第七章:英雄<ヒーロー>
第七章:英雄<ヒーロー>
しばらくお母様の玩具になっていると、満足したようで頬を離し、膝から僕を降ろす。心なしか、肌がツヤツヤしています。
ニコニコと微笑むお母様は嫌いではないですし、魔術について教えてくれる時も普段の優しい笑顔とは違う真剣な顔も好きです。
なので一秒でも長くその雰囲気を維持してほしいのですが……。
「レイ。一緒にお風呂入ろうか」
一秒でも早く子離れしてください、お母様。割りと真面目に。
「……忘れているようなので、もう一度言いますが、僕は前の世界で十五年。こっちで三年生きています……。十八ともなれば、僕が居た世界ではある種の「大人の階段」を上り終えた段階にあります。ですので、あまり子ども扱いしないでください……」
コンビニのトイレの前の本棚コーナーや、DVDレンタルショップではカーテンでしきられ、向う側への世界は足を踏み入れたことが無い。ある種の秘境とでも呼べるもの。
それが十八になれば解禁される。一度も足を踏み入れずに、コッチの世界に来たのは少し心残りがあったりなかったりしますが、それはまた別の話。
「気にしすぎじゃないかなぁ、君はもう私の子なんだよ?」
「……あと、お母様今年で二十四歳だと記憶していますが……?十八と二十四なんて姉弟のレベルですよ……それに、あの……愚痴の比じゃないんですよ……?お父様あれで結構嫉妬してるんですから……」
「全く、男の嫉妬なんてみっともないわ。レイはあんな男になっちゃダメよ?」
「実の息子を前に、父の事を悪く言うとは……」
「もちろんオズには内緒ね?」
可愛らしく片目ウィンクで口の端から舌の先を少しみせる。いわゆるテヘペロであろうが、歳を考えてください、お母様。
「……何か今、良くない波動を感じたわ。レイ?何かこう、私に対して何か抱いたかしら?」
「イエ、ナニモ。お母様は今日も美人だな、と思いました」
「ならば良し」
お母様は椅子から立ち上がると、軽く伸びをしてから膝から僕を降ろした時のように脇に手を入れ再び抱えられ、歩きだす。
変性魔術で作り出した異空間にある扉へと。我が家へとつながっている扉へと。
「膝に乗せた時も思ったけど、重くなったよね、レイ。筋肉ついてきた感じがする」
「重いのなら降ろして下さい。子ども扱いしないでほしいです」
「その割には暴れたりはしないよね。口では嫌々言っても身体は求めるものなのよ。……さ、お風呂にいこっか」
そうだった、そんな話をしてた気がする!一緒にお風呂入るなど、お父様が知ったら確実に明日は練習がしんどくなる!
「お、降ろして下さい!」
「こら、暴れないの。……<バインド>。――さ、これで問題なしね」
「いや、大ありですから!あと、拘束魔術使わないでください!」
お母様の腕の中で暴れようにも、完全に<バインド>で拘束されている。身体に太い鎖が巻き付いたかのような圧力が加わり、身動きが全く取れず腕に抱かれたまま徐々に扉へと近づく。
「おやおやぁ……?十八歳にもなるレイさんは、嫌々言いつつ実は一緒に入りたかったのですかぁ?身動き一つされませんねぇ?」
<バインド>しておきながら何言ってんですか!?瞬きと眼球、口くらいしか動かないから!
こ、このままでは三歳にして大人の階段を登ってしまう気がしてなりません!女性の裸体を見た経験なんて、記憶を巡っても河川敷に落ちていた雨に濡れてしけった本でしかないですよ!?
い、いやまぁ……興味が無いわけではないですが、相手が実の母ってどうなんですか?
「全く我が子ながら情けないですねぇ。強化、もしくは変性魔術を用いて防ごうともしないだなんて」
「お母様が五歳になるまでは魔法を使ってはいけない、と言ったからでしょうに!それに、詠唱文も教えてくれないのですから、どうやって唱えろっていうんですか!」
最も、詠唱文を覚えたからと言ってすぐに使えるようなものでもないらしい。
早く試したいのだが、お母様程の魔術師になると、簡単な魔法は無詠唱で唱えられる上に、詠唱文が書かれた魔術書は一切読む事を許してもらえない。
とどのつまり、「使える」「使えない」以前に、「知らない」のだ。
「それはそうよ。まだ身体と心が未成熟なうちは魔術は禁止。この国にいる人なら誰でも知っている事だわ。別にレイが特別っていう訳じゃないのよ?」
「か、身体は未成熟かもしれませんが、中身は十八です!」
「だからこうして、実践はさておき知識だけは与えているでしょう?それで我慢なさいな」
クッ!
