第九章 歌姫(3)
クラシックの優雅な旋律が耳朶を打つ。メールの着信音にクリスは指を振り、中空に半透明の画面を展開した。
新規のメールを表示させて、送信者の名前に口元の笑みを強める。未読メール一覧からメールをクリックして、内容をサブウインドに表示させた。
記述された文面にざっと視線を走らせ、その内容に軽く目を瞠目させた。そこには彼の予想とおりの内容が半分。もう半分は予想外のことが記されていた。
「……なるほど。そうきたか」
驚きながらもどこか楽しげにつぶやく。クリスはウインドに付属された仮想キーボードで返信メールを作成すると送信して、完了と同時にウインドを閉じると立ち上がった。
明かりを消して自室を出ると、隣の部屋のドアをノックする。
「僕だけど、いまいいかな?」
「団長!? どうぞ入ってください」
部屋で待機している人物の許可を得てから、ドアを開いて中に入る。すると背中に大剣を背負う少年が、直立不動でクリスを迎えた。
「なにか用ですか?」
「例の件だけど……どうやら該当するプレイヤーが見つかったようだよ」
「本当ですか? それでそのプレイヤーたちの名前は?」
「残念。たちじゃない。該当したのは一人だけさ」
一人? と訝しみの声を洩らす。例の依頼は単独でクリアできるモノではない。最低でも一流どこのプレイヤーが五人は欲しい。そう言ったのは他でもなく彼だったはずだ。
大剣使いの当然の疑問はしかし、次のクリスの一言で解消されたが、同時に先程以上の衝撃を彼に与えた。
「ヘキサ」
その一言に大剣使いの少年が、息を呑む気配がした。
「それは――あのヘキサですか!?」
「そうだ。マンイータ・ヘキサ。≪仮面舞踏会≫首領ナハトと並ぶ最狂のPK。ある意味、今回の依頼にはうってつけの人材だとは思わないかな?」
団長の冗談めいた口調に俯く。確かにあのマンイータなら、一人でもどうにかするかもしれないが、危険ではないのか。
胸に巣くう不安に大剣使いは喘ぐような調子で言った。
「でも……その……あいつは……」
「言いたいことはわかる。しかしこれは彼の紹介だ。僕は信用してもいいと考えている。……ちなみに君の意見はどうかな?」
「それが団長の判断なら従います」
「そうか……なら、決まりだね」
と、そう言い切ったクリスだったが、ふうっと吐息を吐くと若干トーンを落とした。
「ただ、どうも少々ややこしいことになってるらしい」
「ややこしい、と言いますと?」
実はね――とクリスは口を開き、飛び出した単語に大剣使いの少年は、目を剥いて驚きを露にした。
「どうし……もしかして、彼女がよく口にしていたのが?」
「かもしれないし、違うかもしれない。本人に直接訊いてみないと真相は不明だよ」
思い当たる節を口にする大剣使いに、クリスはそう言うと肩を竦めた。その意味合いでもこれは真相を問いただすいい機会かもしれない。
彼女に関してはギルド内部からも不満が出ている。クリスからすればそれは、嫉妬からくるモノであろうことは容易に察せられた。
とはいっても、団長である以上は放置するワケにもいくまい。それにこのまま手放すには彼女の存在は非常に惜しい。できることならば彼女を再びこのギルドに、引き戻したいという打算もそこにはあった。
「そういうことだから……ちょっと出掛けてくる。留守を頼むよ」
「はい。お気をつけて」
大剣使いの言葉に片手で答えて、クリスは彼の部屋を後にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ドアノブに取り付けられているダイアルを捻ると、カチカチと音を立ててダイアルが回った。ヘキサは一番から五番まで割り当てられている番号のうち、待ち合わせ場所にもっとも近い三番にダイアルを合わせるとドアをゆっくりと開いた。
隙間から活気に満ちた喧騒が聞こえてくる。ドアを開くとそこは中央通り付近より少し外れたところに位置する路地裏だった。
背後でドアが閉まったのを確認し、ヘキサたちは目的地へと歩き出した。人目につく表の通りは避けて、街中に張り巡らされた裏道を利用する。幸い待ち合わせ場所までの道は記憶にあるので迷う心配はない。
「ホントに気が小さいんだから」
「まったくです。こちらに非がないのですから、卑屈になる必要などありません」
