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三日月  作者: りり
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其の弐(続き)

 桂次郎が帰宅したのはかなり遅い時刻だった。

 大学の研究室へ行った日は常のことで、先生や他の助手の人たちと夕飯がてら酒を酌み交わしてくるのが(なら)いなのだ。そして外出のあとには必ず、土産を手にまっすぐ隠居所へ向かい、祥一郎に挨拶しにゆく。

 さな子はやきもきしながら、人気のない渡り廊下の隅で待っていた。

 けれど桂次郎は祥一郎と話しこんでいるらしく、なかなか出てこない。もう今夜は諦めようかと(きびす)を返しかけた時、桂次郎の姿が見えた。懐手(ふところで)をしてややうつむき加減に、思案(しあん)げな面持ちでこちらへ歩いてくる。

 さな子は暗がりからふらりと出て、努めて平静に声をかけた。

「わっ、さな子さん。」

 桂次郎はぎくっとした顔で後ずさった。

 まるでお化けに遭ったみたいじゃないの、とややむっとしながら、さな子は何とか声を出した。

「あのう‥。お父さまからお話を聞きましたか。」

「えっと‥。依子さんの件ですか‥?」

 ええ、とさな子はうなずく。そこで言葉に詰まった。

 ひっそりとした渡り廊下は仄暗く、お互いの顔は(かす)かにしか見えない。ぽちゃん、と池の鯉の()ねる音がした。

「その様子だと、どうやら誤解は解けましたか。」

 吐息まじりの声は呆れ果てているように響いた。さな子は赤くなって、う、と言ったきり言葉が続かない。

「訊いてもいいですか‥? いったいなぜ、依子さんの子どもの父親をぼくだと思ったのでしょう? いくら考えてみても心あたりがなくて‥。疑われるような振舞いをいつ、どこでしましたか?」

「そ、それは‥。依子がわたしに申し訳ない、と泣いていたのを漏れ聞いて‥。」

 ますます詰まってしまう。

「依子さんは神経が過敏になっていて、ここひと月、何かにつけてさな子さんに申し訳ないと謝っていたではありませんか‥?」

 確かにそうだった。好物のみさき屋のおはぎを一緒に食べるのさえ、申し訳ないと口にしていた。

「それに‥依子さんは病人だったのですよ? ぼくはさな子さんの中で、病人を手籠めにするような非道な男だと思われているわけですか。」

「ち、違います‥!」

 小さく叫んでさな子は唇を噛んだ。

 言われれば何もかも道理だが、あの時は嫉妬に目が(くら)んで訳が解らなくなっていたのだ。見当違いの酷い言葉を吐いたのは事実だけれど―――さな子だって胸が潰れそうだった。

「怒ってらっしゃるのね‥。わたしが悪いのですから、仕方ないですけど‥。」

 吐息をのみこんで、さな子はうなだれた。

「とにかく‥母屋にお戻りくださいませんか‥? 皆の手前だけでも、お願いします。」

「‥‥嫌です。」

 穏やかな口調だったがきっぱり言われて、さな子は思わず顔を上げた。

「今度ばかりは譲れません。さな子さんがちゃんと謝ってくれるまで、母屋に戻るつもりはありませんから。」

 そう言うと失礼、とさな子の横をすり抜けて、すたすたと歩き去っていく。

「待って‥待ってください‥。お腹立ちは、当然ですけれど‥。」

「怒っているわけではありませんよ。」

 桂次郎は不意に立ち止まり、肩ごしに振り向いてさな子を見た。

「‥‥さな子さん。あなたにとってぼくは何ですか?」

「え‥。」

「世間で言われているように‥偶々(たまたま)手近にいて都合がよかったから婿に迎えた、それだけの男ですか。」

 桂次郎のついた溜息は夜風に漂い、すぐに消えた。

 さな子は言葉を失くしてただ立ちつくす。

「ぼくはね‥。悲しかったのですよ。」

 寂しげな横顔が月明かりに揺れて、瞬く間に宵闇に紛れ、見えなくなった。


 おさとはいつになく長引いているさな子の夫婦喧嘩を気にかけていた。

 桂次郎が母屋に寝泊まりしなくなって、もう十日余り経つ。さな子は一見、普通に振る舞っているようだが、おさとの目にはどこか覇気が足りなく映った。幼気(いたいけ)な赤ん坊の時でさえもっと気迫に溢れていた御子(おこ)だのに、と針仕事をしつつ、首を振る。

 おさとは八つで大倉屋に奉公に来てそのまま嫁にも行かず、そろそろ三十年が過ぎる。もともと身寄りはなく、死んだ母親の知り合いが大倉屋に出入りしていた縁で口をきいて貰ったらしい。らしい、というのは幼かったので自分でも詳しくは知らないのである。

 さな子の母みやが嫁に来た時、おさとはやっと十三だった。みやはおさとの屈託ない気質を気に入り、妹のように(そば)において可愛がってくれた。

 そのご恩返しと気張るわけではないが、さな子と依子のことは生まれた時からずっと見守ってきたつもりだ。特にみやが流行(はやり)(やまい)であっけなく世を去ってからは、母代わりとして姉妹を大事に育ててきた。

 容貌といい心映えといい、みやと瓜二つの依子はもちろん可愛いけれど、一癖あるさな子はそれとはまた別にひどく可愛い。二人とも大家の令嬢でありながら驕ったところもわがままなところもなく、仕える身として誇りに思える立派な婦人に育ってくれた。自分では夫も子供もとうとう持たずに仕舞ったけれど、甲斐があったというものだ。

 それなのに依子に降りかかった理不尽な不幸が、何とか取り除けられたとほっとした矢先に、円満に見えたさな子の夫婦仲に波風が立つとは。

 さな子に関して綿菓子みたいに甘い桂次郎が、今度は譲れないと言っている、とは昨日さな子からやっと聞きだしたことだ。理由は何だと問い質せば、ばかばかしくておさとは開いた口が塞がらなかった。

「悋気起こすにしたって、相手が違うでしょうに‥。依子嬢さまは小っちゃい頃から、派手な役者顔が好みなんですよ? 旦那さまはまったく地味じゃないですか。‥ありえませんね。」

 さな子はちょっとふくれて、おさとを見上げた。

「おさと、それはどういう意味? 桂次郎さんはそれなりに見栄えのする‥」

「悪かないですけど、地味でしょう? ま、大倉屋の若主人ですから、花街ではそれなりに虫もたかるでしょうが‥。とにかくね、男と女がくっつくには相応の理由(わけ)ってもんがあるんですよ。ましてや不義の仲になるにはどちらかに強い執着がなくてはね。あのお二人のどこに、執着なんてもんがあるんです? 百歩譲って情が芽生えたとしたって、すぐに呑みこんじゃいますよ。さな子さまがいちばん解ってなきゃいけないでしょうが。」

