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三日月  作者: りり
6/7

其の参(続き)

 盆が過ぎ、月見が過ぎて、彼岸ともなればさな子のお腹もかなり目立ってきた。

 俥に乗りこむのも降りるのもひと苦労なので、なるべく外出はしないと決め、母屋と帳場をよたよたと行ったり来たりして過ごしている。

 そんなある日、桂次郎は祥一郎の隠居所を訪ねた。

「お義父さん。ちょっとよろしいですか‥?」

 一人で碁盤に向かっていた祥一郎は顔を上げずに、おう、と返事を返した。

 桂次郎は静かに腰を下ろした。手にはさな子をやきもきさせている女文字の封書が握られていた。むろん、桂次郎はさな子のそんな気持ちなど露も知らない。

「‥ん? どうしたい、深刻な顔して。」

「はあ‥。どうやら母がいよいよだめなようです。」

 祥一郎は手を止め、首をかしげた。

「分家の寄合じゃ聞かなかったがな‥。また当代の奥方からかい?」

「はい。」

 封書の差出人は弓削家の当代の妻小夜で、一年半ほど前のちょうどさな子の横浜行きの頃に最初の手紙が届いた。それから今までに四、五通受け取っている。

 弓削の家にいた頃には言葉を交わした覚えすらないが、あちらは桂次郎を見知っていたようだった。遠縁の神社で巫女を務めていたところを当代が自分で見初めてきたと聞いた。祥一郎の言うには、最初で最後の当代の意志なのだそうだ。

 小夜が桂次郎に当てて記してきたのは、母雪乃の身体の具合が思わしくないという内容で、最初の時にはかなり危なかったのを、先代が当代を連れて座敷牢に入り、祈祷をして何とか常態に戻したと言う。

 巫女を務めていたくらいだから小夜自身も多少霊力があるようで、その祈祷がただの病平癒祈願ではないと察したのだろう。綻びかけた結界を結び直したようだと記してあった。

 けれどその折に先代も当代もまったく無事とはいかなかったようで、小夜はぼかした表現しか遣っていないけれども、次に同様な事態になれば何が起きるかわからない、との懸念が思い詰めた様子で綴られていた。

 小夜の数度の手紙には、暗に桂次郎の母なのだから桂次郎が兄の手伝いをするべきだと匂わせてあった。

 身勝手な言い分だと怒る気持ちにはなれなかった。小夜の文面から察せられるのは雪乃の身に万一の事がある時には、弓削の当主は命を落とすだろうという悲痛な想いである。

 そして今回届いた短い走り書きには、いよいよ雪乃の身体が弱まり、弓削の本殿が轟いている、という内容だった。

「それで‥。どうするつもりなんだい? 雪乃さんの最期を看取ってやりたいおまえの気持ちはわからないでもないが‥。本家の敷地を踏む覚悟があるのか‥?」

 祥一郎は眉根を寄せて、桂次郎に問い質した。

「ぼくは‥‥。」

「さな子はそろそろ臨月だ。おまえに万一の事があれば‥俺はあれに何と言えばいい? こう言っては何だが、ほんとうに小夜さんだけの意志かどうかわからないよ。」

 祥一郎の懸念はわかる。先代の思惑ではないかとは桂次郎自身も考えたことだ。桂次郎を呼び出すというのは恐らく―――身代わりにしようというつもりだろう。

 雪乃には既に何の意志もない。霊力のある躰そのものが単なる形代(かたしろ)だ。夕月を封じているのは先代が形代に仕込んだ呪術で、雪乃の力ではない。雪乃の躰が死ぬということは形代が壊れるということで、その時には夕月は自由の身となり、三十年余り溜めこんで膨らんだ憎悪が術者に向かうのは必至だ。

 先代は前回綻びかけた結界を直した時に、術者のすり替えをしたのだと桂次郎は推測する。すなわち術者は弓削の当主であって、固有の人間ではない、と。

 素直に出かけていけば多分、弓削の当主の身代わりに立たされて父や兄の代わりに実の母に切り裂かれるはめになるのだろう。

 しかし桂次郎には雪乃に対する想いがあった。

「‥‥お義父さん。さな子さんを見ていてぼくは‥母の恩というものをつくづく感じました。自分を省みてみれば、ぼくは母のためにもっと何かができたのではないか、と近頃切に思うのです。(いたづ)らに迷い続けて日を過ごさなければ、もっと早く暗闇から解き放ってあげることができたのではないかと‥。何と親不孝な息子であったろうかと思うのです。」

