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三日月  作者: りり
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其の参

 その年の暮れ、依子は無事に可愛らしい女の赤子を出産した。

 師走の慌ただしさが走り抜ける中、大倉屋では盛大に祝い餅がつかれ、振るまい酒と紅白の餅が取引先からご近所、出入りの御用聞きに至るまでの誰彼じゅうに配られた。

 男爵家からは一度だけ使いがあったが、さな子がきっぱりと断ったのでそれからは何も言ってはこない。それでも女で良かったと依子もさな子も密かに思った。女ならば爵位継承には関係ないので、後々にもめ事になることもないからだ。

 出戻り娘の出産で騒ぎすぎだ、と陰口を叩く向きもなくはなかったけれど、大倉屋では誰もそうは思わなかった。さな子の睨みがきいているだけではなく、依子の人徳と言えるだろう。

 元気を取り戻してからの依子は以前よりどこか大人びて、お人形みたいな愛らしい娘から艶やかでしっとりと落ち着いた一人前の女といった風情になった。嘗て嫁にと申し入れてきた中には、いまだ独り身だからと再び打診してくる者もちらほらといた。出戻りで子持ちでも構わないと熱心に口説いてくる。

 しかし祥一郎は依子を二度と外へ嫁に出す気はないようで、落ち着いたら大倉屋の若い者のうちから婿を取って分家を立てればいいとさな子に告げた。

 さな子は父の気持ちも解るし、依子にとってもいい思案だと思ったけれど、選ぶのは至難の業だろうと内心困惑した。

 大倉屋の若い独り者は大抵、多かれ少なかれ依子に岡惚れしている。その中で分家を立てるに相応しい有望な者を選べばいいのかもしれないが、さな子はおさとが前に言った、依子は派手な役者顔の男が好みだという言葉が引っかかっていた。

 どうせ所帯を持つのならば妹も自分のように好いた相手と添わせてやりたい、と切実に思う。ところが大倉屋の中をどう探しても、役者顔まではいかないのである。そこそこ好感の持てる程度の顔で依子は納得できるだろうか? 

 そもそもさな子には派手な役者顔というのがどういう顔なのか、今一つ解っていない。ただ優男だろうと漠然と思うだけである。大倉屋の中には精悍な男は多いけれど、優男はまずいない。まして派手な男もいない。皆、堅実で地に足のついた性根の据わった者ばかりだった。

 思いあまって桂次郎に相談してみた。

 すると彼はいつもの彼らしくなく、笑いをこらえきれない様子でさな子に言った。

「依子さんが落ち着けばご自分で決めますから、心配は要りませんよ。」

 そうかもしれない、と安堵しながら、桂次郎の様子に少しむっとした。

「ところで‥。なぜそんなにお笑いになるの?」

「いえ、さな子さんを笑っているのではなくてですね、おさとさんの言葉がなかなか的をついていると感心しているのです。」

 桂次郎は慌てて笑みを引っこめた。釈然としないが、まあいい、とさな子は別の話題に振り替えた。

「しなのやのお菊さまがやっとご懐妊なさったそうなの。お祝いを差しあげなければならないのだけれど‥‥。」

「はあ‥。」」

 本を開いている桂次郎の返事は生返事だった。構わずにさな子は続ける。

「何でも‥ご懐妊とわかってから、以前に旦那さまが芸者に生ませた御子をね、引き取る事になすったとか‥。旦那さまのご意向ではなくて、お菊さまがそうしたいと仰ったそうなのです。どういうお心からなのでしょうね?」