 さな子は癇癪を起こして、解ってるのよ、と叫んだ。しかしすぐにしぼんだ風船のようにうなだれる。おさとは溜息をついた。

「とにかく謝れば許してくださると仰るんでしょう? ご自分が悪いと解ってるんだし、さっさと頭を下げにおいでなさいましよ。」

 そうは言ったものの、さな子は意地っ張りで、幼い時から『ごめんなさい』が口にできない性分と解っている。まだ当分、時間がかかりそうだとおさとは再び首を振った。

 そこへ当の桂次郎が慌ただしいふうで顔を出した。

「おさとさん。出かけてきます。夕餉(ゆうげ)は要りません。遅くなるので、誰も待っていなくていいですからね。」

 おさとが見直したことに、桂次郎は珍しく洋装で、綾織りの三つ揃いに絹のタイを締め、帽子を手にしていた。童顔で首の細い桂次郎には白い立て襟のシャツが映えて、和装よりも洋装の方が三割増し男前だとおさとは値踏みした。

「どちらへお出かけですか?」

「ええと‥。深川です。」

 とても急いでいるらしく、桂次郎は時計を気にしながら肩ごしに答えた。

「深川? 奥さまはご存じなんですか、旦那さま?」

 驚いたおさとが後ろから玄関までついていって訊ねると、うん、と桂次郎は屈託なくうなずいた。

「さな子さんは‥解ってるはずですから。」

 そして()いた様子で靴紐を結ぶと、行ってらっしゃいませ、の声に見送られて小走りに出ていった。

「深川ねえ‥。芸者遊びとは、まあ、珍しい。」

 ぶつぶつつぶやいていると、おさいが顔を覗きこんだ。

「どうしたんですか、おさとさん? 不思議なものでも()たみたいなお顔。」

「いえねえ‥。うちの旦那さまは洋装だと、結構男前かもしれないと思ってね‥。」

「はあ? 旦那さまが男前だと、何かあるんですか。」

「解らないかねえ、あんたには‥。ま、もててしょうがないってほどじゃないだろうから、いいことにしようかね。」

 さな子には余計なことは言うまい。おさとは心に決めた。


 桂次郎は急いでいた。

 手にした葉書を見て時刻と場所を確かめ、(くるま)に乗りこむ。

「深川の花菱(はなびし)。すまないが急ぎで頼む。」

 それだけ言うと、深々と座りこんで、走り出す俥上(しやじよう)から通りを眺めた。すっかり長くなった日が暮れなずんで、夕空を茜色に染めている。

 今夜は大学の同期会だった。例年この時期に行われているが出席したことはない。今年はいちばん懇意にしていた友人が故郷より七年ぶりに上京してくるというので、初めて参加することにした。返事を書き送ったのはかなり前の話だったため、すっかり失念していて、先ほど偶然葉書を見つけなければあやうく無断欠席してしまうところだった。

 さな子と喧嘩しているのでなければこんなに慌てることもなかったのに、と桂次郎は溜息をついた。

 いつもなら桂次郎の予定は全部さな子が段取りをしてくれるから、桂次郎は動くだけでいいのだった。離れてみると、いかに普段の自分が彼女に生かされているかと痛感する。

 つい意地を張ってはみたものの、さな子には一向に折れる気配が見えず、桂次郎は七日目にして深く後悔していた。

 通された座敷には既に二十名ほどが顔を揃えていた。

 遅れた詫びを言い、腰を下ろす。幹事の岩崎の話だとまだ他に遅れているのが二人ほどあると言う。挨拶や何やかやはとうに終わってしまったと見えて、だいぶ聞こし召している向きも多く、座は賑やかに盛り上がっていた。

 どうぞ、と言われて振り向けばまだずいぶんと若い芸妓がお酌をしてくれた。隣席の岩崎がとっくり片手に割りこんで、さっさと(さかづき)を空けろと催促する。

「弓削には卒業以来だな。どうしていたんだ?」

 すると卓の向こう側で両脇に芸妓を抱えていた男が聞き咎めて、口をはさんだ。

「弓削は大倉屋の入り婿におさまったと聞いたぜ。こんな場所に来て、気の強いと評判のかみさんに怒られないのかぁ?」

 岩崎の杯に酒を注ぎ返して、まあそんなところです、と答えれば苦笑が返ってくる。

 そこへ上座から少し年配の、女将らしい女が急いでやってきた。

「あの大倉屋の若旦那さんですの? それはそれは‥。これをご縁にどうぞよしなに。」

 発言した男の両脇の女たちもそわそわし始めた。

 桂次郎は苦笑して、女将の袂に心付けをしのばせるとそっと耳打ちした。

「番頭さんにはよく伝えておきましょう。‥‥できればあまり芸者さんたちに構わないように伝えてください。苦手なもので‥。」

 女将は心得(こころえ)顔にうなずいた。

 さな子には申し訳ないが、大倉屋の鬼娘との異名はまだあちこちで生きているらしく、女性が苦手だと桂次郎が言うと、新橋や柳橋はむろん吉原でさえ大目に見てくれる。年に数回、祥一郎の肝いりで大倉屋の若い者たちが連れ立って豪遊していくので、機嫌を損ねないよう気を遣ってくれるのだった。

 くすくす笑っている声に振り向けば、七年ぶりの目当ての友人がこちらを見ていた。桂次郎はとっくりと杯を手に立ち上がって、そちらへ移動した。

「お久しぶりです、菊池さん。お元気でしたか?」

「うん、息災だ。‥弓削のその敬語口調も懐かしいな。ああ、今は大倉か。」

 菊池の杯へ酒を注いで、桂次郎は微笑んだ。

「いや、今夜は弓削で構いませんよ。」

「奥方に叱られないのか? かなりの烈婦だと評判らしいじゃないか。」

「そのような器の小さい人ではないです。」

 そうか、と微笑し返して、菊池は杯を干した。

 菊池は秋に親の決めた許嫁と所帯を持つことになっているので、身を固める前にもう一度東京の景色を見ておきたかったのだ、と話した。

「今日、汽車で東京駅に着いてね。まっすぐに根津の下宿屋を訪ねたよ。婆さんは相変わらずだったが、孫娘は嫁に行ったとかでもういなかった。時の流れは戻せないものだ、とつくづく感じたよ。」