 桂次郎は膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。

「こんなふうに考えられるようになったのも、すべてお義父さんとさな子さんのおかげですが‥。ぼくは‥せめて母の躰だけでも傷つけられずに送ってやりたいのです。このままでは息を引き取った瞬間に切り裂かれてしまうでしょうから。」

「‥‥できるものかねえ?」

「‥‥三日月ならばできましょう。」

「そりゃ、おまえ‥‥!」

 祥一郎は目を()いてまじまじと見返した。

「さな子と腹の子を置いてあちらへ()ってしまう気かい‥? そりゃあんまりだよ、桂次郎。今じゃ子の親だからあれも身投げはすまいがね‥。俺は‥嫌だよ、見てられねえ。」

「必ず、戻ってきます。ぼくはもう‥大倉桂次郎なのですから、何の迷いもありません。何があろうとさな子さんとお義父さんのところへ戻るとお約束します。」

「‥‥自信があるんだな?」

「はい。」

 祥一郎は深い吐息をついた。

「‥本家の敷地内じゃ、おまえは姿を隠せないんだぜ? 覚えてるかい?」

「覚えています‥。けれどあれは幼かったからです。ぼくにも弓削の血が流れていますから、本殿のお力を借りて臨めば結界に足を(すく)われはしないでしょう。‥‥お義父さん、ぼくはもう何も怖れてはいません。お義父さんのくださった名前とさな子さんがいる限り、人としての自分を決して見失いはしないと信じられますから‥。どうかわがままをお許しください。」

 両手をついて、桂次郎は頭を下げた。

 かなり長い沈黙が続いたあと、祥一郎は仕方ねえ、とぼそっとつぶやいた。

「俺は‥‥さな子には何も言わないよ。おまえが帰ってきて、ちゃんと話してやりな。」

 ありがとうございます、と桂次郎は平伏したまま答えた。


 およそ十九年ぶりに実家に足を踏み入れた桂次郎は、体じゅうにちくちくと突きささる結界と地鳴りのような本殿の呻きを感じた。(おとな)いを入れ、待つ間にも呻りはますますひどくなる。確かに小夜が書いてきたように、轟いている。

 出迎えた小夜に誘われて兄のいる奥座敷へ向かう途中、回廊で姉の一人に出会った。

「あら。小夜さん、お客さまなの?」

 当主の奥方を女中か何かのように、突っ立ったままで物言いしている。傲慢な調子は相変わらずだと思いながら、桂次郎は会釈した。

「ご無沙汰しております、姉さん。桂次郎です。」

 まあ、と年齢の割に幼稚な顔つきで驚いて、姉はけらけらと笑った。

「生きていたの‥。よく化けていることね、三日月。‥まあ、生きているに決まっているわねえ? おまえのおかげで、兄さまの懐には大倉屋から莫大な上納金が入ってくるのですものね。」

 内心の苦い想いを噛み殺して、桂次郎は平静を保った。

 桂次郎を婿に迎える時に、大倉屋は弓削家からご神体をもう一つ与えるのと同じだからと二重の上納金を要求され、ずっと払い続けている。そんな価値が自分にあるとは思えないと言った桂次郎を、祥一郎は笑いとばした。

「金で済むなら面倒がなくていいじゃないか。なに、さな子がそれ以上に稼ぐから心配はない。あいつに出ていかれる方が大倉屋には痛手なんだよ。」

 だが雪乃を送ったならばもう弓削に未練はない。人として、さな子とともに生きていく桂次郎の生の中には不要なものだ。これで(ようよ)う縁切りだ、と冷めた目で見渡せば、怖ろしいと思っていた実家の何もかもが滑稽なだけだった。

「姉さんがたはなぜ、こちらにおいでなのです? さっさとご自分の家にお戻りになる方がおためですよ。‥この先も人の身でいたいと思われるのであれば。」

 桂次郎の言葉に、姉は色をなして怒り出した。

「ば‥化け物のくせに、わたくしを愚弄するとは何事‥!」

「愚弄ではありません。一応ぼくも弓削の男ですので、本殿のお怒りを感じ取るくらいの力はあるのですよ。‥ご忠告です。」

 小夜がくすりと微笑をのみこんだのを視線の端で捉えて、失礼します、と姉の前を通り過ぎた。

 小夜は桂次郎が皮肉を言ったと思ったようだが、実はそうではない。桂次郎は肩ごしにちらりと振り返り、もう遅いかもしれないと思った。姉は昔は確かに人であったが、今は何だかわからないものになりはてている。曖昧なもの―――つまり妖しだ。

