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三日月  作者: りり
7/7

終章

 奥庭の社に稲荷寿司を山盛りに供えて、さな子は常より熱心に拝礼した。

 お宮をきれいに掃除したあと、白狐さまの頭と宝玉を絹の布で丁寧に磨いてなどしてみる。それから色あせてきた鳥居に目を遣り、塗り替えた方がいいかしら、と考えた。

 桂次郎が本家へ行ってもう十日余り経つ。なのに何の知らせもないと思ったら、月が変わってすぐに先代の葬儀を執り行うのでうんぬん、と言った金の無心状―――もとい葬儀と分担金の案内状だけが回ってきた。

 確か桂次郎は生母が危篤だと呼ばれたはずだった。なのに大倉屋に来た本家の使いは先代の訃報だけを告げて帰った。桂次郎の母雪乃のことも桂次郎のことも知らないと言う。

 祥一郎は眉間の皺を濃くするばかりで、何を訊ねても黙っている。そして時折深い吐息をつく。

 さな子は本家と分家の関係や桂次郎の生い立ちの複雑さなどは、うすうす察することもあるのだけれど特に関心はないので、訊かずにここまで来た。今だって桂次郎さえ無事に帰ってきてくれれば、別にどうでもいい。

 祝言の時にも、あちらからも誰も出席しなかったかわりにこちらからも挨拶には行かなかった。父だけが何度か話しにゆき、そのあとは上納金が倍になっただけだ。

 普通ではないであろうが、別段何とも感じずにいた。殊更に意識したわけではないけれど、心のどこかで並みではない(ひと)を貰うのだから、と思っていた。それで何の不安も怖れも抱かなかった。

 なのに今は胸に薄雲がかかっているように不安が拭えない。

 行く前に幼な子のように名前札を書いて欲しい、などと言われたせいだろうか。

 もう一度社の前でぱんぱん、と柏手を打ってお祈りをする。

 ―――どうぞ無事に帰してくださいませ。

 戦争に出征した軍人の妻になったような悲壮な気分で、さな子は祈った。


 その晩のことだった。

 真夜中過ぎ、さな子は何となく目が覚めた。静けさが何やら薄寒い。ひんやりとした穴蔵にでもいるような感じだった。

 行灯のあるあたりに手を伸ばすが、なかなか見つからない。

 澱んだ空気が身体をとりまいている。

 ふと気づけば夜具の感触が失せていた。畳もない。真っ暗闇の中に放り出されているような感覚だ。

 そうか、これは夢だ、とさな子は思った。

 とりあえず醒めるまでどうしようかとあたりを見回して、遠くに仄かに光るものを見つけた。ごく小さな、蛍のような光だった。さな子は立ち上がって近づいてゆく。何だか呼ばれているような気が無性にして、足が勝手に動いた。

