第三章 暁の旅団(5)
ヘキサが≪暁の旅団≫に入団した理由を端的に述べるなら、タイミングがよかったの一言につきる。クライスに勧誘を受けたのは、彼が街中を独りで歩いているときだった。
勧誘を受ける直前、ヘキサはすれ違ったプレイヤーの一団に憧れを感じていた。装備品に同じ刻印がされていることから同じギルド仲間と思われる一団は、弾んだ調子で楽しそうに談笑しながら歩いていた。その雰囲気にヘキサは羨望を感じたのだ。
自分もギルドに入ればあんな風になれるのか。クライスに声をかけられたのは、そんな思いを抱いたまさにその瞬間だった。
クライスの柔和な笑顔に背中を押されたこともあり、彼はその場で入団を決めた。それは様々な要素が絡んだ上での偶然だった。
もし勧誘したのがクライスではなかったら。もしくは声をかけるタイミングがズレていたのなら、彼が≪暁の旅団≫に入団することはなかったであろう。
そんな事情からギルド入りしたヘキサだったが、≪暁の旅団≫での生活は順風満帆とまでもいかないまでも、それなりに充実したモノだった。
当時、副団長だったクライスにはよくしてもらっていたし、多くはなかったが一緒に狩りに行く知り合いも出来た。
ヘキサがカイトと出会ったのは、自分なりに満足したギルド生活を送っていたそのときだった。そもそもはヘキサが彼の前でうっかり本気を出してしまったのがきっかけだった。
手を抜いていたわけではないが、ヘキサは団員と狩りに出かけるときは、なるべく目立つ行動を取らないよう心がけていた。不必要に注目が集めるのを嫌ってのことだ。≪暁の旅団≫解散以前、その実力に反してヘキサの名前があまり知られていなかったはそういった理由もある。
ところがその日、とあるダンジョンで狩りしている最中に、PTメンバーの一人が転移系のトラップに引っかかってしまった。しかも運が悪いことに転移先がボスモンスターの出現フロアだったのだ。そこでカイトを庇い本気で戦ったのだが、なにを思ったのか戦闘後、カイトが弟子入りしたいと言い出したのだ。
奇しくもカイトの装備は片手剣に盾。同じ系統の戦闘スタイルであったが故に、ヘキサの戦闘になにかしらの感銘を受けたようだ。
――師匠って呼んでいいですか!?
興奮気味に詰め寄るカイトに押し切られる調子で、ヘキサはそれを受け入れてしまった。それからだ。カイトと一緒に狩りに行く機会が増えたのは。
師匠になったといってもヘキサがしたことといえば、カイトの戦いかたを見て思いついたことをアドバイスしただけだったのだが、彼の腕がメキメキ上達していくのがヘキサの目からもはっきりとわかった。
それが自分のことのように嬉しくて、知らずヘキサは笑っていた。そんな充実した日々が続いていたある日、あの事件は起こった。
ボスモンスターがドロップした幻想武器を硬く握り締めて、興奮した様子で意味の通じない言葉を連呼するカイト。
その姿に同じ片手剣使いとして嫉妬しなかったといったら嘘になるが、その感情を押し殺してカイトを祝福しようと決めたヘキサは、一言「おめでとう」と口にした。
――ねえ。その武器、私に頂戴。
金髪の少女がカイトに近寄ったのはそのときだった。
こいつ頭がおかしいんじゃないか?