「なぜ‥当代は姉さんがたが屋敷 (うち)に居つくのを許したのですか‥?」

 歩きながら静かに問えば、半歩前を行く小夜は振り向かずに答えた。

「許したわけではありません。大奥さまがお呼びなすったのです。ずっと離れて暮らしていた桂次郎どのはご存じないでしょうが、弓削家の当主は未だ先代さまなのですよ。」

 小夜の口調は苦々しげだった。

 うなずいて先代の棲む別院がある方へ顔を向けた時、不意に背筋がぞくりとして、桂次郎は立ち止まった。

「‥‥どうなされました?」

「いや‥。もしや先代はお怪我を‥?」

「まあ‥。よくおわかりですのね。」

 小夜は驚いて目を瞠った。

 漂ってきたのは血の匂いと屍臭だった。疑惑と懸念が強くなる。だがそれは兄に会うまでは口にするまい、と決めた。

 小夜は静かな口調で話し続けた。

「桂次郎どのは弓削の男子(おのこ)でありながら霊力を持たなかったので、外へ出されたと伺っておりましたが‥どうやらお目覚めでしたか。」

「いいえ。当代のようなお力はまったくありません。普段は普通の人間ですよ。ただ、この屋敷裡では、弓削の血が少しばかり騒ぎ出すらしいです。」

「普通の人間‥‥。では、不躾ながらお母さまの血は消えておしまいですか‥?」

 小夜は明らかに失望したらしかった。

 この人の本音はどこにあるのだろう、と桂次郎は胸中で思案した。

 どちらにせよ、兄の考えを知らねばどうにもならない。弓削の家は滅びかけている。本殿の轟きがその証しだった。

 奥座敷で正座して待つ。静かに襖が開いて、清涼な気配がすうっと上座に降りた。顔を伏せたまま、いくらか安堵する。

「桂次郎‥。何ゆえ、戻ってきた‥?」

 顔を上げると、記憶にあるよりずっと年老いた兄の姿があった。髪は真っ白で、顔の皺も増えた。脇息にもたれているさまは、まるで今にも死にそうな病人だった。五十を少し過ぎたくらいの年齢とは到底思えない。

「母が死にかけていると聞きました。せめて最期を看取らせていただきたいとお願いに上がったのです。」

「ばかな‥! 誰がそのようなでたらめを‥。」

 兄は落ち着かなく目を逸らして、もごもごと言った。すると脇から小夜が、わたくしがお知らせしました、と口を挟んだ。

「何‥? なぜ、そんなことをした‥?」

 小夜はキッと(おもて)を上げて、逆に問い質した。

「なぜお隠しになるのです? 桂次郎どのがお母さまの最期に立ち会いたいとお思いになるのは当然ではありませんか‥? 雪乃さまは‥保ってせいぜい、二日三日というところでございましょう。」

「‥‥おまえに何がわかる? 出しゃばった真似をするな!」

「小夜さまは当代の御身を案じておられるのですよ。」

 言い返そうとした小夜を遮って、桂次郎は兄を正面からじっと見た。そして小夜へ視線を移し、兄と二人にしてもらいたいと頼んだ。

 黙りこんだ夫を必死な目で見ながら、今にも泣きそうな表情を浮かべたまま、小夜は桂次郎へ会釈を一つして部屋を去っていった。

 足音が遠ざかるのを待って、桂次郎は口を開いた。

「兄さん。ぼくは‥母の躰を守りたいのです。傷一つなく逝かせてやりたい。親不孝者のせめてもの孝心なのです、どうかお許しください。」

「‥‥無理だ。先代とわたしとで抑えこむのが精一杯だった。おまえごときの力で何ができる? もはや最低でも命一つは代償にせねば治まらぬのだ。小夜がおまえを呼び出したのは、先代があれにおまえならばどうにかできると吹きこんだためだ。わからぬのか?」

