第九章 歌姫(2)
視線を机に落として悶々としていると、浩二がふと思い立ったような調子で口を開いた。
「ヘキサってどんな奴なんかね?」
その独白に伏せていた顔を上げると、ストローを口に咥えた彼は天井を見上げていた。口先にストローを咥えたままで、器用に紙パックを動かしながら言う。
「興味が湧かないか。ヘキサに。掲示板なんかじゃ色々と噂聞くけど、実際に会ったワケじゃねーし。所詮、噂は噂。やっぱし一度は実物見ねぇとな」
「会ったことないんだ」
「残念ながらない」
ならば自分と浩二はまだファンシーでは遭遇していないということか。むろん、双方が共に認識していないだけで、すでに対面している可能性もあるにはあるが。
「いっぺんくらい街で出くわしてもいいと思うんだが、運があるんだかないんだか……なんか会えないんだよなぁ」
そこで一旦口を噤み、こちらを仰ぐ友哉を見やった。
「友哉は興味ないか?」
「……僕は」
話を振られるが、咄嗟に言葉が出なかった。この場合、なんと答えればいいのだろうか。適当に話を合わせればいいのだろうが、肝心の一言が出てこない。
単純に自分がヘキサであるが故に、肯定と否定のどちらも選べずに困っているのか。あるいは嘘をつくのに抵抗があるのかもしれない。
返答に窮する友哉になにを思ったのか。ま、それはいいや――と浩二は茶髪を片手で掻くと、何事もなかったかのように別の話題に切り替えてきた。
「実はヘキサのこと以外で、ちょっと気になる情報が掲示板にあったんだよ。……リンスが≪梟の巣≫を辞めたらしいんだ」
ギルドを脱退するのが最近の流行なんかねぇ、と浩二は椅子を軋らせる。一方、友哉は彼の口にした名前を小さくつぶやいていた。
リンス。リンス。リンス――どこかで耳にしたことのある名前だった。確かファンシーでは有名人なはずだ。問題なのはなんで有名なのかだが。いまいち思い出せない。どうもど忘れしてしまったようだ。
「えっと……誰だっけ?」
「はあっ。あのなー。歌姫だよ、歌姫リンスッ」
「――ああ、はいはい。思い出した」
歌姫。その一言で途切れていた記憶の糸が繋がった。友哉は軽く目を見張ると、驚きがこもった口調で言った。
「え、なに。あいつ≪梟の巣≫辞めたんだ。また、なんで。ついにどっかのギルドに引き抜きでもされたの?」
「さあ? そこいら辺の事情はなんとも。色々と書き込みがされてたけど、どれも噂レベルで信頼できるソースがないからなぁ」
紙パックの中身を一気に飲み干し、空になった入れ物をぺこぺことへこませる。
「ただホント急だったみたいだぜ? 周りの人間に相談なしで、いきなし辞めたみたいだからな。……よっぽどの事情があったんじゃないか?」
ふうん、と相槌を打つ友哉。
「それじゃあ、結構困ってるプレイヤーもいるんじゃないか。あのレベルの【歌唱】スキル持ちで、フリーって中々いないだろうし」
「だろうな。【歌唱】スキルをメインにしてる奴はただでさえ少ないってのに。いたとして大抵はどこかしらのギルドに所属してるしな」
だからこそ、金次第で契約できる彼女の存在は、大手のギルドやボス戦に望むPTなので重宝されていたのだ。
歌姫の二つ名を持つリンスは、≪梟の巣≫に所属する傭兵であり、彼らが言うように【歌唱】スキルの使い手である。
【歌唱】スキルは支援に特化されたスキル。非常に使い勝手のいいことで知られている。さしずめ回復から補助までこなす、後方支援のスペシャリストといったところか。
だが、おいしい話には常に裏がある。この場合も例外ではない。ファンシーでは、その独特の特性から【歌唱】スキルはレアスキルとされている。
とはいっても、スキル自体は初期の段階でスキル一覧に出現している。しかし、【歌唱】スキルの熟練度を上げているプレイヤーの数は、全体数からすればあまりにも少ない。
スキルが稀少という意味ではない。その使い手がいないという意味での稀少。それが【歌唱】スキルに対する評価でもある。
「【吟遊】スキル辺りで代用するんじゃない。実質、【歌唱】スキルの下位互換みたいなもんだし。……その分、効率は落ちるだろうけどね」
それにしてもヘキサやリンスの件といい、情報収集を怠っているせいで把握できていない事柄が随分と増えている。情報は命と言ったのは、果たして誰であったか。
