第九章 歌姫(1)
「――ふむ」
対峙する人物の言葉にクライスは、思案する素振りを見せた。掛けている眼鏡の縁を指先で押してやり、彼女の真意を確かめるような口調で訊ねる。
「つまり……君は私に、彼を紹介して欲しいというのだね?」
「はい。がんばって自分で探してはみたものの、あのヒトがどこにいるのが全然わからなくて。それに何故かギルドの所在地も不明なんです」
そうだろうね、と眼鏡の青年は内心でつぶやいた。彼女が独力で彼のギルドホームを発見できなかったのも仕方のない話だ。
彼のギルドホームは少々変り種で、入り口を見つけてもホームの所在が割れないような仕組みになっている。クライスも彼に招待されていなかったら、その特有の仕組みに気がつかなかったかもしれない。
故に少女は自分の元を訪れたのだろう。彼と接触する最後の手段として。そしてだからこそ、クライスは彼女の言葉の意味を慎重に判断しなければならなかった。
「それはまた何故かね? こう言ってはなんだが……君と彼に、なんらかの接点があるようには思えないのだがね」
「そんなことはありませんッ!」
クライスの物言いに少女は、両手をカウンターに叩きつけた。そして、カウンターの上に乗せるようにして上半身を突き出すと、興奮に頬を紅潮させてながら言った。
「あのヒトは私の運命のヒトですッ。英語で言うとデスティニーです!」
「わ、わかった。わかったから少し落ち着きたまえ」
少女から発せられる謎の威圧感に圧迫されつつも、冷や汗を流しながらクライスはなんとか彼女を宥めようとする。
「どうしても彼に会いたいのかね?」
「はい!」
即答だった。躊躇する気配すらない。なにがなんでも件の彼に対面したいという、意気込みが伝わってくるようだった。
さて。どうしたものか、と彼は宙に視線を彷徨わせた。
様々な魔法薬が飾られた店内には他のプレイヤーの姿はない。それはそうだ。クライスが店を開いたのはついさっきなのだから。
なので、彼が玄関にぶら下げてある木札をひっくり返そうと表に出たとき、まるで人気ゲームの発売日を前日に控え徹夜で並ぶゲーマーの如き形相で、彼女が待ち構えていたのには心底驚いたものであった。
どうやら少女にとっては、そうするだけの価値があるらしい。クライスには彼女がなにを考えているかはわからない。動機も不明だが、その熱意は本物だ。
加えて、彼女の評判も悪くない。むしろ、クライスの耳に入る少女の評価は上々であり、極めて優秀なプレイヤーだといえる。
彼に悪意を持って害をなすとは思えない。クライスとしては少女と彼の仲介役になるのもやぶさかではなかった。
ただひとつ問題があるとするならばそれは――、
「やれやれ。……また一騒動起きそうだね」
「なにか言いました?」
「いや、なんでもないよ。こっちの話さ」
どうやら彼に平穏が訪れるのは、当分は先のようだ。件の少年の今後を思いやり、クライスは口元に苦い笑みを浮かべた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
飼い犬の遠吠え。
どこからともなく聞こえてきた犬の鳴き声を彼はそう判断した。彼は部活の帰り道だった。身につける制服の肩には柔道着をぶら下げている。
近道のために公園を横切っているところで、その遠吠えは聞こえた。思いのほか近くからだった。もしかしたら飼い犬ではなくて、野良犬かもしれない。
しかも気のせいかもしれないが、徐々に犬の鳴き声が大きくなっているように感じられた。否、彼の思い過ごしではなく、実際に大きくなっている。それに耳を澄ませば足音もする。
ついてない、と舌打ちする。周囲には誰もいない。街頭の光が無人の公園を照らし、闇夜の中に遊具を薄暗く浮かび上がらせている。
柔道部に所属していることもあり、それなりに腕には自信があった。が、野犬を相手にできるかといえば疑問だ。なにせ犬には背負い投げができない。
瞬間の疑問に足を止めて、それが彼にとっての運命の別れ道になった。あるいは一気に公園を走り抜ければ、彼は再び何事もなく日常に戻れたかもしれない。
だが、既に手遅れだ。
「――、ン?」
彼は最初の異変に気づいた。霧だ。瞬きひとつの間に、公園には薄い靄のような霧が発生していた。
