恋のコピー機、と書いてキューピッドと読む。
野間口鮎子は、機械と呼ばれる類のものがあまり得意ではなかった。パソコンやスマートフォンなどの生活や仕事に必要とされる機械はなんとか使うことが出来たけれど、配線やセッティング、ちょっとした修理なんかはたとえ説明書があったとしても出来る気がしなかった。
そんな彼女にとって一番苦手なもの。それは。
「あー! また紙詰まりぃ」
すでに半泣きの彼女の天敵は、そう、オフィスレディの相棒とも呼べ、一般的にはコピー機という名で親しまれている……複写機であった。
紙詰まり程度なら通りがかった男性社員にでも頼めばすぐに直る。けれどそれも間髪空けずにとなると頼みにくくもなるものだ。ちなみ今日は三度目の紙詰まりである。
いっそ彼女にコピー機を触らせなければいいのではと思う方もいるだろう。しかしそれ以外の仕事は恙無くこなす鮎子を非難する要素は少なく、人手の足りない事務課としても人材を浮かすことができないのだ。
データでのやり取りやタブレットの導入で印刷自体の需要も減っているため最悪コピー機がなくてもなんとかなることも多い。
紙媒体は紙媒体で必要とされるケースも必ずあるのだが、今のところ急ぎの仕事などでは誰かに頼ることで回避したりもしている。
それでも鮎子がコピー機を使わなくてはならないときが確かにあるのだ。
誰もいないフロアにピーという音が無情に響く。昼時の今ご飯を交代で取るため今ほとんどの同僚は社外だ。
《エラーが発生しました。電源をお切りください》
音声メッセージとともにコピー機はロックがかかってしまった。鮎子の一番嫌いな言葉である。
「ひー、ついに恐れていたエラー表示が来ました……」
しかしそんな彼女にも強い味方がいる。短縮番号に入っているナンバーにすぐさまコールをかけた。
『……はい』
「あ、あの……」
『ああ、“いつもの”ですね。すぐに向かいます』
「あ、宜しくお願いします」
名乗る間もなく了承された相手は鮎子の会社が契約しているコピー機のメンテナンス会社。向こうにとっても鮎子からの連絡は慣れっこになっているため詳しく要件を訪ねることもない。
鮎子は受話器を握りながら申し訳なさと安堵、遣る瀬なさとその他諸々の感情がこもった深い息を吐いた。
数十分後……迷うことなく鮎子のもと、……ではなく、問題のコピー機に向かう厳つい男が一人。背は小柄だが肉体労働者のように鍛えられた筋肉が服の上からでもわかる強面なその男はそのまま見守る鮎子の視線に気づいたのか、ようやく顔を上げて、
「あーサイワメンテっす、ちゃっちゃとやっとくんで」
とぶっきらぼうに言ったのだった。使い込まれた作業着を着て頭に白いタオルを被ったこのひどく無愛想で無表情な男は兵頭武史。すでに何度もこの会社にやってきては不具合を起こしたコピー機を直している。無駄なことを言わずさっさと直していく兵頭は、もはや鮎子にとってのヒーローといっても過言ではなかった。
勝手知ったるなんとやら、慣れた手つきで箱型の大きなコピー機の内部を開ける。鮎子にはごちゃっとした構造にしか見えないそこを、兵頭は答えを知るパズルのように手際良く処理していく。その背中に鮎子は並々ならぬ憧れを感じてしょうがない。自分に出来ないことを出来る人間はそれだけ眩しく感じるものだ。
その憧れが、恋に変わるのにそう時間はかからなかった。あけすけな表現をするのなら、小学生の頃スポーツが得意な男子を好きになる女子と同じ理論だ。
けれど鮎子は大人である。見ているだけで楽しい時代は終わった。その憧れとお近づきになるには、自ら行動するしかない。
「……あのー」
「あ?」
「ひっ、なんでもないですごめんなさい!」
今日こそはと勇気を出してかけた声は、不機嫌な返事で謝罪に取って代わる。鮎子の怯えを感じた兵頭はバツの悪そうな顔で頭を掻いた。
「……あーわりぃ。なんか用か」
「いえ! お仕事中にすみません!」
「……別に、良い。言え」
「いやほんと大丈夫なんで、」
「…………」
「ひっ! あ、あの今度お食事でもどうでしゅか!!」
鮎子は無言の圧力に負けて言うが、まぬけにも緊張して噛んだ。
「…………」
「や、いやっやっぱりなんでもな」
「わかった」
「……ですよね! 無理で、……え? いい、んですか?」
お約束のようなやり取りをしていると兵頭がのそりと立ち上がる。決して高い背ではないのに威圧感というのだろうか、鮎子には見た目以上に大きく感じた。
「終わったから」
「へ? ……ああ、はい!」
「今日仕事何時まで」
「え、っと、七時には上がれますかと」
「じゃあそのころ迎えに来る」
「えっ?」
「そんじゃ、失礼します」
「……あ、はい! ありがとうございました!」
兵頭の脈絡のない話に戸惑いながら、鮎子がそれに気がついたのは終業して、言われた通り会社の玄関口で兵頭を待っていた時のことだった。
──これってデートじゃない?