 七年は確かに短いようで長い。目の前の菊池は大して変わった様に見えないが、七年前の桂次郎はさな子を妻にするなど考えもしなかった。

「ところで弓削は倉田先生の研究室に出入りしていると聞いたが‥。家業はいいのか?」

「家業は家内が切り盛りしているので、ぼくは好きにさせて貰っているのですよ。おかげで気楽な身分です。」

「なるほど。うらやましいものだ。」

 確かに恵まれているのだろうと桂次郎は自分の立場を(かんが)みる。本来ならば意地など張れる筋合いではない。

 つい、桂次郎は杯を重ねる。

 菊池は桂次郎の学究について話を聞きたがった。

「今は主に古い形の神事について調べています。学究とはまだ言えませんね、文献整理の域を出ませんから。」

「妖怪だの物の怪だのの方はどうした? まだ信じているのかい?」

 近くにいた芸妓―――初めにお酌してくれた若い芸妓だが、彼女が菊池の言葉を聞き咎めて身を乗りだしてきた。

「あのう‥。物の怪を信じていらっしゃると言うのは、見たことがおありなんですか。」

「どうでしょうね。妖しというのはいるかいないか曖昧なものだから、妖しと呼ばれるのですからね。」

「では‥。見えたら妖しではないのかしら‥? とても信じられないものでも‥?」

 真剣な様子の女に、菊池は見たのかい、と訊いた。

 女は菊池を振り向いてうなずいた。

「まだ十三くらいの時に‥。お稽古に行ってとても遅くなっちゃって。近道しようと思って路地を曲がったら、黒い着物を着た男の人が立っていて、ここは通れないよ、と言うじゃないですか。仕方なく背を向けて戻ろうとしたら、後ろでばさばさって大きな羽音がして‥。振り向いたらその人の背中に真っ黒な大きい羽が生えていて、口に何かくわえてたんですよォ。もう怖くって、一目散に走って逃げました。今でもはっきり覚えてます。誰も信じちゃくれませんけどね。」

「それは夜鴉(よがらす)ですね。逃げてよかったですよ、凶暴な獣です。」

 桂次郎が真面目に言えば、菊池がくすくす笑った。

「妖しじゃあないのか?」

「口をきく獣なんて聞いたことがないでしょう? この人の記憶の中では間違いなく妖しなのですよ。でも人というのは同じものを目にしたと思っても、ほんとうに同じなのかは誰にも解らないのです。たとえばぼくがこの人の着物の柄を赤い檜扇(ひおうぎ)だと言いますね? 菊池さんがうん、赤い檜扇だと答えたとして、果たして同じ模様を見ていると言えるのでしょうか? もしかしたら赤という色はぼくと菊池さんでは(いささ)か違っているかもしれないのです。それと同じで、この人の後ろで見ていた人がいて、あれはただの影法師だよと言えば、その人には影法師で間違いないわけです。」

 菊池はますます可笑しそうに笑った。

「弓削、よせよ。ほら、狐につままれたような顔だぜ。」

 檜扇の女は呆気に取られた顔で、桂次郎を見ていた。

「申し訳ない。つまりは妖しはいると思う人には現実で、いないと思う人にはいないのだと、そういう話なのですよ。」

 はあ、と怪訝な顔をしながら、女は気を取り直してお酌をしてくれた。気の良い性質と見え、微笑みまで浮かべる。桂次郎は恐縮した。

 座敷のどこかで三味線の音が賑やかに鳴り始めた。小唄も聞こえてくる。

 かなり酔いの回った桂次郎は、三味線の音に遠い記憶を思い起こしていた。


 真っ暗な中に三味線の音が響く。雨の音みたいな、か細い音。

 続いて啜り泣く声。

 最後はきまってバチで襖を切り裂く音、泣き喚く声だ。

 だいたい一刻(いつとき)ほどで止む、嵐みたいなものだった。暗がりの隅でじっと、息を潜めていれば何事もなく終わる。

 その後にはいつも優しい、温かいぬくもりが戻ってくる。そう知っている―――だから待つ。待ち続ける。


「‥‥それで住職が言うには、裏山の狸だとこう言うんだよ。おい、聞いてるのか?」

 菊池に肩を揺すられて、はっと我に返った。

「すみません。つい、三味線の音に‥。」

「聞き惚れてってかい? そんな趣味があったとは知らなかったが。」

 菊池は呆れ顔で訊ねる。

「いえ。いたって不調法ですが‥。雨の音に聞こえて、気を取られただけです。」

「そういや、雨みたいだな。いや、待てよ、降ってきたみたいだよ。」

 そう言うと菊池は手近な障子を開けて、外を覗いた。紺碧の宵闇にかぼそい銀色の雨がしとしとと降り始めていた。

「それでさっきの続きだがね。狸が化かしたのだから仕様がないなどと平気で言うのさ。俺は内心、住職の方がよほど狸爺だと思ったんだが、大人げないのも嫌なのでもう一度賽銭を入れて拝み直したわけだ。」

 菊池はまた、故郷の山寺で狸だか住職だかに賽銭を二度取りされた話に戻っていた。

功徳(くどく)ですよ。そう思えばいいじゃないですか?」

「そうだろうか。間抜けな話じゃないか。」

 やや自嘲気味に菊池は微笑する。

「瞞されたと思えば間抜けに感じるでしょうが、遊んでやったと思えば何てことはありません。狸ならば遊んで欲しかったのでしょうし、住職の仕業なら甘酒代が欲しかっただけの話ですよ。どちらにしろ満足したでしょうから、やはりいい事をなさったわけです。」

「じゃあ、俺を(たぶら)かしたのが狸なのか人なのかはどうでもいいと?」

「獣は化かしませんよ。人もです。真に化かされたなら、相手は妖しなんです。」

「狸じゃないのなら、どんな妖しなんだろう?」

「これこれこのような、と形状や性質を規定したら妖しではないのです。解らない、不可思議なものだから『妖し』と呼ぶのですよ。所詮人の世の理屈にはなじまない、儚い存在なのです。」

 桂次郎は杯をあおって、くすりと笑った。

「どうもいけませんね。菊池さんが真面目に聞いてくれるものだから、つい喋りすぎてしまう。今にぼく自身が妖しだと打ち明けてしまいそうです。」

「そりゃいいね。早いとこ、打ち明けてくれたまえ。何しろ、俺は明日の汽車で帰らなきゃいけないんだから。次に弓削と酒を酌み交わすのはいつになるやら。」

 はは、っと笑いとばし、菊池は窓の外へ目を遣った。

 いつのまにか夜は更けて、幹事の一声でいったんお開きとなった。

 桂次郎は菊池と連れだって、花菱で借りた番傘をさし、隅田川縁(すみだがわべり)を歩く。

 上京したら大倉屋へ泊まらないかと手紙でも誘ったのだが、泊まる場所は決まっているからと菊池は断ってきた。けれど彼の足取りにはあてがあるようではなかった。何か逡巡しているのか、と友の胸の内を推し量ってみる。