この場合一番用いられる魔術は変性魔術のうちにはいる、<ディスペル>と呼ばれる魔術のはずだ。己、あるいは対象にかかった魔術作用を打ち消す。
という知識は持っていても、詠唱文も知らないうえに、魔術を使ったためしがない。
「はい。それじゃ観念したようなので、お風呂に行こっか」
「ちょ、ま!そ、そうだ、アレクシスさんの所に剣を受け取りに行ってきますので――」
「さっき置いてきたばかりでしょう?それにいつも朝、オズとの鍛錬に行く前に取りに行くじゃない」
扉を開け、家に戻ると扉の前にある止まり木からアヴーが飛び立ち、お母様の右肩に乗る。
「アヴーも大きくなったよねぇ。たまにはお母さんに会いに行っても良いのよ?」
返事は無く、眼を細めたアヴーがお母様の頬に嘴をこすりつける。
「私もたまには里帰りしなくちゃだよねぇ……。レイも、興味ある?アヴーのお母さんも居るのよ?」
「いや、まぁ……。興味はありますけど……、お母様はあまり身体が丈夫ではないとお父様より聞いています。ですので、ご実家が首都にあるのは聞いていますが片道馬車で二日の道のりは、少々堪えるのでは?」
「そうね。否定はしないわ。でも、今度元気な時にオズと三人で首都まで行きましょう」
そう楽しそうに微笑むお母様を見上げて、観念したように腕の中でもがくのを止め、胸元に耳を当てるとトットットと鼓動が聞こえる。
しかしそれも、一定のリズムで刻まれているのならともかく、時折、トットト……トットト、と二度跳ねるような音がする時があり、不整脈である事を示していた。
身体が丈夫ではない。その一言で語ればそれまでなのだろうが、実際は違う。
お母様の身体を蝕んでいるのは、明確な病名があり、その変化は初めてお母様を見たときからかなりの変化をもたらしている。
それにお父様は気づいているのだろうか。
いや、僕が気づいているくらいなのだらか、お父様はとうに気づいているはずだ。
お母様の髪が光りを照り返す銀色から、白でもない白堊色に近くなっている事を。
白死病。魔術師が発症することの多い、死に至る病。魔力<マナ>の消費をする事で、徐々に身体を蝕んでいき、その生を全うしようとする時、寿命に関係なく髪の色が白堊色に染まる。
魔術師は本来体内で生成される魔力<マナ>の生成速度が抜きんでており、溢れてしまっている。魔術師として才能を得れば得るほど、白死病は毒となりうる。
そんなお母様に「首都に行きたい」などと「田舎から出てみたい」と口には出せない。
お母様の提案にただ口を噤んで、静かに心音を聞いていると、お母様はまた笑みを作り、静かに頭を撫ぜてくれた。
「レイは優しいね」
「……別に。ただ、その……」
何を言えば良いのかわからない。
でも、何かを言いたい。もどかしい。
一度、死んだ人間に、ましてや十五年しか生きていなかった人間。そのうえ、親より早く他界した身が何て声をかければ良いのか。
そんな事を考えていたら勢いよく玄関の扉が開かれ、粗悪な鎧を纏い、左の二の腕に赤い布を巻いた男性が飛び込んでくる。
「ナタリアさん!大変だ!村の近くにモンスターが出ちまった!……うちの若い衆が様子を見に行って返り討ちに合った……今、詰所にけが人が集まってる!頼む、手を貸してくれ!」
村を守る有志の集まり、自警団。左の二の腕の赤い布はそれに属している事を示し、有事の際は矛となり、盾となる。
その一人が家に来たこと。内容を告げた事で、お母様の微笑んでいた顔は一変。何か焦っているかのように、微かに下唇を噛んでいた。
「すぐに行きます。先に詰所に戻り、重傷者から処置できるようにして下さい。あと、最悪の場合を考えて、村長のオルヴァさんを呼んでおいてください」
「わかった!なるべく急いでくれよ!」
短くそう告げると自警団の人は家を出て行き、村の中央へと駆けていった。
お母様を見上げると、小さくため息をしてから、僕を拘束していた魔術を解き、しゃがんで頭を撫ぜてくれる。
「レイ。お母さん少し用事が出来たわ。オズが居ない今、私が行かなくちゃいけないの。レイは大人しく待ってるのよ?」
「ま、待って下さい!お父様から、戦闘に使うほどの魔術の使用は禁止されているはずです!」
「大丈夫よ。レイの言う通り、ココ最近ずーっと引きこもってたもの。少しは運動しなくちゃね」
頭を撫ぜるのをやめて、玄関へと歩き出し、扉を開けて外に出るお母様。
ゆっくりと閉じ行く扉を見つめ続けていると、最後の一瞬微かな隙間から振り返るお母様の苦笑が見えて、無性に心がざわついた。
見送っちゃいけない。何が出来るか解らないけど、ついていかなくちゃいけない。
そんな気がしてならない。
でも、追いかけて何が出来るんだろう。お母様の足を引っ張った挙句、困らせる。そんな未来しか想像できない。
――、変わってない。あの平凡に生きていた世界で、唯一平凡じゃなかった夢。
「英雄になりたい」。この世界に来て、お父様やお母様に「どうなりたいか」と問われた時、真っ先に口を割って出た言葉でもあったはずだ。
その夢のために、練習をしてきた。訓練をしてきた。それなのに、変わってない。コッチの世界で守りたい人を一人さえ守れない。
怖い、のとは少し違う。
平凡な僕が行っても何も出来ない。お父様の様な剣技の天才ではない。お母様の様な魔術の天才でもない。
そう、それは前世でも嫌と言うほど味わった。
そんな者にはなれっこない、という――諦め。
「……、変わってない。一度、自分に幕を下ろしても……変わってない」
そう口にすると、自然と頬が緩んだ。
でもそれは失笑というものなんだろう。鏡を見るまでもない。
そのときだった。
勢い良く開け放たれた扉から、一人の女の子が飛び込んできた。
人見知りが激しくて、僕の一歳年下で、肩までの短く青白い髪を宿した女の子。
その身長程もあろう血塗れ、折れた杖を抱えた、一人の少女。
そして少女は口にした。
「たす、けて!――おじい、ちゃんを、助けて!」
その一言で、僕の中のスイッチが切り替わる。
いつだったか。――決まってる。三年前と一緒。
前の世界と別れを告げた、あの一瞬に耳に入った一言。あれが聞こえなければ、僕は動けなかった。
――助けて、と。
劣化している。抜きん出た才能を有さない平凡な僕は。
模倣している。物語に出てくるような、たった一人で全てを解決できる、そんな存在を。
英雄になりたいなんて夢を抱いてた、僕だからこそ、大きく一歩を踏み出せた。
三年前のあの日のように。