第六章 選択肢(1)
目的の私立高校に着いた樋口友哉が見たモノは、空中から降るきらきらとした氷の結晶だった。雪だ。眼前に翳した右手に雪が落ちる。手の平で溶ける氷の冷たさに、彼は夜空を仰ぎ見た。月と星が雲に隠れる漆黒の夜空からは、細かな氷の結晶が降っている。
「……雪? こんな時期に?」
季節は秋と冬の境目。夜は肌寒く感じる時期ではあるが、雪が降るのはまだまだ先。例年通りならそのはずだ。天気予報でも今日は一日中、晴れだと言っていた。
と、そのとき周囲に眩い閃光と甲高い炸裂音が響き渡った。友哉は視線を頭上の雪から正門の柵越しの建物に移した。どうやらいまのはグラウンドのほうからのようだ。
漆黒の空を染める青白い光に友哉は、ここまでの全力疾走で重たく感じる身体に鞭を打ち、鉄柵を乗り越えるとグラウンドへと急いだ。そしてようやく辿り着いたグラウンドで見た光景に束の間、彼は言葉を失い立ち尽くしてしまった。
渦を巻く強い冷風が頬を嬲る。螺旋を描く氷の礫が異形の群れを呑み込み、その身をばらばらに切り刻まれ、緑の肌をした人型の魔物――オークは奇声を発して消滅した。
氷の煌きが薄い霧の夜空に乱舞する。中空に弾ける氷の粒が淡い消滅光を乱反射させて、一人の少女の輪郭を闇の中に浮かび上がらせている。
静かな意志を称えた大きな瞳が鋭く、前方で渦巻く氷の螺旋を見据えている。腰まである艶やかな栗色の髪は左右で結わえられており、髪留めの赤いリボンと共に風に煽られ靡いていた。
胸の前で構えられた右手には、ページを下側にした一冊の本。金細工で装飾された濃紺の本だ。表紙には四つの円が重ねられた銀十字の紋章。開かれたページからは、本と同じ濃紺の光が洩れている。
水属性中位魔法、アイスストーム。氷の竜巻を発生させる広域魔法。以前に赤箒が使用したバーストストームの水系統版。違いは、バーストストームが術者を中心に発動し、アイスストームは座標指定型だという点だ。
氷の渦が夜気に解ける。仲間を殺されて激昂したオークの一群が、錆びついた片手斧を打ち鳴らし、栗色髪の少女に襲い掛かった。
少女は目の前に迫る異形の群れに臆することなく、本を翻すと粛々と詠唱を紡ぐ。呪文が完成すると、彼女の頭上に無数の氷の槍が出現した。少女の命令に氷槍が空を裂き、オークを殲滅せんと闇を疾る。
氷の槍に貫かれたオークは傷口から緑の淡い光を噴出させると、輪郭を失い闇に溶けるように次々と消滅していく。
眼前で繰り広げられる現実離れした光景に、友哉は無言で沈黙するしかなかった。栗色髪の少女が呪文を口ずさむ度、白い世界が震え、色彩が乱舞する。それは本来ならば仮想の世界でしか体験出来ないはずの事象――魔法、だ。
絵本の世界を抜け出し、現代に蘇った魔法使いの姿に友哉はすっかり魅入っていたが、少女の背後に突如として出現したオークに、彼の意識が切り替わった。
少女はまだ気がついていないのか。前方から押し寄せて来るオークを氷の刃で掃討していて、背後の敵を振り返り見る気配がない。
背後から少女に忍び寄るオークが斧を振り上げるのと、友哉が駆け出したのは同時だった。頭の奥でスイッチを落とす。脳裏に思い浮かべるのは己の半身、白髪の少年の剣と盾。無理だと思うな。不可能ではない。いまこのとき霧の世界においてのみ、彼は仮想で現実を侵食するのだ。
即ち――そこに『在る』と信じる意思。意思は現実と仮想の境界を塗り潰し、友哉の両手で電子の剣と盾が確かな実像として具現化した。身体に蓄積していた疲労が消え、樋口友哉の視界がマンイータ・ヘキサの視界に置換される。
加速する思考と身体。少女の背中に片手斧を打ち下ろそうとするオークに一瞬で肉薄すると、下段から跳ね上がった切っ先が、斧を持ったオークの太い腕を切断した。
悲鳴を上げる余裕すら与えない。翻した刀身がオークの分厚い脂肪と筋肉に守られた胴体を斜交いに切り裂いた。断末魔もなく糸が切れた人形のように崩れ落ちたオークの身体が、地面に接触すると泡と弾けて散った。
背中に感じる視線に顔を上げると、肩越しに振り返った少女と目が合った。
「君は敵? それとも味方」
「……味方」
端的な少女の物言いに、一瞬の間の後に答える。その友哉の言葉に彼女は「わかった」と頷くと、正面を見て言った。
「手伝って。援護するから」
それだけで十分だった。友哉は踵を返して少女の脇を擦り抜けると、錆びた片手斧を頭上に掲げるオークの群れに突っ込んだ。