 やがて菊池は立ち止まって、黒々とした川面を見遣った。

「どうかしたんですか‥? ぼくが邪魔なら帰りますよ。‥いえ、なじみだった(ひと)を訪ねる算段だったかと思ったので。」

 怪訝そうな視線に、言い訳をする。

 菊池は軽く笑って、首を振った。

「うん、訪ねてみたかったのだが‥。迷っているんだ。どうせ、なじみだった女はもう落籍(ひか)されていないし。そう思い入れがあるわけでもない。ただ‥。昔日の名残を懐かしむ、というほどのものだ。しかし歩いていたらそれもばかばかしくなった。下らぬ感傷だ。」

「‥許嫁の方とはうまくいっていないのですか。」

 曖昧にうなずいて、菊池は眉根を寄せた。

「それも俺の下らぬ感傷だよ。どうせ娶るなら詩を口誦さむような女がいい、と親に言ったら呆れられた。」

 しっとりと肩先が濡れて、糸のような雫が傘を持つ手に絡みつく。

「実際には家を切り盛りして、親に孝行を尽くしてくれる働き者の嫁が俺には必要なんだ。それは解っている。たづは‥許嫁の名前だが、たづは読み書きは怪しいが明るくて素直な女だ。手先も器用だし、身体も丈夫で、田舎暮らしには理想の嫁だよ。」

 菊池はうつむいたまま自嘲気味につぶやいた。

 長男でなければ新聞記者になりたかった、と言った学生時代の面影がふとよぎる。

「‥優しい方ですか。」

「なぜそんな事を訊くんだ?」

「菊池さんには何より、気の優しい方が必要ですよ。何かをしてくれるより、してあげたくなるような人に(となり)にいて貰う方がお幸せでしょう。他はどうでもいいのでは‥。」

 菊池は一瞬間をおいて、そうか、とうなずいた。

「気が軽くなった。たづは優しい女だ。夢見ていたような佳人でも教養高い女性でもないが、温かくて優しい。何ができて何ができないじゃなく、それだけでいいんだな。」

 やっと菊池の顔に心からの笑みが見えたようで、桂次郎も微笑んだ。

 それではどこかで飲み直そう、と菊池が言っているところへ、賑やかな一団が通りかかって声をかけてきた。最後まで花菱に残っていた連中が、川縁の茶屋で仕切り直すという。お座敷にいた芸者の三、四人ばかりもついてきている。いちばん大声で騒いでいる男のなじみの女がいる店らしい。

 幹事の岩崎がこっそりと耳打ちしてきた。

「助かった。座敷を分けるから一緒に行こう。あいつらと一緒では(うるさ)くて酒が不味くなる。しんみりといこうじゃないか?」

 よし、行こう、と菊池が言うので、桂次郎には否やはない。船宿も兼ねているこぎれいな茶屋の二階へと上がりこんだ。

 岩崎はほんとうに座敷を分け、騒いでいる連中を後目に少し離れた別の座敷にすたすたと入っていった。気がつけば芸者も二人、分かれてついてくる。

「なんだ、君もなじみなのかい? 勝手知ったる何とやら、て感じじゃないか。」

「まあね。あいつらには内緒だよ。家内に筒抜けになるからね。」

 岩崎は片目を瞑った。

 しばらくして酒や肴を運んできた、三十前後の口元に黒子のある女が岩崎のなじみらしかった。物静かで控えめなのに、指先にまで色気が匂い立つようだった。

 岩崎は役人になって、外交官の娘を妻に迎えたと聞いた。ここらの店は公用で使うような場所ではないから、もしかしたら独身時代からのつき合いなのかもしれない。

 あらためて人の在りようはさまざまなものだ、と桂次郎は思った。

 菊池はすっかりくつろいで、ついてきた芸者の一人と何やら話に嵩じている。隅田の川と彼の田舎にある川との違いについて論じているらしい。

 桂次郎は結果として自分についた芸者を振り向き、酌を受けようとして、それが夜鴉の話をした女だと気づいた。今夜は最初も彼女だった。

 名を聞いたはずだがまったく覚えていない。何度も聞くのは失礼だろうとそのままにしておいた。それで特別不具合もないようだった。

 若いと初めに感じた通り、女は十七になったばかりだそうだった。頬がまだふっくらとしていて、あどけなさを残している。

 桂次郎は何となくその女に母の面影を重ねて、酔った勢いでじっと見つめた。

 母の雪乃は十八で桂次郎を生んだ。弓削の家に入ったのはこれくらいの年頃だったかと思えば、あまりに幼すぎて痛々しく感じる。先刻の妖し談を思い起こして、霊感の強いたちらしいというのも重なった。怖くてたまらなくて逃げた―――妖しを目にしたらそれが当然の反応だろう。母も怖いと震えただろうか―――妖しを見たならば。

 女はしきりと話しかけてくる。だが世間に疎い桂次郎には大した返答はできないので、会話はどうしても弾まなかった。そこで三味線を弾いてくれるようにと頼んだ。

 安堵の色を浮かべて女は、器用そうな指で三味線から覆い布をはずし、音を確かめる。

 何がいいか、と訊ねてきた。

「しっとりしたものを。外の雨の音と合うような。」

 やがて女のつま弾く三味の音が、幽かな雨音と相まって物憂げに響き始めた。

 窓辺に寄りかかり、頬杖をついて、指で膝を叩き拍子を取る。胸に再び遠い記憶が甦ってくる。桂次郎はそっと目を閉じた。


 棲んでいた場所は常闇(とこやみ)だった。

 月明かりに惹かれて抜け出しては、掴まり、叱られ、常闇の中へ引き戻された。自分を人だと思ったことはなかった。誰もそう言わなかったから―――誰も彼に話しかけなかったからだ。

 何度折檻されても、月明かりを思えば抜け出したくなった。抜け出すのは難しい事ではなく、縄も鎖も無意味だった。何をするわけでもなく、ただ月光に浸っていたかっただけだ。それがなぜいけないのか、どうしても呑みこめなかった。

 母は泣いていない時には彼を膝に抱き、子守歌を歌い、頬ずりしてくれる。温かい手で髪を撫で、坊や、わたしの坊や、と優しい声で囁く。

 それは至福の時。だが永くは続かなかった。

 何時の頃からか母は泣いて狂う方が多くなり、それ以外の時には茫と黙りこんでいるようになった。抱いてくれるどころか振り向きさえされなくなって、漸う彼は母には自分が見えなくなったのだと知った。