 桂次郎は困惑した顔で振り向いた。

「あのですね、さな子さん。ぼくにご婦人の心情がわかるわけがないでしょう? ‥なぜそんな事を訊くんですか?」

 さな子はほんのりと赤くなった。

「それは、そのう‥。母となると他人の子でも愛おしくなるものだと依子が言うので‥。」

 ますます不可解そうに桂次郎は首をかしげた。

 さな子は茹であがったように赤くなってうつむいた。

「ですから‥。わたしも母になれば、そのように寛大な気持になれるのかしら、とふと思いまして‥。」

「あの、ぼくにはさな子さんに寛大になっていただかなければならないような事情は一つもありませんよ。」

「そうではなくて‥! そのう‥。桂次郎さんも‥ご自分のやや子が欲しくはないですか、と言う意味です。」

 桂次郎は更に複雑な表情になった。

「‥‥ぼくはさな子さんさえいてくれれば、それで何も要りませんが‥。何て答えればいいんです?」

 さな子が眦をきっと上げたので、彼は慌てて付け加える。

「まったくお察しの悪い‥! つまり‥わたしも母になりたいのです、と言っているんじゃありませんか‥!」

 自分でも支離滅裂で理不尽な言い様だと思うが、つい声を荒げてしまう。

 すると桂次郎は真顔になって、じっとさな子を見つめた。しばらく間があって、妙に静かな声で言う。

「それは‥。ぼくの‥‥? さな子さんは子どもが欲しいのですか‥。」

 さな子はたじろいだ。

「あ‥あなた以外の誰の子を欲しがると言うんですの? 変なことをお聞きにならないでくださいな。」

 そうでしたね、とどこか上の空で返事をして、桂次郎は本に戻った。

 さな子は何となく沈んだ気分になって、先に寝みます、と声をかけて床に入った。

 もしや桂次郎は子どもが欲しくないのだろうか、と思えばそれ以上は口に出せなかった。ほんとうは―――年が明けたら一緒に水天宮にお札を貰いに行ってもらえまいか、と頼みたかったのだけれど。

 うつらうつらとし始めた頃、本を閉じる微かな音がした。

 ランプが消えて人の動く気配がする。躊躇いがちに頬を撫でられるのを感じ、夢うつつながら無意識の裡に手を伸ばしかけた。すると溜息まじりに、ごめんなさい、と声がした。

 驚いて意識はすっかり冴え、恐る恐る目を微かに開ける。

 薄闇に浮かんだ桂次郎はなぜかひどく切なげで、苦しそうな顔をしていた。

 さな子は何が何だかわからないままに、頬におかれた手に自分の手を重ねた。あなた、と頬笑んで、指を絡める。

「‥‥ねえ。わたしも、あなたがいればそれで十分ですから。」

 ごめんなさい、と桂次郎はもう一度言い、さな子の口を軽く吸った。

 さな子は夜具の裾を開いて、纏わりつくように抱擁し、愛しい腕の中に身を任せた。今はこれだけでいい。心からそう思った。


 大倉屋の新年は常のように賑やかに年が明けた。

 松の内ばかりは祥一郎も隠居所を出て、母屋で慶賀の客に応対する。更に今年は依子と赤ん坊が余計に賑わいを添えていた。

 赤子は倭子(しずこ)と名づけられたけれど、大倉屋ではみなが姫、と呼んでいた。温和しくていつもにこにことご機嫌良く過ごしている様子に、おさとは依子お嬢さまにそっくりだ、と相好を崩した。

 あっという間に節分が過ぎ、春になった。

 梅の季節が過ぎ、桃が咲き始めて倭子の初節句の支度に追われている頃、さな子は珍しく風邪を引いて二日ほど寝こんだ。

 鬼の霍乱ですかねえ、などとおさとに謂われつつ、三日目には起き上がって帳場にも顔を出したりしたが、どうもすっきりしなかった。物心ついて以来、だるいだの気分が悪いだのなどという案配に陥った記憶がないというのに、なぜか床を離れるのが辛い。しかもご飯が食べられなかった。

「奥さま‥。これはもしかして‥風邪じゃないんじゃ?」

「え‥? 縁起でもないこと言わないでよ、おさと。悪い病気だとでもいうの?」

 血相を変えたさな子に、おさとは呆れ顔で囁いた。

「そうじゃなくて‥。おめでたじゃありませんか?」

「あ‥。」

 そう言えば月のものが遅れているようだった。胸がどきどきする。

 お医者さまに診ていただきましょう、とおさとはにっこりした。

 早速、医者が呼ばれた。はたしてさな子は妊っていた。しばらくは安静にしているように、と言われて、おさとに夜具に押しこまれてしまった。

「先の奥さまはさな子さまがお腹にいる時それはそれは悪阻がひどくて‥。帯を巻く頃までには幽霊みたいにげっそりお窶れになってしまって、一時はお命もどうかというほどたいへんだったのですよ。他は少しも似てなさらないけど、何と言っても母子ですからそこだけ似ておいでかもしれません。御子が大事なら無理なさらないことですよ。」

「風邪に悪阻が重なっただけだととお医者さまが仰ったでしょ? 大丈夫よ、大げさにしないで。病気じゃないとわかったら気分も少し良くなったし‥。」

 おさとはいいえ、と首を振った。

「ともかく今日は寝ておいでなさいまし。夕餉には赤いご飯を炊きましょうね。あ、旦那さまならお帰り次第、こちらへご案内しますからご心配なく。‥‥大旦那さまと依子お嬢さまにお知らせしなきゃ。時蔵さんにもね。」

