォークも首を吊ることができるシーツもあり、食事と尋問の時以外は監視の目もないというのにどうしても実行することができなかった。
ある日、何か行動に移すわけでもなくズルズルと生き続けていた私のところに陰気くさくて不機嫌そうな女が訪れた。ここに来てから女性を見たのは始めてだと気が付く。灰色の地味なドレスとエプロンを身につけ、痩せて背の高い神経質そうな彼女は口を開くことなく私を今まで入ったことのない小部屋へと追い立てた。
中心に井戸のあるその部屋で私は無理矢理服を脱がされ、凍えるような水を頭からかけられる。これも尋問なんだろうかと震える私に女はボロ布を渡して、水に負けず劣らない氷のような視線を向けてきた。
「*******」
何かを命じてくるがもちろん判るわけもなく、それでもこれは風呂の代わりなのだと理解してノロノロと身体を拭う。もともと灰色の布は私の身体を拭うと更に黒くなりべとついた。
「*****! ***!」
しばらくすると女は再び三度ほど水を頭からかけてまた何かを言う。新しい服や乾いたタオルなどはなくてどうしたらいいのか判らずに見上げると、女は先程脱いだ服を指差して金切り声で怒鳴った。
多分これを着ろということなのだろう。なんの為に水浴びをさせたのか判らなくなりそうな異臭を放つ汚れきった服を再び身に付けると、雫の滴る髪を拭く暇もなく牢へと戻される。
それでなくとも寒い地下牢だ。通路側には天井近くに匂いを籠もらせない為の格子窓があり、そこから遠慮なく寒風が吹き抜けてくる。眠るときに使っている薄い毛布を被っても水浴びで冷え切った身体の震えは止まらず、それでいて顔が熱いのだ。熱があると気が付いた群青服の男が慌てて牢の中へと入ってきて誰かに怒鳴ると、呼び出されたらしい深緑服の太った男がなにかを喚き散らし群青服の男の背中を蹴った。
蹴られた男と一緒に抱き上げられていた私も床に転がって痛みにうずくまっても、深緑服の男が伸び放題の髪をひっ掴んでどこかへ引きずり始める。耳元で髪がブチブチと千切れる音がして、それでも痛みにうめくことしかできない。意識が朦朧とし、かろうじて目を開けると悔しそうに顔を歪める群青服の男と目があった。
その表情は不審者である私を心配していた。そしてここに来てからの群青服の彼らを思いだし、私は確かに笑ったのだと思う。
「ありがとう」
目を見開いた彼に言葉は伝わらないけれど心は伝わったと信じて。
そこで私の意識は闇にのまれた。
あたたかい
柔らかな暖かさが身体に染み渡る。
殴られた頬も、蹴られた腹も、栄養と水分不足の怠さも、身体を蝕む熱も、全てが溶けていく。
「おかあさん」
久しぶりの穏やかな気持ちに涙をこぼすと誰かが優しく拭ってくれた。フワフワな手触りと逞しく大きな身体が私を包むのが感じられる。あまりの気持ちよさになんの躊躇いもなくすり寄れば、私を包んでいたものがビクリと震えた。
「……」
意識が徐々に覚醒してくる。今までの酷い事は夢だったのではないかと期待しながら目を開ければ、目の前には汚れた金の毛皮。確かにこれならフカフカなはずだが、この暖かさはなんなのだろう。まるで生きているかのような温もりと頭上から聞こえる呼吸音に、遠慮なくモフモフを堪能していた手がピタリと止まった。
「グルゥ……」
撫でていた手を止めると不満そうな唸り声がすぐ近くから発せられる。何かが吐き出したため息が脂ぎった髪を揺らし、目の前の毛皮が呼吸をするようにゆっくりと上下していた。
私はといえば、ただ今絶賛硬直中である。心臓は早鐘のように打ち、冷や汗が脇や手を濡らしていた。
どう見てもこの毛皮は生きている。金色の体毛を持つ生き物など動物園のガラス越しにしか見たことがないのに、今は私を子供のように頭から足先まで抱き込んでいるのだ。手も足もあるし身体の痛みはないからどこかを食われてはいないようだが、ここからどうしようと考えることしばし。そっと頭を上げて見上げると凪いだ蒼い目とかち合う。