無垢な笑みを浮かべてそう言ってのける金髪の少女に、ヘキサは本気でそう思った。金髪の少女――ミフィルと狩りをするのは初めてだったが、その噂は彼の耳にも届いていた。曰く、≪暁の旅団≫の我侭姫。
彼女はヘキサのPTメンバーだったのだが、正直いってお荷物以外の何物でもなかった。いつも取り巻きに囲まれて、守られながら突っ立っているだけ――事実上なにもせずに経験値だけを分配される狩り――をしているために、レベルは高くてもそれに実力が伴っていないのだ。
これなら素直な分だけ、初心者のほうがまだマシなのでは、とうんざりしていたヘキサだったが、流石に臆面もなく飄々とした姿には開いた口が塞がらなかった。
大体、彼女は短剣使い。どれだけ凄い片手直剣を持ったところで宝の持ち腐れになるのがオチだ。
いつしかミフィルの取り巻き共もカイトに詰め寄り、彼女に武器を渡すよう口々に罵詈雑言を浴びせかけていた。
表情を一変させ困惑するカイトの前にヘキサは割り込んだ。これ以上くだらない戯言を吐くつもりなら実力で排除するつもりだったが、向こう側も不穏な空気を感じ取ったのかその場は渋々といった様子ではあったが大人しく引いた。
ミフィルたちのせいで嫌な雰囲気のままの解散となったが、この問題はこれで解決したとヘキサは内心で安堵していた。
だが、甘かった。このときヘキサはミフィルというプレイヤーを過小評価しすぎていた。もっと注意深く彼女の動向を把握しておくべきだったのだ。
それを怠り楽観視していた結果、ヘキサは取り返しのつかない過ちを犯すことになる。
ミフィルとの幻想武器を巡る衝突以降、どういうワケかカイトの元気がなく時々思い悩むような仕草をすることがあった。悩みがあるのかとヘキサが尋ねてもお茶を濁されてしまい、それ以上問いただすような真似はしなかったのだが、いまにして思えばそれが彼なりの助けを求めるサインだったのだろう。
それに気づかなかったヘキサだったから、憔悴した表情でファンシーを引退すると言ったカイトに彼は心底驚いた。
納得がいかずワケを問うヘキサに、カイトは泣きながらすべてを話した。
あれからずっと見えないところでミフィルに、幻想武器を渡すよう脅されていたこと。脅していることを誰に話さないことを強要され、悪質な嫌がらせに耐え切れなくなり幻想武器を渡してしまったことをすべて洗いざらいぶちまけた。
泣きじゃくるカイトの姿にヘキサは激怒した。
すぐさま取り巻きどもとくだらない談笑をしていたミフィルの元に行き、胸倉を掴みかねない勢いで幻想武器の返却を求めた。
ところが彼女は露骨に作り笑いを浮かべるとあれはカイト本人に貰ったモノだと主張し、しまいにはこれ以上付きまとうとセクハラで訴えると言い出した。
このままでは埒が明かない。
してやったりと馬鹿笑いをするミフィルたちを無視して、今度が≪暁の旅団≫の団長であるジェクトに詰め寄った。彼のほうからカイトに剣を返すよう促してもらおうとしたのだ。
だが、団長の反応は冷めたモノだった。必死の形相のヘキサに団長は雑な口調で言った。
引退したいのならかってにすればいい。団長のその一言に、頭の奥でなにかが切れる音をヘキサは確かに聞いた。
故に、濁った感情を抱きヘキサは決意した。必ず幻想武器をミフィルから奪い返し、カイトをファンシーに呼び戻そうと。
そしてヘキサは文字通り学校と食事と風呂以外のすべての時間をファンシーに注ぎ込んだ。目的はレベル上げと資金調達。特に彼は資金調達に比重を置いていた。今回の作戦のキーアイテムである蘇生の紫水晶を数多く集めるためには、莫大な資金を必要したからだ。
自分でも制御出来ない昏い感情に流されるがままに、ヘキサは無慈悲にモンスターを狩り続けた。機械仕掛けの人形のようにモンスターを狩るヘキサの姿を、通り過ぎるプレイヤーたちは不気味そうに見えていたが、彼は気にする様子もなくポリゴンの怪物を狩って狩って狩りつくした。
――そして、ついに待ち望んでいた日がやってきた。
ミフィルが団員を集め重大発表があると言ったのだ。内容こそ現地に行くまで秘密にされていたが、ヘキサはその内容の察しがついていた。
