第七章 価値観(7)
空が暗い。晴天だった空をいつの間にか灰色の雲が覆い、太陽の光を遮断された大地には暗い影が落ちている。
「……ダルい」
いまにも雨が降りそうな鉛色の空を仰ぎ、仮面の道化師が気だるそうにつぶやいた。機械仕掛けの音声は深く沈み、長身の痩躯はある種の倦怠感に包まれている。
「めんどくせぇ。つーか、呼びだしておいて遅れるとか、ヒトとしてどーよ。……なあ、お前はどう思う?」
「知らないわよ。相手に聞いたら?」
自らが属するギルドの首領の言葉をにべもなく切り捨て、副首領であるセラは嘆息した。
「まあ、あんたに人道を諭されるようになったら終わりだとは思うけど」
かもなー、と気の抜けた返事。そのまま地面に横になるナハトの姿に、彼女は呆れたような口調で言った。
「そんなに嫌ならこなきゃよかったじゃない。なんできたのよ?」
「んー? そうだな……なんできたんかね?」
曖昧な言葉を吐き、ナハトは自分を見下ろす仮面の少女を見やった。彼女も退屈なのか、髪の毛の先端を手で弄っている。
ナハトとセラ。≪仮面舞踏会≫の首領と副首領が揃っているのは、街はずれのフィールドだった。見回す限りの草原。近くには街もダンジョンもないため、周囲に彼ら以外の人影はない。モンスターすらいないので、ときおり風が揺らす草の擦れ合う音がするのみだ。否、そうであるから待ち合わせにこの場所が指定されたのか。
「セラはなんできたんだよ? 呼びだされたのはオレだけだろ」
彼女がこの手のなんでもない用事に同行するのは珍しい。基本的に彼女もめんどくさがりであり、興味のない事柄には無関心なのである。
「そりゃ決まってるでしょ。あんたをメールで呼びつける物好きが、どんな奴なのか見てみたいのよ」
そして彼女の知るナハトもまた、呼びだされたからといって素直に従うような人物ではない。むしろ、持ち前の反骨精神でそちらからこいと、一刀で両断するタイプである。だからこそ、愚痴りながらもメールに応じた彼を見て、メールの送信相手に興味が湧いたのだ。
「そんな面白みのある奴でもないけどな――と、ようやくご到着なさったみたいだぜ?」
それが合図だったかのように、セラの視界にアイコンが出現した。カーソルの色は青。PKではない。一般プレイヤーだ。
誰だろうか。セラの予想では、どこかのギルドに潜り込ませている間者。それもナハトが渋々ながらも足を運んでいるのを見るに、有力な巨大ギルドではないだろうか。それならわざわざ人気のないフィールドを、立会いの場に選んだのも納得がいく。
こちらに近づくカーソルが徐々に大きくなる。それに従っておぼろげだった人影の輪郭が明確になった。地面を踏みしめる足音が目前で止まる。こちらを見下ろす碧眼に上半身を起こすと、ゆるゆるとナハトは片手を上げた。
「よお。久しぶり。元気にしてたか?」
「ええ、ほどほどに。貴方こそ息災そうでなによりですわ」
豊かな胸元で鈍く輝く銀の十字架。白い修道服を身に纏う金髪の少女は、口元に手をあててくすくすと微笑した。
「白箒ナイゼル……?」
故に、洩れる声をセラは抑えることができなかった。ナイゼルはチラリと仮面の少女を一瞥するが、何事もなかったかのように口を開いた。
「今日、彼に会ってきましたわ」
「ふうん。っで、どうよ? お前のお眼鏡にかなったか」
「そうですね……悪くはないですわ。片手剣使いとしては上々ではないでしょうか。少々詰めの甘い部分もありますが、それは今後の成長に期待ですわね」
「わりかし高評価じゃねぇか。……それはそうと、まさかとは思うが。たったそれだけを言うために、わざわざオレを呼びだしたのか」
「はい」
なにか問題でも? と言いたげに小首を傾げるナイゼル。
