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三日月  作者: りり
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其の弐

 早春の肌寒い風に梅の香りが漂いくる。さな子は枝先の白い可憐な花に目を留め、口元を綻ばせた。

 閑散とした水天宮の境内に、ちょうど人影は見えない。知り合いの誰彼に会ってしまう前にさっさとお詣りをすませて帰ろう、とさな子は本殿へ向かった。

 桂次郎と祝言をあげてから丸二年が過ぎた。

 祥一郎はまったく隠居してしまい、新しく若主人となった桂次郎は家業についてはさな子に任せきりで、自分は相変わらず書物に埋もれている。それでも最近はたまに大学時代の恩師に頼まれて手伝いに出かけたり、書いた論文を見てもらったりしているようだった。

 大倉屋の家業は順調で、切り盛りしているさな子の評判も悪くはない。夫婦仲も喧嘩一つなく―――というより桂次郎が言い返さないので喧嘩にならないわけだけれど、ともかくも円満にやっていた。

 しかし世間ではさな子の婚姻について、九度も見合いに失敗して婿のなり手が払底(ふつてい)したために、手近にいた桂次郎に因果を含ませたのだろうと噂した。仲人を務めた中村の伯父や寝起きをともにしている大倉屋の奉公人たちでさえ、そう考えている節がある。

 二年も経ってなお誤解が解けないのは、多分にさな子の態度に原因があった。

 夫婦になってさえ、さな子は桂次郎の顔を見るとついきつい口をきいてしまうのだ。寝所での夜の睦みごとが濃密であればあるほど、昼間は気恥ずかしさが先立ってつんけんしてしまう。大人げないと自分でも思うのだが、どうにもならない。

 桂次郎はそんなさな子の不器用さが可愛い、と眼を細める。むろん昼間ではない、二人だけの夜の寝所での話だ。そこではさな子は素直に甘えることができ、心の底から幸せだとしみじみ感じられた。

 あとは子どもがあれば、と切実に思う。妊る気配がまったくないのは、自分が女らしくないせいだろうかなどと真剣に考えこむ始末だ。

 それで今日も子授けのご祈祷を受けに水天宮を訪れたのだった。

 お札を懐にいそいそと帰りかけたさな子は、参道の茶店で取引先のしなのやの内儀(ないぎ)とばったり顔を合わせた。

「あら‥。大倉屋さん。お詣りですの?」

 しなのやの内儀、菊は三十を二つ三つ出たくらいのとても美しい人だが、子がないのを嘆いていると聞いたことがある。さな子はどこか親近感を覚えて、素直に微笑を返した。

「はい‥。ご祈祷をお願いしたのです。家の者には内緒なので、どうか内密にお願いいたしますね。」

 菊はまあ、と理解を示した瞳で微笑んだ。柔らかでたおやかな笑みである。さな子はこういうおっとりとした上品さが好きだ。

「ちょうど良いところでお会いしました。お急ぎでなければ‥少しだけ、お話いたしませんか。実はね、明日にでもお訪ねしようかと思っていましたの。先日、少々小耳に挟んだことがありますもので‥。」

 さな子がうなずくと、菊は傍らの小女に小遣いを持たせ、しばらく遊んでおいで、と言いつけた。人払いをするような話なのかと少し不安になる。

 菊は美しい眉を顰め、静かに話し始めた。

 菊の話は依子の夫、窪塚男爵の風聞だった。

 しなのやは(かざり)ものから宝石まで、婦人向けの装飾品を扱う店である。顧客は華族から花街の女まで幅広い。

 その顧客の何某(なにがし)から仕入れた話として、男爵は最近とみに女遊びが目立つという。

「昨年の暮れあたりからそれは派手にお遊びになっているらしいの。まあ、それだけならば何も大倉屋さんのお耳に入れるまでもないのでしょうけど・・。気になるのはね、昨年の秋くらいから依子さんがぱたりと外出(そとで)をなさらなくなってしまったというお話。気鬱(きうつ)(やまい)だとかで、御用聞きにもお顔をみせないとか。」