そこにいたのは立派なたてがみを持つライオンだった。
見つめ合うなどとロマンティックな気分ではなく、文字通り蛇に睨まれた蛙状態で硬直する。私は横たわったライオンの腹に身を預けて眠っていたのだ。
急に動けばその鋭い牙と爪で襲われそうで、でもだからといってこのまま寝られるほどの度胸もない。頭の中がパニック状態で身動きできない私の視界に見慣れた影が映ったのは、永遠とも思える数秒が経ってからだった。
「?」
猛獣の鼻息だけで飛ばされそうな小さな影が横たわったライオンの胸元へとたどり着くと、それまで私を見つめていた蒼い目が小さな来訪者へと逸らされる。
パクリと食べられるんじゃないかとハラハラする私の目の前で、牢屋での友人とも言える灰色ネズミは鼻をヒクヒクさせながら後ろ足で立っていた。ライオンも横たわったままだが静かな視線をネズミに向け、まるで話をしているかのような二匹に離れるなら今だとゆっくりと身体を起こすと。
二匹が同時にこちらを見た。
「っ!」
辛うじて悲鳴は飲み込んだが体の震えは治まることはなく、食い殺されるかもしれない恐怖に奥歯がカチカチと鳴る。
「もう……いやだ……帰りたい……お母さん……帰りたいよぉ……」
ここに来てからさんざん泣いた。涙なんてとっくに枯れたと思ったのに私はまだ泣けるのかと頭の片隅で冷静に考えながら、それでも溢れ出る涙は止まらない。涙も鼻水も垂れるがままに流す私を見ていた二匹はしばらく硬直していたが、やがてライオンがゆっくりと近づくと大きな舌でべろりと濡れた頬を舐めた。それから蒼い目が気遣うようにこちらを見つめ、更に流れる涙を舐めとる。
その行為はまるで慰めているかのようで。
体力も精神力も限界だった私は、人生で二度目の気絶を経験したのだった。
あれから私は喰われて死んだと思われたのか、深緑服の男たちは地下牢に来なくなった。今は心配そうに様子を見に来た群青服の男たちが驚きつつもどこか納得したように牢の前に跪き、優しい声で何事かを語った後に、これまで通り食事と水を運んでくれている。それと新しい服と下着、濡れタオルも時折差し入れられて一人の時よりも快適な生活を送れるようになった。
もちろんライオンらしき生き物と一緒にである。
彼は私を食べるどころか餌を必要としない生き物らしく、ネズミと同じく友達になったのだ。眠るときには体を寄せてきて暖めてくれるし、落ち込んだ時には尻尾で慰めてくれる。話しかけると理解しているのかは分からないが耳を傾けてくれて、無性に悲しくて涙が零れると濡れた鼻を押し付けてから舐めとってくれた。それに体を拭くときや用を足すときは理解しているかのように鉄格子の前で私に背を向け、食事の時は必ず一口だけ味見をする。まるで一緒の食事を取っているかのようで最近の楽しみの一つである。
もう一つの楽しみは彼をブラッシングすることだ。
ある時、顔を拭いたタオルを折り返してきれいな面で彼のたてがみや身体を拭いていると、それを見た群青服の男が大きなブラシを差し入れてくれた。ブラシをかけても良いかと問えば彼は巨体を横たえて嬉しそうに尻尾の先を動かすので、恐る恐る背中にブラシを当てると大いに満足そうなため息を吐いたのである。
牢屋の中はやることもなく一日に一回ブラッシングをしていたのだが、それを気に入ったらしい彼は時折ブラシを咥えて私のところに持ってきて二度目を催促するようになった。もちろん私は嬉々として受け取ると彼の身体の隅々までブラシをかけ、徐々に輝きを取り戻しつつある黄金の毛並みを堪能していた。
そんなある日。
「いたっ」
ブラシをかけながらたてがみを撫でていると、何か鋭いものが手に刺さったように感じた。とっさに見ると親指の付け根付近に小さな切り傷ができていて、うっすらと出血もしている。もしかして何かが刺さっているのかもしれないと気を付けながら長い毛をかき分け目を凝らすと、小さな、小指の爪ほどの長さの棘が刺さっているのが見えた。