ついに計画を実行に移すときが来たのだ、とヘキサは口元に歪んだ笑みを浮かべた。
現地に先回りしたヘキサはそこで、ミフィルが来るのを草陰に潜んで待ち構えた。金髪の少女がいつもの取り巻きを連れ現れたのはそれからすぐだった。
取り巻きの数は七人。決行の機会はここしかなかった。彼女たちが背中を向けた瞬間、白髪の少年は剣を抜き放ち、猛烈な勢いで草陰から跳び出した。
結末は語るまでもない。
ミフィルから幻想武器を奪取したヘキサは激昂したジェクトたちを返り討ちにし、その足で予め連絡を取っていたカイトとの待ち合わせ場所に向かった。
凡そ一ヶ月ぶりに会うカイトは、淀んだ目をしていた。
もうファンシーに戻るつもりはない。幻想武器を差し出すヘキサに、カイトはハッキリとそう言った。
そこでどんなやりとりが行われたかはわからない。結果としてカイトは言葉通りファンシーには戻らず、幻想武器もクライスへと譲られた。
ヘキサは友と居場所を失い、代わりにひとつの称号を得た。
――マンイータ。
後に最凶のレッドネームプレイヤーと恐怖される少年に授けられた二つ名。罪悪の象徴を胸に、ヘキサはいまも架空の世界を歩き続けている。
ギィッと錆びた金属の擦れる音がした。
季節は秋から冬へと移行し始めて、日が落ちるのもずんぶんと早くなってきている。
切れかけの街灯が照らす夜の公園で、独り樋口友哉はブランコに腰掛けていた。最後に乗ったのはいつだったか。久しぶりに座ったブランコは、少し身じろぎするだけで軋んだ音を響かせた。
昼間は子供連れの母親たちで賑わう公園もいまは閑散として、友哉以外の人影は見えない。
学校帰りなのか。ブレザーを着た友哉は、気落ちした様子で缶コーヒーを片手にブランコを揺らしている。ブランコが揺れるたびにする軋み音に、鎖が切れるのではないかと少々不安になってしまう。
帰宅部の友哉が公園で独り、ブランコに揺られているのにはワケがある。ファンシーだ。家に帰れば半ば条件反射で仮想世界に接続してしまう。それが嫌で肌寒さを感じる夜空の下、こんなところで無意味に時間を潰しているのだ。
逃避場所が公園なのは、一人になれる場所がここしかなかったからだ。
「なにやってるんだろうなぁ。僕はさ」
手の中で缶がへこむ。
――師匠はがんばってください。応援していますから。
カイトとの最後の会話が頭からこびりついて離れない。
あれから一ヶ月。彼がファンシーに帰ってくることはとうとうなく、連絡もつかなくなってしまった。もう二度とカイトと出会うことがないであろうことを友哉は理解していた。
結局、自分がしたことは独りよがりの独善だったのではないのか。
友人を失った。居場所を失った。たくさんのモノを失くし、手に入れたのは人食いの二つ名。まったく。いつからだろう。歯車が狂ってしまったのは。
それなりに満足した日々を送っていたというのに。すべては気泡と化した。おまけに厄介事ばかりが自分の身に降りかかってくるようになってしまった。
「……やめちゃおっかな」
ぽつりとつぶやく。
ファンシーに接続するのは嫌なのなら、実に簡単に問題を解決する方法がある。アカウントを削除してファンシーを引退してしまえばいい。それだけで肩に積もった煩わしさから開放される。ミフィル? ナハト? ハズミ? ――リグレット。そんなモノ放っておけ。放置したところで樋口友哉になにかしらの害が及ぶワケでもない。どれだけリアルに造りこまれていようとも、所詮はゲーム。ただのお遊びなのだから。つまらないのなら止めてしまえばいい。
それは至極当然の結論だった。自分の性格は知っているつもりだ。こういった状況に陥ったとき、樋口友哉ならゲームを引退したはずだ。
事実、いままでやってきたMMORPGの中には、対人関係のトラブルが元で引退してしまってゲームもある。
ならばなぜ友哉は、マンイータと嫌悪と憎悪の眼差しを向けられながらファンシーを続けているのだろうか。
マイナス要素を補って余りあるほどファンシーに魅了されているから? カイトと交わした言葉? ナハトとミフィルに対する殺意? あるいはリグレットたちと会えなくなるのが寂しく思えるからなのか?
