第五章 罪囚(3)
樋口友哉の耳に携帯の着信音が聞こえてきたのは、仮想世界から帰還してベットから起き上がり、ヘッドギアを外したその瞬間だった。
あの後、度重なる戦闘で消耗し切っていた彼は、転移の白結晶を使い街に戻り、リトたちと別れるとその足で宿屋に向かい、ファンシーからログアウトしたのだ。
誰からだろう? と首を捻り、机の上に置いてあった携帯を手に取る友哉。二つ折りの携帯を開くと、画面には非通知と表示されていた。普段なら非通知の電話には出ないことにしている友哉だったが、そのとき何故かある種の予感を感じていた。確信といってもいい。
「……もしもし」
『――よう、ヘキサ。……それとも友哉って呼んだほうがいいか?』
「どっちでもいいよ。好きに呼んでくれればいい」
『ンじゃ、ヘキサで統一させて貰うわ。いちいち言い変えるのは面倒だしな』
電話に出た友哉の耳朶を、どこかで聞いたことのある声が打った。どこでだったか。つい最近だったと思うのだが、どうしても思い出せない。
だが、誰であるかは凡その察しがついた。
「もしかして……ヒューリ?」
『おう。俺だ』
その返答にいくつもの質問が、友哉の脳裏を過ぎった。
なんで自分の本名を知っているのか、とか。携帯番号をどこで入手したのか、とか。そもそもお前は誰なんだよ、とか。――世界で一番綺麗なモノ。あの言葉の真意はどこにあるのか。その他にも様々な事柄が喉元まで出掛かったが、結局彼は言葉にすることなく呑み込んでしまった。
このヒューリなる人物がちょっと普通ではないのは知っているし、それに訊ねたところではぐらかされるのがオチだと思ったからだ。
「それで? なんの用?」
『昼間の返事を訊きたい』
「……返事もなにも、あれからまだ一日すら経ってないんだけど。……いくらなんでも性急すぎやしない?」
『わかってる。無理を承知で訊いているんだ』
その真剣な声色に、友哉は眉をひそめた。携帯越しにも切迫した様子が、ありありと見て取られるようだった。
「ひょっとして結構テンパッてる?」
『……割と。モンスターの出現件数は増える一方で、人手が全然足りやしない。猫の手も借りたいくらいだ。……せめてアルベドたちが動けばもう少しはマシになるんだろうが……まあ、期待するだけ無駄だろうな』
「あるべど……?」
『いや、気にするな。こっちの話だ。……っで、話を戻すが、どうだ? 手伝ってはくれないか? ただでとは言わない。それ相応の報酬は出すつもりだ』
「……あのさ」
しばしの沈黙の後、友哉は静かに口を開いた。
「昼も訊ねたことだけど……それって僕にしか出来ないことなの?」
『ああ』
「他のヒトには無理なの?」
『ああ』
「僕が協力しないと困る?」
『ああ』
そっか、とヒューリの返答にぽつりとつぶやく。
「……わかった。いいよ。僕でよければ手伝う。ヒューリに協力するよ」
『マジか!? サンキュッ。マジで助かる!』
いい返事が得られるとは思っていなかったのか。ヒューリの驚きを含んだ口調に、友哉は苦笑した。正直な話、昼の時点ではこの話を受けるつもりはなかったのだ。だが、リトとの偶然の邂逅がヘキサの心境を一変させた。決めたのだ。自分に出来ることをしようと。だからそれが自分にしか不可能だというのなら――仕方がない。付き合ってやるさ。
『それじゃあ、さっそく働いてもらおうか』
「って、いまから!?」
『言っただろ。人手が足りなくて、猫の手も借りたいって。場所は――』
提示された場所は、友哉がリザードマンと戦ったあの公園だった。いきなりの実戦に彼は緊張で唾を飲み込みと、ジャンパーを羽織り部屋のドアを開けた。
キャンッ、と悲鳴を霧に包まれた夜の公園に響かせて、四足歩行の犬型モンスターハウンドドックの最後の一匹が砕け散った。同時に友哉が装備している剣と盾も淡い燐光と共に消失する。