 やけにいそいそと、おさとは去っていった。

 残されたさな子は何だか気恥ずかしくて、夜具を頭から引き被って身悶えした。

 夕餉に赤いご飯、とは。

 それでは大倉屋の全員に自分が妊った事実が知れ渡るわけだ。いや主人夫婦に跡取りとなる子ができて、祝うのは当然と言えば当然なのだけれど、みなに一斉におめでとうございますなどと言われたりしたら、気恥ずかしくて顔が上げられないではないか―――なぜかさな子の頭の中では、腹の子は男児で桂次郎に似ているものと決まっている。

 そっと腹を撫でてみた。不思議なものだ、この中に命が宿っているとは。あらためてそう思えば、胸がいっぱいになってくる。

 さすり続けている裡にとても幸福な心持ちになってきた。

 これでやっと、以前桂次郎が毎月通っていた女にも時折封書を寄こす女にも―――いや、それは同じ女なのかもしれないが、とにかくどこの誰にも勝ったような気がした。だいたいがそんな女は、はなからいやしないのだという気分にもなる。

 そのうちにうつらうつらしてきた。

 半分醒めていて、半分寝ている。そんな淡くて、心地よい午睡に体じゅうがふわふわと漂い出す。そうしてさな子は不思議な夢を見た。


 皓々と明るい月明かりの中をたったひとりで歩いていた。

 あたりは宵闇に包まれていて、どこをどう歩いているものか自分でもさっぱりとわからない。けれど怖いとも思わず、何か心得ているようにさな子は歩く。

 しばらくすると暗闇の向こうに遠く、月光に照らされて輝く桂の木を見つけた。

 桂の天辺に佇む朧な人影を見た、と思い、さな子はまっすぐにその場所へ行く。月光に薄く透き通ったその姿は探している人に違いない。

 近づくさな子を見咎めて、高い所からいきなり声が降ってきた。

「おや。珍しい客が来たものだ。」

 驚いて立ち止まったさな子を見下ろしながら、枝伝いにふわりふわりと一番下の枝まで降りてきて腰掛け、足を揺らしながら微笑む。

「久しぶりに三日月が来たと思うたのに‥。お守りの方か。」

「お守り‥?」

 怪訝な顔を向けたが、その人は微笑むばかりで微かに首を振った。

 いつかの異形の男に髪の色といい、瞳の色といいよく似ている。けれどまったくの別人だった。誰なのだろう、と首をかしげる。

「ここはどこですか‥? うちの裏庭みたいだけれど違うようだし。わたしは午睡をしていたはずなのです。」

「夢伝いに迷いこんだか。‥ここは我らの棲むおぼろと人間の棲むうつつの境目だ。この木はそなたの家の裏庭の桂と同じであって、同じではないもの。境界の目印だ。月の光で架け橋ができて、裏庭の桂とここの桂が繋がる。」

「ではあなたは桂の木に棲むお方ですか‥?」

「いいや。樹精でも木守でもないぞ。常にはここにいるわけでもない。」

 くすくす笑う。

「では‥‥桂男(かつらお)さまですか? あるいは月の神さまでしょうか?」

「月神ではないし眷属でもない。いずれ名のついた物の怪ではない。ただ始めより月の光の中に在りて、時をたゆたうだけのもの。」

 訳が解らない、と眉間に皺を寄せたものの、夢なのだからと思い直した。

 興味深げにこちらを見ていた男は、ふと何事か心づいた表情になり、枝の上から上体をかがめてさな子の顔を覗きこんだ。

「そなた‥。腹に子がいるのか?」

 ええ、とうなずきながら無意識に手を当て、腹を庇う仕種をする。

 ふうわり、と漂うように枝から下りて、男はさな子の腹に顔を近づけた。

「な、何をなさいますか‥!」

 払いのけようとした手を優雅に避けて、男はなるほど、とつぶやいた。

「では三日月は人を選んだのだな。道理で訪ねてはこないわけだ。‥‥如何(いか)にも重畳(ちようじよう)。」

 そしてほんのりと淡い光を撒き散らして微笑んだ。薄羽蜻蛉のような、羽衣のような羽が背中にぼんやりと見える。

「そなたはとうとう三日月をそちらへ引き戻してしまった。人の身で何ゆえ、あっさりと境界を超えて来られるのかと常々不思議に思うてきたが‥。人としての(えにし)が強いのか、想いが強いのか‥。いや、まさしく人なればこそ、か‥。」