おそらくそれのどれでもありどれでもない。胸のうちに蟠ったモノを一言で述べるなら、そう――脅迫観念、だ。
正直にいえば、引退を考えたことは何度もある。だがその度に聞こえる声に、友哉は引退の選択肢を手に取ることはなかった。
立ち止まるな。どんなに罵倒され揶揄されようと、どれだけ苦痛に身を刻まれようとも、ただひたすらに走り続けろと。それこそが樋口友哉の存在理由なのだと。自身の奥の奥から無音の叫び声が聞こえるのだ。
いつでもどこでも。ずっとずっと限りなく。それもすべてはやく、そく、の――、
「ぐっ!?」
直後、脳を突き刺す痛みに、友哉はくぐもった呻き声を洩らした。手からコーヒーの缶が零れ落ち、中身が地面にぶち撒かれた。
「ったぁ。……ああ、もうこれもいい加減どうにかならないかなッ」
頭を片手で押さえて辟易した様子で愚痴った。
なんてことはない。いつもの頭痛だ。病気ではない。怪我をしているワケでもない。普段はなんら異常がないというのに、この手の事柄を考えるときに限って頭痛がするのだ。
これほどまでに友哉がファンシーにこだわる理由。その糸口を掴まえようとすると、決まって頭痛に襲われるのだ。
ときには刺すように。ときには殴るように。ときには爆ぜるように。あらゆる方法で思考を阻む頭痛。
それはまるで真実を悟られるよう誰かが邪魔しているような――。
「馬鹿らしい」
思考を自分で打ち切る。思春期特有の病気でもあるまいに。自分の思考回路に苦笑してしまう。ここまでくると病んでいると思われても仕方がない。
「……はあ。帰ろう」
頭痛が和らぐと友哉は足元に転がる缶コーヒーを拾った。それをベンチ横のゴミ籠に捨てようとして、異変に気がついた。
――、霧だ。
慌てて周囲に目をやると、以前ほどの濃霧ではないが、いつの間にか公園は霧雨のような乳白の霧に包まれていた。
心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が止まらない。背筋がチリチリと灼ける。風景はそのままに、雰囲気が一変していた。
霧が出ている出てないではない。明らかに世界が異質なモノとごっそりと入れ代わっていた。
「冗談でしょ……?」
吐き出される声は恐怖に振るえている。アレは夢ではなかったのか。夢だったはずなのに!
慄き後退った友哉の背後で、がさりと物音がした。口の中で小さく悲鳴を洩らし振り返る。ベンチ裏で伸び放題になっている雑草や木を掻き分けて、『なにか』がこちらに向かってきている。
硬直して動けない友哉の耳朶に、低いうなり声が聞こえてきた。
野良犬?
うなり声を上げる『なにか』をそう判断した友哉だったが、その直後に自分の判断を撤回しなければならなくなった。
木々の間から『なにか』がひょっこり姿を見せた。その『なにか』の正体を友哉は知っていた。
――リザードマン、だ。
ひょろりとした細身の二足歩行の蜥蜴。黒ずんだ布切れを緑色の肌に巻きつけ、右手には錆びついた直剣を握り締めている。ぎょろりとした濁った瞳を揺らし、歯の間からだらだらと唾液を垂らしている。
それを見間違うはずもなく――中央都市パンゲアの南の森林ダンジョンに生息する下級モンスター、リザードマンそのモノだった。
「――いやいや。そんな馬鹿な」
友哉は目の前の爬虫類に思わず半笑いしてしまった。笑うしかなかった。それ以外、目の前の悪夢に対抗する手段を持ち合わせていなかった。
だが、それがいけなかった。
リザードマンの動きが一瞬だけ止まり、ぐるりと緩慢な動作で友哉のほうを振り返った。爬虫類特有の無機的な瞳孔が、眼前の少年の姿を捉えて萎まった。
二足歩行の蜥蜴は小首を傾げると身を丸め――棒立ちの友哉目掛けて跳躍した。
闇夜を疾る白刃。上空から落ちてくる刃を、呆けた表情で立ちつくす友哉が避けられたのは、偶然でしかなかった。
生命の危機に無意識で一歩後退った拍子に、転がっていた石ころを踏みつけて転倒したのだ。結果的に少年は命を救われることになった。
友哉の首を跳ね飛ばすはずだった剣は、彼の髪の毛先を掠めると勢いあまって地面を叩いた。
尻餅をついた状態で空を仰いだ友哉とリザードマンの目があった。無機的な琥珀の瞳が彼を見下ろしている。それは無色だった。なんの感情も宿していない人形の目。