「やはりそうでしたか‥。そうではないかと思っていました。」

「ならばなぜ屋敷裡に足を踏み入れた? わたしの代わりに死んでもいいと言うのか。」

 兄の声は弱々しく、すべてを諦めたように響いた。

「ぼくの気持ちは言葉どおりです。他には何も望んでいません。最後に母に孝行がしたい、それだけです。」

 桂次郎はすっと立ち上がった。

「一人で行くのか‥? 切り裂かれるぞ。」

 兄は驚いて顔を上げる。桂次郎はほんのりと微笑した。

「ご心配くださるのですか‥? ならば弓削の当主の形代となるものをお貸しください。羽織の紐でも扇子でも、何でもよいのです。」

 まじまじと見据えていた瞳がぐっと細められて、よし、と立ち上がった。

「わたしも行こう。」


 雪乃のいる座敷牢は記憶にあるままの常闇の世界だった。

 燭台に蝋燭を一本だけ灯し、格子に組まれた桟に手をかけて奥を覗きこむ。すると白い夜具に横たわっている痩せた女の姿が見えた。

 桂次郎は平伏して拝礼すると、ゆっくりと立ち上がった。

 蝋燭の灯りを月に見立て、三日月、と名を呼んで魂の奥にしまいこんでいた力を揺り起こす。見る間に身体が透きとおり始め、髪が伸び、三日月の姿に変化した。

 後ろで当代があ、と息をのんだ。

「おまえ‥。その姿は‥。おまえの妖力は桂次郎の名を得た時から消滅したとばかり思っていたが‥。ずっと隠していたのか、妖力を‥!」

 三日月は凄艶な笑みをそちらへ振り向ける。

「妖力など‥ありません。この姿になれるというだけです。」

「ではこの場に漲る、霊力(ちから)は何だ‥?」

「今は身も心も解き放っておりますゆえ、弓削の血よりくるものでしょう。ぼくにできるのは昔と同じ、結界抜けだけですよ。」

 そう答えて、ひょいと封印の札が貼ったままの格子戸を通り抜けた。

「桂次郎‥その霊力(ちから)を弓削のために遣え。そうすれば弓削は救われる。」

「兄さん、この先二度とこの姿になるつもりはありません。弓削のためにできる事などあるわけがない。ぼくは弓削より外へ出された身なのですから。」

 だが出されてよかった、としみじみと思う。

 大倉屋に引き取られた最初の頃は、自分の意志ではない時にも姿が変わってしまったりしたが、弓削の結界の外だったせいか、三日月の姿は祥一郎以外にはまったく見えなかった。目の前にいてもいない、と探されるのは寂しくもあり、安堵するものでもあった。

 しかしさな子だけは違い、いきなり見つけて名を呼んできた。さな子に呼ばれると不思議なことに一瞬で姿は人に戻った。おぼろに入りこんでいる時でさえ、さな子は境界を一跨ぎで超えてきて、半ば強制的に桂次郎をさな子の世界へ引き戻した。

 だから今、こうしていられる。

 三日月は横たわる雪乃の前にかしこまって座った。

「お母さん‥。」

 雪乃は十八の若い姿のままだった。面窶れしてはいるが、結っていない黒髪が生き物のように微かに波打ちながら躰を取りまいている。やや苦しげに眉根を寄せて目を閉じ、荒い息をして胸を上下に大きく波打たせていた。

 そっと手を取り、指を絡め、もう一方の手で冷えた甲をさすった。

 涙がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。ただ、申し訳ない、と頭を垂れる。

 三日月の目には、雪乃の着物の下に隠された呪印がはっきりと見えた。躰の中心、腹のあたりに術者の血を以て、肌に直接描かれている。古いものではない、恐らく一年半前に綻びを直した時のものだろう。

 三日月は結界の外にいる兄に呼びかけた。

「兄さん。この呪印は先代が施したものですね‥?」

 やや間があって、吐息まじりにそうだ、と聞こえた。

「母の躰の寿命を削って封じの力と為すもの、と見ましたが‥。」

「‥‥よくわかったな。」

「十九年間、ただ過ごしていたわけではありません。人が妖しを操るための法についてはずいぶんと知識を蓄えてきました。」

 文献をあさり、神事の研究に没頭してきたのは、何とかして雪乃と夕月の二人ともに救いたかったからだ。けれど一度結びついてしまった魂を分ける方法がどうしても見つからなかった。どちらかを犠牲にするしか、常闇(とこやみ)から救う道はなかった。