性分かなぁ、と後ろの二人の呆れた視線に独白する。自分一人だけならまだ誤魔化しようもあるが、リグレットとハズミも一緒となればそうもいかない。
掲示板の騒ぎからもわかることだが、いまは目立つような行為は極力避けたい。余計なリスクは背負わないに越したことはないのである。
「どうだか。他人の視線が怖いだけじゃないの?」
うん。そういうことはわかってても、口に出さないべきだと思うんだ。言葉は弾丸。使用上の注意をお守りください。後方からの揶揄にそんな単語が脳裏を過ぎった。
「目的地はどこなんですか? メールの返信に書いてあったようですが」
肩を落とすヘキサの煤けた背中を見かねたのか。ハズミの言葉を遮るリグレットの言葉に、彼は正面を見たまま口を開いた。
「宿屋だよ」
流石に一言では要領を得ないので、続けて説明を付け足した。
「クライスさんが店近くの宿屋の一室を予約したんだって。俺たちに合わせたい奴もそこで一緒に待ってるってさ」
「なんでわざわざそんなトコで、待ち合わせする必要があるのよ」
「気を利かせてくれたんじゃないか? ≪星の金貨≫の事情をあのヒトが知らないワケないだろうし」
「もしくは……他人に訊かれたくない話、かもしれませんね」
ぼそりとしたリグレットの小声に顔を顰めるヘキサ。わざわざ宿屋を予約するくらいだ。その可能性もなくはない。
クライスの性格からしてこちらの害になるようなことをするとは思えないが、事前に相手の名前を訊かなかったのは失敗だったかもしれない。
「いまさら言っても仕方ないでしょ。……それにそんなの行けばわかることじゃない。ここでとやかく言っても無意味よ」
頭の後ろで両手を組んだハズミが、頭上を仰ぎながら言った。実に彼女らしい意見だった。自分も物事に対して前向きになりたいものである。
「ていうか、まだ着かないの?」
「もうちょい先。そこの角を曲がったところ――と、ここだ、ここ」
視界に映ったのは二階建ての寂れた感じがする宿屋だった。中心街からは微妙な位置にあるせいか、周囲にプレイヤーの姿はまったくなかった。あえてそういう宿屋を集合場所に選んだのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
玄関に括り付けられた鈴の音に反応して、カウンターに座る初老のNPCが軽く頭を下げた。宿屋に足を踏み入れ首を巡らす。
外観と同様に簡素な受付。観葉植物が飾られたカウンターの右横には、二階への階段がある。ヘキサはその階段を指差すと言った。
「こっちだ。クライスさんは二階の二〇三号室で待ってる」
カウンターを素通りすると後ろの二人を先導して階段を上がる。ドアに貼り付けられた番号を確認し、目的の番号を発見すると立ち止まった。
コンコンとドアをノックすると、中から聞き慣れた青年の声が聞こえてきた。
「誰かね?」
「ヘキサです。リグレットとハズミを連れてきました」
「ヘキサ君か。いま開け――こ、こら、待ちたまえッ」
眼鏡の青年の珍しく慌てた声色に、首を傾げた瞬間だった。目の前で勢いよくドアが開いた。通路に木霊する音に思わず身体が硬直した。開いたドアの前に立つクライス――否、違う。彼ではなかった。
「ああ――」
桜色の唇から官能的な吐息が洩れた。
絹糸のような桃色の長髪。体の線に沿った純白のドレスの胸元は切り込み深く、豊かな胸の谷間が強調されている。両腕には二の腕までを被う絹の長手袋。手首には銀のブレスレット。頭の上に乗った小さな金の冠もあり、御伽噺に出てくるお姫様のような少女だった。
目と鼻の先にある美貌に束の間、白髪の少年は息を呑んだ。
「ヘキサ様ッ!」
故に、感極まった様子で飛びついてきた少女に対する反応が僅かに遅れた。彼女の身体の重みを支えきれずに、桃色の髪の少女に押し倒され、木張りの床に強か背中と頭を打ちつけてしまった。
「痛てて……頭打った」
「ご、ごめんなさい。お怪我はありませんか!?」
「だいじょ――ぶぅ」
後頭部を擦るヘキサの手が止まった。むにゅりと驚くほど柔らかいふたつの塊が、自分の胸板に押しつけられている。
それがなにを理解するよりも早く、ヘキサの視線が落ちていた。白桃のように突き出した胸が押し潰されている。かあーっと頭に血が上るのがわかった。自然と胸の谷間に目が吸い寄せらて釘付けになった。