剣が闇夜に閃き、絶叫が霧に包まれた校庭に木霊する。友哉の死角を補うように放たれる氷の刃に刻まれオークが四散した。即興ながら息の合った二人の前に、魔物の群れは瞬く間にその数を減らしていく。オークのレベルは20。友哉と栗色髪の少女の敵ではなかった。
「下がって」
いくつもの悲鳴が交錯する中、その小さな声は確かに友哉の耳朶を打った。左右のオークをグランルーパで片付けると、膝を撓めて彼は後方に大きく跳んだ。
友哉が少女の横に着地する。直後、彼女が開いたページが青白く炸裂した。青白い光は瞬時に氷の茨へと転じた。地面を凍結させながら低空を這う無数の茨の蔓が、残りのオークを大地に縫いつけるとまとめて串刺しにした。
水属性中位魔法、フロストソニア。複数を同時に対象に出来る攻撃魔法。魔力消費が激しいのが難点ではあるが、その威力はご覧の通り。下位の魔物とはいえ一網打尽にする威力を誇っている。
氷の茨で全身を貫かれたオークが友哉たちのほうへと腕を伸ばし、腕から力が抜けるとこと切れて絶命した。
それで終わり。最後の一匹が消滅するのを見届けると、周囲を覆っていた霧が晴れた。友哉の剣と盾、少女の本も同様に砕けて解けた。
ふう、と吐息をひとつ。武装の解除し、再び全身に纏わりつく鉛のような疲労に、地面に尻餅をつく友哉。リアライズ中は疲労を感じない代わりに、その反動が一気に押し寄せてきたのだ。こればっかりは何度やっても慣れそうにない。
「ありがとう。助かったわ」
頭上に影が差す。身を屈めてこちらを見下ろす少女の怜悧な瞳に、友哉は苦笑で返答した。
少女はありがとうと言っているが、自分が割って入らなくても独力でどうにかなったはずなのだ。背後からのオークの奇襲に反応しなかったのは、気づかなかったのではない。その必要がないと判断したからだろう。
オークを切り裂く瞬間、豚顔に標準を定めていた氷の槍に、友哉はそう思ったのだった。
加えて、あの魔法の精度。精密で正確な狙いといい、初対面である人物に即興で合わせる技量といい、かなり凄腕の魔法使いだ。それも水系統の魔法の錬度から察するに、ハズミと同じ一系統特化型の魔法使い。特化型だからこそあそこまで巧みに、水属性の魔法を操れたのだろう。
それにしても杖ではなく本とは。珍しい武器を装備してるんだな。彼女の戦闘を反芻した友哉は、口には出さずにそう思った。
魔法使いが装備可能な武器には杖と手袋と本の三種類がある。
杖や手袋が魔法攻撃力の上昇及びステータスの知力に補正が加わるのに対して、本は魔法攻撃力の上昇率こそ前述の二つに劣るが、その代わりに所有者に様々な特殊効果を付加することで知られている。また本は鍛冶屋で製作することが出来ない。使いたければ対象モンスターを狩って、ドロップさせるしかないのがいまのファンシーの現状だ。
この三種類の武器に優劣はない。そんなモノは相性や状況によっていくらでも変わるからだ。ただし事実上、本はモンスターからのレアドロップ――それもかなりの稀少価値があり、市場に流れることも滅多にない――でしか入手不可能なため、魔法使いの大半が杖――外見のせいか手袋を愛用する者は少ない――を使用してはいるのだが。
そういえば、と友哉は片手で髪を押さえる少女の顔をじっと見返した。汗だくの自分とは対照的に、彼女は汗ひとつかいていないどころか呼吸すら乱していない。
戦闘時間は自身よりも先に戦っていた彼女のほうがずっと長いはずなのだが。単純に慣れの問題なのか。それとも純粋に少女の実力なのか。おそらくその両方なのだろう。……自分が貧弱だという線も考えられなくもないが、あえてそれは無視する方向で行くことにした。
「……なにかしら? 私の顔になにかついているの?」
そこで友哉は自分が彼女の顔を凝視していることに気がついた。「な、なんでもない」と普段よりも高い声色で言うと、ズボンの尻を叩いて跳ね起きる。
まだちょっとふらふらとするが、体調は大分回復していた。
「えっと……いまさらだけど……君がカンナ?」
「ええ。そうよ。私がカンナ。≪英雄譚委員会≫の代表、カンナ。……本名は、美杉彩音。十七歳。高校生よ」
同い年だという事実に驚く友哉。達観したような大人びた雰囲気に年上――大学生くらいかと思っていたのだ。
「ぼ、僕は樋口友哉。同じく十七歳で高校生。それで……あの……な、なんて呼べばいいかな? み、美杉さん?」
「さんはいらないわ、友哉。呼び捨てで構わない」