以前のように公園を覆っていた霧が消えると、友哉の目には見慣れた遊具が映し出された。ふうっ、と深く息を吐き、彼はそのまま地面に座り込んでしまった。肉体的には然程ではないが、精神的にはかなり消耗していた。
ハウンドドック。始まりの街の周辺をうろつく雑魚モンスターなのだが、やはり仮想世界で戦うのと、こうして現実で向き合うのとではかってが違うようだ。まるでボス戦の直後のような疲労感に、頭上を仰ぎながら深呼吸を繰り返す。頬を撫でる夜風が、火照った身体に心地よい。
友哉がそうして戦闘の余韻を冷ましていると、ジャンパーのポケットに突っ込んでいた携帯が着信音を鳴らした。
「はい」
『お疲れさん。やっぱしお前に頼んで正解だったわ』
相手も確かめずに電話に出ると、ついさっきまで話していた相手の声が再び聞こえてきた。
『怪我はないか?』
「うん。平気。……でも、よかった。今回はあっさりと剣と盾が出せて。出なかったらどうしようって、不安だったから」
『だから大丈夫だって言っただろう? 自転車と同じだ。一度身体で覚えたことは、そう簡単に忘れたりしない』
「みたいだね」
言って、友哉はジーンズの尻を手で叩き起き上がった。
「今日はこれで終わり?」
『ああ、とりあえずは、な。……それはそうと……なあ、ヘキサ。明日なにか予定はあるか?』
「え? 特にはないけど」
『だったら夜の予定を空けといてくれないか? ……ちょうどいい機会だから。お前に会わせたい奴がいる』
「僕に……?」
ああ、とヒューリは言うと、その名を口にした。
『そいつの名前は、カンナ。≪英雄譚委員会≫の代表を務めてる女だ』
≪英雄譚委員会≫。
それが『彼女たち』が属するギルドの名前だ。
『彼女たち』――即ち、樋口友哉と同じ物質情報改竄能力者。限定条件下においてのみ、仮想で現実を上書きするリアライズの使い手。
ヒューリが言っていた友哉以外の協力者たちだ。友哉よりも早く覚醒した彼女たちは、人知れず街を跋扈するモンスターを駆除していたらしい。
以前は所属も立場もバラバラだった彼女たちだが、リアライズ能力の覚醒を機にヒューリの助言の元、≪英雄譚委員会≫を新たにギルドとして立ち上げ集結したのだ。
彼の簡潔な説明に友哉はなるほどと頷いた。一箇所に集めたのは正しい判断だ。そのほうが有事の際になにかと都合がいい。それは友哉にも言えることだ。ヒューリが彼を早期に≪英雄譚委員会≫に接触させようとしたのは、つまりそういうことなのだろう。
「――って、言ってもなぁ」
ファンシーにログインしたヘキサは、いつものように通路の端を歩きながら嘆息した。手伝うとは言ったものの、他の協力者と会うのにはあまり気が進まなかった。
人付き合いが苦手だというのもあるが、なにより問題なのは自分が『ヘキサ』だということだ。一般プレイヤーはPKにいい感情を抱いていない。ましてやそれがマンイータともなれば、名前を聞くだけで顔を歪めるだろう。
現実だけでの付き合いならまだいい。不器用なりにやり方もあるだろうが、ギルドに入るとなれば当然自分の名前を教えなければならない。そのとき相手がどんな表情を浮かべるか。想像するだけで気が滅入ってくる。
それに――。
「……ギルドを作りませんか、か。……そういやまだ返事してなかったっけ」
黒髪の少女の言葉を反芻し、どうしたモンかなー、と白髪を掻き乱す。まあ、実際に会ってみないとなんとも言えない。約束は今日の夜七時に近所の公園で。そこでカンナという少女と落ち合うことになっている。話はそれからだ。