「ですが‥。どうやらこの呪印は血を通じて、術者の命をも取りこんでいるようです。お気づきでしたか‥? ‥先代は今、死にかけているのですね。」

 ううむ、と呻いただけで、返事はなかった。

 恐らく傷を負って血を流した、その血を母は―――体内に入れたのだろう。(すす)ったのか肉を噛みとったか。いずれおぞましい情景であろうが、哀れだとしか感じなかった。

 ―――滅びる時はもろともに。

その情念は愛しさなのか憎しみなのか。未来永劫誰にもわからぬ事であろうが、ただひたすら悲しいと思う。

 それから一昼夜、呻き苦しむ母の傍らで三日月は手を握り続けた。

 やがて静寂が常闇を満たすのと同じくして、別院から生者の気配が消えるのを感じた。

「兄さん。外へ出ていてください。できれば本殿へ避難を。兄さんの身に何かあれば‥本殿までもが暴走しかねません。」

 静かに告げると、当代はゆっくりと立ち上がり、黙って出ていった。

 三日月は冷たくなった母の手を離し、合掌すると、すっと立ち上がった。その全身が月光の色に輝き始める。結界をすり抜ける能力しか持たないけれど、その力を最大にしてこの部屋をおぼろへ繋げるつもりだった。おぼろに在れば、雪乃の中で眠っている夕月は形代を破らずとも自然な形で出てこられる。

 少しずつ、あたりが月色に染まっていく。

 事切れた雪乃の中で、夕月が目覚め始めるのを感じて三日月は焦った。

 躰の上にかぶさるようにして蹲り、出てこようとする力に囁きかけて押しとどめる。

「お母さん。どうかいましばらくお待ちください、道を造りますゆえ‥。」

 すると思いがけなく、幽かな声が聞こえた。

 ―――坊や‥?

「‥‥お懐かしゅうございます。」

 胸に熱くこみあげるものを感じた瞬間、世界は一変して、三日月は雪乃の骸を抱いて月の光のたゆたう中にいた。

 せわしなく蠢く(むくろ)を丁寧に横たえ、その前にかしこまって拝礼する。

 効力を失った呪印からすうっと銀色の靄が立ち上ってきた。靄はゆらゆらと漂い、次第に形を取り始め、終いに人の十倍ほどもある獣の形となった。

 月光の色の透きとおった毛並み、髪のように後ろへ流した細長い耳。残月に聞いていたとおりの姿だった。

 獣妖は形を成したと思うまもなく、瞬時に身を翻して隅の黒い人影をずたずたに切り裂いた。先刻まで兄が座していたあたりだ。

 そして自分を閉じこめていた骸へ向き直る。

 三日月は雪乃の躰を背にして正面から向き合い、(ぬか)ずいて平伏した。

「‥どうかこの躰はお見逃しください。」

 ―――何ゆえ‥?! 憎い憎い術者には、たった今恨みを晴らした。残るはそこなる女の躰‥。どれほど永くこの瞬間を待ったことか‥!

「こちらの人の躰もあなたさま同様、わたくしの母である事に違いはないのです。どうかどうか、(ひら)にお願い奉りまする。お母さん‥。」

 こみ上げる涙は抑えきれず、滂沱(ぼうだ)と溢れ流れた。膝の前で揃えた両手の上にとめどなくこぼれ落ち、濡らしてゆく。

 獣妖は立ち竦んで、じっと三日月を見下ろした。月光の中で、怒りにつり上がっていた目が愛おしげに和んでゆく。

 ―――坊や‥。わたしの坊や‥。

 歌うような、啜り泣くような細い声。遠い日の記憶がどっとよみがえり、胸がぐっと締めつけられる。

「永いお苦しみを如何(どう)ともできませず、甚だ親不孝な身ではありますけれど‥。なお息子と情をおかけくださるならば、どうかお聞き届けください。」

 きらきらと光をふりまきながら身を震わせ、獣は人の女の姿へ変わった。髪の色と目の色が違うだけで、雪乃と同じ面差しをしている。

「おいで、坊や‥。おまえがそこまで言うのならば、憎い躰なれど見逃そう。さあ、母の腕の中へおいで。ともにおぼろへ帰ろう‥。」

 三日月はゆっくりと顔を上げた。差しだされた白い手を両手で抱きしめ、思わず頬を寄せる。

「‥‥行けません。」

「行けぬ、とは‥?」

 夕月は雪乃の顔で不思議そうに見返す。

「既に人として、人の世に根づいてしまいました。おぼろへは参れません。‥この姿はあなたさまを見送るための仮の姿です。」

 夕月は寂しそうにじっと見つめた。空いている方の手で息子の肩を抱き寄せようとして、ふっと悲痛な微笑を浮かべる。

「‥‥その懐の札は‥。なるほどそれがおまえの守り札なのか?」

 はい、とうなずく。母は柔らかい仕種で抱きしめ、嘆いた。

「わたしの坊や‥。この先わたしは、おぼろにておまえを見守るしかできぬのか‥? やっと‥再びおまえに相見えたと言うのに‥。封じられ虚しく過ごした時の流れが、おまえを人との絆に結びつけてしまったとは‥。」