 菊はそこまで言ってから、さな子の方を向き、少し慌てた顔をした。

「いえね、詮索するつもりではないの。ご存じなのかしら、とちょっと気になったものだから。」

 はっ、とさな子は自分が険しい表情をしていたのに気づき、急いで表情を取り繕った。

「ごめんなさい。ちょっと驚いたもので‥・。しなのやさん、聞かせて下さってありがとうございます。」

 菊は安堵した顔で再び頬笑んだ。

「大倉屋さんは昔から仲の良いご姉妹でしたものね。お節介とは思ったのですけど、依子さんのご病気をご存じというふうに見えなかったので、気にかかって‥。」

 そこへしなのやの小女が戻ってきた。

 さな子は立ち上がり、茶屋の支払いをすませると、菊にもう一度丁寧にお辞儀をして別れた。


 家に戻ると早速、いただいてきたお札を奥庭の稲荷社へ納めた。

 商売繁盛の神さまに納めるのも変かとは思ったが、家神さまには違いない。それに結婚して知ったのだがご神体は桂次郎の実家から分霊していただいたものだと言う。ならば桂次郎の子を早く妊りたいさな子の祈りを聞き届けてくれるのに、これ以上相応しい神さまはいないはずだった。上等な油揚げをお供えし、さな子は真剣に祈った。

 帳場へ戻る前に、いったん奥へ向かった。

 今しがた菊に聞かされた話を確かめなければ、と思ったからだ。

 思い当たることはあった。正月のことだ。依子は今年は窪塚の家を離れられないと手紙を寄こして、小正月にさえ大倉屋に顔を見せなかったのだ。変だと思ったものの、あちらは何と言っても華族さまであるし姑もいることだし、と依子の立場を(おもんばか)ってそれ以上何も言わなかった。

 考えているうちに無性に腹が立ってきた。

 派手に遊んでいる、とは―――! 昨年の秋と言えば依子の着物代がかかりすぎると言うので、大倉屋に金を無心してきた時期ではないか、と思う。気鬱の病で依子が屋敷から一歩も出ないのなら、毎月まわってくる高額な請求書はいったい誰のためのものなのだ?男爵の花代なのではないのか? あの時も変だと思ったのだ、依子はわがままを言って贅沢にうつつを抜かすような女ではないのに。

 さな子はおさとを呼んで相談した。

 おさとはさな子に負けないくらい険悪な顔つきになって、憤った。依子が何かひどいめにあっているのは確かだ、と主張する。

「どうしたらいいだろうね? わたしは今すぐすっとんでいきたい気分だけど‥。依子が辛い目に遭っていたら、何を言ってしまうか自信がない。喧嘩して依子のためになるわけがないし‥。」

 さな子は溜息をつく。おさとは不安げにさな子を見て、曖昧にうなずいた。

 そこへ桂次郎が顔を出した。

「あ‥。何か、ご相談中でしたか。失礼。」

「桂次郎さん‥。ちょっとここに座って、あなたも知恵を貸してくださいな。」

 (きびす)を返して立ち去りかけるのを呼びとめれば、桂次郎は素直に出された座布団に腰を下ろし、やや不安げに二人の険悪な顔を見遣った。

「‥‥何事ですか。おさとさんまで怖い顔ですね。」

 おさとまで、と言う言葉にやや引っかかったけれど、そんな場合ではないと思い直して、さな子は桂次郎に男爵と依子の風聞を話して聞かせた。

 桂次郎は真摯に聞いていたが、さな子が話し終えると常になく厳しい声を出した。

「さな子さん。それはすぐにでも訪ねていくべきです。病気の見舞いだと言えばあちらも断る理由がないでしょうし、病気ではないのなら依子さんと会えるはずです。窪塚への資金援助を一切止めると脅してでも依子さんと会うべきです。」

「でも、強硬な態度は依子の立場を悪くするのではないかしら?」

「そんな遠慮をしている時期ではないと思いますね。現に依子さんは半年近くも家から出してもらえないのでしょう? 尋常ではありませんよ。」

 確かにそうだ。迷っている場合ではない、とさな子は心を決めた。

「おさと。すぐに支度してちょうだい。それとおさいを呼んできて。」

 はい、とおさとは勢いよく立ち上がった。


 その日の午後、早速さな子はおさいを連れて男爵家に向かった。

 大倉だと名のると女中頭らしい中年の女が出てきたので、さな子は用意した菓子折を差しだして丁寧に依子に会いたいと告げた。

 ところが頑迷な顔をしたその女は菓子折だけ受け取って、依子は病気で誰にも会わないと言っている、と門前払いをくわせようとした。かちんときたさな子は、依子のためにと浮かべていた愛想笑いをかなぐり捨て、高飛車な態度で言ってやった。