「いつの間に刺さったんだろう? 気づかなくてごめんね」
半透明の黒いそれを優しく取り除くとどこからともなく溢れ出る優しい光。もう何か月も見ていない日光のように眩しくて、でも柔らかく包み込まれるような感覚に閉じていた目を開けると。
もともと雄々しい雰囲気と穏やかな気配を持つ彼が神々しさと高貴さをも兼ね備えて立っていた。
『名を。そなたの名を教えてはくれぬか』
どこからともなく響く声は聴いたことがなくとも彼の声だと判る。身体に見合った低さと大人の色気漂う渋さに、久しぶりに自分以外が発する言葉ということも忘れてぼんやりと答えた。
「皆川、千早……です」
蒼い目がまるで体の内側まで見透かすように微かに細められ、牢内にどこからともなくふわりと風が舞う。
『私の真名はレスタヴィルクード。呼ぶときはレスタと』
「レスタ……」
事態に付いていけぬまま名を呼べば彼の笑った気配を感じて、その暖かさに安堵を感じた。
「行こうか。我が契約者」
頭の中に響いた声とほぼ同じ渋い美声が彼から発せられたのと同時に複雑な文様の彫られた鉄格子が音もなく開き、彼は躊躇うことなく牢の外へと歩みだす。許可なく外に出る杞憂は彼の力強い歩みにかき消され、それでも狭い牢屋の中で過ごした期間は短くはない故に二つ目の鉄格子を潜って階段を上がり始めると息が切れはじめた。
「私に掴まるといい」
先を行っていたレスタが立ち止まってその大きな身体をゆっくりと寄せてくる。
「本当は上に乗ってもかまわぬのだが……そなたは嫌がるだろう?」
声を聴いたのは二言目なはずなのに楽しそうに聞こえるのは気のせいか。レスタのたてがみに捕まって導かれるままに裸足で歩いているとやがて武骨な廊下が煌びやかな様子へと雰囲気を変えた。
「ここは……お城?」
「そうだ。そなたにはいろいろと教えてやろう……その前にすることが多そうだが」
ここに来てようやく城の者たちが気づいたらしく群青や深緑の制服を着た男たちが三十人ほど抜刀して取り囲む。その光景は初めにこの世界に落ちてきた時を彷彿とさせ、千早は声にならない悲鳴を上げてレスタにしがみついた。
「怯えることはない。そなたは私が守る」
たくましい声音が、生の躍動を感じる鼓動が、守護するような周囲の空気が、そして歓喜と祝福に震える音が一斉に鳴り響き、あまりの美しさに千早は恐怖も忘れて辺りを見回した。
『レスタの帰還だ!』
『我らがレスタの契約がなった!』
『疾く知らせよ! レスタの呪いが解かれた!』
『レスタが契約者を得たぞ!』
さざ波のような声と光がはじけるような歓声が溢れ、遠巻きに見ていた人々の間から様々な動物たちが駆け寄ってレスタに首を垂れる。キツネやウサギ、イタチに猫といった小動物から馬、黒豹や銀狼、人の背丈を優に超える熊まで、さながら動物園のようだ。
さらに少し遅れて漆黒の制服を着た男たちが現れて抜刀している男たちに何やら合図を送ると、彼らは剣を置き一斉に跪いた。
「出迎えご苦労」
レスタの一言に黒服の男たちは驚いた表情を浮かべ、けれどすぐに取り繕うと一番地位の高いらしい男性が顔を上げる。
「レスタ様におかれましては無事にお言葉を取り戻されたことをお喜び申し上げます。王族の皆様がお待ちです。ご案内いたします」
王族という言葉に千早がひるむとレスタは安心させるように手の甲をぺろりと舐めた。
「いや、それよりも先に彼女に身支度と温かい食事を取らせる」
「しかし……」
渋る男性にレスタは小さく首を傾げて穏やかに言葉を続ける。
「契約を得た精霊は契約者を最優先とする。これは精霊と人との取り決めのはず。王に破らせるな」
契約侵害の罰を受けるのはお前ではなく王なのだと示唆されて男性が恐縮すると、「部屋にご案内いたします」と漆黒服を着た男たちが三人立ち上がった。
