第十章 記憶の欠片(1)
耳朶を打つ獣の遠吠え。大気を引き裂き迫りくる牙と爪。鋭利な凶器が陽光を艶やかに弾き、凶悪な輝きを放っている。
もう、ここまでなの。
獲物の喉笛を噛み千切るべく、わらわらと群がる獣の群れ。眼前で繰り広げられる惨劇に、リンスは絶望的な思いに囚われていた。
仲間の悲鳴が耳にこびりついて離れない。こちらに手を伸ばして助けを乞う、悲痛な表情が網膜に灼きついてしまい、目を閉じても消えてくれない。
乱れ散るポリゴン片に複数の絶叫が重なる。桃色の髪の少女が組んでいたPTは、彼女一人を残して全滅した。
飢えた獣の赤い双眸が、新たな生贄を求めてリンスに向けられる。自分を包囲する無数の赤い瞳に、彼女はひっとくぐもった呻きを洩らした。
後退った拍子に足を木の根っこに引っかけてしまい転倒する。地面に背中を打ちつけ、尻餅をついたまま全身を恐怖に震わせる。
支援に特化しているリンスの攻撃能力は皆無に等しい。獣の群れに襲われればひとたまりもない。瞬く間に蹂躙されてしまうのは明白だった。
彼女のステータスでは撤退も無理。転移アイテムを使おうにも、すでにその機は逃してしまっている。いまから使用しようにもおそらく、完了する前に攻撃されて転移を中断させられてしまうだろう。
絶対絶命。孤立無援。戦うのは論外。逃げることもできない。少女にできるのは絶望に打ちひしがれて、終わりの瞬間を待つことだけだった。
牙を剥く獣が獲物目掛けて跳躍した。鈍い輝きを宿す鉤爪が、少女の小柄を身体を引き裂く――その刹那、肉厚の刀身が群がる獣を両断した。
青いエフェクトを散らす大剣が、中空に軌跡の残光を刻み、死の象徴たる獣を一掃する。中空を滞空する獣が断末魔を伴い消滅した。
九死に一生を得た桃色の髪の少女はいまだに状況が理解できずに、呆然とした様子で頭上を仰ぎ、その黒髪の少年の後姿を見た。
身に纏う黒衣を靡かせる黒髪の少年。細められた黒い瞳は鋭く、仲間を殺された怒りに喉を鳴らす獣を睥睨している。
リンスを庇うように獣の群れに立ちはだかる黒髪の少年は、手の中で自身の身長を優に三倍は在ろうかという大剣を器用に旋廻させると、威嚇する獣の残党の真っ只中へとその身を跳躍させた。
規格外のサイズを誇る大剣が振るわれ、モンスターをまとめて薙ぎ払う。容赦のない一撃が瞬く間に獣を殲滅していく。
その奇跡のような光景を彼女は確かに見た。生涯決して忘れないであろう黒髪の少年の姿を、リンスは食い入るように見つめていた。
「――それが、ヘキサ?」
「そうです」
歌姫が情緒豊かに紡ぐ物語に、ハズミは呆けた表情で白髪の少年を指差した。問われた桃色の髪の少女は胸の前で腕を組むと、憧憬の眼差しを彼に向ける。
あれからヘキサたち一行は場所を宿屋の廊下から、クライスが予約していたツインルームへと移動していた。
卓上の豆電球が室内を橙色に照らしている。ふたつあるベットのうち右側にはリンス、左側のベットにはリグレットとハズミがそれぞれ縁に腰掛けている。ヘキサとクライスはその傍らの壁に寄りかかるようにして立っていた。
「ヘキサ様は言いました。……もし自分がギルドを作ることがあれば、一緒に手伝ってくれないか、と」
「だから君はヘキサ君がギルドを結成したと知って、居場所を探して私のところに訪ねてきたのだね?」
「はい。そのときは必ずヘキサ様の元に馳せ参じて、微力ながらお手伝いさせていただくと約束しました」
桃色の髪の少女は語る。自分はこの日がくるのを心待ちにしていた、と。≪梟の巣≫に所属していたのも、いざというとき足手まといにならないためだ。
【歌唱】スキルを主スキルにしている彼女は単騎での戦闘能力がないので、PTプレイでのレベル上げが必須なのである。
「君がギルドの勧誘をことごとく拒否していたのもそれが理由かね?」
