断章 遥か遠き残響(5)
戦いは終止、意外な形で進んでいた。
頭上を通過した無数の氷の槍が、紅蓮の騎士に突き刺さった。炸裂した氷の刃にバルフレアはよろめき片膝をつく。そこにすかさず叩き込まれる剣の一撃に、紅蓮の騎士は身動ぎ大剣を振り回した。敵も定めず出鱈目に振るわれる剣を掻い潜るヘキサの表情は優れない。
一度ボス戦を体験しているからだろうか。以前のような醜態こそ晒さずにすんでいるが、バルフレアの予想外の『弱さ』に困惑していた。そう紅蓮の騎士の『強さ』にではない。その『弱さ』にだ。
なにせ未だに攻撃及び支援魔法だけで、回復魔法の類はほとんど使用されていないのだ。前衛はある程度ダメージを喰らうと紅蓮の騎士から距離を取り、ポーチから取り出したポーションで自ら回復していた。ボス攻略戦の最中だというのに――いくら魔法使いのMP温存のためとはいえ――それだけの余裕があるのだ。
正直な話、拍子抜けだった。プレイヤーの誰もが大なり小なりそう思っているだろうがしかし、優位にことが運ぶ戦闘にヘキサは顔をしかめた。嫌な予感が止まらないのだ。追い詰めているのはこちらのはずなのに、逆にこちらが追い詰められているかのような錯覚すら抱いてしまう。胸に巣食う不安は刻一刻と大きくなっている。
「……おかしい」
ヘキサの横に飛び退った白髪の少年が、鋭い目つきで紅蓮の騎士を睨みつけた。
「なにか気になることでも?」
横を見やり言う。本来ならこんな暢気に話している余裕などないはずなのに。それが可能な現状に違和感を覚えているのか、厳しい表情でデュオは言った。
「いくらなんでも手応えがなさすぎる。これじゃあ下層のボスのほうが強いくらいだ」
同感だった。同感であるが故に、ヘキサは胸の蟠りを消せない。忘れてはならない。この紅蓮の騎士は過去に攻略ギルドをふたつ同時に潰しているのだ。
そして彼の予感は最悪の形で的中することになる。異変を感じたのは、バルフレアのHPバーが七割を切ったときだった。
「なんだ……?」
身を伏せたヘキサは、周囲に視界を這わせる。視覚からの情報では、フロアに変化は見られない。しかし、彼の直感が、ここは危険だと最大規模で警告を鳴らしている。
と、そのとき闇雲に振られた紅蓮の騎士の大剣が、回復のために後方に退避しようとしていた斧使いの身体を偶然捉えた。斧使いのHPが今回の戦闘で初めてレッドゾーンに割り込み、それに気がついた彼のPTの魔法使いが、回復魔法の詠唱を完了させて――異変が訪れたのはその直後だった。
斧使いに向けられた杖の先端が緑光を灯し、切れかけの豆電球のように瞬き弾けた。ファンブル――詠唱の失敗ではない。魔法が強制遮断されたのだ。
魔法使いはその事実に愕然と目を見開き、硬直を強いられていた斧使いは翻った剣先を肩口に叩き込まれ、無情にも0になった己のHPバーに呆けた表情で固まり――瞬間、ポリゴン片を撒き散らして消滅した。
「なッ!?」
その一連の出来事を視界の端に捉えていたヘキサは絶句してしまった。背後で別の魔法使いが素早く呪文の詠唱を行う。初級の回復魔法だ。杖の先にぼんやりとした光が灯り、やはり効果を発揮することなく消滅してしまった。
「回復魔法が無効化されている?」
「……いや、どうやらそれだけじゃないみたいだ」
デュオは沈黙する右手の赤い結晶に、押し殺した声色で言った。乾いた響きの言葉に、ヘキサは総毛だった。回復が無効化される。それは致命的な事実だった。硬直した彼の耳朶を、強い意志を感じる声が打った。
「みんな落ち着いて! 魔法や結晶は封じられてもアイテムは使える! 油断さえしなければこのまま押し切れるわッ!」
「彼女の言う通りだ! 陣形を崩すな。いまのペースを維持するのだッ」
どうやら無効化されているのは、結晶や魔法など即効性のモノだけのようだ。自身でポーションの効果を確かめ、細剣を振りながら声を張り上げる黒髪の少女に、姫騎士が金の長髪を中空に散らしながら言葉を重ねる。二人の少女の言葉に、騒乱としかけたプレイヤーたちはなんとか態勢を立て直すが、異変はさらに続いた。
裂帛の叫びと共に凄まじい突きが放たれる。紅蓮の騎士の鎧を細剣が穿ち、眩いエフェクトが火花を散らす。
バルフレアのHPバーが半分を割り、異音が空間を震わせた。鎧の隙間から噴き出す炎の勢いを爆発的に増大させて、紅蓮の騎士が吼えた。迸る炎が反転する。紅蓮の赤い炎から蒼穹の青い炎へと。静かな凪を連想させる炎だがしかし、その熱量は紅蓮の比ではなかった。