「それにどうせ暇なのでしょう」
「はっ。言ってくれるじゃねぇか。大体な――」
「ちょっとちょっと待ちなさいよっ」
混乱する自分を他所に話を進める二人に待ったをかける。あん? と首を巡らすナハト。
「え、なに? あんた白箒と知り合いだったの?」
殺幻鬼と白箒。PKギルドの首領と最強の魔法使いギルドの副長。一見すると関わり合いがなさそうに思える二人のどこに接点があるというのか。
皆目検討もつかないセラだったが、次のナハトの言葉に唖然となった。
「知り合いっていうか――なんでもオレのファンらしいぜ?」
「は? 白箒はあんたのファン? なにそれ。冗談にしてはツマンないわよ」
「そりゃ冗談じゃなくて大マジだからな。これをオレによこしたのもこいつだし」
言って、ナハトは右手に出現させた歪な黒い大鎌を旋廻させた。硝子のように磨かれた黒い断頭刃。直線のみで構成された死神の大鎌を、器用に手首の捻りだけで回転させて見せるナハト。
な? と言う彼に、そうですわ、とナイゼルは相槌を打った。どうやらナハトのシャレではなくて本当のようである。
だからこそ余計に不思議だった。セラはナハトが幻想武器を手に入れた経緯を知らない。彼女は彼がクエストなりモンスターなりから、偶然入手したモノとばかり思っていたのだ。
「言ってなかったっけ?」
「……初耳よ。わたしはあんたが自力で入手したのだとばかり思っていたわ」
いまのいままではね、とこれ見よがしに強調してくる相棒に、ナハトは肩を竦めると苦く笑った。
「そりゃ悪かった。別に隠してたワケじゃない。ただ自分から話すようなことでもないからな。訊いてくれれば答えたのにさ」
実際、それは大した話ではない。ある日ふと突然現れたナイゼルが、自分にグリムゲルデを押しつけてどこかに行った。言葉にすればそれだけの出来事である。その間になにか特別な会話がされたワケでもなく――訂正、去り際の一言が意味深といえば意味深だったか。
「じゃあなんで白箒があんたのファンなんかしてんのよ」
その質問にナハトはくつくつと喉の奥を鳴らした。
「いい質問だ。それはオレも知りたかったところだ」
地面を叩いて跳ね起きる。眼前には静かに微笑する修道女。ナハトはこの女の笑みが大嫌いだった。何故かと問われれば、まるで温度を感じないからだ。どこまでも無機質な笑み。作り物の蝋人形。
「ナイゼル」
「なんでしょうか?」
「以前は訊きそびれたけど、お前はオレのどこに惚れてファンなんてやってんだ?」
「それは貴方が未だに諦めていないからですわ」
その一言でナハトの雰囲気が一変した。
「それはどういう意味だ?」
電子音声からは普段の憂鬱そうな響きが消えていた。抜き身の刃を思わせる鋭い声色。相棒であるセラすら滅多に耳にしない彼の本来の姿。
「大変ですわね。新鮮味のない人生は」
「――てめぇ……なにを知ってる?」
奥歯が軋む。仮面の奥の双眸がナイゼルを正面から捉えた。並のプレイヤーならそれだけで竦みあがりそうな詰問にしかし、彼女の微笑を崩すには至らない。
「そういえばこれをよこしたときも、おかしなことを口走ってたよな。このグリムゲルデが元々オレのモノだったってな」
はじめてグリムゲルデを手にしたときの感覚。違和感がないことが逆に違和感だった。まるで使い込んでいるかのように、手に馴染む漆黒の大鎌に眉を顰めてしまった。それは彼が常に感じているモノに酷似して、尚も不快だった。
「答えろよ。なにを知ってる」
しかし、ナイゼルの表情は変わらない。形のいい唇から紡がれる言葉も凡庸としていてテンプレートじみたモノだった。
「それは私が語るべき事柄ではありません。何故ならば私は――」