――決して問題の先送りではない、と自分に言い聞かせるヘキサは、リグレットの店に辿り着くとドアノブを掴み捻った。チリン、とドアに括りつけられた鈴が鳴り、直後に響いた甲高い赤毛の少女の声に動きを止めた。
「はあッ!? ちょっとなにそれ。本気で言ってるの……!?」
「本気です。元々そのつもりで提案しましたし。……それに提案するだけしといて後は放置だなんて、ちょっと無責任ではありませんか?」
「そ、そうかもしれないけど……ン?」
と、そこでドアを開いた体勢で硬直しているヘキサに気づいたのか、ハズミは言葉を打ち切ると彼のほうを向いた。
「あ、悪い。取り込み中だった?」
「いいえ。特には。――ですよね、ハズミ」
「……まあ、ね」
そう歯切れ悪く言うと、ハズミはそっぽを向いてしまった。奇妙な彼女の仕草にヘキサが首を傾げると、リグレットが微苦笑しながら口を開いた。
「貴方に頼まれていた武器のメンテはもう終わっていますよ」
そう言って、彼女はカウンターの上に置いてあった抜き身の二振りの剣をヘキサに差し出した。ありがとう、と彼は礼を述べると、目の前の二振りの剣を見比べ、一瞬躊躇したように目を泳がせた。
そして武器を受け取ると指を回して装備画面を展開する。メンテの間仮に装備していた剣とペルシダーを交換し、ワルプルギスをインベントリに放り込んだ。
その様子をじっと見ていたリグレットがぽつりと洩らした。
「……装備しないんですね」
「なにを?」
「ワルプルギスです。装備しないんですか?」
リグレットの視線はヘキサの腰の剣の柄に固定されている。そこには彼女が鍛え、彼に渡した剣が納まっている。
「まあ、こっちのほうが使い慣れてるから。落ち着くんだよ」
「……明らかに剣の性能が低いほうを装備されるのは、鍛冶師としてそれなりに屈辱なんですがね」
彼女が鋳造した剣の性能が低いワケではない。
むしろ同じレベル帯のプレイヤーが装備する武器としては、頭ひとつ分抜き出ているといってもいい。だが、今回は流石に比較する対象が悪すぎた。概念駆動などという反則じみた能力を持つ武器と見比べては、見劣りするのは致し方ない。
「それにいまの俺じゃ使いこなせないし。あいつの言葉通りなのがムカつくけどな」
錬度が圧倒的に不足しているのだ。集中力が足りないから長時間励起状態を維持できない。またちょっとした衝撃ですぐに加速軸から弾かれてしまう。ナハトが指摘した直線でしか加速出来ないのも、身体が加速についていけずに振り回されてしまうからだ。二輪が全速で曲がりに突っ込んだらどうなるか。答えるまでもない。
「だからこそ常日頃から常備するべきでは? ナハトとの再戦のためにも、概念駆動を使いこなすのは必須条件のはず」
「そうなんだけど。やっぱり使うのには抵抗があるんだよ。手に入れた経緯が経緯なだけにな。それに――」
これはリグレットが俺のために鍛えてくれた剣だから。恥ずかしさに危うく口に出掛かった言葉を呑み込む。その間の無言をごまかすように、別のことを口にした。
「その……凄く目立つだろ? ただでさえ脛に傷がある身の上だし。いらない注目浴びるのはゴメンだからな」
あははと笑うヘキサ。しかしすぐに彼は笑いを引っ込めた。リグレットとハズミの様子がおかしいのだ。二人とも沈痛な面持ちで彼を見ている。憐憫の眼差しでこちらを見やる彼女たちに、ヘキサは戸惑ったように訊ねる。
「な、なに。なんか俺、変なこと言った?」
「……ヘキサ。あんた≪ROM:F.C.O≫に目は通してる?」
「え? ――あーそういえば最近見てないかもしれない」
≪ROM:F.C.O≫は数あるファンシーのファンサイトの中でも、特に有名な情報兼攻略サイトだ。ゲームデータも豊富でなにより更新速度が半端ではない。ファンシーの最新の情報が欲しければこのサイトに行けとテンプレートに記されているくらいだ。