死んでいた。生きているのは運がよかっただけ。しかしそれも時間の問題だ。この場に留まっている限り、待ち受けているのは確実な『死』だ。
「うあぁぁぁ――――ッ!」
硬直していた身体が動いた。外聞もなく悲鳴を上げた友哉は、握り締めていた缶を蜥蜴に投げつけると、脱兎の如く逃げ出した。
全身に巡る血流の流れが知覚出来る。破裂しかねないほど速く心臓が鼓動を打っている。視覚が歪んでいるのは霧のせいだけではあるまい。
どこでもいい。ここではないどこか。ヒトがいるであろうところを目指して友哉は、半ば地面を這うようにして公園の外へと逃げようとした。
公園と道路を隔てる境界線まで後一歩に迫ったときだった。背後から高周波じみた叫びが聞こえて、次いで首筋に強い圧迫感を感じた。
出口がすぐそこまで迫っているというのに、咄嗟に友哉はその場で身体に制動をかける。右足で地面を強く蹴り、左方向に跳んだ。考えてのことではない。仮想世界で得た経験が彼の身体を条件反射的に動かしたのだ。
さきほどまで友哉がいた場所を剣が切り裂いた。蜥蜴男が逃げる少年の背後を手に持つ凶器で横薙ぎに斬ろうとしたのだ。
勢いが余り着地に失敗して、ごろごろと地面を転がる友哉。ジャングルジムにぶつかりようやく止まると、ふらふらとしながらも起き上がった。
その右腕から鮮血が滴った。見るとブレザーの二の腕の部分が裂けている。リザードマンの直剣の切っ先が掠っていたのだ。
二の腕を押さえる左手の間からぬるぬるとした赤い液体が零れ落ちる。傷口が熱を持ち、ジクジクとした鋭利な痛みが脳を突き刺す。
「……痛い」
額に脂汗を滲ませて友哉はつぶやいた。
当然だ。これは現実。仮想世界ではないのだ。斬られれば血が出るし、痛みもある。子供にも判る単純明快な答えだ。
「……くそ。……くそ、くそ、くそッ」
なんで自分がこんな目に会わなくてはならないのだ。一体、僕がなにをしたっていうんだ。理不尽な現実に悪態が口をつく。
「ちくしょう。こんな雑魚なんかに……ッ」
雑魚。そう確かに『ヘキサ』から見れば、レベル15の蜥蜴男は雑魚といって差し支えないだろう。
ファンシーにおいてリザードマンは、初心者にとって最初の壁と言われている。何故ならばリザードマンはプレイヤーがファンシーで最初に遭遇する、スキルを使用してくるモンスターだからだ。
それ以前に出現するモンスター――亜人系のゴブリンやコボルト。獣牙系のハウンドドックなどは武器の振り回しや牙の噛みつき、爪の切り裂きなど単調な攻撃しかしてこない。
いうならばスキルによるゴリ押しが通じる敵だったが、プレイヤーと同様にスキルを扱うリザードマンはそう簡単にはいかない。
軽い気持ちで望むと痛い目を見ることになる。初見ではまず勝てないであろう強敵なのだ。ことによっては十分なレベル差があっても敗北してしまうかもしれない。勝つためにはスキルを使いこなすことが大事になるのだ。
当時のヘキサもリザードマンには苦渋を飲まされた。どうにか倒した後も、蜥蜴男を練習台に片手直剣スキルの腕を磨いたモノだ。
とはいえ、それとて遠い昔の話。雑魚が束になったところでいまのヘキサの敵ではない。――だが、ここにいるのはヘキサではなく樋口友哉なのだ。
ただのゲーオタである友哉にとって、目の前の蜥蜴男は致死性の猛毒なのだ。
リザードマンが身を丸めて、低い唸り声を発している。逃がす気はないということのようだ。じりじりと距離を詰める異形に友哉は覚悟を決めた。
公園の出入り口はすぐそこだ。リザードマンの攻撃を避けて、その隙に一気に出入り口まで駆け抜ける。
恐怖と痛みで感覚が麻痺しているのか。自分でも不思議なくらい冷静にそう判断して友哉は、痛みに散漫になる意識を束ねてリザードマンの動きに注視する。
大丈夫。出来るはずだ。幸いリザードマンの攻撃パターンは頭に入っている。攻撃の先読みの可能なはずだ。仮想世界の情報が目の前の蜥蜴男にどこまで通用するのかわからないが、やるしかなかった。
意味も理由もわからない。現在自分が置かれている現状などそれこそ皆目検討もつかない。それでもそれしか生き残る方法はない。理屈など生き残った後に考えればいい。
