断章 遥か遠き残響(3)
チク、タク。チク、タク。
室内に備え付けられた時計が、規則正しく時間を刻む。
時計の針は午前三時。ファンシー内の一日は二十四時間――現実世界と同じため、本来ならば眠りについている時間帯なのだが、その夜に限ってヘキサはまだ起きていた。
薄暗い室内はカーテンの隙間から差し込む月明かりで淡く照らされている。ヘキサはベットで横になって天井を見ている。眠れないのだ。
確かに普段からヘキサの眠りは浅い。寝つきが悪く、ちょっとした物音にも過敏に反応してすぐに飛び起きてしまう。最近は特にその傾向が顕著に現れている。
だが、ここまで寝られないのは久しぶりだ。目を閉じると昼間の出来事が脳裏を過ぎり、どうしても寝付けないのだ。
別れ際の彼女の笑顔。儚げでいまにも消えてしまいそうな微笑に、ヘキサは声をかけてやることが出来なかった。遠ざかる小柄な背中に一言、「一緒に行く」とすら言えなかった。
「……くそっ」
悪態を吐くとベットから跳ね起きる。ヘキサは窓際に寄るとカーテンを引き、窓を開け放った。夜の冷えた風が頬を撫でる。
夜空に冴え冴えと輝く二つの満月。双月の青白い光に照らされて、白い巨塔がその威容を闇夜に浮かび上がらせている。窓から眺める現実離れした光景は、まるで一点の絵画のようでとても神秘的だった。
しかしその幻想的な外容は見せ掛けに過ぎない。白塔の内部には無数のモンスターが犇めき合い、冒険者を貪欲に呑み込む魔物の巣窟と化しているのだ。
故に、その名をパンデモニウム。
パンデモニウムは天空都市アルキメデスの中央区に存在している。アルキメデスは天空に浮かぶ浮遊都市。元々はパンデモニウムしか存在しない不毛な大地だったのだが、魔窟に眠る財宝を求める冒険者と冒険者相手に商売をする行商人たちによって発展した都市である。いまやファンシーでもっとも繁栄と活気――死に満ちた都市であろう。
千の階層からなる迷宮塔。プレイヤーたちの目的は1階から順に上層階層を目指し、迷宮塔の最上階層――蒼天宮の間に封印されている魔王を打ち倒すことだ。
魔王・ツァラトゥストラ。永劫回帰の名を持つその人物は、魔物を従え遥か昔にこの世界を滅ぼそうとした存在だと伝えられている。
その強さは凄まじく、世界は恐怖と絶望の淵に叩き落された。人々を慈悲なく容赦なく蹂躙する魔の軍勢。世界が闇に堕ちようとしたそのとき、世界を救うべく十一人の勇者が立ち上がった。後の世に十一賢者と称えられる彼らは、魔王を倒すために神より特別な能力を授かったという。十一賢者は人類の力をひとつに束ねて、魔の軍勢に勇猛果敢に立ち向かった。
劣勢だった人類の反撃がここからはじまる。激しい激闘の果てに、十一賢者は魔の軍勢を打ち破り、魔王を封印の塔に追い詰めた。天空の浮遊大陸に聳え立つ封印の塔は、人類の叡智を結集して魔王を封印するために建造されたモノだ。
想像を絶する死闘の末に、十一賢者は封印の塔の最上部――蒼天宮の間にツァラトゥストラを封印することに成功した。かくして世界に平和が訪れる――はずだった。
百年ほど平和な時代が続き、人々から魔王の忌まわしい過去が消え去ろうとしていた。しかしそれを嘲笑うかのように、世界に再び異変が発生した。世界を浸食する闇。竜巻や津波、地震などの突発的な異常気象。各地でのモンスターの凶暴化。動物が魔物に変質する事件が後を絶たなかった。
これらの異常現象を調査した結果、原因と思われる要素が発見された。封印の塔。すべての異常はこの浮遊大陸を中心にして起きていたのだ。実に百年ぶりに封印の塔に足を踏み入れた先遣隊は驚愕することになる。
清廉潔白に保たれているはずの内部には、どす黒い瘴気が発生していたのだ。それだけではない。瘴気によって内部構造が歪み、まるで迷宮のような有様になっていた。どこから出現したのか。迷宮には魔物が我が物顔で住み着き、人々の希望であったはずの塔は魔物が闊歩する魔窟と化していた。