ヘキサもよくお世話になっているサイトで、前は一日に最低一回は目を通すのが日課になっていたのだが、最近は現実と仮想の両方でなにかと問題が多発していたこともありアクセスしていなかった。
「それがどうかしたか?」
「口で言うよりも自分の目で確かめたほうがいいでしょう。身体は私たちが見ていますから、一旦ログアウトして見て来てください」
「いますぐ?」
「そっ。ほら、さっさと行った」
歯に物が挟まったような言い方に疑問がないワケではなかったが、二人がそう言うならとヘキサはメニュー画面を開くとログアウトのボタンを押した。
ベットの上で目を覚ましたヘキサ――友哉は、ヘッドギアを外すとさっそくパソコンの電源を入れた。パソコンのOSが立ち上がるのを待って、webに接続するとブックマークから設定してあった≪ROM:F.C.O≫のアイコンをクリック。デスクトップの画面が切り替わり、≪ROM:F.C.O≫のトップページが表示される。
細かく細分化されてまとめられているファンシーのデータベースに、各種関連サイトへのリンク一覧。注目のギルド紹介などの企画物などもある。
友哉はマウスを動かして画面を下方向にスクロールさせて、でかでかと記載された最新情報の記事に目を丸くした。マウスを握る右手がぷるぷると細かく震える。額に嫌な汗が噴き出すのを感じつつ、彼は件の記事へのリンクを選択した。
新たに画面が立ち上がりその内容に友哉は軽い眩暈を覚えた。目の錯覚かと思わずごしごしと目を擦ってしまう。
複数の色づけされた大きなフォトン文字の見出し。その下には一人の少年の写真が添付されている。白い髪に白装束を纏った少年。その右手には優美な硝子の刀身の片手直剣。
「あ、あははは。な、なんか見たことある顔だなぁ」
どこかで見たことがあるような少年の写真に、友哉は乾いた笑い声を上げるしかなかった。現実逃避の笑いもしかし、そう長くは続かなかった。
無意味に更新ボタンを連打したところで写真が変わるはずがない。それは紛れもなく自身の分身マンイータ、ヘキサの写真だった。
前のめりになり記事に目を走らせる。
細かいところで差異があるが内容を簡潔にすると、七色の泉にしてマンイータが未確認の幻想武器を使用し、≪聖堂騎士団≫の一団をキルした――という、昨日起こった出来事を明解に記している。
「……いやいや……昨日の今日だぞ。いくら情報が速いのがウリだっていっても、限度があるだろう」
そもそもどこでこの情報を入手したのだろうか。リグレットたちが話すとは思えない。となれば、情報源は当事者である≪聖堂騎士団≫くらいしか考えられないのだが、自らの恥を公の場に公開するとは考えにくい。
写真――ファンシーには映像媒体を記録出来るアイテムがある――を撮っている余裕があったとも思えない。かといって他に目ぼしい人物は――否、いた。
「……あいつか」
苦渋に塗れた声が洩れる。
白と黒の仮面をした赤装束の男が、友哉の脳内でケタケタと笑い狂っている。くそ。あの野郎。いつか絶対に息の根を止めてやる。
決意を新たにする友哉だったが、ふと気になることがあり記事画面を閉じると、今度は雑談掲示板を覗いた。探していたスレッドは検索をかける必要もなく、すぐに彼の目に飛び込んできた。
【マンイータ】ヘキサについて語るスレ21人目【人食い】。
勘弁してくださいって心境だった。≪暁の旅団≫解散当時、このスレッドを見つけたときの気持ちは、筆舌し難いものがあった。ていうか、個人スレッドが立っているってどういうこと? しかも前に見たときよりもレスが異常に伸びているし。
うわぁ。見たくねー、とは心底思うものの、自分の知らないところでなにが起こっているか知らん振りするのは、それはそれで怖かった。ええい。男は度胸とスレッドをクリックした彼は、次の瞬間、呻き声と共に机に突っ伏してしまった。