 常闇には優しい声も温かい手もなくなった。だから余計に外へ出たかった。月光に呼ばれた気がして、何度も何度も闇を抜け出して駆けだしていった。

 そんなある日、夕月夜のほのかな月明かりを見上げていたら、声をかけられた。

「坊はどこの子だい? 名は何と言うのだ?」

 見た事のない人だった。

「な‥?」

「おっかさんが坊を呼ぶだろう? 何と呼ぶ?」

「‥‥坊や。」

 おっかさんというのが母のことだとは解った。だが『名』というのが解らない。

「ふむ‥。名がないのか。」

 腕組みをしたその人はじっと彼を見つめ、しばらくの間考えこんでいた。

 不意においで、と手招きされた。近寄れば掴まるのが常だと知っていたが、従わなければ痛い思いをするのも知っていた。だから逆らわずに近くへ寄った。

 案の定その人は彼を捉えたけれど、殴りはしなかった。肩車をすると、一本の木に近づき、手近な枝へ登らせてくれた。

「ほうら。お月さまに近づいた気がするだろう?」

 にっこりと微笑む。

「この木は桂というんだよ。昔から桂の木には月の神さまが降りると言われている。坊はお月さまが好きかい?」

 小さくうなずくと、その人はもう一度微笑んだ。

「では小父さんが坊に名をつけてやろうな。桂の木が坊を守ってくれるように桂の字を貰って桂次郎、だ。いいかい、名前とは大事なものだ。決して忘れちゃいけないよ。」


 いつのまにかうたた寝をしていた。

 目が覚めると、目の前に赤い檜扇の裾模様が見えた。どうやら三味線を弾いていた女の膝枕で寝入っていたらしい。

「これは‥‥申し訳ない。」

 慌てて飛び起きると、女の方もうつらうつらしていたものか、か細い声で返事を返す。

 座敷には他に誰もいない。外はうっすらと白んできていた。

 ずいぶんと長く女の膝で眠っていたようだと気づけば、気恥ずかしく、また後ろめたい気分にもなる。

 女がシャツの裾を引いて、奥に床を敷いてありますから、と誘った。

 いつのまにか襟元のタイはほどけ、ジレの釦がいくつか外されていて、だらしなくシャツがはみ出た格好になっている。夜明けまではまだ半刻ほど間があると女は重ねて言う。

 こんな状況に慣れていない桂次郎は困惑した。

 三味線を弾けと言っておいてろくに聞かずに寝てしまったうえに、明け方まで膝枕をさせておきながら同衾を拒むというのは、無粋のひと言ですまされる話だろうか?

「ぼくは‥そういうことには不調法なもので‥。」

 うつむき加減に何とか断れば、思いがけなく女はほんのりと頬を染め、熱心にかき口説いてきた。

「いつもは‥枕を芸にしているんじゃないんです、でもね‥。旦那さまは妖しの話をばかにせずに聞いてくだすったでしょ? あたし、嬉しかったんです。ねえ今晩だけ、いいじゃありませんか。‥もう一人の旦那さまだって姐さんと一緒に奥ですよ。」

 ますます断りづらい。やれやれと溜息をのみこむ。

「彼は午後の汽車で帰ると言っていましたから、寝かせておいてやってください。‥野暮で申し訳ありませんが、お水を一杯いただけませんか。」

 女はしぶしぶ立ち上がって、冷め切った白湯を湯飲みに注いで持ってきた。

 膝でにじり寄り、湯飲みを手に握らせながら指を絡めてくる。少々意地になっているのか、胸にしなだれかかって囁いた。

「奥さまはとてもきついお方なのでしょ? 今からじゃ急いでも急がなくても、言い訳は同じじゃありませんか、ねえ‥。」

 指を外して白湯を飲みほし、湯飲みを女の手の中に返した。そして懐中時計を確認すると、桂次郎は女の腕をすり抜けた。

「あなたには申し訳ありませんでした。三味線の音色で、つい母を思い出してしまいまして‥。膝枕には感謝します。でももう、帰らないといけないので‥。」

 花代を相場の倍にして袂に差しいれると、女は恨めしそうな瞳を向けた。けれど突き返してはこなかった。

 立ち上がって会釈し、上着を手に抱えて階段をとんとんとん、と小走りに下りた。

「あれまあ、旦那、早いお帰りで。」

「起こしてすまないね。」

 寝ぼけ眼の女将に心付けを渡し、外へ出る。

 雨は上がっていたけれど、靄がしっとりと冷たかった。


 やはり少しは慌てていたものか。

 緩んだ襟もとやはみ出たシャツがそのままだったと、公道に出てからやっと心づいた。

 急いで身仕舞いを直しながら、暗くてよかったとほっとする。こんな場所でのこんな有様を誰か見ている人でもいたら言い訳の仕様もない。

 上着を着て、夜明け前の静寂に包まれた川縁をゆったりと歩き出す。ひんやりとした空気が髪を撫で、帽子を失くしたことにやっと思い当たった。

 言い訳などとつい思う後ろめたさは、檜扇の膝枕が案外と心地よかったところからきている。あのまま母に抱かれる夢の続きを見てもいい―――そんな気が少しだけした。

 同衾を拒んだのは女の幼さの残る顔に、母と重なる痛々しさを感じたせいだ。後ろめたさは不幸な境遇にある母に対するものだが、同時に不甲斐ない自分に対するものでもある。

 さな子に対しては―――自信がなかった。

 以前にも泊まってきてもいいのにと言っていた。玄人相手の遊びは世間ではよくある事で、悋気するほどもないのか。今は腹を立てている最中だから、余計にどうでもいいと思うかもしれないし、あるいは逆につくづく愛想が尽きたと言うのかもしれなかった。

 そう思えば胸は沈んだ。

 意地など張るのではなかった。つまるところさな子を必要としているのは自分の方なのに。深い後悔に身を苛まれながら、桂次郎は溜息をつく。

 桂次郎は今までさな子以外の女性に心を動かしたことはない。

 祥一郎が元気だった頃には何度か伴をして遊郭にも行ったが、他人事のように冷めた気分に終始したまま朝を迎えたものだ。こんなものかと思っただけで、楽しいとも快いとも感じなかった。むしろ化粧や(こう)のきつい香りが混じった女の肌の匂いが鼻について、嫌悪感を覚えさえした。

 自分は人ではないのかもしれない―――心の奥底にこびりついて離れぬ疑念。

 若い男として当然あるべき本能が淡泊なのはその顕著な証しなのだろう。ずっとそう思っていた。

 だがさな子が懐に真っ直ぐ飛びこんできた夜、少なくとも自分は淡泊なわけではなかったと知った。

 いきなり背中に抱きつかれた時には、何と言えばさな子を傷つけずに思いとどまらせる事ができるだろうとまだ冷静に考えていた。

 上手な言葉が思いつかないまま振り向いて、一時の感情で道を誤るのはさな子らしくないとやんわり言い聞かせようとして、顔を覗きこんだ途端―――自分を見失ったのだ。

 月明かりの下から頬を染めて潤んだ瞳で見上げるさな子の、必死な表情に見惚れて声が出なかった。よく知っていたはずの少女が見知らぬ別の『女』となり、腕の中に立ち現れたかのようで、それまで胸に在った妹に抱くような緩やかな感情が一瞬のうちに締めつけられるような愛しさに変わった。