「なんだ……こ――」
そのときだった。横手の茂みから姿を表したそれに、喉の奥で言葉が凍る。手から力が抜けて、柔道着がどさりと地面に落ちた。
彼の予測通り、街頭の下に躍り出たそれは犬だった。ただ想定外があったとするならば、それは野良犬などではなく、ヒトを喰らう魔物だったということだろう。
ちょっとした子牛ほどもある体躯。この世に在らざる化生の存在。赤く輝く双眸がそれを如実に物語っていた。とあるゲームに詳しい者ならそれが、エドガーという名前のモンスターだと判ったであろう。
低い唸り声を鳴らすエドガーに彼は後退り、ふいの拍子に小石を踏んづけると転倒してしまった。赤い瞳を細めて威嚇する獣から少しでも離れようと、地面に尻餅をついたままの体勢で四肢をバタつかせる。
手元に落ちていた石を拾うと、白熱する思考の命じるままに、それを魔物に向かって投げつけた。石はエドガーの眉間に命中したが、むろんそんなモノでダメージが与えられるワケもなく、逆に魔物の神経を逆撫でする最悪の結果に終わった。
赤い眼球が血走る。唾液に濡れる牙を剥き出しにして、犬の形をした魔物が地面を這いずる彼目掛けて襲い掛かった。
目前に迫った危機に身動きひとつとれない。魔物の鋭利な牙が彼の喉を噛み千切る――その刹那、暗闇の中を一筋の閃光が横切った。
魔物が遊具に叩きつけられた。よろめきながら起き上がるエドガーの胴体には、深い裂傷が刻まれている。傷口からは淡い光が溢れ出し、エドガーの茶色の体毛を照らしている。
目元に涙を浮かべた彼は、自分の庇うようにして立つ闖入者を呆然と見上げた。周囲が暗く霧が出ていることもあり、表情までは見えない。黒いジャケットにジーンズ。一見するとどこにでもいる普通の少年に思えたがしかし、視線を下に落とした彼は自分の考えを撤回せざるを得なかった。
格好は普通でも、少年の持つ武器は普通ではなかった。右手には透明な硝子の剣。左腕には円形の盾が固定されている。加えて、この異常な状況下にあって、少年は気味が悪いほどに落ち着いていた。
スニーカーの底が地面を蹴る。振られる剣が白い軌跡を描き、エドガーの身体に叩き込まれる。全身から噴き出す燐光を血のように撒き散らして、苦し紛れに振り回される鉤爪を軽い仕草でかわす。
跳ね上がった刀身がエドガーの前肢を切断した。中空に飛んだ獣の前肢が解けて霧散し、打ち出された鋭い突きが魔物の眉間を貫いた。
魔物の動きが停止したかと思われた直後、消滅した前肢と同様にエドガーの身体が音もなく弾けて砕け散った。
不思議なことに公園を漂っていた霧も、まるで魔物の消滅を合図にしたかのように、余韻を残すこともなく一瞬で消え失せた。
謎の少年がこちらに歩み寄る。いつの間にかその両腕からは、剣と盾が消滅していた。少年はジャケットのポケットから二つ折りの携帯を取り出すと開いた。
「あ、あれ……な、なにが……ッ」
舌が縺れて上手く言葉が紡げない。訊きたいことが山ほどあるのに。彼がもどかしい気持ちに囚われていると、携帯のカメラをこちらに向けた少年が静かに言う。
「忘れたほうがいい」
その問いの意味を理解する時間もなかった。
「これは悪い夢だから」
カシャンッと、眩い閃光が網膜を灼く。
次に彼が視界を取り戻したとき、そこには彼以外には誰もいない無人の公園。そして、彼の記憶からは今宵体験した異常に関する一切が消滅していた。
地面に座り込んでいた彼は、自分がどうして尻餅をついているのかもわからず小首を捻った。近くに落ちていた柔道着を拾うと、一度だけ背後を振り返り、何事もなかったかのように夜の公園を後にして自宅への帰路につく。
その一連の行動を遊具の影からこっそりと覗う少年の存在に、彼が最後まで気がつくことはなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おーい。起きろ。もう昼休みだぞー」
肩を掴まれて激しく揺さぶられる感覚に、樋口友哉の意識が急速に覚醒した。机から上半身を引き剥がすと、大きく伸びをする。よほど熟睡していたのだろう。彼の額は赤くなり、袖に縫い付けられたボタンの跡がついている。