 月の色の瞳が悲しげに潤んでゆく。

「せめて月の明るい夜には‥きっとわたしを想うておくれだろうか‥? ねえ、坊や‥せめてそれだけは誓うと言っておくれ‥。」

 温かい、柔らかい手。おぼろで生まれた者にはないはずの体温がなぜか伝わってくる。

 懐かしくて、たまらずに心のすべてを吐き出すように、誓います、と言った。

「今までもずっと‥想うておりました。これからも忘れることはありません。」

 仄かな微笑が月明かりにふわりと浮かんだ。

「‥‥それだけ聞けばもういい。さようなら‥わたしの愛しい子。」

 再び獣の姿に変じると、夕月は紺碧の闇に向かって跳びあがった。幾条もの月光が降り注いで、道を照らしている。

 三日月は思わず立ち上がり、お母さん、と叫んだ。ちらりと振り向いた瞳は慈愛に満ちて優しく、憎しみも恨みももう浮かんではいなかった。

 姿が月光に溶けてしまうまで見送って、やがて暗闇に一人で立ち竦んでいる自分に気づく。蝋燭の灯りにすかしてみれば、足下には雪乃の遺骸とびりびりに引き裂かれた弓削家当主の紋付き衣装があった。

 雪乃の骸は四十九の年齢に相応しい風貌に変化していた。不思議なことにうっすらと穏やかな微笑を浮かべてさえいた。

 夜具の上にまっすぐ横たえて、両手を胸の上で組み合わせてやる。

「永い間、ご苦労さまでございました。どうぞゆっくりお休みくださいませ。」

 つぶやいて合掌した。

 安堵とともにあらためて、腹の底からの悲しみが湧いた。


 雪乃の葬儀は翌日の朝、ひっそりと行われた。

 先代もほぼ同時に息を引き取ったはずだったが、そちらは弓削の前当主の葬儀であるため、分家衆も呼んで仰々しく執り行うこととなる。

 本殿の轟きはかなり治まったものの、まだぐらぐらと揺れていた。

 しかし母を見送ってしまえば、桂次郎には関係のないことだった。雪乃の遺骨は弓削の墓に入れると兄が約束してくれたので、これ以上この屋敷に留まる理由はない。

 小夜が昼餉を用意すると言うのを断って、桂次郎は帰ろうとした。

「先代のご葬儀までご逗留くださいませ。‥桂次郎どののおかげで当代の身がつつがなくあるのですから、心をこめてお世話させていただきます。」

 小夜は引き留めたが、もとより桂次郎は先代の葬儀に出るつもりなどない。

 そう告げると、小夜は驚き、お父上ではありませんか、と言った。

「父と呼ばせてはいただけませんでしたから‥。ぼくの見送りなど、先代は望んでおられないでしょう。」

 何より無性にさな子が恋しい。

 早く帰って、今度こそ何もかも打ち明けるつもりだった。信じてくれるかどうかわからないけれど、きっとすべて受けとめてくれるだろうと思った。

「当代にご挨拶してから帰るべきなのでしょうが、多忙のご様子なので失礼します。弓削の家には今後二度と足を踏み入れないつもりです、とお伝えください。どうもお世話になりました。」

 頭を下げると、小夜はうなずいて微笑んだ。

「わかりました‥。それでは、お茶だけでも飲んでいらしてくださいませ。」

 そう言って目の前にお茶を出されれば、お茶も要らないとは断りきれず、桂次郎は受け取った。気が急いて、ぐっと飲みほす。

 少し苦すぎる、と感じた時には遅かった。目の前がぐるぐると回り始める。吐き出そうとしたものの、身体が痺れて思うように動かせない。

「うっ‥ぐ‥。」

 かしこまって見ている小夜へ視線を動かすのが精一杯で、言葉も出せなかった。

 小夜はすまなそうに顔を伏せ、申し訳ありません、と涙声で言った。

「先代のご遺言なのです。当代は‥逆らえませんでした。ほんとにほんとに、申し訳ありません‥‥。」

 そのまま意識を失った。


 目が覚めた時は、見知らぬ座敷に手足を縛られて転がされていた。

 明かり取りの丸窓から月の光が皓々とさしこんでいる。見上げれば下弦の月が空高く昇っていた。どうやら既に夜半過ぎらしい。

 桂次郎は手首の縄を眺め、十九年経ってもまったく変わらない待遇に思わず失笑した。

 しかし目的は何なのだろう?