案の定、スレッドは祭りになっていた。憶測やら考察やら入り乱れ、そこに釣りやら煽りのレスが加わり混沌とした様相を呈している。中にはヘキサがリグレットに貢いでいるとか、目を覆いたくなるようなレスもいくつも見受けられた。
「やっぱり見なければよかった」
なんにせよこれでヘキサは、ファンシーで確認された四人目の幻想武器保持者と認識されたことになる。ひょっとしてこれがナハトの目論見だったかもしれない。……まあ、単なる嫌がらせという可能性も捨てきれないのだが。
はあっ、とため息をひとつ。友哉は机から上半身を剥がすとパソコンの電源を落とし、のろのろとした動作でヘッドギアを被りベットに横になった。
パチンッ、と意識が切り替わる。直後、ファンシーに接続した友哉――ヘキサの視界には、こちらを見やる二人の少女の姿が映し出された。
「……ただいま」
「早かったね」
「お帰りなさい」
片膝をついた体勢から立ち上がると、ヘキサは神妙な顔つきで言った。
「……なんですか、あれ?」
「見ての通りかと」
半分涙目のヘキサにリグレットは苦笑した。
「隠すどころではなくなりましたね。あれだけ大々的に一面を飾ったんです。貴方が幻想武器持ちだと知れ渡るのも、時間の問題でしょう」
だよねー、と笑うハズミをヘキサは怨めしげな目つきでねめつけた。おのれ。人事だと思って。こっちには死活問題だというのに。俺の平穏な日常を返して欲しい。
「で、でも、ある意味よかったじゃない。余計な心配せずにすむんだから。これで心置きなくワルプルギスを使えるでしょ?」
ヘキサの視線に気がついたハズミが、若干たじろぎながらそんなことを口にする。
確かに目立つことを気にやむ必要はなくなった。なにせ自分が幻想武器を持っていることが、ファンシー中に知られてしまったのだから。
だが――、
「そう簡単なモンじゃないさ」
ペルシダーの柄に片手を添えるヘキサの表情になにを見たのか。リグレットとハズミは言葉なく沈黙してしまった。
「……ところでこれからどうするつもりです。なにか予定はありますか?」
咄嗟にリグレットが放った言葉に面を上げたヘキサの顔は、どこか気弱な印象を感じさせる普段のそれに戻っていた。
「ン? ああ……すぐに落ちるつもりだ。今日はこいつを受け取りに来ただけだから」
腰の鞘を叩くヘキサにハズミが片眉を上げた。
「ふうん。廃人のあんたが珍しいわね」
「誰が廃人だ。リアルで用事があるんだよ。……まったく。この歳で正義の味方の真似ことをするとは思わなかったけどな」
そう言って口の端を歪めるヘキサを、二人の少女は不思議そうに見るのだった。
少し早くログアウトし過ぎたかもしれない。
時刻は午後六時。机の上の目覚まし時計に視線をやった友哉は、読んでいたゲーム雑誌をベットに放り投げると大きく伸びをした。
早々にファンシーの回線を切断した友哉だったが、約束である午後八時までの時間を持て余らせていた。なにせ普段ならこの時間帯はファンシーで潰している。こんなことならギリギリまでログインしておけばよかったかもしれない。かといって、いまからログインしようにも時間が中途半端になってしまう。
と、そのときぐうと友哉のお腹が鳴った。そういえば昼にスナック菓子を摘んだ程度で、他にはなにも口にしていなかった。
冷蔵庫になにか残ってたっけ。空腹を主張するお腹をさすった友哉は、食料を求めて一階の台所に足を運び、目の前に飛び出して来た影に動きを止めた。
そこには妹の樋口奈緒が立っていた。奈緒は平坦な目つきで固まっている友哉を見ている。その視線に友哉は条件反射的に横に退こうとして、脳裏に浮かんだ赤毛の少女の顔に踏みとどまった。