「最近顔出してなかったからなぁ。……帰ったら僕も久しぶりに掲示板を覗こうかな」
と、そこで友哉は自分をじっと見る浩二の視線に感づいた。じとっとした目線に戸惑ったように身体を身じろがせる。
「な、なんだよ」
「いやーさっきから妙にレスポンスが悪いと思ってな。……ひょっとして掲示板とか、全然見てないのか?」
「ちょっと最近忙しくて。掲示板見ている余裕がなかったんだよ」
空になったサンドイッチのビニールをくしゃくしゃと丸める。そんな彼に浩二は小首を傾げると疑問の声色を発した。
「忙しいって……なんで? お前帰宅部だろ。バイトしてるワケでもない。掲示板見る時間なんていくらでもあるだろ?」
級友のもっともな意見に微苦笑する。本当になんでだろうね、と自問するが考えるまでもなく、原因は明白だった。
それはあれだ。仮想でギルドを作る作らないで滅茶苦茶悩んだり、現実でモンスター退治とかいう有り得ない展開に巻き込まれたりと、気の休まる暇がなかったのだ。昨日だってそのせいでほぼ徹夜したのである。
「掲示板って心にゆとりがある人間が見るモノだよねー」
「そ、そうかぁ?」
虚ろな瞳で遠くを見る友哉に、心なし引いた反応をする浩二。あははは――と乾いた笑い声が、昼休みの教室に空しく響いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
樋口友哉からヘキサに、意識の感覚が切り替わる。目を開くと真新しい木目の天井が見えた。ゆっくりと身体を起こすと簡素な木製のベットがぎしりと軋む。
「……ホントに話題になってたな」
ベットの端に座ったままで憂鬱そうにつぶやく。
帰宅後、ファンシーの掲示板を恐る恐る覗くと、浩二の言葉とおり自分のギルドの話題が大々的に取り上げられていた。彼自身もさることながら、やはりメンバーにリグレットとハズミがいることも理由のひとつだろう。良くも悪くもあの二人は自分と同じくらい目立つ。
幸いホームの入り口は発見されていない――掲示板で探している連中がいた――ようだが、それもいつまで誤魔化せるか。
もっとも、例え入り口を見つけてもその特性上、拠点の場所までは割り出せないだろうが。本当になにからなにまで、リグレットにおんぶ抱っこの状態である。
いい加減どうにかしたいとは思ってはいるのだが、ここままずるずると行きそうな気配に、密かに危機感を持っていたりするヘキサであった。
視線を上げるとタンスと丸テーブルしかない、質素な室内が視界に映った。
彼が≪星の金貨≫を結成して一週間が経っていた。その間にホームの二階にある空き部屋の一室への引越しを、早々に済ませていた。まあ、引越しといっても以前の宿に格納してあったアイテムを移動させただけなのだが。
元々、アンティークやコレクションの類には興味がない身である。彼としてはアイテムを収納できて、セーブができればそれでいいのだ。なので、内装は初期配置のまま。特に変更などはしていない。する予定もいまのところはなかった。
と、ヘキサは腰の後ろに手をやると、柄を掴んで剣を半ばまで引き抜いた。視線を落とすと自身の背中越しに、水晶のように澄んだ刀身が視界に入った。硝子の剣の腹には白髪の少年の顔が映っている。
箒を冠する三人の魔女との狩り以降、ヘキサは装備を愛剣であるペルシダーからワルプルギスに交換していた。その際に葛藤がなかったワケではないが、今後の展開を視野に入れた結果、最終的に交換するべきだと判断したのである。
彼がワルプルギスの概念駆動であるアクセラレータを扱いかねているのは、経験となによりも錬度不足によるところが大きい。
スカルマーダとの戦闘でもちょっとしたことで集中力が途切れ、アクセラレータがあっさりと解除されてしまった。だが、それは逆にいうなら錬度を高めることで、解消できる問題でもあるということだ。
それにどのみちワルプルギスのレベルを上げるために、経験値を蓄える必要があるのだ。いまはこのままでよかったとしても、この先攻略が進んでいけばやがて、他の武器に性能面で遅れをとるのは明白。今後もワルプルギスを使用し続けようと思えば、レベルアップによる武器強化は必須事項である。
しばらくその体勢のままでなにやら思案する素振りを見せるヘキサだったが、ふいに剣を鞘に収めるとベットから飛び降りた。
