ボツ
あたりは随分暗い。肌寒く、神代が息を吐くと、マスクの中のゴーグルが白く曇った。月明かりだけが足元を照らしていて、神代が一歩足を踏み出すとガラスを踏んでしまい砕ける音がした。神代はまずい、と思った。意味もないが、これ以上音を立てぬためにその場で静止した。こめかみから汗が一滴分泌され、頬をつたい、顎から地面に落ちていく。心の中では悲鳴をあげる。ああ、やっちまった。どうして俺は、いつもこうなんだろう。しばらくそうしていた。一匹の蝿が飛んできて神代の鼻先に止まり、神代は鼻にむず痒い感覚を感じ、我に帰った。そうして、奴らが聞きつけたわけではないと神代は判断し、今度はなるべく足を大きくあげず、そっと歩き出した。腐敗した弁当や生鮮食痕の甘酸っぱい臭いが神代の鼻に入り、粘膜でその臭いを認識したが、神代は前と比べ、その腐敗臭をそれほど不快だとは思わなかった。と、いうよりはっきり言って、慣れてしまったのだ。外からの月明かりがなくなる一角についた時、神代はそっと腰に手をあて、懐中電灯を掴んだ。ライトの部分を手に当て、スイッチをオンにする。無防備にスイッチをオンにし、奴らか、もっと悪いことに、無秩序になった環境にうまく適応した無頼共に見つかってしまう事が考えられた。少し前立ち入ったスーパー・マーケットは以前無頼共がしばらく暮らしていたようで、使い古されたコンドーム、虫のたかった缶詰、観葉植物を模して悪趣味に並べ立てられた人間の骨が会った。実際、奴らは一匹二匹では大して脅威ではない。生きている人間の方がよっぽど怖い。足元を照らしながら、ガラスの破片、転がるゴミに気をつけながら、少しずつ進む。日常では何気なく立てている物音でも、何の音もしない、死んだ世界では酷く響き渡る事を、こうなってから知った。今では、全ての行動を、自分の責任によって、全て行わなければならない。
缶詰が並んである所が見え、神代は心の中でやったぞ、とつぶやいた。ここ二週間、スナック菓子しか口に入れていない。スナック菓子のような、栄養成分が含まれていないもの、つまりはたんぱく質やヴァイタミンが含まれていないものばかり食べていると、実際の悪影響よりも先に、心に悪影響が出てくる。脳の中、ずっと奥のどこかでバスドラムが規則正しく何度もならされているように感じ、物事に集中できなくなる。今にも体がビニール袋のようにどこかに飛んでいきそうになるが、重さを感じない錨で地面に縛り付けられているような、そういう曖昧な状態になる。ここまで神代が生きてこれたのも、この異常な状態に脳が興奮し、緊張していたからだろう。そうして、缶詰を見つけた時、その緊張がほぐれた。神代が缶詰売り場に近づくと、背後から何かを引きずる音がしたが、神代は気づかなかった。音をたてない事に必死で、音を聞く事には必死でなかった。心が中に浮いていた。
極々僅かな月明かりが、缶詰売り場には差し込んでいた。壁がひび割れ、そこから月明かりが入り込んで、線になっていた。音の主がその線に重なると、それは歩く死体のようだった。右足のくるぶしから先が欠損していて、左足を前に踏み出すたび、その右足を引きずって歩く。左足を上にあげている時は、器用に右足でバランスをとっている。服は白いランニングシャツの上にオリーヴ色のミリタリージャケット。が、そのランニングシャツは、唾液と血と排せつ物で、黄色の上に茶色いグラデーションをかけたような色になっていた。口の端から涎と血を垂らし、眼球に蝿がとまっている。左目はあらぬ方向を向いていたが、右目は神代の姿をしっかり捉えていた。
雑多に並べられたいくつもの缶詰があり、コンビーフ、サンマの缶詰。鮭フレーク、焼き鳥。そういう文字が目に入る。カミシロは興奮した。その時、カミシロの背後から、缶詰が崩れる音がしたので振り向くと、崩れた缶詰の山、起き上がれるもがく死体があった。カミシロはそこに元からあった腐臭を思い出した。スーパー・マーケットに低音が響き渡る。腹が減ったときの腹からなる音、狼の遠吠え、痛みに苦しむ人の呻き声。そのどれかのようで、どれとも少しずつ違っていた。カミシロはくそ、とつぶやき、手に届く範囲の缶詰のいくつかを肩から下げていたデイバッグに放り込んだ。もぞもぞと何かが這い回る音があたりそこら中から聞こえた。カミシロは未だもがいている死体の頭を蹴り飛ばした。ゴムに包まれた岩のような感触だった。そして、元来た道を音も気にせず走り抜けた。