 光はぼわっ、と膨らんで少しずつ大きくなり、やがて人の形を成した。

「まあ‥。桂次郎さん‥? このように真っ暗な場所で何をしておいでなのです?」

 長い月色の髪の異形の男が、立ち竦んだまま静かに視線だけを振り向けた。真っ白な面に浮かんだ月色の瞳が驚きに見開いた。

「さな子‥さん? この姿でぼくがわかるのですか‥?」

 当たり前です、と吐息まじりに答えて、さな子は近寄った。

「お母さまは‥‥無事に看取られたのですか‥?」

「はい‥。安らかに逝きました。」

「よかった、間に合ったのですね‥。」

 ほっと安堵してさな子はうっすらと微笑んだ。そしてすぐにキッと振り向き、詰問する。

「ではなぜ、さっさとお戻りにならないのです? せめてご連絡をくださいませ。心配するじゃありませんか‥!」

 月色の髪の男はじっとさな子を見た。

 さな子は不意に不安になる。愛しい腕に触れようとして手を伸ばしたけれど、突き抜けてしまった。

 しまった、これは夢だった、と支離滅裂に思い至って、慌てて消えないでと叫んだ。

「夢でもまだ消えないでください‥。お見送りして十日余り経ちました‥無性に逢いたくてたまらなかったんです‥。なんだかとても不安で‥。」

 闇の中に浮かんだ男は身じろぎもせず、切なそうな視線だけを向けた。

「ぼくも‥逢いたかった。たとえこのようなあさましい姿であっても‥今一度、さな子さんに逢いたかったのです。」

「桂次郎さん‥。」

 さな子は微笑んで、再び手を伸ばした。しかしやはり触れられない。

「‥‥申し訳ありません。さな子さんに書いて貰った守り札を失くしてしまい‥どうやらこの姿から戻ることができません。妖しとしてつけられた『三日月』という名に縛られて、身動きすらままならないのです。今はまだ何とか持ちこたえていますが‥ここの闇にいる先代の妄執がじわじわと浸食してきているので、いつまで保つものか‥。」

 まなざしだけが幽かに揺れ動く。

 じっと見つめるさな子の胸は次第に激しく高鳴ってくる。

「いろいろと試してはみましたが‥桂次郎に戻ってあなたのもとへ帰る望みは叶わないようです。‥約束が守れず、申し訳ないとお義父さんに伝えてください。」

 さな子は大きく首を振った。

「だめです‥。どんな姿でも構いませんから、帰ってきて‥。」

「さな子さん‥。」

「諦めてはいけません。あなたがそこから出られないのでしたら、わたしがお迎えにまいります‥。諦めずに待っていてくださいまし。」

「ですが‥。」

「お姿などどうでもよいのです、桂次郎さんは桂次郎さんではありませんか? わたしの大切な夫です。妖しなどではありません。‥‥今までもずっと、そう思ってきました。」

 必死で言い募るさな子の瞳から涙がほろほろと溢れ出す。

「今までも‥?」

「‥‥そのお姿は初めてじゃないんです。何度も‥‥特に、そのう‥閨で可愛がっていただく時に‥‥。」

 さな子は真っ赤になってうつむき、涙を袖で拭って恥ずかしそうに微笑んだ。

「可愛い人、と呼んでくださる時‥たまにそんなお姿になるのです。わたしにとっては何より愛しいお姿なのですから‥。あ‥あさましいなどとどうか言わないで‥! 常の姿もそのお姿も‥どちらも桂次郎さんで、わたしの大切な方です‥。」