緑鱗の蜥蜴男がこっちに真っ直ぐ突っ込んでくる。右手の錆びた直剣は大きく振りかぶられている。大上段の振り下ろしからの斬り上げ。相手の動きからそう目安をつけた友哉は、剣の軌道に全集中力を傾けた。
瞬間、切っ先が真っ直ぐ振り下ろされる。同時に友哉は身体を左に傾けた。半身になった彼の脇を白刃が通り過ぎる――かに思えたその刹那、切っ先が翻り方向を変えた。剣の直進上にあるのは少年の首。
だが、その太刀筋も友哉の予想のうちだった。半身になった身体を地面に伏せる。際どいところで頭上を通過する刀身を横目に、そのまま友哉は蜥蜴男の横を駆け抜け――直後、腹部に鈍痛が発生した。見ると下腹に太い緑色の尻尾がめり込んでいた。
身体が浮遊感に包まれる。上空に吹っ飛ばされた友哉はしかし、地面に叩きつけられた衝撃に地面をのた打ち回ることになった。
「げほッ……がはッ、うげぇッ」
堪らずに嘔吐した友哉は、胃の中のモノをすべて吐き出した。昼間食べたモノを吐き出しても嘔吐は止まらず、口元まで上がる胃液に喉が焼ける。
油断した。以前にもそれで痛い目にあったというのに。剣の動きに注意が行きすぎ、尻尾による攻撃を失念していたなんて。
後悔しても手遅れだった。遠心力が乗った尻尾による強打をまともにもらったにも関わらず、内臓が破裂しなかっただけ運がよかったともいえなくもないが、そんなモノはいまの友哉にはなんの救いにもならなかった。
むしろ苦痛が長引く分だけ、不幸だとすら思えた。これなら一思いに――、
「ひと……おもい、に……なんだって……?」
指先が地面を削る。口元の汚物をそのままに、面を上げる。
「は、はは……冗談でしょ?」
息も絶え絶えな友哉の霞む視界には、絶望的な光景が映っていた。増えているのだ。緑鱗の蜥蜴男の数が。
残像が実体化する。薄っぺらい影でしかなかった異形の残像が、確かな実体を得て、この世界に確かな個として具現する。二、三……四。わかるだけでも七匹はいる。
瀕死の草食動物に集るハイエナのように、リザードマンは倒れ伏す友哉を取り囲む。耳障りな唸り声が耳朶を叩く。
友哉を見下ろす一匹が、切っ先を下に向けて掲げた。
「あ」
死ぬ。死んでしまう。アレが落ちてくれば友哉の頭を貫き、彼は絶命してしまうだろう。
いや、だ……。力が欲しい。目の前の理不尽を一掃出来る力が。目の前の絶望を薙ぎ払う力を、友哉は欲した。
切っ先が落ちてくる。後は一瞬。一秒後の未来には、頭を貫かれた自分の姿があるだろう。
「嫌だ……」
まだ死にたくない。
不自然なほどゆっくりと落ちてくる刃を瞳に映し、友哉は心の底から願う。力を。力の象徴を。友哉にとっての力の象徴――例えば、例えば、例えば――白髪に色素の薄い瞳。白いレザーコートを翻す――。
ふと気がつくと、友哉の右手に硬いモノが握られている。どこにそんな力が残されていたのか。それの正体も確かめずに、友哉の胸に抱いた衝動のままに、身体を跳ね上げ右手を振り抜いた。
直後、闇夜に火花が散り、鉄と鉄の噛み合う硬質な音が公園に木霊した。
「――、えっ?」
錆びた剣を受け止める両刃の直剣。
街灯の光を反射し鈍く輝く、使い込まれた肉厚の刃。敵を斬ることのみ特化した無骨な片手剣。見間違うはずもない。もうひとりの自分。ファンシーにおける自らの分身。マンイータ、ヘキサの愛剣。片手両刃直剣ペルシダー。
左方向から別のリザードマンが斬戟を見舞う。友哉は噛み合う剣を押し込み蜥蜴男を突き飛ばし、身体を独楽のように回転させた。
遠心力を加えられた刀身がリザードマンの腕を斬り飛ばす。腕を切断されたリザードマンの絶叫が夜の公園に響き渡る。切断面から血が流れることはなかった。代わりに仄かに発光する燐光が傷口から溢れている。
友哉は剣を手元に引き戻し、下段に構える。
身体から傷みが引き、霞んでいた視界が正常に戻る。かつてないほど全身に力が漲っている。得も知れぬ充実感に友哉は笑っていた。
「はは」
不思議だった。さきほどまで怖いと思っていた蜥蜴男を前にしても、いまは恐怖を感じなかった。むしろ少年の放つなにかに圧迫されたかのように、リザードマンの群れのほうが後退する。
「それもそうか」
怖いはずがない。いくら頭数がいようとも、所詮はレベル15の雑魚敵なのだ。こんな雑魚に僕が――俺が、負ける筈がない!