自分の誘いに相手が即乗ってくれたのだと、鮎子がようやく自覚した頃にはジーパンとTシャツに着替えた兵頭が現れていた。
頭には当然というか見慣れたタオル巻きがなくツンツンとした短髪が見えている。鮎子は初めて見た私服と髪型の兵頭にドギマギしながら、自分の着古したブラウスとスカートにがっかりした。予定が急に決まったものだから着心地優先でおしゃれなんてしてこなかった今朝の自分を怒りたい。恋する女は油断してはならぬ、と。
しかし兵頭は鮎子の姿を一見すると特に反応もなく、「あんた、酒は飲める?」と聞いてくた。鮎子が「……嗜む程度に」と答えると少しだけ嬉しそうな顔をして「じゃあいい店がある」と腕を引いて誘った。
正直鮎子はその破顔した兵頭を見れただけでも今日勇気を出した価値があったと思った。
***
それからしばらく経ったある日。鮎子は休憩室で項垂れていた。
「どうしたらいいんだろう……」
……悩みの種はもちろん兵頭である。いや社会人として壊滅的に相性の悪いコピー機のことも目下最大の悩みではあるのだが、今は昼休み、こんなささやかな時間くらい恋に悩んだって許してほしいと都合良く考えてしまうほど鮎子を混迷に至らしめているわけは。
「マジで言ってるの?」
「……うん」
大袈裟に驚くのは別部署で働く同期の吉乃。彼女の歯に衣着せぬ物言いに鮎子はさらにがっくりとする。
「え、だっていいカンジだったんでしょ?」
「……うん」
「で、アドレスとかも交換して」
「……うん」
「なんで一週間以上も連絡がないの!!」
「……それを言わないでー」
初めてのご飯。鮎子にとっては第一歩のデートは、うまくいったと思う。彼はあまりしゃべらないけれど鮎子のとりとめのない話をちゃんと聞いてくれたし、お酒の趣味もあった。味覚もわりと近い方で、彼のオススメはどれも全部美味しかった。
二人ともいい感じにほろよいになったころ個人的な連絡先を交換して「また」と言って別れたまでは、良かった。
けれどそれ以降連絡が一切ないのだ。あったとすれば鮎子が別れてすぐ送った確認のメールと向こうからの「よろしく」という返事だけ。
無口な人柄は重々理解していたので返事が淡白だろうと簡素だろうと鮎子は構わなかったし、向こうからメッセージがないのならこちらから送ればいいと一度は思った。しかし恋が鮎子を臆病にさせる。
もし、二回目はない、と思われていたら。
でも連絡先を教えてくれたってことはありなのだろうか。
ああだけど何回も誘ったら迷惑かもしれない。
仕事が忙しかったりしたらメールなんて邪魔だろう。
そんな後ろ向きな考えばかりが浮かんで行動出来ないでいた。しかも幸か不幸か、こんなときに限ってコピー機に出番がなく、仕事でも会う機会がなかった。
「やっぱりこんな機械音痴の私なんて……」
「いや今それ関係ないから」
「だって普通半年のメンテナンスくらいでしか会わないはずなのに月一かそれ以上で呼ばれるオフィスなんて嫌じゃない!? しかも原因は全て私! はぁー絶対脈ないよ……」
「そうかなあ。だったらそんな風に約束取り付けないでしょ」
「……じゃあ私の酒癖が悪かったとか」
「あんたいっつも陽気になるか眠くなるかのどっちかじゃん。それがダメならほとんどの人間と酒飲めないわよ。世の中にはもっとひどいのが大勢いるんだから」
「私だけがダメだったのかも!」
「それこそ卑屈すぎ」
「ううう……」
すべて論破され鮎子はもう何も言えない。しょんぼりしている鮎子を見ながら吉乃はしょうがないなと笑い、肩を励ますように優しく叩く。