「‥この姿であっても、ぼくが人であると信じてくれるのですか‥。」

 さな子は顔を上げてきっぱりとうなずいた。

「人であるに決まっています。信じる信じないの話ではありません、わたしがそう決めたのですから‥。それでよいのです。」

 月色の瞳はゆらゆらと揺れ動いて、まるで小さな月のように輝いた。

「‥さな子さんがそう言ってくれるのなら、ぼくも今しばらく持ちこたえられそうです。ご面倒をおかけしますが‥‥迎えに来ていただけますか?」

「ええ、もちろん参りますとも。いったいどこにおいでなの‥?」

「弓削の屋敷内にある、別院と呼ばれる場所です。兄に結界で封じられていますので、見えないかもしれません。」

 見つけます、とさな子は言い切る。

 桂次郎は、さな子を見つめた。

「‥‥待っています。」


 鶏の声がけたたましく響いて、さな子は目を覚ました。

 障子ごしに朝日がさしこんでくる。少しばかり寝過ごしたようだ。どこいしょ、とせりだした腹を抱えて起き上がり、ふと気がついて寝間着の上から腹を撫でる。

「ありがとね‥。おまえが導いてくれたのでしょう?」

 返事をするかのように赤子は腹を蹴った。さな子はふふっと微笑った。

 念入りに身仕舞いして、まっすぐに隠居所へ向かった。祥一郎に許しを得るためだ。

「お父さま。起きていらっしゃいますか?」

 祥一郎は近頃眠れないらしく、目の下に隈をつくって急に老けこんだ顔になっている。

 振り向かずに何だと生返事をした。

「実はですね。どうやら桂次郎さんが本家に囚われていて、帰れないようなのです。それでこれからわたしが迎えに参ろうと思いまして。」

 驚いた表情で祥一郎はさな子を振り返った。

「おまえ‥。どこからそんな話を聞きつけたんだい?」

「ご本人からですよ。昨夜、夢伝いにお会いしました。」

 すまして答えれば、祥一郎は妙に得心した顔でそうか、と答える。さな子は続けた。

「お父さまにお許しいただきたいのはですね。恐らく本家とは和やかにはいかないと思いますので、これを潮に縁を切ってもよろしいかと言うことなのですが‥。」

「構わん。叩き切ってやれ。」

 祥一郎は短く答えて、おもむろに立ち上がり、文箱から油紙に包んだ薄いものを出してきてさな子に差しだした。

「これは‥‥何でしょう?」

 受け取りながら訊ねる。

「その昔、おまえの曾祖父さんが本家から買い取ったお札だよ。うちの社に入っていたもんだ。これを突っ返してやれ。」

「ご神体ですか‥? では奥庭のお社にはいったい、何が‥?」

「京都の伏見稲荷から勧請してきたれっきとしたお稲荷さまだよ。俺が嗣いだ時に、取り替えた。おまえの生まれる前だ。‥‥でも大倉屋は潰れなかった。」

 祥一郎はあっさりと言った。我が父ながらまあ、とさな子は呆れる。

「でも、このお札は‥。」

「表書きが書かれた奉紙だけだ。中にあったのは何てことない木の札さ。ごみと一緒に燃やしちまったよ。」

 ふふん、と腹立たしそうに祥一郎は嗤った。

 さな子は手の中の紙と父の顔とを交互に見遣り、はたと気づいた。

「では‥お父さまが今まで本家と縁を結んでいたのは、桂次郎さんのためなのですか。桂次郎さんのお母さまが生きておいでだったから‥‥。」

「‥‥桂次郎には言うなよ。気にするから。」

 はい、とさな子は答え、古ぼけた奉紙を両手で掲げて父に頭を下げた。

「行って参ります‥。必ず桂次郎さんを無事に連れ戻して、本家に縁切りを言い渡してやります。」

 おう、とうなずいた祥一郎の顔には若々しさが戻ってきていた。


 帳場へ向かうと朝の段取りの真っ最中でごった返していたが、さな子の姿に全員さっと振り向き、起立して挨拶をした。さな子はうなずき、時蔵に近づく。

「時蔵。ちょっと出かけるから、伴をしてちょうだい。」

 大番頭と主人がともに動くなど滅多にない事なので、近くにいた弥吉郎たちが手を止めて怪訝な顔で振り向く。

 時蔵はいつものごとく動じない顔で、どちらへ、と訊ね返した。

「本家へ。お父さまのお許しが出たものだから。」

「では‥‥。とうとう大旦那さまは奥さまにそのお役目も引き継がれましたか?」

「ええ。ついでに今日で本家との縁を切っていい、とのお許しもね。」

「それはまた性急な‥。しかしま、ようございました。」

「場合によっては手切れ金が要るかもしれないので、時蔵、手提げ金庫を持ってついておいでね。‥‥それから弥吉郎。」

 耳をそばだてていた様子の弥吉郎は、名を呼ばれて跳んできた。

「屈強な者ばかり五、六人、若い衆を集めておくれ。大八車も。‥‥支度ができたら呼んでちょうだい、奥にいるから。」

 訳が解らない、といった顔で弥吉郎はそれでも手配をしに走っていった。

 時蔵がぽつりと訊ねる。

「本家に殴りこみでもなさるので‥? ならば十数人は集めないといけませんが。」

「喧嘩はわたし一人で十分。旦那さまを取り戻しにいくのよ、時蔵。どうやら閉じこめられているようだからね。大八車は帰りの用心、衰弱がお酷くて歩けないかもしれないじゃないの?」