「ヘキサ様のギルド以外に興味はありませんので」
躊躇なくしれっと言ってのけるリンス。
彼女にとってはそれがすべてなのだ。白髪の少年の噂を聞くたびに、すぐに駆けつけたい衝動を抑えて、彼がギルドを結成するときを待ち望んでいたのである。
そしてヘキサはついにギルドを結成した。それが≪星の金貨≫。リンスが彼との約束を果たすときがついにやってきたのだ。
「それなんだけどさ」
当事者である白髪の少年が声を発したのはその瞬間だった。瞑目していた彼は皆の注目が集まる中、
「――俺、そんな約束したっけ?」
さらりと爆弾発言をかました。
ピシリ、と空気が固まる音をクライスは確かに聞いた。一方、ヘキサは変貌した雰囲気に気がついた様子もなく、白髪を掻きながらさらに地雷を爆発させた。
「つーか、さ。――そもそも俺たちって以前に会ったことなんてあるか? どうにも記憶になくてさ。これが初対面……じゃ……ね……」
と、言ったところでようやくヘキサは、場の雰囲気の豹変を察したようだが、なんというかすでに色々と手遅れだった。
「へ、ヘキサ様……う、嘘ですよね……?」
絶句して顔を青褪めさせるリンスに、ヘキサもまた別の意味で顔を真っ青にさせた。彼女は身体を小刻みに震わせると、両手で顔を覆ってしまった。
沈黙が落ちる室内に全身から嫌な汗が止まらない。
「ヘキサ君。それはあんまりでないかね」
「流石にこれは擁護できませんよ」
「これだから男って、信用できないのよね」
「み、みんな……ッ!?」
三者三様の針のような視線に呻き声を洩らすヘキサ。
確かにさきほどの自分の発言を客観的に思い出してみると酷い。ヘキサでいえばリグレットに挨拶をして、貴方誰ですか? と冷たい眼差しを返されるようなものだ。
とはいえ、本当に記憶にないのだ。いまのいままでヘキサにとってリンスは、一度も会ったことのない赤の他人だった。昼休みに浩二と話しているときだって、彼女の≪梟の巣≫脱退の件に自分が関わっていようとは予想だにしていなかった。
だが、リンスが嘘を吐いているようには思えないし、吐く理由も見当たらない。ならばやはり自分が忘れているだけなのだろうか。そうだとするならば、よほどの薄情者である。自分がそんな人でなしだとは思いたくはない。
ちょっと――いや、かなり欝になるヘキサだがしかし、いつまでもこうしていても仕方がないと腹を括り、恐々といった感じでリンスに訊ねた。
「リンスさん……ちなみ……その……それはいつのことですか?」
わりと最近じゃないといいなぁ、と神に祈りながら言うと、伏せていた面を上げた桃色の髪の少女は意外な言葉を口にした。
「――わかりません」
「そうか……わから――わからない?」
なんじゃそりゃ。合点がいかない調子で小首を捻るヘキサに、慌てた様子でリンスは声を張り上げた。
「あのですねっ。ヘキサ様に助けられたのは確かです。記憶にもあります。……でも、それがいつでどこだったかは、ちょっと曖昧で……よく覚えてません」
「えっと……なにが?」
「そこで俺に振られても困るんだけど」
ハズミの疑問に疑問で返す。混乱しているのはこちらのほうである。助けられたときの状況がわからないとはこれいかに。
なにやら雲行きの怪しい展開に、クライスを手を打ちつけて鳴らすと皆の注目を集めた。
「状況を整理してみようじゃないか。リンス君。君は過去にヘキサ君に窮地を救われ、その際にギルド結成後の手助けを求められたのだね?」
こくんと頷くリンス。
「対してヘキサ君には彼女を助けたどころか、顔を合わせた記憶すらないと?」
「まあ……そうですね」
こちらも困惑した表情で相槌を打つ。
「そしてリンス君もヘキサ君に助けられことは覚えていても、そこに至るまでの過程についてはまったく記憶にないと」
「……、です」