「もう一回メッセージ送って、ダメだったらまた考えな。大丈夫だよ………………たぶん」
「……たぶんって言葉はいらなかったな……」
「あははごめんごめん」
「……でも、頑張るね」
「うん、応援してる」
なんて、会話をした矢先のことだった。
《エラーが発生しました。電源をお切りください》
鮎子の目の前に、無機質な白抜きの文字が並ぶ。ピーという異音は鳴り止まず、どう見ても直せそうにない。
──よりにもよってこんな時に。
そうは思えど仕事だ。選択肢は一つしかない。周りの迷惑そうな視線をビンビン感じて鮎子は心の中では渋々、受話器に手をかけた。
「……あ、いつもお世話になっております」
数秒のコールのあと、ビジネス的に使った言葉に(ほんとにな)という思いが浮かぶ。
『……ああ、はい。わかりました、すぐに行きます』
いつもの声は、少しだけいつもと違うように鮎子には聞こえた。自分の考えすぎだろうか。鮎子は今までで一番の不安を感じつつ、兵頭が来るのを待った。
「……ども、」
やってきた兵頭はいつもまっすぐにコピー機に向かうが今日は鮎子に会釈と短い声をかけてきた。鮎子にとって嬉しいはずの違いが、何故だろうむしろ余計に不安を煽る。
兵頭はすぐに異音を止めると、黙々と作業を始める。目立っていた異音がなくなって集まっていた視線も消えたが、鮎子はまだいやな意味でドキドキしたままだった。
ふとたくし上げられた袖から兵頭の鍛えられた二の腕が見える。力が入るたびに、筋肉が浮き、ついつい目を奪われてしまった。
──やっぱりかっこいいなあ。そう思った時。
「あ?」
兵頭が声をあげる。すると止まっていたはずのコピー機が動きだす。
…………ピー、ガチャン、ウィーン。
鮎子も兵頭も驚いて目を見開いた。
少しして吐き出された一枚の紙には……『がんばれ(ハートマーク)』!?
「え、え?!」
「…………」
びっくりして目を白黒させる鮎子とあまりのことに絶句している兵頭。
「……これ、印刷しようとしてた?」
「え! いや、そんなわけないです!」
「……だよな」
…………ピー、ガチャン、ウィーン。
再び起動音がすると、いい大人二人はびくっと肩を震わせた。
次にA4のコピー用紙には描かれていたのは、オフィスに到底似合わない矢の刺さったハートマークの特大絵文字。
「……これも」
「ありえないです」
「……おう」
戦々恐々とした面持ちでまた紙が吐き出されるのではと怯えていた二人だったがそのあとコピー機は力尽きたように起動を停止した。おとなしくなったコピー機に兵頭が再度取り掛かると鮎子は出てきた紙を見て思う。
──これって私へのメッセージだったりして。なーんて。
自分でもバカバカしい考えに笑いが漏れる。自然と肩の力が抜けた。
でも確かに出会うきっかけはこのコピー機だ。そのコピー機が頑張れって言ってくれるなら、私ももう一度……勇気を出してみようかな。
頭を傾げながら作業をしている兵頭を見つめて鮎子は覚悟を決めた。
「……予想外のことはあったけど、作業完了です。……もしなんかあったらすぐ連絡してください」
「はい、いつもありがとうございます」
言葉に間が出来て、一瞬沈黙が落ちる。ここを逃せば次はないと思った鮎子は「あの」と言いかけて、自分より低い声の「あの」に固まった。
「……あの、えっと……、次、休み、教えて……くれ、ますか」
思ってもみなかった兵頭の問いに鮎子は大きく首を振った。……もちろんイエスの意味で。
その後ろで直ったはずのコピー機からピースサインが印刷されていることは、まだ誰も知らない。