 ぐっと胸に抱き寄せれば湯上がりの肌の匂いが立ち上って、甘く体の奥までしみわたっていった。

 こみあげる熱い衝動に突き動かされて、さな子のすべてが欲しいと思った。胸苦しいほど焦がれて、深く深く求めて―――初めて女を想うという気持ちを知ったのだ。同時に本能が淡泊なのではなく、想いが足りなかっただけだということも知った。

 あれからずっとさな子との心の絆が宝物だった。大切で愛おしくて、他の何ものにも代え難い―――だがさな子にとってはもう違うのだろうか。

 いや初めから絆など錯覚だったのかも。いちばん身近でさな子にとっては楽な男だったというだけならば。意地を張り続けるなど無意味で滑稽だ、としみじみ思う。

 曖昧な闇の中に浮かびあがる川面を見遣って、昨夜の菊池の姿を思い出した。

 大切なのはごく簡明な一つの真実だけだ。他はどうでもいい。

 そう諭したのは桂次郎自身だった。ならば桂次郎も未練がましい意地など捨てて、さっさとさな子に頭を下げるべきだろう。肝心なのはさな子が自分をどう思っているかではなくて、この先も彼女とともに在りたいと願う自分の心だ。

 今日、謝ってしまおう。そう決めて、桂次郎は足取りを速めた。

 なのに溜息がこぼれ落ちる。

 桂次郎がいないと生きてゆけない、ともう一度言って欲しかった。だがどうやらそれはいつのまにか生じていた甘え―――あるいは幻想らしい。

 霞がかった橋の影が目の前の薄闇にふっと浮かびあがった。

 厚い雲に覆われた暗い空の端に、明るい暁の光がうっすら混じり始めている。考え事をしている間に時間はだいぶ過ぎていたようだった。

 とにかく―――帰ろう。桂次郎は橋へと急いだ。


 大倉屋の裏木戸をくぐって、いつもの書庫蔵へまっすぐ向かった。

 母屋ではそろそろ人が起き出す時間だろう。

 白々と明けかかる庭をひっそりと抜けて、錠をかってない扉戸を開けた。湿った革靴を脱ぎ、靴下も脱いで、梯子段を素足で昇る足音が早朝の静寂にぎしぎしと響く。

 昇り切って上着を脱ぎかけた時、文机の前でまっすぐこちらを向いて正座している人影にぎょっとした。

 さな子だった。髪も帯も解いたあとはなく、化粧さえ落とした様子はない。

 いつからここにこうしているのだろう、と考えるのも怖く、桂次郎はさな子の前に黙ってかしこまった。

 さな子はふるふると肩を震わせて床に顔を伏せ、わっと泣き出した。

「‥‥あのう、さな子さん?」

 帰ってきてくれたのですね、と啜り泣きながら切れ切れに言う。

「ほ、ほんとうに出ていってしまわれたかと‥。おさとが深川へ行ったと‥言うので‥。わたしの強情に愛想を尽かして‥‥前に通われていた方の、ところへ、()ってしまわれたのかしら、と‥‥。」

 前に通っていた―――?

 さな子はしゃくりあげながら、堰を切ったように言葉を続けた。

「‥‥すぐに謝るつもりで‥いたのです。でも‥言葉がうまく‥出てこなくて‥。お願いですから、もう許してください‥。自分で勘違いしたとはいえ、わたしだってとても‥辛い想いをしたんです‥。なのに‥なのに‥あてつけがましく芸者遊びに出かけて‥しかも、朝帰りだなんて‥」

 あんまりな仕打ちです、とさな子は号泣した。

 桂次郎は打ち伏せた背にそっと触れた。泣きじゃくるさな子の躰は燃えるように熱い。

 黙って抱き起こし、胸にかき抱いた。なんて可愛い人だろう、と身体の奥から想いが沸きたってくる。

「さな子さん‥。また勘違いしていますよ。昨夜は大学の同期会です。ずいぶん前になりますが、話したでしょう? 七年ぶりに郷里に帰った友人が上京してくるので、飲み明かすって。」

 あ、とさな子は小さく叫んだ。思い出したらしい。

「それに深川に行ったのは昨夜が初めてです。前に通っていたって何ですか? いったいどこからそんなことを‥。」

 やれやれ、と呆れてみせれば、さな子は真っ赤になって桂次郎の胸に顔を埋めた。

「でも‥‥。お香の薫りがします。とてもいい匂い。」

 桂次郎は苦笑いを浮かべて、さな子を抱きしめた。

「ごめんなさい。酔って眠ってしまって‥。気がついたら膝枕して貰っていました。でもそれだけですよ。‥‥信じてくれますか?」

 はい、とうなずいてしっかりとすがりついてくる細い腕が愛しい。

 我慢できずに涙で冷んやりした頬に唇を添わせた。そのままたどって、熱をもった唇を捉える。どうしてもさな子じゃなければだめなのだ、と今更ながら思い知った気分だった。

「‥‥ああは言いましたけど、ずっと後悔してました。」

「え‥?」

「あなたから来てくれるのは無理かなあって‥。実を言えば、今日あたりぼくの方から謝ってしまおうと思っていたんです。」

「まあ‥‥!」

 さな子は心から驚いたらしく、目を見開いた。まじまじと桂次郎を見つめてくる。

 その視線を真摯に見返して、桂次郎は言った。

「お願いですから‥。この先ぼくにどれほど腹を立てたとしても、『二度と顔も見たくない』というのだけはやめてください。あれはさすがに‥こたえました。」

 さな子はきれいな黒い瞳をみるみる潤ませて、ごめんなさい、とつぶやいた。

「ごめんなさい‥あなた。」

 涙をぽろぽろこぼしてすがりついてくる熱い躰をしっかりと抱きしめて、桂次郎は胸が温かいもので満たされていくのを感じた。


 おさとから、どうやら夫婦喧嘩は終わったと聞かされて、祥一郎は安堵した。

 さな子の苛々を吸収してくれる相手がいないと困る、と時蔵までもこぼしにきたので、内心苦り切っていたのだが、一応皆に向かっては泰然と、放っておけ、と言いつけた。当のさな子は大倉屋の全員が、それこそ小僧に至るまでぴりぴりと喧嘩の行方を見守っていたなどまるで気づいていないのだろう。

「仕方のないやつだ。」

 思わず口にして、顔を綻ばせる。

 普段女とは思えないほど冷静で剛胆に商売を仕切るさな子が、桂次郎のこととなるとまるで女学生のようにおたつくのは、(はた)で見ていてなかなか愛嬌のある見物(みもの)だった。親馬鹿ではあろうが、さな子のそういう一途さが好もしいと思う。