襲い掛かるモンスターに先遣隊はその数を減らしながらも調査を続行し、ついに元凶を特定するに至った。魔王だ。魔王の封印が弱まり、その影響が各地に伝播していたのだ。
かくして人々は朽ち果てた希望の象徴に挑むことになる。ある者は純粋に世界の未来のために。ある者は富のために。ある者は名誉のために。様々な想いを胸に秘め、冒険者たちは今日も最上階層を目指して、かつて封印の塔と称され、現在は千層迷宮塔パンデモニウムと忌みされる白亜の巨塔に戦いを挑んでいる。
――というのが、この千層迷宮塔に纏わる大まかな『設定』だ。
プレイヤー待望の超大型アップデート。それがこの千層迷宮塔パンデモニウムなのである。ファンシーのメインクエストに位置づけられる千層迷宮塔は、超大型の看板に恥じない難易度とボリュームを誇っている。
ヘキサたちプレイヤーが千層迷宮塔を攻略しはじめて、はや七ヶ月。いまだに攻略したのは499階層。半分にも達していないのが、その証拠である。明日はその折り返し地点である500階層の攻略――そこで待ち構えるボスモンスターの討伐日なのだ。
眼下に広がる街並みを睥睨するヘキサ。肌がピリピリと粟立つ。闇夜に沈み沈黙するアルキメデスは、異様な雰囲気に包まれていた。波紋のように広がる極度の緊張感が、街を異質なモノへと変貌させていた。
七ヶ月前、この世界で発生したパラダイムシストを機に、ファンシーはその在りようを一変させていた。表面上こそ目立った変化はないが、その裏側で世界は確かに変革している。
そしていま街を支配する極度の緊張感。ヘキサはその理由を知っていた。否、ヘキサだけではない。いまやファンシーでその原因を知らぬ者はいない。
異様な雰囲気の原因。それは500階層の攻略失敗にある。実は一週間前、すでに500階層のボスモンスターに挑戦したギルドがあるのだ。
天上天下と疾風の騎兵。二ギルドによる合同攻略。どちらも攻略ギルドの名門だ。総勢三十人のトッププレイヤーはボスモンスターに果敢に挑み――誰ひとりとして帰ってくることはなかった。
300階層以降、ボス戦での犠牲者がひとりも出ていなかったこともあり、その出来事はファンシー中のプレイヤーを震撼させた。犠牲になったのが名門のギルドだったのが、それに拍車をかけ結果になってしまったのだ。
しかし、だからといって迷宮塔の攻略を諦めるワケにはいかない。迷宮塔の攻略は、プレイヤーに残された最後の希望なのだから。
明日、ボス戦に参加する誰もが、厳しい戦いを強いられるのを痛感している。犠牲者なしで勝利を掴むのも半ば不可能に近い。口にする者こそいないが心の中では覚悟していた。
「……僕は」
ボス戦を病的なまでに避けるヘキサだが、過去に一度だけ参加したことがあった。250階層のボス討伐に参加したヘキサはしかし、なにもすることがなかった。
飛び交う怒号や炸裂音を前に、部屋の隅で戦闘の光景を突っ立って見ていることしか出来なかった。そう、なにひとつ出来なかった。加勢することも援護することもなく、HPがなくなり砕け散るプレイヤーの姿を瞳に映すことしか出来なかった自分。酷く惨めだった。もうあんな思いをするのはゴメンだった。
「……別に僕がいなくても大丈夫さ」
彼女は強い。凄まじい速度で打ち出される彼女の突きを防ぐのは、ヘキサとて容易ではない。反射神経は自分と互角。下ということはまずない。
それに彼女のギルドにはあいつがいる。天剣デュオ。それこそあいつが負ける姿などヘキサには想像すら出来ない。
彼女たちの他にも有名どこのギルドが多く参加するとも耳にしている。自分ひとりくらいいなくてもどうにかなるだろう。いや、むしろ以前みたいにビビッて足手まといになるのがオチだ。彼女たちのためにも自分は参加しないほうがいい。きっとそうだ。そうに違いない。
ヘキサは何度も何度も念仏のようにつぶやき、心に刻みつけると、窓を閉めてベットに潜り込んだ。頭からシーツを被る。外界と自分の間に壁を造るかのように、ヘキサは目をきつく閉じると耳を塞ぎ、子供のように身体を丸めた。