「他人ならいざ知らず、実の姉が見舞いに来たのですよ? おまえの一存で断るなどなんと無礼なこと! 窪塚のお家では使用人に礼儀を教えないわけでもないでしょうに‥! 余計な口を叩かずにさっさと男爵夫人に取り次げばよいのです。ほら、お行き‥!」

 ぐっと顔を赤らめた女は一応さな子を屋敷に招じ入れたものの、おさいには外で待つようにと八つ当たり気味に告げた。さな子はおさいに目配せをして待っていなさい、と言いつける。おさいは呑みこみ顔でうなずいた。

 客間らしき洋間に通されて、お茶の一杯もなく散々待たされたあげく、出てきたのは依子ではなく男爵の母親だった。昔は有名な美人だったそうだが、さな子が思うに権高い天狗みたいな顔をした嫌な女だ。自分は華族の出ではないくせしてやたら男爵家を鼻にかけ、慇懃無礼きわまりない。男爵自身は愛想がよくて会話も如才ない魅力的な男だけれど、この母親はいただけないと前から思っていた。

 はたして先代男爵夫人はさな子に向かって、問答無用で帰れと言った。

 さな子は蔑みを含んだ冷笑を浮かべ、言葉だけは丁寧に妹に会わせてくれるようにと頼んだ。

「世間で噂になるほど重病だとはつい今朝まで知らずにおりました。」

 皮肉をたっぷりとこめて言ってやる。

「母を幼い頃に失い、たった二人の姉妹なのです。心配で心配でたまりませぬゆえ、こうして駆けつけてきました。どうか会わせてくださいまし。」

 腹立ちをぐっと抑えこんで、さな子は深々と頭を下げた。

 すると前男爵夫人は口元に嘲笑を浮かべて、さな子を見下した。

「大した(やまい)ではありませんよ。本人が誰にも会いたくないと言うのだから仕方ないでしょう? まったく、わがままで我の強い嫁に男爵がどれほど苦労していることか‥!」

 わがままで我の強い―――それはあんたでしょうに、と言いかけて言葉を呑みこむ。

 代わりにさな子は頭を下げたまま、慇懃な口調で言った。

「それは相済みません。母代わりのわたくしがよく言って聞かせますから、どうか会わせていただけませんか。‥男爵様よりも昨秋、贅沢好みになって衣装代がかさむと苦言をいただき、わたくしも心苦しく思っております。内証(ないしよ)のやりくりも妻の務め、いつまでも甘やかして実家から金子(きんす)を融通してやるのも考えものかと思い、ここで思い切って一切出さぬゆえしゃんとなさい、と姉として説諭すべきではないかと‥‥」

 ちらりと覗き見ると、前男爵夫人はややたじろいだものの平然としている。

「叱言など何の役にも立つものですか。強情なのですから。‥‥とにかく大したことはないのですから、お帰りなさい。そのうち本人が手紙でもしたためるでしょうよ。」

 さな子はふうっと吐息を吐いて、顔を上げた。

「お母上さまにそのように仰られては致し方ありません。後ほど父と相談いたしまして、あらためて出直して参ります。」

「出直す必要などありません。嫁の実家だからと大目に見ましたが、招きもしないのに商家の者がうろうろと出入りできる家ではないのですよ。分をわきまえなさい。」

 ―――(かどわ)かしの真似をしているくせに、偉そうに‥! この鬼婆あ‥!

 さな子は心の内で良家の内儀に相応しくない悪口雑言を並べ立てながら、表面上はしおしおと引き下がって邸を出た。

 さな子の姿を見つけたおさいが、息を弾ませ頬を紅潮させて走り寄ってきた。

「おさい、どう‥? 何か解ったかい?」

 おさいはうなずいて口を開こうとしたが、それを留めていったん敷地内を出る。そして門を少し離れたところで、待ちきれずに訪ねた。

「で? 依子を見つけたの?」

 ええ、とおさいは大きくうなずいた。

「一階の北側、いちばんはずれです。なんと窓に格子が填めこまれてるんですよ! 覗き見るのが精一杯でしたけど、お可哀想にずいぶんとお痩せになって‥。きれいなお(ぐし)がばさばさで‥。目の下に(くま)ができておいででした。」