「うおおおお――!」
内から湧き上がる衝動のままに樋口友哉――否、ヘキサは吼えた。
思考が切り替わる。いまこの場に存在するのは学生・樋口友哉ではなく、仮想世界の剣士であるマンイータ・ヘキサ。
視界の焦点が定まり、自身を取り囲むリザードマンの動きが手に取るように判る。右手の柄がよく馴染む。本来、単なる電子データでしかないはずのポリゴンの剣は、現実世界で金属特有の硬質な輝きを放っている。
ヘキサが滑るように身体を前にやる。斜交いに振られる剣を弾き、上体が泳ぎがら空きの蜥蜴男の胴体に刀身を叩き込む。
やはり血は出ず、吹き出した燐光に淡く照らされて、蜥蜴男は断末魔と共に割断。三次元が二次元に。厚みを失った緑鱗の痩身が硝子みたいに砕け散った。
まずは一匹。
降り注ぐ光の残滓を纏い、ヘキサは次なる標的に足を踏み出す。リザードマンを睨みつける目つきは鋭い。友哉は完全にヘキサに切り替わっていた。
左右からの直剣をバックステップでかわす。間髪いれず懐に潜り込み剣を一閃。肉厚の刀身は不気味なほどあっさりと蜥蜴男を両断し、翻る切っ先が右腕のない蜥蜴男の首を跳ね飛ばした。
風を唸らせ迫る尻尾を剣の一振りで切断する。苦痛にのたうつ蜥蜴男に回し蹴りを喰らわせると、異形の痩躯が中空に浮かんだ。放物線を描き吹き飛ぶ蜥蜴男は、公園の中央にある時計台に激突した。まるで車の衝突事故だ。白い柱は半ばから折れ、崩れ落ちる時計台が緑鱗の痩躯を押し潰した。瓦礫の隙間から溢れた燐光が宙に浮遊する。
公園を埋め尽くさんばかりの勢いで、増殖し続けていたリザードマンは、その数を瞬く間に減らしていく。増殖が止まったわけではない。こうしている間にも霧に包まれた公園では、新たなリザードマンが『生産』され続けている。それにも関わらず数が増えるどころか減っている理由は明白だった。
ヘキサの殲滅速度が、リザードマンの増殖速度を超えているのだ。
最初は一匹の『生産』時間に対して一匹の討伐だったのが、二匹になり三匹になり、いまや一匹が『生産』される間に四匹は屠っている。
そしてそれは現在進行形で尚も加速している。
二十、二十一……ッ!
声には発さずに砕け散るリザードマンをカウントする。緑鱗の蜥蜴男が光の残滓に変わるごとに、自身が強くなっていくのを知覚出来た。
否、『強くなる』というよりは『近づいている』というべきか。白髪の少年に。マンイータ、ヘキサに。剣を振るたびに少しずつイメージの齟齬が埋まっていく。頭の中に焼きついているモーションに、身体の動作が重なっていく。
不思議なことに長時間身体を酷使しても疲れることはなかった。むしろ酷使すれば酷使するだけ力が増す気さえした。
ヘキサは自覚していないようだが、すでにその動きは常人には模倣不可能な域に達していた。仮想世界だからこそ許される動作を、彼は現実で再現して見せている。
耳障りな雑音を駆逐するべく、剣を振り続けるヘキサ。剣が霧の闇夜に閃く度に、金属音が響き、淡い燐光と火花が飛び散る。彼の周囲には大量の幻光が乱舞し、それはどこか幻想的で現実のモノとは思えない光景であった。
しかし、それも当然か。相対するは、異形の緑鱗の痩身の群れにいまの時代、博物館でしかお目にかかれない無骨な片手剣を自在に振るう少年。両雄ともこの世ならざるモノであるが故に、異質な光景になるのはむしろ当然といえる。
今宵、この公園は常識より乖離した異界と化していた。
正面のリザードマンを猛烈な突きで仕留めると、振り向きざまに背後から襲いかかろうとしていた蜥蜴男を袈裟斬りにする。
緑鱗の痩躯の傷口から燐光が噴き出し爆散した瞬間だった。ヘキサの左斜め後ろに新たな蜥蜴男が『発生』した。