ふむ、と顎に右手を添えて思案すると、眼鏡のレンズをキラッと光らせて、クライスは頭の中で整理した結論を口にした。
「リンス君とヘキサ君。両方の情報を照らし合わせるとだ。二人の記憶にはかなりの齟齬が存在している。しかもどうやら根本的な部分から認識に差異があるようだね。つまり、それは――どういうことなのかね?」
どういうことなんでしょうね、と顔を見合わせる一同。大体、よくよく冷静になって考えてみると、リンスの話には色々とおかしな箇所がいくつも見受けられる。
「リンス。ちょっといいか?」
「なんでしょうか。ヘキサ様」
「リンスを助けたそいつ――俺は、黒づくめで大剣を装備してたんだよな?」
「は、はい。両手で持っていましたし、あのサイズは大剣だと思います」
黒づくめの大剣使い。その単語にリグレットとハズミは揃って、ヘキサの格好を一瞥すると次いで腰の後ろに吊ってある武器を見やった。
白髪に白装束。薄い色素の瞳。武器は両刃の片手剣。桃色の髪の少女の証言と合致するところはひとつもなかった。
それだけではない。彼女の発言で気になる点は他にもある。
「私は武器に詳しくないのだが、自身の身長の三倍もある大剣なんて存在するのかね?」
「いいえ。少なくとも私はプレイヤー用の武器で、その規模の大剣の存在を知りません。それに大剣に限らず、武器にはそれぞれ規格がありますから」
一言に大剣といってもモノによって形状は異なっている。しかし、武器の種類としての規格はあるので、カテゴリー内で極端なサイズ違いはない。まして通常の三倍などという馬鹿げたサイズの武器は、いまのファンシーには存在していないはずである。
というよりも、ヘキサは大剣を装備したことが過去に一度もない。証拠だってある。確認の意味も込めて彼は手元に現したウインドを操作すると、画面にスキルの一覧を表示させた。
続いて一覧から【両手大剣】スキルを選択して、サブウインドに詳細画面を展開させる。詳細画面にはスキルの熟練度とそのスキルに属する習得済みの技が記されている。
ここからさらに個別の技を選ぶことで、その技に関する説明と技ごとの熟練度が見れるワケだが、ヘキサの【両手大剣】スキルは白紙だった。
当然だ。大元である【両手大剣】スキルの熟練度が0なのだから、属する技を習得しているはずもない。同時にこれはヘキサが一度も大剣を使用したことがない証明でもあった。
格好に関しては彼の記憶違いという可能性もありえるが、スキルの熟練度はシステムに組み込まれている以上は誤魔化しようがない。
「そもそも俺が自分からギルド云々言うのが信じられん」
「なるほど。確かにそうですね」
「きっと別人よ、そいつ」
ヘキサの意見に同調するリグレットとハズミ。その言葉に迷いがないのが地味にショックだが、事実なのだから仕方がない。
なんにせよ、考えれば考えるほどそこから導かれる結論はひとつしかなかった。
即ち――、
「やっぱりそれ……俺じゃなくね?」
そうとしか思えなかった。リンスには悪いが否定できる要素がない以上、彼女の勘違いの可能性が一番高い。
「そんなことありませんっ。あれはヘキサ様です! 他人であるはずがありませんッ!!」
「ンなこと言われてもなぁ」
どうしたものかとヘキサは頭を抱えた。リンスとしては黒づくめの大剣使いがヘキサだという線は絶対のようだが、なにが彼女をそこまで意固地にしているのか。
加えて少々大袈裟すぎではなかろうか。通常モンスター相手なら例え殺されたとしても、ミストを1ポイント削られるだけ。デスペナにしても致命的ではないはずだ。
だというのに、まるで本当に命を救われたかのような、リンスの感謝のしようはなんなのか。普通に考えてもちょっと度が過ぎる。それともそのときのミストの残数が、意外にもギリギリだったりしたのだろうか。
トントン、と彼らのいる部屋のドアがノックされたのはそのときだった。