 何と、と時蔵は呻った。

「‥‥本家は申しちゃ何ですが、大倉屋と奥さまを甘く見過ぎているようですな。」

「ほんと、そうね‥。けれど今日、思い知るでしょうよ。‥おさと、おさとってば!」

 奥に向かってゆったりと歩き出しながら、さな子はおさとを呼んだ。

 出てきたおさとに、桂次郎の着替えと大八車に敷く布団を用意するよう申しつけた。

 おさとは桂次郎を迎えにゆくと聞いて、ほっと安堵した顔をした。

「そりゃ、よかったです。これ以上奥さまの苛々が嵩じたらどうしようかと、思案していた最中ですからね。旦那さまさえお戻りになれば、大倉屋は家内安全。」

「‥‥おさとも行くのよ。」

「はあ‥?」

 唖然としたものの、好奇心が勝ったとみえ、結構いそいそとおさとは支度を始めた。

 それからさな子はお神酒を持って奥庭のお社に向かった。

 昨日一生懸命お祈りした甲斐があって、家神さまが桂次郎に会わせてくれたのかもしれない、とそう思ったからである。

「昨夜は、ありがとうございました。おかげでわたしの為すべき事がわかりました。」

 跪いて、さな子は謙虚に祈った。

「歴とした由緒正しい稲荷さまとは知らず、ご無礼したこともございましょうが‥。どうぞこれからも大倉屋をよしなにお願いいたします。ついては厚かましくございますけれど、これより化け物屋敷にゆかねばなりませんので、ご加護をお願いいたします。」

 ぱんぱん、と手を打って、どこいしょ、と立ち上がった。

 気のせいかお宮が一瞬揺れたように思った。

 はて、と首をかしげた時に、手前で白狐さまの宝玉がぽろり、と口から落ちた。塑像の一部なのだから落ちるはずはないのに、落ちたその珠は乳白色に輝いている。

 再び屈んで、拾い上げると、白狐さまと目が合った。

 ―――その腹の子についていてやる。持ってゆけ。

 声にならない声が聞こえた気がした。

 さな子は手巾を出して丁寧にくるむと、懐にしまった。

「‥‥ありがとうございます。」


 初めて訪れた本家は鬱蒼とした屋敷森に包まれて、何やら不穏な空気の漂う場所だった。

 さな子は連れてきた伴の面々を門衛のいる待機所に待たせて、一人で屋敷裡に入ることにした。何となく、みなを中に入れるのは危険な予感がしたからだ。

 時蔵は眉をぴくりと動かしてさな子を見返したが、うなずいた。おさとは入らなくていいと聞いてほっとしたようだった。

「旦那さまを取り戻したら、すぐに家に帰るからね。そのつもりでおいで。」

「でも、旦那さまをここまで、そのお腹では連れてこられないのでは‥? やはり誰かついていった方がいいのではありませんか?」

 おさとの懸念をさな子は大丈夫、と打ち消した。

 それだけで誰ももう何も言わなかった。さな子が大丈夫と言えば大丈夫なのだ。大倉屋では誰もがそう思っている。

「では‥行ってくるよ。」

 せり出した腹のせいで心持ちふんぞり返ったような姿勢で、さな子はすたすたと歩き出した。傍には冷静に見えているだろうが、実はこれ以上ないほどの怒りを感じていた。

 その怒りは座敷で当主を待つ間にもますます燃え上がる。

 待たせられているのも気に入らないが、まずは当主の妹たちだという三人の女どもが小うるさく覗きに来るのも気に入らない。

「あれが、化け物の妻になった女だよ‥。」

「‥‥あの腹に三日月の‥。おぞましい‥。」

「よくもまあ、平気だこと‥。気味が悪くないのかねえ‥?」

 こそこそと内緒話の体を取っていても、声が大きいので聞かせたくて喋っているのは明らかだった。

 常のさな子ならさっさと剣突を食わせて部屋から追い払うところだったが、今回は神妙な態度で黙って無視していた。振り向かないし、話しかけられても返事もしない。あれらはどう見ても人ではないと感じていた。たちの悪い邪鬼だ。