そのリザードマンが剣を上段に掲げているのに対して、ヘキサは剣を振り抜いてしまっている。咄嗟に身体を反転させようとするが、僅差で間に合わない。
哄笑じみた鳴き声に唸らせ、錆びた剣がヘキサの左肩に振り下ろされる。剣が彼の肩肉を喰い破らんとし――刹那、突如としてヘキサの左腕に出現した小型の円形の盾が、錆びた刀身を防いでいた。
盾の表面で剣を滑らせて、前のめりにつんのめった蜥蜴男の首を跳ね飛ばす。高々と宙に舞った緑鱗に覆われた蜥蜴の頭部は、地面に落ちるよりも早く光の粒子になり消滅した。
いつの間にやらひしめき合っていた蜥蜴男の群れは、ついに前方にいる十二匹のみになっていた。――否、違う。十二匹の蜥蜴男は金属の軽装鎧を纏っていた。鱗も緑から赤茶けた色に変わっている。リザードマンの上位種、レッドリザード。レベルも二十五になり、強さも格段に上がっている。
十二匹のレッドリザードは雄叫びを轟かせると、大ぶりの直剣を掲げて正面からヘキサ目掛けて殺到した。
ヘキサは不動。こちらに向かってくる異形の軍勢を見据え、片手直剣を上段に構える。
これからヘキサが行うとしていることは、成功するかどうか確証はなかった。だが、可能性はある。成功する勝算もある。なによりもそれが可能だと、本能が告げていた。
さっき突如として蜥蜴男が出現した際、迎撃が間に合わないと悟ったヘキサは、咄嗟に盾を脳裏に思い浮かべた。そして空想は現実へと転化した。ペルシダーに続き、愛用の盾も現実世界に出現した。
ならば出来る。出来ると信じるのだ。
深く、鋭く、呼吸する。ヘキサは地面を蹴るとレッドリザードの群れに突っ込んだ。頭の奥で初期動作を叩き起こす。初期動作と身体動作を連動させてイメージを重ねる。
先頭の蜥蜴男に斜交いに振られる剣。その刀身が眩い真紅の閃光を纏った。真紅の刀身が赤い鱗を容易く切り裂き、跳ね上がった剣先がその後ろにいたレッドリザードをまとめて薙ぎ払う。ヘキサは止まらない。真紅を纏う剣が連続で閃く。肉厚の刀身は赤鱗の痩躯を両断し、横薙ぎの一撃が噛み合った直剣ごと最後のレッドリザードの身体を切断した。――【片手直剣】スキル、ブラスレイター。
絶叫が霧の公園に木霊する。内側から光の粒子を散らし異形の痩躯が炸裂した。一際盛大に舞い散る燐光にヘキサは目を閉じ――開くと、出現したときと同様の唐突さで、霧が晴れていた。世界より切り離されていた夜の公園は、通常の空間に復帰した。
接続が切れる。思考がヘキサから友哉に切り替わる。
友哉の手から滑り落ちた片手直剣が砕け散った。同様にブレザーの上から左腕に固定されていた小型の盾が、砂状の粒子になり闇夜に融ける。
両足ががくがくと震える。疲労が一気に友哉に圧し掛かり、彼は地面に大の字に倒れこんでしまった。全身から汗が噴き出し、肌に纏わりつく服の感触に眉をしかめる。
まるでさきほどの悪夢を忘れとばかりに、静まり返る公園からは異質なモノは残滓ひとつ残さずに消えていた。
崩れ落ちたはずの時計台が、何事もなかったかのように時間を刻んでいる。リザードマンによって破壊された遊具も元通りになっている。なにもかも霧が発生するよりも前の状態に復元されていた。
それは友哉にしても例外ではない。
ふと彼が右腕に視線を落とすと、切り裂かれたブレザーには解れすらなかった。驚いた少年は弛緩する身体に鞭を打ち、上半身を起こすと上着を脱ぎ、Yシャツの裾を捲くった。街頭に照らされる肌には傷の痕跡すら残されていない。痛みもない。腹部の鈍痛も消えている。
蜥蜴男との死闘が現実だったと示す物的証拠はひとつもなく、彼の記憶以外にそれが実際に起こったことだと確かめる術はなかった。
呆然とした様子で友哉はつぶやいた。
「なんだよ、これ……。現実、なんだ……よね?」
戦慄く友哉の声に応える者はなく、冷えた風が夜の公園を吹き抜けた。