晴れる人
ああ、タバコの煙は嫌いだ。
大学までの道すがら、ちょうどバス停の近くにあるタバコ屋。その前を通るたびに、「男」のよく吸っていた銘柄を思い出した。やけに甘い香りの──バニラのタバコ。ぼくは元々「身体に悪そうなことは極力しない」がポリシーだ。そのぼくが、よりによって、あんなヘビースモーカーと付き合っていたなんて。今となっては「不思議」の一言に尽きる。
あんな、何も言わずにいなくなるような男と。
男と初めて知り合ったのは、大学に入ったばかりの五月のことだ。ワンダーフォーゲル部、とかいう、一見よく分からないサークルに所属していた彼は当時、新規部員獲得のために、一年生ながらキャンパス内外を駆けずり回っていた。
「なあ、君。もうサークルは決めてるか」
活発そうな声に振り返ると、イメージ通りの青年が立っていた。腕の中に、大量のビラが抱えられている。
「あ……ぼくサークルには興味なくて。すみません」
サークルに興味がないのは本当だった。特にバイトや用事があるわけではない。そもそも人と交流するのが苦手なのだ。
「謝らなくていいよ。あと、敬語も」
俺も一年生だし。そう言って笑った男は、ぼくの返答を待たずに、続けて勧誘──という名のいわば「突発ナンパ」──を続けた。
「今日の新入生歓迎会の会場、焼き肉なんだ」
しかも先輩のおごりなんだよね。どうかな。別に肉食べに来るだけでもいいんだ。一人暮らしの学生にはありがたい話だと思うんだけど。
男の使う言葉は巧みで、なるほど、これは一年生だろうが新入部員だろうが、先輩たちがキャンパスに放つわけだ、と思う。「ワンダーフォーゲル部」。得体の知れないその名前にも活動にも、一切触れることのない会話。必要以上な熱心さで語られていると、ぼくはいつの間にか、そのサークルよりなにより、男本人に惹かれてしまっていた。
「……入らなくてもいいなら、行く」
「助かるよ」
俺はハルト。君は?
人好きのする顔で明るく笑ってみせると、男は片手をこちらに差し出して名乗った。晴れる人、と書いてハルト。名は体を表す、というのは、こういう人のことを言うのだろう。ぼくのそれとは違って。
「ぼくはホマレ。よろしく、晴人」
差し出された手を握ると、ハルトはまたにっこりと笑ってから、確かめるように握り返してきた。
「ほまれ? 字は……こう?」
握ったままの手のひらを上に向けられて、そのまま、指でなぞられる。左利きなのか、と思う。「あれ、こんな字だったっけ」なんて口にしながら、彼は何度もぼくの手のひらをなぞった。変に、心拍が忙しい。顔が、上げられない。
「誉」──いやに画数の多いこの名前を、ぼくはいまこの瞬間まで好きだと思ったことはなかったのに。触れられたところから、じわじわと熱が広がって行くような感覚に、ぼくは急いで手を離した。