 そこへ誰かが入ってきた。微かに目線を上げると、上等な身なりの老女が先ほど当主の妻だと名のった女に支えられて上座に上った。当主の座るべき位置によたよたと腰を下ろし、さな子に向かって叩頭するよう要求する。

 さな子はそれも無視して黙って昂然と顔を上げたまま、座っていた。

 老女は激高した。

「分家の分際でなんと無礼な‥!」

 さな子はわめき声を遮って、当惑している小夜に当代はまだか、と訊いた。

「はあ‥。なにぶん多忙なもので‥。お約束がないお方とはお会いできませぬかと‥。」

 小夜がうつむいてもごもごと言うのへ、さな子は以前伯父に凄みがあると表されたよそゆきの微笑を向けた。

「他の誰でもなく大倉が来ているのに、ですか? それはそれは‥。何と本家には実のないお方ばかり。‥‥ではもう、結構。」

 さな子は懐から父に渡された奉紙を取り出し、小夜の前に差しだした。

「父より預かって参りました。大倉はご神体を弓削のご本家に返上いたします。本家と分家のご縁もこれまで。今までお世話になりました。」

 そして呆気に取られている小夜を後目にゆったりと立ち上がった。

「本来ならば先代さまのお悔やみを申し上げるところですが‥。あいにくとそれどころではございませんもので、割愛させていただきます。」

 葬儀の費用も工面する気はない、との意思表示だ。

 さな子は小夜に軽く会釈をして、廊下へ出た。

 小夜は慌てて追いかけてくる。

「少々、お待ちを‥。あの、ただいま当代を‥。」

「結構ですと申しました。」

「ですが、このような重大なお話とは存じ上げなかったもので‥。是非、今少し‥。」

 さな子は不意に振り向いて、小夜を見据えた。

「話し合いに参った訳ではありません。縁切りに参りました。‥当代にはそのようにお伝え願えれば腑に落ちましょう。」

 またくるりと背を向け、ずんずんと奥へ回廊を進んでゆく。

「ちょっと‥お願いです、お待ちくださいませ。どちらへゆかれるのです‥?」

 小夜の手が肩に触れる。さな子はびしり、と叩いて払い落とした。

「決まっております。大倉屋の主人を返していただくのです。‥‥場所はわかりますゆえ、案内(あない)は要りません。」

「場所が‥わかる‥? 何のお話でしょう‥。」

 小夜は口ごもって逡巡し、それでもさな子のあとにおろおろとついてくる。

 回廊の行き止まりに来て、さな子はあたりを見回す。それからおもむろに足袋のまま、庭に下りた。露の残る湿った下生えを構わずに、まっすぐ突っ切って歩いていく。小夜はついてこなかった。

 ゆく先に恋しい気配を感じる。それは一歩ごとに高まって、さな子の胸を熱くする。

 前方に陰鬱な佇まいの離れが見えた。まさしく別院に違いない。小走りに近づいて、泥だらけの足袋のまま縁側から上った。

 雨戸が全部閉まっていて、小窓には板が打ちつけてある。中には桂次郎の気配の他に何やらおぞましく蠢くモノがあった。

 雨戸を引いてみたが、がたがたと揺れるばかりでらちが明かない。限界を超えた怒りにふくらんださな子は、身重の身体にも関わらず、癇癪を起こして―――いや、多分ついてきてくれたお狐さまの助力だろう―――雨戸を蹴倒した。