 ご丁寧に月明かりを用意してくれているのだから、縛めから抜け出すために三日月の姿になるのを待っているのだろうが、兄はそれでどうするつもりなのか。妖しとして封じたところで何の役にも立たないというのに。

 ふと背後にぞくっとする気配を感じた。

 同じ部屋にぞろぞろと緩慢な動作で蠢いているモノがいる。振り向かなくともわかる、あれは多分―――妄執の塊。死にきれないのか、と桂次郎は吐息をついた。

 気味の悪い視線が背中に貼りついている。

 霊力の残滓と妄執が合わさって物の怪になりはてたようだが、何がしたいのだろう。そう言えば気を失う前に、小夜が先代の遺言がどうとか言っていた。

 だんだんと近づいてくる。ずり、ずりっ、と畳を這いずる音がする。

 恐怖より悲しみ。怒りより憐れみ。胸にこみあげてくるのはそんな想いだけだ。

 背中にひんやりした感触を感じた。桂次郎の頬に髪に頸筋に、自分では手だと思いこんでいるらしい触手が触れてくる。幽かに屍臭が漂う。

 桂次郎はまったく無視した。

 これは存在しないはずのモノだ。だから徹底的に無視し続ける。反応しないように心を閉じた。

 どれくらい時間が経ったものか、やがて夜が明けて暁の光が窓から射しこんできた。

 死霊は消えていたが、気配は色濃く残っている。消滅したわけではなさそうだ。恐らくはここは先代が長く寝こんでいた別院なのだろう。

 ひそやかな足音が廊下を近づいてきた。

 障子の前まで来て、逡巡している。部屋の主を怖がっているようだった。

 すっかり日が昇ってからやっと、障子がするすると開いた。立っていたのは予想どおり、兄だった。

「目が覚めたか‥?」

 桂次郎は黙って見上げた。すると兄は目を逸らした。

「先代の遺言で‥おまえを封じなければならない。先代は‥亡くなる間際に、座敷牢でのおまえの霊力を感知したらしい。母上にあれを新しい弓削の守りとせよ、と言い遺されたそうだ。」

 言い訳がましく、弱い声で話しかける。

 桂次郎はなお、返事をしなかった。ばかばかしくて言葉が見つからなかったのだ。

 兄は隣に膝をついて座った。

「わたしは‥そんな真似はしたくない。弟を物の怪として封じるなど‥。だが遺言は遺言。そこで小夜と相談したのだが、おまえが新しい当主となって弓削を守ればよいのだ。わたしは隠居しておまえに当代を務めて貰おうと思う。どうだ、桂次郎‥? おまえが桂次郎として生きるにはそれしかないのだ。素直に従え。そうすれば縛めを解いてやろう。」

 思わず失笑した。

「兄さん‥。ぼくはもう弓削の者ではありません、大倉の人間です。お忘れですか‥?」

 すると兄は怪訝な顔をした。

「大倉ではもう必ずしもおまえが必要とはならないだろう。内儀はまもなく臨月を迎えるそうではないか? 生まれる子がおまえの代わりになるだろうから、何も心配はない。」

 桂次郎はまじまじと兄の顔を見た。

 本気で言っているようだ、と思えば何もかもが虚しくなる。祥一郎の懸念どおり、弓削の家は化け物屋敷なのだろう。永い間獣妖を神と偽り奉ってきた報いなのか、それとも先代の妄執が隅々まで染みついてしまっているせいなのか。

 どちらにしてもこれ以上、話す事など一つもなかった。

「‥‥ぼくは大倉へ帰ります。弓削の敷地には二度と足を踏み入れません。」

「わたしの娘をおまえの妻にしてやろう。‥桂次郎、得心せよ。さもなくば三日月として封印することになる。おまえの身体に呪印を施さねばならぬ‥‥わたしは、したくないのだ。」

 兄は熱心にかき口説いたが、桂次郎はますます呆れるばかりだ。

 弟だの人として生かしたいだのと口にしながら、平気で薬を盛り、縛りあげて脅したうえ、姪を妻に娶れとは―――どこに人としての待遇があると言うのだろう?