居眠りしている間にどうやら昼休みになっていたようだ。目元の涙を擦りながら周りを見回すと、思い思いに席をくっつけて弁当やらパンを食べながら談笑している、クラスメイトの姿が目に入ってきた。
「あれ。もしかして昼休みに入っちゃった?」
「とっくにな。……ほれっ」
呑気な友哉に呆れたように言うと、前の席に座る稲葉浩二は購買から買ってきたサンドイッチとオレンジジュースの紙パックを放り投げてきた。
「感謝しろよ。売り切れになる前にわざわざ買ってきてやったんだからな」
言って、浩二は手の平を上にして友哉の眼前に突き出した。
「代金払え」
「……お金取るのかよ」
「当たり前だろ」
当然とばかりの彼の言葉に、寝ぼけ眼なままで友哉は財布から硬貨を取り出して、手の平に乗っけてやった。まいどあり、とおどける浩二。
「……ふわぁー、眠い」
「なんだまた徹夜でファンシーか?」
サンドイッチのビニールを破きながら欠伸をする友哉に、自分もコロッケパンを口に運びながら浩二が言った。
「まあ、そんなところかな」
曖昧に肯定すると、紙パックにストローを刺す。
浩二の言葉は半分正解であり半分不正解だった。確かに友哉の眠気の原因はファンシーではあるが、それは仮想ではなく現実でのことである。
昨夜の彼はヒューリの指示を受けて、各所のモンスター討伐をしていたのだ。特に昨日は酷く夜遅くまで街を奔走し、おまけに運が悪いことに目撃者がいたので、その処理までする羽目になってしまったのである。
もっとも、処理といっても携帯カメラのフラッシュで記憶を消すという単純なものではあるのだが。なんで自分の携帯にそんなビックリ機能が追加されているのかについては、あえてなにも考えないことにした。
なんにせよ、そのような事情があり昨日はほとんど眠っていないのだ。人知れず街の平和を護っているのだから、居眠りくらい許してほしいものである。
「あ、そうだ。知ってるか。なんでもヘキサがギルド作ったらしいぜ?」
何気ない浩二の言葉に、頭から冷水をぶっかけられた心境だった。眠気の余韻が一瞬で吹き飛んだ。硬直する友哉に気がついた様子もなく、浩二は紙パックのお茶を飲みながら続けて言った。
「掲示板覗いたら、スゲー話題になってた。……しかも、メンバーがあのリグレットとハズミだってよ。リグレットもそうだけどハズミに至っては、そのために≪セブンテイル≫辞めて赤箒の二つ名も捨てたらしい」
なに考えてんだかな、という浩二の独白に、嫌な脂汗を流す友哉。
「ふ、ふうん。そう。話題に、ね。……はは、ははは」
浩二の台詞に友哉は虚ろに笑った。こうなるのは覚悟のことではあったが、やはり第三者の口から聞くのは存外に胸が痛かった。
ちなみに二人は所謂ゲーム仲間であり、浩二もファンシーをやっているワケだが、友哉は彼とこうして情報を交換することはあっても一緒に遊ぶことはなかった。
それというのも、浩二独自の考えによるものである。
即ち、リアルはリアル。ゲームはゲーム。現実と仮想で共通の仲間を作るべきではないとう考え方である。
確かにリアルとゲームの両方で関係を持てば、より楽しくなるかもしれない。共通の話題があるというのは、それだけで会話が弾むものである。しかし、それは同時にある種の危険性を内包している。
例えば仮想で揉め事を起こし、それが原因で仲違いになったとしよう。もしもその相手と現実でも顔見知りだった場合、仮想での諍いが元で現実での関係にも亀裂が生じかねないと思っているのだ。
というより、実際にそういうことがあったらしい。詳しく問うような真似はしないが、彼の言葉のニュアンスから友哉はそう判断した。
だから友哉は浩二のファンシー上のキャラクターが誰なのか知らないし、向こうもこちらのキャラクターを知らない。ましてや件のヘキサだとは思ってもいないだろう。
お互いのキャラクターを明かさないと言い出したのは浩二だが、いまとなってはその条件に友哉のほうが救われた形である。
まあ、その弊害として自身のキャラクターに対して、悪評を聞かさせられた挙句に返答しなければならないという二重苦を抱えてしまっているワケだが。
いっそのこと赤の他人だと割り切れればいいのだが、そう思いながらも中々上手くいかずに、今回のようにやるせない気持ちになることが多々あるのだ。