青い炎が紅蓮――否、蒼穹の騎士を中点として空気を炙る。猛烈な熱量に熱風と化した大気が、唸りを立ててプレイヤーに襲い掛かった。
肌を焼く熱風にヘキサは顔を歪めて、次の瞬間、じりじりと減少する自身のHPバーに吃驚した。
「後ろに跳べッ!」
有無を言わせぬ強い口調に、ヘキサは条件反射的に後方に跳躍した。青い炎にその巨体を屈折させるバルフレアの姿が遠ざかり、同時にHPの減少が止まった。肌を焦がす熱風も蒼穹の騎士から距離を取った時点で嘘のように冷めていた。
腰のポーチから赤い液体が満ちた小瓶を取り出す。コルク栓を弾き中身を一気に煽るヘキサに、近寄ってくる影があった。叫び声の主であるデュオとその後ろには追走するように黒髪の少女もいた。デュオは空になった小瓶を放り捨てると、苦々しく口を開いた。
「おそらくこれはあいつの特殊能力だ。ある一定距離内にいるプレイヤーへの熱風による継続ダメージ。ダメージが低いのが不幸中の幸いだが……くそ、性質が悪い」
白髪の少年の舌打ちに、ヘキサは曖昧に頷くことしか出来なかった。
モンスターの中には固有の能力を持つモノも多数存在する。だが、特定の条件が重なったとはいえ、ここまで凶悪な固有能力も珍しい。
実際それは性質が悪いの一言で済まされる事態ではなかった。回復魔法や生命の赤結晶などの、即効性の回復手段が封じられたいま、それは最悪といっても過言ではない。
後衛はいざ知らず、前衛は自ら熱風の中に跳び込み、その身を晒さなくてはならない。蒼穹の騎士だけではなく、継続ダメージにも神経を張り巡らす必要がある。さらに熱風の効果範囲も思いのほか広い。退避するタイミングを見計らい間違えれば一貫の終わり。
脱出が間に合わず待っているのは死だ。かといって、一度このフロアから撤退しようにも、どうやらそう簡単にはいかないようだ。
「り……り、リリース」
恐怖に震える声。見るとフロアの隅で縮こまっている男の手には、白い結晶体が掲げられている。男のトリガーボイスに反応した転移の白結晶が光を発し、チカチカと瞬くと効果を発揮することなく沈黙してしまった。
「やっぱりな。そんなことだろうと思ったぜ」
アイテム以外での回復手段が禁止された時点で、その光景は予想出来ていた。これで何故、前回攻略に挑んだプレイヤーが、一人も撤退しなかったのか――合点がいった。おそらく転移魔法も使えまい。
「どうするの?」
「……どうもこうもない。やれることをやるだけだ」
彼女の問いかけにデュオは右手の片手剣の刃を鳴らした。その視線は姫騎士の先導の元、なんとか反撃の糸口を掴もうともがくプレイヤーたちに注がれている。
転移が不可能なうえに退路も塞がれているのだ。彼らに残されている選択肢は二つだけ。全滅か勝利かのどちらかでしかありえない。
「行くぞ、ヘキサ。これ以上、死者を出すワケにはいかない。とっととあいつをブッ倒す。……って、おい。聞こえてるのか? ……ヘキサ?」
ヘキサからの返答がないことに訝しみ、彼のほうを見やったデュオは眉を顰めた。そこには苦しげな表情で歯を噛み締め、全身を小刻みに震わせる黒髪の少年がいた。デュオの言葉は彼に届いていた。
しかし、それだけだ。はあはあ、とまるで全力疾走の後のように荒い呼吸をするヘキサの耳には、デュオの言葉が薄い水の膜越しに話しかけられたかの如くぼやけていた。
両腕がだらりと垂れ下がり、大剣の切っ先が床を削る。まるで他人のモノのように身体が重い。床に両足を縫いつけられたかのようにすら感じる。
全身を縛るモノの正体をヘキサは知っていた。恐怖だ。蒼穹の騎士が放つ圧迫感が彼をその場に縛りつけて放さなかった。
「ヘキサくん?」
黒髪の少女に肩を叩かれるが、ヘキサは呻き声を返すことしか出来なかった。青い炎纏う騎士に過去の忌まわしい記憶が重なる。高々と掲げた石剣を振り下ろす巨像。叩き潰されたPTのリーダー。ただそれを見ているだけだった情けない自分。なにも出来なかった滑稽な自分。役立たずで小心者の自分。
いまもそうだ。敵が弱いときは平然としている癖に、ちょっと強そうな素振りを見せると途端に臆病が顔を覗かせる。蛇に睨まれた蛙。否、それ以下の木偶だ。
デュオはそんなヘキサの横顔を見据えていたが、全快した自身のHPを確認すると「先に行ってる」と一言だけ言い残し、蒼穹の騎士へと駆けた。彼女もまた心配そうにヘキサを一瞥して、デュオの後を追いかけて行った。
「……、あ」