 つまるところ兄は呪術など遣いたくないだけなのだろう。先代の死に様が記憶に新しいだけに、呪印を施すような危ない真似はしたくないが、先代の亡霊が棲みついている屋敷裡で遺言を無視するだけの腹も決められない。

「弓削の家を本気で守る気があるのでしたら、まず先代の奥方と姉さんがたを外へ出されることです。それだけでも本殿の揺らぎは消えるでしょう。それから先代の妄執を祓うことですね。ここの奥にも、かなり溜まっているじゃないですか?」

 びくっとして兄は部屋の奥を窺った。ぶるぶる震えだし、額に冷や汗が浮き出す。

「兄さん‥。頭を冷やして、ばかげた考えは頭からお捨てなさい。薬を盛られたことは忘れましょう。だから今すぐぼくを解放してください。」

 兄の顔は苦しげに歪んだ。いきなり激しく首を振る。

「だめだ、だめだ‥! わたしに父が祓えるものか‥。それくらいならおまえに呪印を施す方がましだ‥!」

「兄さん‥‥。」

 鬼の形相で、兄は桂次郎を引き起こして揺さぶり、泣きそうな声で囁いた。

「従うと言え、桂次郎。」

「‥嫌です。ぼくは弓削に認めて貰わずとも、人間です。」

「では‥やむを得ん。」

 おもむろに懐から懐剣を取り出すと、兄は桂次郎の左腕に斬りつけ、血を小皿に垂らす。そして自分の左腕にも傷をつけて同じ皿に血を受け、混ぜ合わせた。

「何を‥。ばかな真似は止めてください、兄さん‥。」

 桂次郎は身を捩って逃れようとしたが、押さえつけられて胸元をぐいとはだけられた。

 それ以上考える間もなかった。一瞬で桂次郎は三日月に変じ、半透明の身体で縛めからも兄の腕からも抜け出して立ち上がった。

 左腕の血を拭おうと無意識に右手で押さえようとする。だが手が動かなかった。手だけではなく、全身が静止したように突っ立ったまま動けなかった。

 ―――これは‥。

 口が動かず、声さえも発せられない。目を凝らせば細い蜘蛛の糸のようなものがびっしりと絡みついていた。糸は部屋の四隅に張られた封じの札より出ている。

 兄が疲れ果てた顔で溜息をついた。

「素直に従えば‥このような仕儀にはならなんだものを‥。」

 そしてのろのろと立ち上がり、部屋の正面に仕上げの札を貼る。

「おまえはこれより二度と桂次郎には戻れぬ。三日月としてこの別院に封じる。」

 桂次郎は懐にあるはずの守りの札に意識を集めた。

 万が一、三日月から桂次郎へ戻れないような事が起こった場合のために、さな子に名を書いて貰ったのだ。その名前の札が守り袋に入れて懐に入れてあった。

 だが意識の中で捉えたはずの守り袋は桂次郎をはね返し、逆に絡みついた糸が増え、いっそうがんじがらめになってしまった。

 立ち去りかけていた兄が肩ごしに振り向いて、憐れむように嘲笑を浮かべた。

「無駄だよ。懐の名札は廃棄した。袋に入っているのは先代の血で書かれた三日月の名だ。先代が父としておまえに与えた唯一のものではないか。大切にせよ。‥‥哀れな弟よ。」

 茫然としながらも、桂次郎の胸には苦い後悔がこみあげてきた。

 弓削の敷地に足を踏み入れた時から、どこかでこの事態を予期していたはずだったのに。油断があった、と唇を噛みしめた。

 兄は障子だけでなく、すべての戸を閉めているようだった。まもなくこの別院は常闇に変わる。昔と同じ、いや母の雪乃と同じか。

 闇が増すにつれて、背後の妄執が再びざわめきだした。

 背中がぞくりとしてひんやりした気配が迫ってくる。唐突に兄の言葉が意味を持って頭にしみこんできた。

 ―――先代の血で書かれた名前。

 つまりは死霊の餌か。兄は父の怨霊が本殿を脅かすことのないよう、欲しがった餌を与えたというわけだ。

 そこまでやるのか―――桂次郎は諦めに似た悲しみで胸がいっぱいになった。


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