 だが相手が桂次郎だからでもある、と思い直す。

 他の男だったらどうだろう。多分、許せないに違いないなと苦笑した。

 女にあれほど惚れられたら、並みの男ならばいい気分で舞い上がるに違いない。大事な娘を言いなりに振り回されれば、親としては腹立たしいだけだ。

 だが桂次郎は違う。あれの感覚は並みの男とは異なっている。

 そろそろさな子に本家と分家衆の関係について話してやる時が来たかもしれない、と縁側で茶をすすりながら祥一郎は思案した。

 弓削を本家と仰ぐのは自分の代までで十分だ。これは常々考えてきた事だった。さな子に話す時は本家との関係を断つ時だとも思っている。時期が近づいているのだ。ひしひしとそう感じた。

 湿った風が軒を通り抜ける。

 また降るかと思うまもなく、銀色の糸のような雨が静かに降り出した。

 哀れなものだ―――祥一郎は本家に対して憐れみ蔑む気持しか抱けない。

 先代の前の当主がどんな人間だったかは知らないが、先代は金がすべてのお人だ。だがあのあさましさでは商人になっても小金を溜めこむのがせいぜいだろう。大きな商いを扱える器ではない。

 若い時にはその甚大な霊力を慕ってたくさんの信者が門前に連なったと聞くが、過信して自分の力量を見誤り、死に損なって妄執の塊となっている。

 縁を切ると宣告したなら本家はどう出るだろう。

 恐らく先代が桂次郎を返せと言うに違いないと思えば、胸に怒りが湧きあがる。

 あの男は年々化け物じみてくる、と祥一郎は嫌悪感をこめてひとりごちた。

 同様に当代の覇気の無さも年々増すばかりだ。弓削の家は間違いなく滅びに向かっている、とは祥一郎の商人の勘だが、一方で雪乃が辛うじて生きているうちは桂次郎も未練を断ち切れまい。

 少し冷えてきた縁先を離れ、祥一郎は座敷に移った。

 脇息にもたれ、半分だけ上げた簾ごしに雨を見つめる。雨に霞んだ庭の景色が鈍い曖昧な銀色に見えて、祥一郎はふと遠い日の三日月を思い出した。


 桂次郎に出会ったのは、初めて父親に連れられて本家に出向いた日のことだった。

 祥一郎は三十二、遊び飽きてやっと一回り年下のみやを娶ったばかりの頃だ。

 弓削の当主は二十代半ばの温和しそうな男だった。そこそこ霊力はあるらしく、立ち居振る舞いにそこはかとなく清涼な気が漂う。

 先代の病を理由に先年、代替わりが済んだばかりで、まだ不慣れなせいか、何かにつけ隣に控える母親にお伺いを立てていた。しかもその女はまるで自分が当主であるかのように息子に口を挟ませなかった。どうかしている、と祥一郎は内心呆れ返った。

 本家との関係については既に引き継いでいたが、実際のところばかばかしいと思っていた。江戸の昔ならいざ知らず、文明開化のこの時代に素性の怪しげな神を祀って商売繁盛を祈願するなど、時代錯誤も甚だしい。先見性に富んだ合理主義者の父がなぜ、こんな因習を有難く奉っているものか、若い祥一郎には理解できなかった。それだけに余計、お飾り同様の当主の有様に失望し、虚しさを覚えていた。

 別院で寝ている先代に挨拶しにいった父を待つ間、祥一郎は暮れなずむ庭先をぶらぶらと歩いた。

 旧家のしつらえというより鳥居のない神社といった具合か。塵一つなく掃き清められた庭には庭園というほどの風趣は窺えない。ところどころに樹木が植えられているのも鎮守の杜の風情だ。

 夕闇が濃くなり始め、東の空にくっきりと月が見えた。細い三日月である。

 ぼんやりと眺めていると、かなり離れた木の陰で小さな人影が動いた。

 子どものようだと目を凝らして驚いた。その幼な子の姿は月の光を浴びて透き通って見えたのである。

 まさか、と目を瞬いている間に、ばたばたと母屋の方から白袴の男たちが数人走ってきて、子どもを捉まえ、殴りつけた。

「また抜け出している‥! この化け物めが、何度言えば解るのだ。」

 口々にそう言いつつ、獣を扱うように手足を縄で縛り、担いでいく。子どもは泣き叫んだり暴れたりする様子はなく、小さな顔だけを月に向けて、まるで人形みたいに大人しく運ばれていった。

 祥一郎は呆気に取られてその仕儀を見送った。

 そこへ父親が戻ってきたので、興奮気味にたった今見た光景を説明した。

「ああ‥。その子は当代の異母弟だよ。仔細のある子なんだが‥。殴って縛りつけるとは‥先代も業腹(ごうはら)な仕打ちをなさるもんだ。」

 後日父親にその仔細とやらを聞かされた祥一郎は、呆れ果てて言葉も出なかった。

 弓削家はそもそもは在野の物の怪封じの一族である。

 分家衆と上納金の仕組みを考えついた頃の当主は、強い妖力を持つ獣性の妖しを先祖伝来の破魔矢でみごとに封じ、本殿に納めて神として奉ったという。分家衆はその体毛を封じた分霊札を金で買い、屋敷内に分社を建立するのを許された家で、弓削が本殿のご神体を祀る事で分家の社も力を持ち、商売繁盛に繋がるという仕組みだった。代わりに高額な上納金を毎年毎年払い続けねばならない。

 ところが百年のうちに分家も減り、弓削家に入る上納金も減った。

 先代は弓削家代々の中でも並外れた霊力を持って生まれついたそうで、当初は分家とは別に信者を集め、守り札だの神器だのを細々と売りつけて小銭を稼いでみたらしい。やがて在野の祈祷師まがいの仕事に倦み、霊力を頼みに新しいご神体を得て新たな分家衆を作ろうと思い立った。

 先代が目をつけたのは月神の眷属である、人語も解する妖しだそうだ。

 問題だったのは封じ方で、弓削の先祖がしたように破魔矢で封印するのではなく、なんと霊感の強い女の体の中に降ろして封じた。更にその神通力を利用できるようにと女を胎ませたという。

 しかし結果として試みは失敗した。女は心を病んで、生まれた赤子に利用できるような通力(つうりき)はなかった。先代は霊力のあらかたを失い、身体を壊して自分で起き上がることもままならなくなってしまった。

 荒唐無稽な話の中に真実がいかほど含まれているやらは、所詮一分家の知るところではないが、先代の怒りは女と子どもに向かい、ずっと座敷牢に閉じこめられたままなのだと父は祥一郎に語った。