 ともかくもその場所から中に入りこみ、桂次郎を探した。

 客を引見していたと思われる床の間つきの広い座敷に、濃縮された澱んだ空気が漂っていた。薄暗い闇にぞわぞわと蠢くモノが見える。

 さな子は墨を流したみたいな黒いモノが、固まり集まっている部屋の隅へと向かった。そしてそこの襖をがらりと開ける。控えの間らしい三畳ほどの小部屋があった。

 漆黒の闇に浮かぶ細い月のように、仄かな光が浮かんでいた。

 姿がだいぶ暗闇に取りこまれている、と直感的に気づいて、さな子は駈けよった。

 びっしりと絡みついた怪しげなモノを煤でも払うように手で振り払い、目を閉じた白い面を見つけ出す。両手で頬を包みこみ、さな子は明瞭な声で名を呼んだ。

「桂次郎どの‥。大倉桂次郎どの、お迎えに参りましたよ。」

 うっすらと月の色の瞳が開く。姿がだいぶ目に見えてきた。

 そこではたと気づき、桂次郎の懐に手を入れてお守り袋を取り出した。きれいな綾布で作ったはずなのに、黒く変色している。

「‥‥こんなものっ‥!」

 むかむかっ、と頭にきてさな子は力任せに引き裂き、中の紙を引きずり出した。びりびりに裂いて千切り、投げ捨てる。

 すると呆気に取られた顔で蝋燭を手に立ち竦んでいる白髪の男が目に入った。背中に隠れるように小夜が控えているのを見て、この男が弓削の当代、桂次郎の異母兄かと冷ややかに見遣る。

 つかつかと近より、燭台を奪い取ると、正面の札をべりりと剥がして火をつけた。

 あ、と息を呑む二人には構わず、燭台を手に押しつけると、再び桂次郎に戻る。

「桂次郎さん。お待たせしました。さあ、帰りましょう。」

 月の色の瞳がさな子を見留め、さな子さん、と声がした。その途端、桂次郎は桂次郎の姿に戻った。

 がくりと膝をついた桂次郎に寄り添い、帯揚げを外してまだ血がにじんでいる腕の傷に巻きつける。

「大丈夫ですか‥? 門前に俥を用意してあります。そこまで歩けますか‥?」

「‥‥面目ありません。身重のあなたにご足労かけてしまって‥。」

「何を仰いますか。夫婦の間で遠慮はご無用ですよ。」

 さな子は微笑みかけて、立ち上がるのに手を貸そうとした。

「待ちなさい。‥‥桂次郎は弓削に返して貰う。先代の遺言だ。」

 振り向くと当代が近くまで来ていた。

「たわけたことを‥。非常識にも程があります。桂次郎さんは大倉屋の四代目主人で、わたしの夫ですよ。こんなふうに勝手に拘束して、道理が通ると思いますか?」

 さな子はじろりと睨みつけて、当代に正面から向き直った。そこで当代の肩に煤のような糸くずのような黒いモノを見つけた。

 見渡せばこの離れ全体に、なお煤けた闇が漂っていた。ゆらゆらと陽炎のように揺らめき、隙あれば桂次郎に絡みつこうとしている。どこかで獣の呻り声も聞こえる。

 さっきからずっと懐の奥で稲荷の宝玉がざわめいているのは、このせいだろうか。

 さな子は懐に手を入れて包んでいる手巾を外した。

 ―――どうぞおゆきくださいまし。

 ―――かたじけない。どうやら‥眷属の者が苦しんでいる。

 すっと懐から白い影が飛び出て、一陣の風がくるくると部屋中を舞い踊ってどこかへ消えた。

「今のは‥いったい‥?」

 当代は唖然とした表情で、急にすっきりと明るくなった部屋を見回している。

 さな子は再び向き直り、当代の胸に指を突きつけて叱りつけた。

「弓削のご当主どの。今まで大倉は本家と慕えばこそ、誠を以て弓削の家につくして参りました。その報いがこの仕打ちとは‥。あまりと言えばあまりな外道のなさりよう。恥をお知りなさいまし‥!」