「私は傍観者だからです、か? それも前に聞いたよ。正直、てめぇが傍観者だろうが宇宙人だろうがどうでもいい。興味もない。オレが知りたいことはただひとつ――どうすればこの腐った状況から抜けだせるかだ」
それを求めてナハトはいまも足掻き続けている。さながらそれは地獄で釜茹でされる罪人であるが故に、目に前に垂らされた蜘蛛の糸を見過ごす道理はない。
殺気立つナハトにナイゼルは困りましたと、柳眉を八の字に曲げて、ポンッと両手を打ち鳴らした。ピンと右手の人差し指を立てて、
「では、私とこの場で勝負をしましょう」
なんてことを口にした。
「勝負だと?」
「前回、私と貴方でした勝負ですわ。もし貴方が勝ったのなら、私が知るうることをすべてお教えします」
「……ねえねえ」
と、ちょいちょいと服を摘み引っ張る手。振り返ると放置プレイ状態に追いやられていたセラが囁くように言った。
「空気読めなくて申し訳ないけど――勝負ってなに?」
「簡単な勝負ですわ」
答えたのはナハトではなくナイゼルだった。
「彼のHPを七割まで削れば私の勝ち。その前にこちらのHPが0になったら私の負けですわ」
ね? わかりやすいでしょう、と言ってくる修道女をセラは信じられない気持ちで見返した。正気の沙汰とは思えない。魔法使いであるナイゼルがバリバリの前衛であるナハトに一騎打ちを挑む。その行為自体が既に死亡フラグだ。
そもそも白箒の十八番である【光魔法】は、攻撃よりも防御・補助に重点をおいたスキルである。その特性上、単独での戦闘に耐えうるモノではない。
もはや勝負をするまでもない。百人に訊けば百人が、ナハトの勝利だと断言するだろう。セラだってそうだ。彼が負けるとは微塵も考えていない。考えてはいないが、押し黙るらしくないナハトの後ろ姿に、どうにも嫌な予感が止まらない。
「ちなみに前回は――」
どっちが勝ったの? というセラの台詞は最後まで言うことができなかった。
異質な黒刃が中空で翻る。相棒の言葉を遮り旋廻した大鎌が、ナイゼルの首筋目掛けて振り上げられた。完全に不意をついた一撃だった。最速で打ち込まれた刃を凌ぐのは容易なことではない。ましてや相手は魔法使い。避けられるワケがない。
――ならばそれを、当然のように避ける彼女は一体何者なのだろうか。
ひょいと上半身を僅かに傾けるナイゼルの鼻先を、刃が風斬り音を伴い通過した。
「あらあら。もう勝負ははじまっているのかしら」
殺到する黒刃を最小の動作でかわす。恐るべきことに彼女は未だ、その場から一歩も動いてすらいない。身体の捻りだけで完全にいなしているのだ。
ちっ、と舌打ちひとつ。ナハトは手元に大鎌の切っ先を引き戻し――同時にナイゼルが動いた。緩やかな体捌きで間合いを詰めると、跳ね上がった掌底がナハトの顎を垂直に打ち貫いた。
がはっと仰け反る彼の頭上に表示されたHPバーが、がりっとほんの僅かに削られる。対象を視界に納めていないにも構わず、勘に任せて的確に振られた横薙ぎを掻い潜る。突きだされた拳が脇腹を抉った。
さらにもう一発を仮面の横顔に叩き込み、即座にバックステップ。金髪の毛の先を鋭利な刃が切り裂くが、ダメージ判定にはならない。偶然ではない。それを見越したうえでの回避行動である。
「……なにこれ?」
眼前で繰り広げられる不可思議な戦闘に、セラはそうつぶやくしかなかった。
魔法使いに近接戦闘で圧倒されるナハト。それこそ冗談のような光景を前にしてもちろん、セラは到底笑う気にはなれなかった。
ナイゼルの動きは決して速くはない。魔法使いとしてのステータス相応のゆったりとしたものだ。にも関わらず、ナハトの攻撃は当たらない。掠りすらしない。