約束したのだ。今度顔を合わせたときは逃げずに話をすると。ハズミとの約束が、逃げようとする友哉の足をその場に縫い付けていた。
所詮は口約束。守る義理はないし、いざとなったらごまかす方法などいくらである。しかし約束は約束。その場のノリに逆らえなかったとはいえ自分でした約束だ。
約束とは遵守するからこそ価値があり意味が生まれる。守れない約束などただの戯言だ。その程度の認識と自尊心が友哉にはあった。
故に彼は唾を飲み込むと、緊張に震える声で言った。
「……あの……その……奈緒は、もう夕飯食った?」
すると奈緒は驚いたように目を見開いた。自分に話しかけたのが意外だった。そう強張った表情が如実に物語っている。
「まだだけど……それがなに?」
「えっと……よければ僕と、どこかに食べにいかないか?」
言った。言い切った。後は天運を待つだけだ。友哉は内心でビクビクしながら、妹の反応を窺った。すると奈緒は呆けた表情で兄を見上げていた。少なくともそこに嫌悪の類の感情は見受けられなかったので、まずはほっと胸を撫で下ろした。
とりあえずハズミへの義理は果たした。夕食の誘いは十中八九断られるだろうが、今日のところはそれでよしとしよう。と、自己満足していたときだ。俯き加減に奈緒がぽつりとつぶやいた。
「いいわ」
「いや……うん、そうだよな。悪かった。余計なこと言って――って、はい?」
お約束で申し訳ないが、友哉はその言葉を幻聴だと思った。思ったので、改めて聴き返していた。
「いまいいって言った?」
「うん」
「はあ。そっか……いいッ!?」
ここに至ってようやくことの重大さを認識した友哉は、気がつくと奇怪な声色で叫んでいた。どっと嫌な汗が全身から噴き出す。そんな彼の様子など我関せずに、奈緒は淡々とした口調で言った。
「あたし先に玄関で待ってるから。早く来てよね」
「あ、じゃ、じゃあ僕も財布取ってすぐに行くよっ。ホントすぐに行くから!」
わかった、という奈緒の声を背にして、友哉は取って返して自室に飛び込んだ。通学用のリュックをひっくり返して財布を取り出すと、机の上の鍵を取り床に放り投げてあったジャンパーを着込み、そのポケットに財布を突っ込み玄関まで駆け足。使い古しのスニーカーを履き、玄関のドアを開くと、黒いダウンジャケットのポケットに両手を入れた奈緒が壁に寄りかかっていた。
「それで? どこに行くの?」
玄関のドアに鍵を掛けた友哉は、その言葉に硬直してしまった。
考えてなかったのだ。そもそも夕食の誘い自体、咄嗟に口をついた計画性があるモノではなかったし、さらにいうなら肯定されるとは夢想だにしていなかった。断られて終了だと思っていたのだ。
「あー……そう、だね。えーと、あ、あ――」
妹の無言の圧力――本人にその気はないのだろうが――に、友哉は必死になって空回りする脳みそを働かそうとするが、そういうとき限って上手くいかないのが世の常である。奈緒の視線に急かされて、彼は頭の端に浮かんだ店の名前をそのまま口に出してしまった。
――そして十分後。呆然自失とした友哉は、牛丼屋のテーブルに座っていた。むろん自分の反対側の席には奈緒の姿がある。一歳違いの兄妹は淡々と牛丼を口に運ぶ。その間、会話はいっさいない。目の前のカウンターや隣のテーブル席で談笑が繰り広げられている中にあって、無言の二人の存在がかえって浮いていた。
黙々と牛丼に箸をつける友哉はしかし、その脳裏で激しく自分の選択を後悔していた。よりにもよって何故に牛丼。妹との食事――それも何年ぶりかの外食に対して、牛丼屋は流石にない気がしてならなかった。もう少しマシな選択肢があったのではないのか。