そう言われても、と友哉は眉根を寄せて、口をもごもごとさせた。女の子を苗字とはいえ呼び捨てにすることに、どうしても抵抗を感じてしまうのだ。さらにいえば、同年代の女の子に名前で呼ばれる機会などこれが初めてで、背筋がこそばゆくて仕方ない。
おろおろと落ち着きなく視線を左右に泳がせる友哉。それを見ていた彩音がつぶやいた。
「……意外」
彼女は「なにが?」と頭にハテナマークを浮かべる友哉に続けて言った。
「新しい『選ばれし使徒』があのマンイータだっていうから、どんな危険人物が来るのかと思っていたけど……普通なのね」
「ちょ、ちょっと待ってッ!?」
彩音の台詞に含まれた聞き捨てならない単語に、思わず友哉は声を張り上げてしまった。
「どうして僕がヘキサだって知ってるの!? まだ話してないよねッ!?」
「ヒューリが言っていたわ。次の『選ばれし使徒』はマンイータだって」
「……あ、あいつめー。なに勝手にヒトの個人情報を話してるんだよ。プライバシーの侵害で訴えるぞ」
「安心して。友哉がマンイータだって知っているのは私だけだから」
そう言われても。淡々と言葉を連ねる彩音に、どう返答したらいいものか。まあ、どうやら一番危惧していた事態は避けられそうなので、その点はよかった。
栗色髪の少女の顔に嫌悪の類がない――無表情で判らないだけかもしれないが、少なくとも悪意は感じない――のを確認して、友哉はほっと胸を撫で下ろした。
確かにこちらからどう切り出そうか悩んではいたし、手間が省けて助かったといえば助かった。なんか納得出来ない部分もあるが、これも友哉の性格を考慮したヒューリなりの気遣いなのかもしれない。
謎だらけの人物、ヒューリ。本当に何者なのだろうか。怪しすぎて疑いだしたら切りがない。以前のチャットでのやり取りにしてもそうだ。
あの後、改めて確認したところ不可解なことにヒューリからのメールはおろか、一連の文章を記録したチャットログまでも消失してしまっていた。本来これらは他人が勝手に削除することは出来ない。本人にしか不可能な芸当だ。
それ以外となるとゲームの製作者側の人間――GMをはじめとする運営人――になら可能だろうが、それとて本人に同意なく勝手に削除するとは考えづらし、第一ヒューリの態度や言動は運営側の人間とは思えなかった。まだハッカーのほうが説得力があるように友哉には思えた。
――世界で一番綺麗なモノ。
「……ッ」
ヒューリが残した最後のメッセージ。芋づる式に掘り起こされた記憶に、友哉は片手を額に当てた。コメカミが疼くように痛む。いつもの頭痛だ。
「友哉……? どうかしたの?」
「……いや、大丈夫だから気にしないで」
お馴染みの鈍痛に顔を歪めた友哉は、押し殺した声色で少女に問うた。
「美杉さ――美杉は、ヒューリのことをどれだけ知ってるのかな。どこに住んでるのかとか、本名とか。なんのために行動してるのかとか……美杉はなにかあいつから聞いてる?」
「残念だけど……友哉が知りたいことは、私にもわからないと思うわ。ヒューリから与えられた知識は、私も友哉も――それに他のメンバーも同じだろうから」
「……そっかぁ」
首を横に振る少女に、友哉は小さく言った。
異能者たちのギルド――≪英雄譚委員会≫の代表を務めているくらいだから、なにか自分にはない知識を持っているのではないのかと期待していたのだが。そう都合よくはいかないらしい。
「期待に添えなくてごめんなさい」
「え? ちが……美杉が謝ることじゃないよッ。――そ、そうだっ。そろそろどこかに移動しない? こんな時間に学校に来る奴なんていないだろうけどさ。万が一、見られたら困るでしょッ」
目を伏せた美杉に慌てた友哉は、そんなこと口走っていた。誤魔化すために咄嗟に口をついたのだが一理あった。確率は低いだろうが、誰かが偶然通りかかって発見でもされたら後が面倒だ。それには彼女も同意見なのか、ぐるりと首を巡らすと言った。
「そうね。それじゃ――」
彩音は思案するように間を空けて――次の瞬間、とんでもないことを口にした。
「私の家に行きましょう。ここの近くだからそれで構わないでしょ?」
「……いやいや……こんな時間にそれは拙くない? ……その……僕もこんなだけど……あの、男だし」
後半になるほど声のボリュームが小さくなり、最後のほうなど聞き取れないほど小声だったが、彩音にはちゃんと聞こえていたようだ。彼女は彼の台詞に心なし表情を緩めた。
「大丈夫。私は一人暮らしだし、誰の邪魔も入らないから」
――なにが大丈夫なんですか?
口の端だけで薄く微笑する彩音に、友哉は心の内で思わず突っ込みを入れていた。