 いったい何の話だろう。問い返したいと思うまもなく、目の前に霞がかかったようにぼんやりとしてきた。

「ちょっと‥お待ちくださいませ‥。あの、お訊きしたいことが‥。」

 銀色の羽がきらきらと輝いて、大きく羽ばたくのが見えた。

 月も桂の木も、男の姿もすべてがぼやけて薄れていく。鈍い光に紛れて、さな子は男が微笑んだような気がした。


 目を覚ました時はすでにとっぷりと日暮れて、部屋は仄暗かった。障子ごしに廊下の行灯の明かりがぼうっと影を作る。

 灯りを入れ、身繕いして鏡の前に座る。髪を結い直して、紅だけほんのりとさした。

 今しがたの夢は何だったのだろう。

 あの薄羽蜻蛉の化身のようなお方は、さな子をよく知っているような口ぶりだった。

 何と言ったか、ええと―――おぼろとうつつ? その境目をさな子があっさり超えてくると言っていたように思うが、聞き間違いであろうか。夢でさえあんな不可思議な場所へ行ったのは初めてだというのに。

 そしてはたと気づいた。夢なのに、何を真面目に考えているのだろう。

 ばかばかしいこと、とさな子は笑いとばしてみた。少し胸の奥に(こだわ)るものが残るが、それで片づけてしまうことにする。

 そこへ襖がすっと空いて、桂次郎が息を切らして入ってきた。

「さな子さん、起きていていいのですか? ‥‥重病なのでは?」

「え?」

 ツイードの上着を手に持ったまま、隣に座って心配そうに覗きこむ。

「おさとさんが‥。命に(さわ)りはないが治る見こみはないと言われたと‥。当分の間は安静にって‥。」

 さな子は真っ赤になった。

 桂次郎には直に告げたいから何も言うなと申しつけたものだから、おさとはそんな言い方をしたのだろう。まったく呆れてしまう。多少影が薄くても桂次郎は大倉屋の若主人だというのに、からかうとは何事だと眉を顰めた。

 すると桂次郎は気分が悪いのか、と真摯な顔で見つめてくる。

「いえ、病気ではないんです。実はね‥‥。」

 言いさして、さな子はふと桂次郎がまた洋装で出かけていたのだと気づいた。今朝は気分が悪かったので、出かける支度の手伝いをできなかったし、行き先も聞きそびれている。

「‥‥今日も深川でしたか?」

「は‥?」

 まさか朝から花街でもあるまいに、と気づき、さな子は自分の狭量に溜息をついた。けれども念のために、どこへ行っていたのかと先に訊ねる。

「倉田先生のお伴で荻窪まで行ってきたのですが‥。どうしましたか?」

「いえ、何でもないのです。ごめんなさい、変な事をお訊きして‥。」

 ばつが悪いのでにこやかに微笑んで答えれば、桂次郎は泣き出しそうな顔をした。

「‥‥具合が悪いなら寝ていなければ。さな子さんが『ごめんなさい』だなんて‥。」

「いえ、あのう‥。反対です、わたしはとても気分がいいのです‥。いつになく素直な心持ちでいられるというか‥。」

 慌てて手を振って、否定する。

 桂次郎はたまりかねた様子で、いきなりさな子を抱き寄せた。

「‥ほんとうに病気ではないのですよ。わたし‥とうとう母になったのです。」

 肩に頭を預けて、背中に手を添え、しっかりとしがみつく。言葉にしてみれば、嬉しさが体じゅうに満ちて溢れ出した。

 髪を撫でる手が止まった。

「母に‥。それは妊ったということですか‥?」

「そうですよ。」

 桂次郎はさな子の頭を放して、両肩に手をかけ、驚きを隠せない様子で帯のあたりに視線をずらした。言葉を失くしたみたいに茫然としている。

「‥‥嬉しくはないのですか。」

 やはり欲しくないのだろうか、と不安が胸をよぎる。

 だが桂次郎はじっとさな子の腹を見つめたまま、首を大きく横に振った。

「‥ちょっと詰まってしまって‥。嬉しいです‥何て言うか、言葉では言い表せないほど、嬉しいんです。ぼくの‥子どもですよね?」

 当たり前でしょう、と答えて、さな子は肩におかれた手が震えているのに気づいた。

 再びさな子の頭を腕にかいこんで、良かった、と彼はつぶやいた。

「子どもができないのはぼくのせいだと思っていたので‥。ずっと申し訳なくて‥。」

 ではいつぞや謝っていたのはそういう意味だったのか、と思い当たれば、母になりたいと能天気に口にした自分に腹が立った。

 そっと背中を撫でてみる。いつもして貰っているように、髪に指を入れて心をこめて愛撫する。指先にじわりとしみ出る愛おしさを感じて、さな子はこの上なく幸せな心持ちになった。大切にして貰うばかりではなくて、もっと大切にしなければとしみじみ思う。