 さな子は絶句する。

「外へ出て奥さまに言われた通り、ご近所を聞きこんでみたんですけど‥。姑にいびられてるとか男爵様が暴力を振るってるらしいとか、いまいちいい加減で‥‥」

「ぼ、暴力‥!」

 さな子は拳を握りしめてこらえた。

「ちょうど先月お暇を取った若い女中がいるそうですよ。浅草の草履屋の娘だそうです。行って聞いてきましょうか?」

「‥‥わたしも行くわ。」

 (くだん)の草履屋の主人夫婦は、さな子が突然訪ねていったにも関わらず、丁寧に挨拶をして菓子折と謝礼の包みをさしだすと恐縮して奥へ案内してくれた。出てきた娘は初めこそ渋る様子を見せたが、話し始めると自分でも腹に据えかねていたらしく、細微に渡って流れるように話してくれた。

 それは聞くに堪えない話だった。

 姑のいびりは結婚当初からだったようだが、昨年の秋口に財政事情が大きく悪化したのを境に常軌を脱したらしい。実家に金の無心を強要され、拒んだ嫁に腹を立てて、毎日のように叩いたり蹴ったりしているというのだ。

 男爵は何をしているのか、というさな子の問いに、草履屋の娘は軽蔑をこめて答えた。

「見て見ぬふりです。それまで温和しくて言いなりだった奥さまが、これ以上ご実家に無心できない、と初めて口答えなさったのが気に入らなかったんですよ。さすがにご自分では手は上げませんけど‥。そもそも内証がよろしくないのは、大奥さまが見栄っ張りで派手好きだからなんですもん。先だってもお正月の玄関の飾りのために、掛け軸と壺を勝手に新調なさって、あとで男爵様がひどくお怒りでした。何でも山二つ担保に入れたとか‥。叱られた腹いせに、また奥さまを苛めて‥。あのお邸はどうかしてますよ、わたし、気分が悪くなっちゃってお暇をいただいたんです。」

 一気に喋ってから、少し後悔したように娘はうつむいた。

「余計なお喋りをしたらただじゃおかないって‥言われていたんですけど‥。」

 誰にと問えばあの女中頭だと言う。勤めている間にすっかり怖さを身にしみこまされたらしく、娘の表情には正直な怯えのいろが浮かんでいた。

 さな子は娘の手を両手で握り、有難う、と頭を下げた。

「そんな、大倉屋のおかみさんに頭を下げていただいては‥。」

 慌てて座り直した娘ににこっと微笑みかけて、さな子はその手に親に出したのとは別にいくばくかの小遣いを握らせた。

「少ないけれど半襟でも買ってちょうだいな。それからこの先もしも何かあれば、遠慮なく大倉屋を頼って貰って構わないのよ。何も心配ないからね。」

 どうやら鬼娘の評判も役に立つ場合があるようで、草履屋の娘は実に頼もしげにさな子を見上げ、(ようよ)う安堵の表情を浮かべた。


 さな子の怒りは頂点に達していた。

 帰り(みち)でふと気がつけば、握りしめていた手巾をびりびりに引き裂いていたほどだ。

 いったん大倉屋に戻り、隠居所にまっすぐ向かうと、まずは祥一郎に今朝からの一部始終を打ち明けた。そして今から男爵家に行って依子を力ずくで取り戻してくると告げ、時蔵とおさとに(くるま)を呼ぶよう言いつける。

「今すぐ行くんですね?」

 期待をこめておさとが訊ねる。もちろん、とさな子は答えた。

 ところが眉間に皺を寄せて聞いていた祥一郎が、自身で依子を連れ戻してくると言い出した。

「これは親の役目だよ、さな子。おまえは依子を受け入れる支度をして待っていなさい。‥‥時蔵。若い衆を四、五人見繕ってくれ。それからおさい、一緒に来ておくれ。」

 でも身体の具合は、と言いかけたさな子を桂次郎が止めた。

「お義父さんにお任せなさい。下手に止め立てする方がお身体に障ると思いますよ。」

 そう言われて父を見遣れば、一見した表情からは窺えないが目に見えない気迫を感じる。

 玄関を出る時に並んで見送る大倉屋の面々も何か感じたようで、異様な静けさが漂った。

「大旦那さま、お気をつけて。」

 おさとの言葉に祥一郎は振り返り、おう、ありがとよ、と答えた。

「‥‥まったく。華族がなんぼのもんだ。商人(あきんど)を舐めんじゃねえ。」

 ぼそりとつぶやいた声は多分、誰にも聞こえなかったかもしれない。


 祥一郎はその日のうちにあっさりと依子を連れ帰ってきた。

 あの鬼婆あをどう黙らせたのかと少し気になったけれど、祥一郎も依子も詳しい話はしようとしないので、さな子も訊かないことにした。いずれ不愉快きわまるやりとりがあったのだけは間違いあるまいから、これ以上依子に嫌な思いをさせる必要はなかった。