 一喝すれば、いくらか目の覚めた様子の当代は目を逸らしてうつむいた。

 さな子は何とか立ち上がった桂次郎の腕を支え、隣を通り抜ける。温もりを感じつつ、無言でゆっくりと歩き続けた。

 母屋へと繋がる柴折り戸を開けた時、遠くで地鳴りと微かな悲鳴が聞こえた。桂次郎ははっとして立ち止まる。

「本殿が‥‥崩れる。」

「本殿‥ですか?」

 思わず振り返った桂次郎につられて、さな子も振り向いた。

 別院の縁側で当代が崩れ落ちるように座りこみ、放心していた。小夜はその背に顔を埋めて震えている。

 がらがらと地震でも起きたかと思われるほどの音が響いて、次にはまったくの静寂が屋敷裡を包んだ。上空に墨を吐いたような黒雲が湧きおこり、稲光がきらめいた。

 母屋から悲鳴を上げて飛び出てきた者があった。

 着物を着て髪を結った獣である。顔は鼠に似ていた。

「あれは‥‥大奥さまでは‥?」

 さな子が言うと、桂次郎は窶れた頬に苦笑いを浮かべた。

「大鼠ですよ。なるほど‥あれが巣くっていたせいで、本殿がお怒りだったのか‥。」

 ちらりと縁側を見遣れば、小夜がすっくと立ち上がっていた。今度は怯えではなく、怒りに身体を震わせている。

 小夜はやにわに大鼠に飛びかかると、当代の目の前に引きずってきて打ち据え始めた。

 当代はまったくの放心状態で妻と、母と思っていたモノの成れの果ての諍いを眺めていたが、不意に緊張した面持ちで空を見上げた。

 振り向けば桂次郎も苦い顔で見上げている。

「やれやれ‥。因業なお方だ。妄執がなお捨てられないのか‥。弓削の家をどうあっても道連れにしたいと見える‥。」

 先代のことだろうか、とさな子は察する。腕を掴んだ指につと力が入った。

 桂次郎はさな子を振り向き、大丈夫、と微笑んだ。

「さな子さんが連れてきてくださった稲荷のお使いが、本殿さまのお怒りを鎮めてくれましたよ。本殿さまがここを離れる時の霊風で、妄執や澱んだ邪気は一掃されてしまうでしょうね。」

 そう言って、桂次郎は縁側の兄を見遣った。

 束の間ひどく傷ついたような寂しげな瞳をしたと思うと、溜息を深々とつく。

 さな子はそうっと抱きしめて、微笑んだ。

「さあ、帰りましょう。大倉屋ではみな、旦那さまのお帰りを待っているのですよ。門前では時蔵とおさとが気を揉んでいるでしょうし‥。」

 そう言ってさな子は、立ち竦んでいる桂次郎の背を押した。

「ぼくの‥わがままから、皆さんにもご迷惑をおかけしたのですね‥。」

 うつむき気味に歩く桂次郎にぴたりと躰を寄せて寄り添った。

「桂次郎さんは‥ご自分が大倉屋にとって、かけがえのないお方だというご自覚が足りないのです。迷惑など、むしろもっとかけてくだすってよいのですから。こんな伏魔殿にお一人でいらっしゃるなど無謀です‥。お伴を何人も連れておいでになるべきでしょうに。」

 つい、いつもの調子で叱言が出る。

 申し訳ありません、と桂次郎は微笑した。

 その横顔を見上げて、なおもさな子の叱言はえんえんと続いた。

 母屋の長い回廊を抜けて、玄関を通り過ぎ、なおまだ続く。やっと門が見えてきた。

 おさとの声が聞こえ、若い衆の何人かが走り寄ってくるのを目にして、漸うさな子は叱言を止めた。

「‥‥とにかく。今後はもっとどうかご自愛くださいませ。何しろわたしは、桂次郎さんなしでは生きてゆけないのですから。」

 思わず口を突いた言葉に自分で驚いて、頬がかあっと熱くなってくる。

 ぼくもです、と静かな声が耳にそよぐ。

 胸がいっぱいになって見上げた笑顔の向こうには、暮れなずむ夕空に細い三日月がぽっかりと浮かんでいた。


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