 しばらくの間、黙ったままずっと抱き合っていたけれど、やがて桂次郎ははっとした表情でさな子を放した。

「気がつかなくて申し訳ありません。あちらの暖かい部屋へ行きましょう。ここは少し寒いですから。」

 はい、と答えてさな子は満面に笑みを浮かべた。


 さな子の具合はすぐに良くなり、元来が丈夫なせいかおさとが心配したようなひどい悪阻はなかった。むしろ始終ご機嫌で、いっそう精力的になったほどだ。

 最も安堵したのは時蔵や弥吉郎を始めとした帳場の面々だったかもしれない。家業を嗣いで三年、今ではさな子の決断が大倉屋の主舵を動かしているのは事実だった。

 梅雨の気配が漂い始めた皐月。

 帯祝いを無事に迎えた日の夜更け、桂次郎は祝い酒を手に裏庭の桂の木に向かった。

 雲の合間を縫って時折顔を出す月の、柔らかな光が新緑の葉を鮮やかに浮かびあがらせる瞬間を待って、梢をじっと見上げる。

 やがてやや膨らんだ上弦の月が姿を現して、皓々と桂の梢に光を注ぎ始めた。

 木の枝に抱きかかえられるように立った桂次郎の姿が、月光に洗われるように少しずつ透き通っていく。と同時に月光の色に染まった髪がゆるゆると伸びて、腰を覆うほどになり、真っ白な面に紅い唇が、光に霞んだ全身の中でくっきりと浮かびあがった。

 いつの間にやらあたりは宵闇に包まれ、月明かりの中に桂の木だけが映し出される。あれほど覆っていた雲は一つも見えず、暗空に月がぽかりと浮いている。

 早緑(さみどり)色の葉がさわさわと揺れた。

 桂次郎はふわりと飛んで、高所にある枝の一つに腰を下ろした。

「残月さん。ご無沙汰しております。」

 梢の葉が揺れて、背に蜻蛉の羽を宿した月光色の男がふうわりと現れた。

「三日月か‥。久しいな。」

「‥その名はご容赦ください。今は大倉桂次郎です。」

 男は月色の瞳を可笑しそうに和ませて、微笑した。

「そうであったな。すまぬ。」

 桂次郎は微笑み返して、懐から桂の若葉を二枚出した。

「今夜は祝い酒を持って参りました。ご相伴くださいませんか?」

「‥‥いただこう。」

 残月と呼ばれた男は杯に模した桂の葉に酒を受け、美味しそうに飲みほした。何の祝いかとは訊ねなかった。桂次郎は自分も飲みほす。

「先頃、そなたのお守りが夢伝いに迷いこんできた。」

「さな子さんが‥? 夢伝いにですか‥。さな子さんにそんな力があるとは気づきませんでした。」

 桂次郎は残月の杯を再び満たしながら、驚いた顔で聞き返した。

「ああ‥。おそらく道を開いたは腹に宿っていた魂の力だ。だがわたしを見てがっかりし

ていたようだから、いつものごとくそなたを探していたのだろう。まるで初めて会ったような顔をして、わたしが何者かと誰何して帰ったぞ。」

「どうやらさな子さんには、こちらの世界は見えていなかったようなのです。それでは‥‥もうご存じなのですね? ぼくは人の親になりました。」

 残月は知っている、とうなずいて再び杯を干した。そしてくすくすと笑う。

「ほんに面白い人の子だ。何の力も持たぬのに(おも)い一つで、ひょいと境界を越えてくる。そのくせ探しもの以外は何一つ、目に入らぬとは‥。永い時をたゆとうているが、あのような者は初めて見るな。‥‥そなたをとうとう人の身に繋ぎとめたようだ。」