それが精一杯だった。弱々しく発せられたそのか細い声も、戦闘の騒音に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。
「ははは……」
誰もが懸命に戦っているというのに、なんだこのザマは。間抜けも大概にしろ。騒乱も遠く耳に霞む。結局、自分はここまでの小さい人間なのだ。こんなことならやっぱり来るべきでは――耳朶を穿つ奇怪な声が、ヘキサを現実に引きずり出した。
伏せていた顔を上げる。まず視界に飛び込んだのは、三割を割り込んだバルフレアのHPバーだった。その周りにはデュオや彼女をはじめとした前衛の姿。
咄嗟に彼は視界の端に表示されたPTメンバーのHPを見て安堵した。二人ともHPバーはまだ七割以上残っている。
だが、ヘキサはすぐに顔を強張らせることになった。その原因は蒼穹の騎士とプレイヤーの間に出現した白い人魂だった。数が多い。目につくだけでも二十以上はある。ゆらゆらと揺らめく人魂が瞬き、一瞬で骸骨の騎士に転じた。右手には片刃の片手剣、左手には身の丈ほどもある大きな盾を抱えている。カタカタと骸骨の顎を鳴らす騎士に注視するとカーソルが出現した。色は赤。名前は、ゴーストスピリット。
死霊の群れは小首を捻り――直後、骨の身体を軋ませて、猛然とプレイヤーに襲い掛かった。ゴーストスピリットの出現により戦闘は混戦の様相を呈したが、明らかに分が悪いのはプレイヤーたちだった。
ゴーストスピリットは決して弱くはないが、かといって強敵ともいえない。この場に集ったプレイヤーの力量ならば取るに足らない相手だったが、その数が尋常ではなかった。設定が無限――一度の出現個数には上限があるようだが――になっているのか、一度倒しても再度出現してきりがない。かといって死霊を無視しようにも、蒼穹の騎士への攻撃者を最優先に指定しているらしく、プレイヤーは応戦せざるを得ない状況にあった。むろん、その間も熱風によって前衛のHPは減少し続けている。
アイテムだけでは回復が追いつかない。プレイヤーたちの表情からは焦りと苛立ち、焦燥感が滲んでいる。極度の緊張に集中力も途切れかけ、単純な攻撃パターンに対応しきれない者も現れだしている。
蒼穹の騎士が大剣を横に振る。直線上にいるゴーストスピリットごとプレイヤーを薙ぎ払う。敵も味方もお構いなしだ。まさか味方である骸骨の騎士ごと攻撃されると思わなかったのだろう。亡霊と切り結んでいた茶髪の手甲使いは防ぐことも避けることも出来ず、巨剣の一撃をまともに喰らい弾かれると石の床に叩きつけられた。
彼は彼女のギルドに属している一人のようだ。ヘキサの視界のPTメンバー一覧。その五番に記されたプレイヤーのHPが大幅に削られた。熱風継続ダメージと相まって、一気に四割近くにまで減少している。
床に倒れ伏す手甲使い目掛けて、バルフレアが大上段に振り被った両手剣を振り下ろし――、
「やらせないわッ!」
黒い長髪を宙に舞わせ立ち塞がる亡霊を一突きで打ち倒し、彼女は刹那にして手甲使いと蒼穹の騎士の間に、その小柄な身体を滑り込ませた。
振り下ろされる大剣に左手の細剣を合わせる。大剣と細剣の接触点に火花が散る。細剣を持つ腕にかかる負荷に、彼女は唇を噛み締めて堪える。連続で叩きつけられる大剣に細剣の刀身が軋み悲鳴を上げる。
凄まじい勢いの連撃に彼女の表情が歪む。いまはなんとか耐えているが、それも時間の問題だ。貫通する衝撃にHPが磨耗していく。
彼女の援護に向かうとする者もいたが、亡霊の群れに行く手を塞がれて、少女の下まで辿り着くことが出来ずにいた。デュオもそうだ。剣で切り伏せる度に新たに現れるゴーストスピリットに歯噛みしている。
魔法使いが放つ魔法攻撃がバルフレアに降り注ぐが、蒼穹の騎士は歯牙にもかけない。HPが減少するのを気にも留めず、機械的に剣を振り続ける。
「……やめろ」
その光景をバルフレアの攻撃射程範囲外から見ていたヘキサがつぶやく。
彼女が危ない。いますぐにでも助ける必要がある。それを理解していながら、自分はなにをしているのだ。このまま見殺しにするつもりなのか。
そんなこと――断じて許さない。全身を縛る不可視の鎖が撓む。足を前に踏み出す。確かに怖い。恐怖で身体が竦む。転移出来るのならこの瞬間にでも逃げ出してしまいたい。ああ、でもそれよりも――彼女を失うこと方がもっと怖かった。
「リグレット――ッ!!」
恐怖をいう名の鎖を引き千切り、ヘキサは彼女の名前を叫ぶと床を蹴り、蒼穹の騎士に猛然と突撃した。