それがあまりにも理解不能に感じられて、思わずセラは自身のコメカミを軽く小突き、これが夢でないかを確かめてしまった。
ことごとく空を斬る歪な大鎌。一撃があたればそれで勝負は決まる。だが、その一撃が一向に命中しない。反対にナイゼルの拳は、面白いように彼の身体に吸い込まれていく。
一撃は微々たるモノでも蓄積するダメージに、ナハトのHPは早くも八割にまで減少していた。ナハトとナイゼルの装備及びステータス。彼女が素手であることを顧みれば、驚異的とすらいえる。それも彼女の攻撃がすべてクリティカルヒットだからに他ならない。狙ってできるとも思えないが、偶然の一言で片付けるには不愉快な状況だ。
左胸を手の平で強く穿たれ、ナハトの痩躯がよろめいた。ナイゼルの追撃よりも瞬間速く、彼は自ら後方に跳んだ。間合いを取り、両手に持った柄を回転させる。肉厚の断頭刃が黒く輝き、朗々とした詠唱が鼓膜を震わせた。
「――わたしをころす。きょげんのめいきゅう」
瞬間、仮面の道化師は三人に分裂した。地面を蹴って跳躍する。赤と白の外套を風にたなびかせ、大鎌を上段に振り被った三人のナハトが、同じ挙動で修道女に襲いかかった。
目前に迫った三人の殺幻鬼を前にして、ナイゼルは冷静そのものだった。微笑を称えた表情のまま三人の仮面の道化師を見据えると、躊躇なく左方向から刃を振り下ろすナハトに足を踏み出す。
正面と右からの刃には反応ひとつ見せない。修道服を擦り抜ける黒刃を無視し、左方向からのナハトに肉薄すると、左手で相手の腕を外側に弾き大鎌の軌道を捻じ曲げる。
仮面越しに伝わる驚愕を置き去りに、真っ直ぐ突きだされた拳がナハトを捉えた。腹部にめり込んだ拳が、彼を地面に叩き落した。
息を詰まらせるナハト。カウンターでの直撃に、彼のHPバーがぐぐっと減少した。それでも仮面の道化師の意思は揺らがない。
地面を殴るようにして跳ね起きる。弧を描く大鎌がナイゼルの首筋に迫り、命中するかに思えた直前でピタリと停止した。見れば、黒い刃に絡みつくモノがあった。指だ。ナイゼルの五指が肉厚の刃を上下から挟みこんでいる。
スキル【白刃取り】。【格闘】スキルからの派生であり、斬戟属性武器に対しての防御スキルである。片手でも使用でき理論上はあらゆる斬戟を無効化できるスキルではあるが、理論は所詮理論だ。防御の成功には精密かつ緻密さを要求され、刹那でもタイミングがズレれば【白刃取り】は成立しない。斬戟をまともに喰らうことになる。ましてや戦闘中に可能な芸当ではない。
それならば武器で弾くなり盾で防御したりするほうが遥かに簡単なうえにお手軽であり、このスキルは実質はネタスキル扱いされている。セラにしてもそういう認識だったし、実戦で使用されたのを見るのはこれがはじめてだった。
「刃を引きなさいな。もう勝負はついていますわ」
「なに……?」
言われて自身のHPバーを注視すると、確かにちょうど七割の位置でバーが停止している。最後のカウンターが思いの他にHPを削っていたのだ。
「ふふ。まだまだですわね」
刃から五指を放すとナイゼルは踵を返した。
「ではまた。機会があればお逢いしましょう」
軽やかな微笑をその場に残し、ナイゼルの背中が遠ざかる。その後ろ姿をセラはおろかナハトも止めようとはしなかった。
「行かせてもいいの?」
「……いまはな」
大鎌の柄で地面を叩き、ふうっと細く息を吐いた。彼が生みだした残影も、戦闘解除と共に消滅していた。
「なんなのよ……あいつ……」
「さて、な。オレも知りたいよ」
電子音声のつぶやきは鉛色の空に吸い込まれて霧散した。その答えを知る者は彼女以外には存在せず、解答が返ってくることもなかった。