ついでにいえばこのとき友哉は、自宅のすぐ傍にファミレスがあるのを思い出していた。近くにファミレスがあるのに、わざわざ遠回りして牛丼屋とか。どんだけ牛丼好きなんだよ。
後悔先に立たず。いくら自分に突っ込んだところで時間は撒き戻らない。ああ、なんかこんなのばっかりだよな、僕……。
「……ごめん。奈緒」
居た堪れなくなり丼に視線を落としたままつぶやく。奈緒が身じろいだ気配がした。構わずに友哉は言葉を紡いだ。
「一緒に食事するの久しぶりなのに。もっと気を利かせられるとよかったんだけど。……牛丼はないよな、牛丼は」
本当に嫌になる。こんなんだから妹にも愛想つかれるのだ。
「……そう? あたし牛丼好きだけど」
底なし沼にずぶずぶと嵌っていくかのような心境の友哉だったが、ぽつりと発せられた奈緒の言葉に伏せていた顔を上げた。彼女は視線を兄と合わせることなく丼の中を見ながら言葉を重ねた。
「食べないの? 冷めると美味しくないわよ」
「あ、え――う、うん」
妹に促されるままに、友哉は止めていた箸を動かした。
知らなかった。奈緒って牛丼好きだったんだ。どこかズレたことを思いながら、友哉は奈緒の顔をぼんやりと眺めた。
相変わらず彼らの間に会話らしい会話はなかったが、不思議とさきほどまで背中に乗っていた重しが取れたような気がして、友哉は知らずに頬を緩めていた。
ジャンパーの中の携帯が振動したのはそのときだった。マナーモードに設定してあった携帯を取り出し、眼前に掲げた彼の表情が曇った。そこには非通知の文字が表示されていた。
「……もしもし」
『ヘキサか!?』
嫌な予感がしつつも電話に出ると、想像通りの人物の声が聞こえてきた。
『妹と仲良く食事しているトコ悪いが、いますぐ行ってもらいたい場所がある』
「約束の時間まではまだじゃないか?」
店内を見回しながら友哉は聴き返した。冗談抜きで監視されているのではなかろうか。情報がリアルタイム過ぎるだろう。
『予定変更だ。いまから三分ほど前にモンスターが出現した。近くにいたカンナに対処してもらっているんだが、予想していたよりも数が多い。彼女だけでは手に余るかもしれないんだ』
「他のヒトは? 僕以外にもいるんでしょ?」
『用事中。もしくは連絡がつかない。それに位置的にお前が一番近い』
告げられた場所は、ここから歩いて十分ほどのとある私立高校だった。確かに近い。けど――、と友哉は奈緒を見た。彼女もこっちを見ている。こっちから奈緒を誘ったのだ。だというのに、妹を置き去りにするというのは居心地が悪い。せっかく縮まった――と思う――距離も広がりかねない。
『頼む』
「……わかった」
ヒューリの真剣な声に、友哉は折れた。これでそのカンナになにかあったら、それはそれで夢見が悪そうだ。
『すまない。その代わりポイントはサービスしておくから。じゃ、急いでくれ』
「あ、まっ……切れた。……ていうか、ポイントってなんだよ」
言いたいこと言うと電話が切れてしまった携帯を見ながらつぶやく。そして携帯からこっちのやり取りを見ていた奈緒に視線を移すと、歯切れの悪い口調で言った。
「奈緒……その……ちょっと用事が出来ちゃって。いますぐ行かないといけなくなって……だから――」
奈緒からの返事はない。
怒らせてしまったかと友哉は唇を噛み締めた。
「……今度」
耳朶を打った声の伏せた顔を上げる。奈緒の双眸が兄の顔を真っ直ぐ見つめている。平坦でいてどこか照れたような声色で彼女は言った。
「今度またどこか連れてって」
「――うん。わかった。約束だ!」
妹の言葉に大きく頷くと、友哉は立ち上がった。彼が牛丼屋から跳び出すと、一度だけ店内の方に視線を走らせ、夜の街をわき目も振らずに駆け出す。心なしかその足取りはいつもよりも軽く感じる友哉だった。