恭しく部屋へと促すその姿に千早の足が竦む。黒い服の男たちはどう思っているのか判らないが、深緑服の男たちの中にはこちらを睨みつけている者もいるのだ。側を通ったりしたら切られるのではないかという恐怖で奥歯が音を立てた。
「千早……」
レスタにはこの世界に落ちてきてからの全てのことを話しているから、自分が何に怯え動けなくなっているのかよく判っているのだろう。それでも気遣うレスタの声も耳に入らないほど、恐怖と混乱が視界を狭めていく。
目を瞑り、涙を零して拒絶する千早の耳に聞き覚えのある声が聞こえたのはその時だ。
「ロイ」
小さなその声でパッと目を開けた千早の前に囲んでいた動物たちの中から見覚えのある灰色ネズミが近づいてくる。耳の少し欠けた彼が牢屋の友人だと判った時、千早は座り込んで彼を救い上げると震える手でそっと抱きしめた。手の中の彼は心配そうに鼻をヒクヒクさせながら涙を流す頬に小さな手を当ててくる。
その様子を注意深く見守っていたレスタがゆっくりと振り返り跪く男たちに声をかけた。
「彼の契約者はいるか」
呼びかけに一歩前に歩み出で再び跪いたのは黒髪を持つ群青服の男性。食事を運んでくれたり、熱が出た時にかばって背中を蹴られたり、レスタの側にいるときは着替えや濡れタオルを差し入れてくれた彼だった。
「名は?」
「青騎士団第一大隊所属、下級騎士ジーク・フィールドと申します」
聞き覚えのある凛々しくも優しい声。言葉は通じなかったが彼の誠実な人柄は話をしなくともよく判った。
「千早。彼なら信用できるか?」
座り込んだ千早の隣に同じく座ったレスタが囁き、質問の意図を図りかねて困惑しながらも信用できるか、できないかで問われれば信用できると微かに頷く。千早の意思を確認したレスタは畏まる騎士にさらりと告げた。
「彼女を部屋まで運んでくれ」
突然の申し出に驚いたのは千早だ。慌ててレスタを見ると彼は穏やかな眼差しで見つめ返してきた。
「いろいろと分からないことも聞きたいこともあるだろうが、まずは落ち着くことが先だ。そなたを傷つけるようなことはせぬ」
この世界で一番安心できる声に促されて群青服の男を見ると、彼はゆっくりと立ち上がって双方の腕を伸ばせは触れ合える距離まで近づき、再び跪いて空色の目を綻ばせた。
「下級騎士のジーク・フィールドと申します」
「あ、皆川千早です」
改めて名乗られてあたふたしながらも名乗り返すと、ジークは「失礼します」と断ってから軽々と千早を横抱きにして歩き出す。
「あ、あの……」
「そいつは私の精霊のロイです。チハヤ様には随分と可愛がっていただき、ありがとうございます」
風呂に入っていないから制服が汚れてしまうとか重いだろうとか恥ずかしいとか筋肉質で硬い体躯を感じてどうしたらいいか分からないとか様々な感情が頭の中で渦巻き、とにかく降ろしてもらおうと声をかけようとするとそれを遮るように手の中の小さな友人を紹介された。
「千早と話ができてうれしいよ。レスタも良かったね!」
体に似合う可愛らしい声で嬉しそうに話すロイに、前を歩いていたレスタは機嫌が良さそうに尻尾を振ってみせる。
「私こそロイが遊びに来てくれて本当に嬉しかった」
千早はいつもそうしていたように気負うことなくロイに話しかけた。
「ほら、言った通りだろう? ジーク。千早は僕のことを嫌ってなんかいないんだって!」
千早の言葉に後ろ足で立ち上がりどことなくどや顔をしていそうなロイに、人を一人抱き上げて歩いているというのに微かに笑みすら浮かべていたジークは千早の手の中のネズミを見下ろした。
「……黙っていればお前はイイ奴だ。精霊の長たるレスタ様にため口をきくのをやめて、もう少し礼儀をわきまえればもっといい。そうしないとまたカイ殿に追い掛け回されるぞ」
「カイは銀狼だよ。あいつ、人間みたいに身分だ敬語だってうるさいんだよね。きっとあいつの中には人間が入っているんだ!」