 それから本家へ行くたびに、祥一郎は子どもの姿を探すようになった。

 境遇を哀れに思ったのも事実だが、それだけではない。あの時目にした半透明の姿が真実なのか、もう一度確かめたかったのだ。

 二度目に会ったのはひと月余り経った、夕闇の中だ。上ったばかりの明るい三日月を見上げて、子どもの瞳は嬉しそうに輝いていた。

 祥一郎は誰かに見咎められないうちにと急いで近より、話しかけた。

 どこの子か、名は、と問えば、確かに目当ての子どもかどうか解ると思ったが、子どもは首をかしげた。どうやら自分が弓削の子どもであると知らないばかりか、名前さえ付けられていないようだった。

 おいで、と言えば素直に近づいてきた。

 抱き上げると驚くほど軽い。五つになっているはずで、丈はそのくらいに見えるが、薄衣のように軽かった。

 月神の眷属の血を引くのは事実なのかもしれない。唐突にそう思って、月神が地上に降りる時に渡らせ給うという桂の木に登らせてみた。

 子どもは月を見上げて、嬉しそうな顔をした。

 月が好きか、と訊ねたら、うん、とうなずく。

 だが枝から下がっている細い脛には、赤い縄目が痛々しく、腕には青痣が浮き出ていた。

 ―――ああ、この子は人の子だ。

 祥一郎は胸を衝かれる想いに心を決めた。この子を守ってやろう。誰かが守ってやらねばいけない。ならば俺が守ってやる。

「では小父さんが坊に名をつけてやろうな。桂の木が坊を守ってくれるように桂の字を貰って桂次郎、だ。いいかい、名前とは大事なものだ。決して忘れちゃいけないよ。」

 その時から月光の色をした子どもは、弓削桂次郎という名の人間(ひと)になった。


「‥こんなところでうたた寝なさっては、お身体に障りますよ。」

 うとうととしていた目蓋を開けると、ほんわりとした微笑が見えた。

「‥‥みや。」

「依子ですよ。寝ぼけておいでですか‥?」

 柔らかく笑いながら、依子は祥一郎にはおりものを着せた。大人しく着せてもらいながら、祥一郎は依子をつくづくと見た。母親によく似てきた、と思う。

「腹の子にさわるからあんまり動くんじゃないよ。今がいちばん大事な時期じゃないか。帯祝いがすめばひと安心だがね。」

 依子は目を(みは)って、父を見返した。

「まあ‥。お父さまがそんな事をご存じだなんて‥。」

「何を言ってる。親なんだから、おまえよりよほど解ってるはずだよ。さな子の時にはみやは悪阻(つわり)がひどくて、生まれるまでずっと病人のようだったんだが‥。おまえはさほどでもないね?」

「はい、そうでもありません。」

「おまえの時にはみやもわりに元気にしていたよ。‥ふむ、腹の子は女だな。」

 口元に袖を当てて、依子は可笑しそうに笑った。

「その物言いではお父さま、まるでお姉さまが男だったようではないですか?」

「あの気性では、大して変わりはないだろうが‥。」

 ふふ、と微笑みながら、依子は白湯(さゆ)と薬を手渡した。

 受け取って祥一郎は薬を服み、苦さに顔をしかめる。いつまでたっても苦いものは苦い。甘くはならんな、とつくづく思った。

 口直しにと、依子は生姜湯を差しだした。

「‥‥おさとから聞きましたけれど。」

「なんだ?」

「いえ‥‥。お姉さまはお義兄さまと、昨日漸く仲直りをしたそうですね。」

 生姜湯をすすりながら、祥一郎はうなずいた。うん、こちらは甘い。

「そうらしいな‥。どうした? 依子が気にする話ではないよ。」

「おさともそう申しました。あのお二人は生きるの死ぬのと大騒ぎして一緒になった仲なのだから、心配しなくてもすぐ元の鞘に収まる、と‥・。そうなのですか?」

「その通りだっただろ? だいたいさな子が妙に意地を張らなけりゃ、波風も立たないはずなのさ。」

 依子はいえ、それではなくて、と言った。

「お姉さまは‥お父さまのお言いつけで桂次郎義兄さまと一緒になったのだとばかり、わたしは思っておりました。」

 ああそれか、と祥一郎はにやりと微笑った。

「時蔵とおさとしか知らんがね。誰も反対なぞしとらんのに、勝手に勘違いして‥。自分では駈け落ちする気でいたのだから呆れてしまう。」

 まあ、と依子は驚いた顔で振り向いた。

「あのお姉さまが‥。落ち着いてしっかり者のお姉さまにそんな一面があるなんて‥。初めて知りました。わたしは、お姉さまはその‥殿方には興味がないのだとばかり‥。」

 そしてややうつむき、ふふふ、と笑った。

「そう言えばお姉さまは、昔から桂次郎さんに遊んでいただくのが好きでした。いつも裏庭の雑木林に引っぱっていかれましたっけ‥。」

「そんな頃があったな。」

「実を言うとわたしはごく小さい頃、桂次郎さんを人ではないと思っていたのですよ。」

「‥‥人ではない?」

 はい、とうなずく依子を、祥一郎は訝しげに見返した。

「奥庭のお社にあるお狐さまの化身だと思っていました。今から思えばばかげていますけれど、なぜだかそう思いこんでいたのですよ。子どもというのは浅はかですね。」

 依子はころころと笑った。

「なのにお姉さまときたら、そのお狐さまに平気で物を申しつけるし、木登りの踏み台になさるしするのですもの。子ども心にバチが当たるのではとひやひやしたものです。‥もしかしたらあの頃から、お好きでいらしたのかもしれません。」

 祥一郎は苦い顔をする。

「何にしても亭主にああがみがみ言うのは見苦しい。あれがどうやら好いているという証しらしいのだから、困ったものだよ。」

「まあ‥! あのお叱言は‥‥そういう意味でしたか? 少しも気づきませんでした。」

「あたりまえだ、誰が気がつくものかい。」

「何だか、少し安心しました。」

 熱いお茶を差しだす依子の顔は、明るい笑みを浮かべていた。

「わたしにとってお姉さまはとても大きい方で‥。いつも正しい場所をまっすぐに歩いていらっしゃる、そんな方でしたから、どうあってもお姉さまには敵わないとずっと感じてきました。けれどそんな可愛らしいところがあるなんて‥。嬉しくなります。」

「可愛い、なんて話かね‥。」

 桂次郎も可愛いと言っていた、と不意に思い出し、苦笑した。まさしく夫婦喧嘩は犬も食わない。

 しかし。さな子だから―――あの厄介なきつい気性だからこそ、桂次郎を守れるのだろう。多分、この先もずっと守りきるだろう。

 雪乃が存命であるうちはやはり本家と縁は切れない、と思いつつ、何時(いつ)さな子にすべてを話したらいいものかを祥一郎は再び思案した。そして吐息をこぼした。

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