思春期の少年の悲しい条件反射のようなものだ。ヘキサとて年頃の男の子。ついつい胸の谷間に視線が行ってしまうのも仕方がないことである。
しかし、それを仕方がないと思ってくれない少女が二人。不運にも彼のすぐ近くにいた。背筋を貫く悪寒にヘキサは、咄嗟に桃色の髪の少女を抱きしめたまま床を転がった。
ヂッと頬を擦るブーツの踵。床を踏み抜かんとばかりのブーツの底が、瞬間まで白髪の少年の顔面があった箇所に叩きつけられた。
床を這うように伝わる衝撃に、ぞっと顔を青ざめさせたヘキサは、転がる勢いを利用して上半身を跳ね起こし――視線の先に鬼がいた。
「は、はずみさん……?」
ゆらゆらと揺らめくオーラを纏う赤毛の少女が、殺人鬼じみた眼光で白髪の少年を睨みつけている。なにかを踏み捻るように動くブーツが恐ろしいことこの上ない。正体不明の威圧感に声が出ない。
「こ、この――」
ふるふると怒りに全身を震わせるハズミが右手を掲げると、指貫のグローブをはめた手の平に炎が渦を巻いて収束した。
「ちょっ、まっ」
「――変態野郎ッ!!」
怒声と共に撃ち出された炎塊を目前にして、長年培ってきた経験が硬直する身体を動かした。胸に抱く少女ごと身体を駒のように反転させる。炎弾はレザーコートの裾を掠めて、背後の壁に激突すると、赤いエフェクトを散らして消滅した。
「避けるなぁッ!」
「無茶言うな――ッ」
再び炎を点火させる赤毛の少女に、半泣き状態で喚くヘキサ。中立エリアのためダメージを受けないと、頭ではわかっているが怖いものは怖いのだ。
ましてや、いまのハズミは何故か怒り狂ってる。どういうワケか、こういうときハズミを抑えてくれるはずのリグレットも動こうとしない。むしろ、睨まれている。
道端の石ころを見るような彼女の視線に本気で泣きそうになっていると、腕の中で固まっていた少女が鋭く叫んだ。
「止めてください!」
桃色の髪の少女はヘキサの腕を振り解くと、彼を守るように少女たちの前に立ちはだかった。両腕を広げて凛とした声を張り上げる。
「ヘキサ様を傷つけることは、この私が許しませんッ!」
「ふん……上等じゃない」
立ち塞がる少女にハズミは獰猛な笑みを浮かべる。彼女の意思を反映し、炎が一際強く燃え盛り火の粉を散らす。
いまにも決闘をはじめそうな二人に目を白黒とさせて、ヘキサは口をぱくぱくとさせる。止めようにもなにを言えばいいのかわからない。頼みのリグレットもハズミに加勢こそしないものの制止をしようともしない。
そもそもなんでこんな修羅場みたいな展開になっているのか。まるで理解できない。自分はクライスさんに会いにきただけなのに、とヘキサが世の中の非情さに嘆いたときである。
そのクライスが対峙する二人の間に割り込んだ。
「そこまでだ。二人とも落ち着きたまえ。ここは戦闘を持ち込むべき場所ではない」
眼鏡の青年に諭されて、赤毛の少女の敵愾心が和らいだ。その機を逃すことなく、彼は畳み掛けるように口を開いた。
「ハズミ君もその物騒な炎を消してくれないかね? この場で戦闘をしようなどと、本気で考えているワケではないのだろう」
場に沈黙が落ちる。しばらく心臓によくない静寂が続き、ハズミはふいに力を抜いた。ふて腐れた表情ながも手の平の火球を掻き消す。
「リンス君。君の迂闊な行動にも責任の一旦はあるんだ。ちゃんと謝りたまえ」
「……ごめんなさい」
冷静になり己の行動を省みたのか。素直に謝罪する彼女に、ハズミは驚いたような仕草を見せるとソッポを向いた。そして、視線を彼女から外しままでぼそりと言った。
「あーなに。その……あたしも悪かった」
「はい。なら、これでおあいこです」
張り詰めていた空気が弛緩する。一時はこの場からの離脱を大真面目に検討したヘキサだったが、和やかな雰囲気にほっと胸を撫で下ろし――クライスが口にした名前に、遅まきながら目を見開いた。
「リンス?」
その名前は今日の昼休みのとき、級友に聞いたばかりだった。最近まで≪梟の巣≫に所属していた傭兵。【歌唱】スキルの使い手にして、歌姫の二つ名を持つ少女。
「お久しぶりです。ヘキサ様!」
唖然とする白髪の少年を振り返り、桃色の髪の少女――リンスは、ふんわりとした微笑で声も高らかに再会を祝福した。