ジークの前半の言葉は都合よく聞き流したロイが同じ精霊の悪口を言い始め、先ほど目にしていたいかにも堅物そうな銀色の狼を思い出した千早は背中のチャックを想像してしまい堪えきれずに笑いだした。
「レスタはすごく強くて賢くて温和だから精霊の長なんてやってるけど、本来僕たちに身分差なんてないんだ。尊敬する相手には丁寧に、仲が良ければ親しげに、どうでもいい奴には適当に、嫌いな奴は完全無視か威嚇して、そして契約者には慈しみを持って相対するのが精霊なんだよ」
ロイの話は更に続く。
「僕たちが契約者を選ぶ基準は単純で、そいつを気に入ったかどうかなんだよね。相性もあるらしいけど僕の場合はジークが力を必要としていなかったってのも大きかった。こいつは人間のくせに馬鹿みたいに強いから僕は参謀役なんだよ」
暗に脳筋だと言っているのか、楽でいいんだと笑うネズミの精霊にジークは男らしい眉を寄せて低く呟いた。
「……一応誉め言葉として受け取っておく」
「あれ? 僕としてはすごく誉めたつもりなんだけどなぁ。まぁ、いいや。だから契約者が死ぬか、精霊が消滅しなければ契約が終わることはないんだよ」
「途中で精霊の気が変わるってことはないの?」
喧嘩口調なのに仲のよさそうな二人の様子に千早は思いついた疑問を聞くと、ロイは不思議なことを言われたように首を傾げてレスタを見る。
「精霊の気が変わるなんて聞いたことないよな?」
「契約した人間がどれだけ変わろうとも一度契約したらその者を慈しむ。精霊とはそういう存在なのだよ」
そう言って目を細めて笑ったレスタは案内をしていた黒服の男が開けた扉の中に入り、ジークは扉の直前で立ち止まった。
「立てますか?」
顔を覗き込みながら問われるとロイも手の中から腕、肩へと登ってジークの肩へと飛び乗り、忙しなくひげを動かして心配そうに見つめてくる。
「大丈夫です。ありがとうございました」
そう返事をしてジークの腕から降りようとするも、逞しい腕がそれを阻止するように動いた。どうしたのかと見上げると彼の水色の目は爪が伸び薄汚れた素足に向けられていて、今更ながらに羞恥心で顔に熱が集まる。
「あの……」
「レスタ様。入室の許可を頂けますか」
部屋の中にまで運んでくれるらしい親切な騎士にたてがみを揺らしてレスタが頷くと、アイボリーとグリーンの上品な内装の室内へと足を踏み入れた。そのまま若草色の高級そうなソファにゆっくりと降ろされて体を沈めると、ジークは右手を胸に当てて黒髪を揺らしながら頭を下げて退室しようとする。
「あの!……ジーク、様」
部屋に運び終えた途端に口数の少なくなったジークとロイを見て、千早は抱き上げられたことを恥ずかしがった自分が緊張することがないように二人がわざと雑談をしていたのだと気づく。そして自己紹介はされたが正直ロイが呼んでいた名前しか覚えていなかった千早は恐る恐る立ち去る青年に呼びかけた。
群青の制服が立ち止まり水色の切れ長の目が不思議そうに見返してくる。
「牢屋ではお世話になりました。ジーク様方がいなければ不審者として投獄されていた私は死んでいたと思います。改めて皆様にお礼を申し上げるつもりですが、本当にありがとうございました」
姿勢を正し彼をまっすぐ見据えてから頭を下げる。正しい礼儀作法も判らないけれど、言葉が通じなかった時でも誠意は通じていたのを信じて。
返しを待つために頭を下げ続けていると視界に入っていた床に黒のブーツが入り込んで誰かが膝をついた。同時に大きな手に膝の上で揃えていた両手を取られ、そのまま頭を上げると真剣な面持ちのジークと目が合う。
「貴女が熱を出して倒れた時に私は貴女を守り切れませんでした。それなのに貴女は引きずられながらも笑顔で何かを言われましたね……それで充分なのです。私が食事を運んだのも病気の貴女を助け起こしたのも、すべて職務だったのですから」
だから礼を言われるようなことは何もしていないのだと千早の手を額に付け懺悔をするようにつぶやく青年騎士に困惑してレスタを見ると、蒼い目は穏やかに笑み低く渋い声が助け舟を出した。