「はい‥。それで今宵はお別れのために参りました。」

「それがいい。そなたはもともと人なのだから‥。魂に少し、我らの同族が混じりこんでしまっただけだ。」

 桂次郎は杯に映る月に目を落とした。

「あなたは初めからそう仰ってくれましたね。でも‥ぼくには、なかなか信じられませんでした。膝に抱いて頬ずりしてくれた人と簪を突き刺そうとした人の、どちらがほんとうの母なのか未だにわからないように‥。」

 名前を持たない頃の桂次郎は、月光の色に透き通った姿でいる方が多かった。だからといって特別な妖力を持つわけでもなく、できるのは壁や縄をすり抜けるくらいしかない。

 母の中には二人の女がいた。一人は月色の子どもを役立たずの化け物と疎んじて殺そうとし、もう一人は細やかな情を注いで下にも置かずに可愛がった。

 光のさしこまない常闇の牢で一つの体をめぐり、心を狂わせた女と人ならぬ女の魂がせめぎ合ってどちらも疲れ果て、終いには虚ろになってしまった。消滅したのか深い眠りについているのか―――幼かった桂次郎にはそれさえも判別できなかった。理解したのは母はこの世の何もかもを一切捨ててしまった、という事実だけだ。

 自分がいつから境目を超えるようになったのか、記憶にはない。残月に初めて会ったのがいつなのかも覚えていない。ただ彼は桂次郎の母の半分を見知っていたようだった。今から思えば、どっちつかずの幼児(おさなご)を心配して見守っていてくれたのだろう。

「どちらもそなたの母なのだよ。どちらが、というほど分かたれてもいない。子を可愛がるは人としての情、その子を憎むというも人の業。そもそも子を持たぬ種族の我らにはないものだ。だが雪乃という女の体に封じられて、夕月(ゆうづき)は未知なる(こころ)を知ったものとみえる。女が男を慕う(こころ)、母が子を愛しむ(こころ)。そして傷つけられて憎む(こころ)も‥。おぼろに棲む獣妖は概して情が濃いゆえ、知れば人の幾倍にも膨らむ。」

 残月の話では雪乃の体内に封じられた妖しは、夕月という名で彼と同じ月光の中に棲む獣妖だそうだ。人の(なり)をしていない時は、月色の透きとおる毛を持った長耳で四つ足の獣の形を取っていると言う。形は異なるがすべておぼろで生まれた同族なのだ、と残月は幼い桂次郎に語った。

「我らは月光の中で形を得て生まれるものだが、そなたは人の女の腹から生まれた。母の胎内にいる時におぼろの生命の残滓を取りこんでしまったせいで、魂に少しまじりものがあるだけだ。もとよりおぼろで生まれたものに人の子を胎むことはできぬ。」

「はい。さな子さんがぼくの子を妊ったと知って‥ぼくは漸く、人として生きていいのだと思えるようになりました。」

 桂次郎は杯を空け、辞儀を正した。

「満月の夜ごとにこちらへ参って、あなたと酒を酌み交わしたのは大切な思い出です。生涯忘れることはありません。けれどもうぼくは、ここへ逃げこんではいけないと思うのです。これからは大倉の義父に恩を返して‥さな子さんとお腹の子どもをぼくが守っていかなければ‥。」

 残月の背中の羽がふるふると震え、月光を反射してきらきら輝いた。その光が杯の酒を照らして、さざ波を立てる。残月は嬉しそうな顔で哄笑していた。

 つられて桂次郎もにっこりと微笑んだ。

「厚かましいのですが、最後に残月さんにお願いがあります。」

「何だ?」

「神無月に生まれるさな子さんのお腹の子が、もしもこちらへ迷い来ることがありましたら戻してやっていただけないでしょうか‥? お腹にいるうちから母を連れて夢伝いに来るような子ですから、一つ身になればまたふらふらとやって来るかもしれません。」

 ふうわりと羽を伸ばしながら、残月は微笑んだ。

「心配はないよ。あの子の母が見失うものか。‥‥だが万が一そのような事があれば、必ず戻してやろう。今夜の美酒の礼に。」

 ありがとうございます、と頭を下げた桂次郎は、次の瞬間、自分が裏庭の桂の木にたった一人で座っているのに気づいた。皓々と照り輝いていた月は、雲に隠れて見えなかった。

 すうっと音もなく地面に降り立ち、躰を震わせると桂次郎は元の人の姿に戻った。

 母屋へ戻る途中で、稲荷社の前でふと視線を感じて立ち止まる。白狐の像がじっとこちらを見ていた。口にくわえた宝玉が心なしか煌りと光ったような気がした。


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