片手でがしがしと白髪を掻きながら自室を後にする。階段を下りて一階に行くと、そこにはリビングで寛ぐハズミの姿があった。
ハズミはヘキサの存在に気がつくと、ソファーに身体を埋めたまま頭を後ろに傾けた。逆さまの視界には、白髪の少年が反転して見えた。
「よっす。遅かったわね」
「そうか? ――まあ、いつもよりは遅いか」
リビングに飾られた時計を一瞥して言う。遅いというほど遅い気はしないが、確かにいつもの自分からしたら一時間ほどインする時間が遅かった。
「掲示板見てからログインしたからな」
「ふうん……なんか面白そうなニュースあった?」
「面白いっていうか、なんていうか……」
赤毛の少女の横に腰を下ろしたヘキサは、若干の逡巡を見せると俯き加減で、ぼそりと小声でつぶやいた。
「このギルドのことが凄い話題になってた」
陰鬱な空気を纏うヘキサに、「あーそっか」と中空に視線を彷徨わせるハズミ。彼の肩をぽんぽんと叩きながら苦笑する。
「ほらほら。そんなしょげないの。噂になるなんて、はじめからわかってたことじゃない」
それはそうなのだが、自分の目で確認するとやはり落ち込んでしまう。基本的な性根の部分が小心なのだから仕方がない。
「そういやリグレットは? まだきてないのか」
「リグレットならあたしよりも先にきて、工房に引き篭もってるわよ。あと少しで【鍛冶】の熟練度が上がるんだって」
リビングを見回すヘキサに、視線で工房に続くドアを指し示す。その言葉に耳を澄ますと、微かにではあるがドアの向こう側から、鉄を鍛つ金鎚の音が響いている。
「ハズミはなにしてるんだ?」
「見てのとおりなーんにも。一人で狩りに行ってもつまんないし。そういうヘキサはなにか予定でもあるの?」
「これといって特にはない」
ふるふると首を横に振る。なにかしらの目的があるワケではない。ヘキサとしてはリグレットやハズミにやりたいことがあるのなら、そちらを優先する算段だったのだ。
これからどうしよう、と二人して頭を悩ませていると、リビングに軽快な電子音が流れた。一泊の間を置き、それがメールの着信音だと気づいたヘキサは、メニュー画面を開くと新規の着信メールを表示させた。メールの送信者はクライスだった。
「誰から?」
「クライスさん。ハズミは会ったことがあるんだっけ?」
「一度だけ。……その……リグレットと一緒に」
その一言で十分だった。クライスに預けたはずのワルプルギスを黒髪の少女が持っていたことを含めて、凡その経緯は把握できた。
疑問なのは眼鏡の青年がどこまで彼女たちに話したのかだが、おそらく彼が知っていることはすべて語ったと見ていいだろう。
しかし、大丈夫だ。あの日の真実――白髪の少年の罪悪の根源については、クライスにすら話してはいない。それさえ知られなければ問題ない。
強く自分に言い聞かせると努めて何事もないフリをして、メールの文面にささっと視線を走らせる。
「それで、なんだって?」
「なんか俺たちに会わせたい奴がいるらしい」
俺たち? と鸚鵡返しに訊ねるハズミの言葉を肯定すると、彼女にも画面が見えるように身体を横にズラした。
クライスからのメールには、ヘキサとそれに可能ならばリグレットとハズミを自分の店に連れてきて欲しいと記されているが、誰が待っているかについてなどの詳しい内容は記述されていなかった。
「俺は行くけどハズミはどうする? 無理にとは言わないぞ。最悪、俺が行けば大丈夫だろうしな」
それにメールには記載されていないが、ミフィルについて新しい情報がないか、直に確かめたいと思っていたところだ。
「どうせ暇だし、あたしも行く。……一応、リグレットにもくるか確認したほうがいいでしょ。ちょっと訊いてくるわ」
立ち上がるハズミに頼むと声をかけて、ヘキサは作成したメールを返信した。メールの送信が完了するとウインドを消す。
「ヘキサッ。リグレットも行くからもうちょっとだけ待っててくれって!」
工房から顔を覗かせて声を張り上げるハズミ。ヘキサは浮かせた身体をソファーに戻し、リグレットの熟練度上げが終わりのを待つことにした。
このときの行動を後に、彼は後悔することになる。訪ねる前にせめて相手の名前を聞いておけばよかったと煩悶するワケだが、いまのヘキサにそれを知るすべはなかった。