「騎士ジーク・フィールドよ。お主も千早もなにも知らぬ。『あの時』も、そして今もなお。だからこそ千早の感謝は純粋なのだ」
精霊に名を呼ばれたジークが言葉をしばし熟考し、それから男らしい顔に理解の色を浮かべると握っていた手をゆっくりと元に戻した。
「分かりました。チハヤ様の感謝を受け取らせていただきます。同僚たちにも伝えておきましょう」
「千早! また遊びに来るね!」
丁寧なジークの挨拶と気軽いロイの挨拶に手を振ると二人は退室していき、部屋にはレスタと千早の二人だけになる。
「さて。最初に湯殿を使うといい。一人ででもいいし、侍女を使ってもいい。それとも私を洗ってくれるか? もちろんそなたも一緒に入ってだが」
薄汚れた黄金の獅子は絨毯の上に横たわり、どことなく楽しげに尻尾を揺らした。
言葉を話す前なら一緒に入るのも構わなかったかもしれない。けれど今は無理だ。外身はライオンでも中身は成人男性のような彼と共になんて、意識しすぎてリラックスするどころではないのだから。
「後で一人で入ります。レスタ、様、が先にどうぞ」
人間が皆レスタに敬称を付けていたのを思い出してつっかえながらも呼びかえると、レスタの喉がグルゥと低く鳴った。
「敬称はいらぬ。そなたは私の契約者なのだから。それに私は精霊だ。身体を清潔に保つのに湯殿を使う必要はないから、そなたが入るといい」
あれ? 一緒に入るって言わなかった? この人……と腑に落ちないものの、お風呂に案内されれば日本人としてはその誘惑に勝てるはずもなく。
「着替えは用意しておく。必要な物や判らないことがあれば声をかけてくれ。私が教えよう。それとあまり長湯はしないほうが良いかもしれぬ。そなたは今、あまり体力がないからな」
簡単な注意と共に中からも外からも押して開けることのできる扉から悠然と出ていくレスタを見送り、身に着けていた手触りの悪い服を脱いで畳む。一応下着もその下に隠してからタオルを持って中に入ると、乳白色の湯気の奥に掘り下げ式の湯船が見えた。シャワーはないようで、木桶を使って湯船からお湯をくみ取ると手入れのされていない脂ぎった髪にかけて石鹸を使った。
「三回洗ってもまだ汚れてる気がする……」
泡が立たなかった一度目と二度目よりはましだが、三度目の洗髪の途中でめまいを起こしてしまいレスタの助言を思い出してほどほどで止めることにする。倒れてしまえば全裸でレスタに救助されることになるのがありありと想像できるからだ。
それから二度体を洗うと千早は深さが二段に分かれている湯船の深い方で肩までお湯に浸かった。
「そういえば……言葉が通じてる……」
緩やかに揺れる水面をぼんやり見つめながら今更な事実にようやく気が付きつつも、何も分からない千早は何がどうなって今に至るのか想像もつかない。分かるのはレスタに刺さっていた棘を抜いたことで何らかの事態が変わったことだけだ。
「千早? 大丈夫か?」
物音が聞こえなくなったことで心配したらしいレスタがドアの向こうから呼びかけてくれる。ぬるめのお湯は強張っていた体をほぐし、牢屋を出た事実が精神の緊張を解き、レスタの存在が心を守ってくれていた。
「大丈夫です。今上がります」
通じない言葉、言葉を話す精霊といわれる動物、剣を身に着けている騎士、王族という身分の人たち……いや、これは自分の世界にもまだいたなぁと千早はのんきに考える。
おそらくこれから先は未知の世界で、きっとこんな風に凪いだ気持ちになることは少ないだろうと千早は覚悟を決めて立ち上がった。
【次回嘘予告】
「レスタ」
「どうした?」
「ライオンはどうやったら飼えますか」
「……いろいろと教えなければならないことが多そうだ」
「あと爪とぎとキャットタワーと猫じゃらしが必要です」
「……」
「それから首輪と鞭と火の輪とか」
「そなたは一体何を目指すつもりだ」