 依子の衰弱と怪我はかなりのものだった。

 いちばん日当たりの良い座敷で医者と薬三昧にして養生させたものの、そう一朝一夕には回復しそうもなかった。(やつ)れた顔で眠っている妹を見るにつけ、さな子は胸が締めつけられる思いだ。

 なぜもっと早く言ってよこさなかったかと訊ねれば、()を通して嫁入ったのだから実家には頼れないと思った、などと他人行儀な口をきく。

 吐息まじりにさな子はしなのやの菊が知らせてくれてほんとうによかったと考えた。女衆の集まりにも今後は面倒がらずに―――それから愛想よく出かけなくては、と反省する。

 しなのやには丁重なお礼の品と手紙を届けた。菊からはすぐに心のこもった見舞いが返されて、うかうかと他言したりしないので安心するようにと添えてあった。

 季節は春へと移りすぎようとしていた。

 三年前の春の可憐な花嫁姿を思い出せば、また涙がにじんでくる。さな子の常識では依子が不幸になるなどまるで解せない話だった。

 祥一郎は昨年来肩代わりしてきた男爵家の支払いを全部ご破算にして、債権証書に変更させてしまった。大倉屋がついているからと安心していた茶屋だの呉服屋だのは大慌てで男爵家に走ったらしいが、もとより払えるはずもない。他にもあらゆる方面から手を回して―――豪商大倉屋の総力をあげて、ひと月足らずの内に窪塚男爵家を破産状態に追いこんだ。その上で、離縁状を言い値で買い取ろう、と申し出たのである。

 身分の違う相手から離縁状を取るのは簡単ではない。正面切って切りだしてもあちらが出さないと言えばそれで終わりだ。依子はいつまでも縛られる羽目になる。

 だから祥一郎は一見まわりくどく見える策を取ったのだった。

 申し出がなされた時点で男爵には金を借りる当てもなく、家屋敷を取られて路頭に迷うしかなくなっていたのだから、屈辱を感じつつも離縁状を書く以外の選択肢はない。

 実際に離縁状を持って大倉屋に現れた男爵は、敵意に満ちた環視の中を隠居所へ向かい、札束で頬を叩かれたらしかった。そして依子の具合はどうかともすまなかったとも口にせず、憤然とした顔で急いで立ち去っていった。むろんさな子は面と向かって詰問してやれなかった分、盛大に塩を撒いて見送ってやった。

 さな子は祥一郎の周到なやり方をつぶさに見ていて、父の底知れぬ怒りとともに大商人の喧嘩の仕方をつくづくと学んだ気がした。なるほど、商人(あきんど)は財力と人脈を武器として闘うのだ。単に金を積めばいいのではない、力に変えねば意味がないのだと知った。


 桜が咲いて散る頃になって、やっと依子は少し元気を取り戻し始めた。

 隣室で寝ているおさとの話では、夜にはまだうなされて突然起き上がったりするらしいが、少なくとも昼間は庭を散歩したり、祥一郎の隠居所へ行って茶飲み話につき合ったりできるくらいになった。

 依子は生まれ育った実家に戻ってこられてほんとうに嬉しい、とさな子にも礼を言った。

「ほんとにありがとうね、お姉さま。」

 さな子は実の姉に礼など言う依子が不憫で仕方がない。

「何言ってるの‥。わたしはね、もっと早く助けてあげられなくて申し訳なかったと思ってるのに。」

 抱き寄せて髪を撫でれば、つぼみが開くように微笑む。可愛くてならなかった。


 月が代わって庭の池に菖蒲の花が彩りを添えるようになり、藤は今を盛りと藤棚を揺らし始めた。

 奥庭へと向かう途中でさな子は束の間足を止め、薄紫の色を楽しんだ。

 二日後には横浜の貿易商たちの会合に出席するため、ふた晩家を空けなければならない。ただいまのところは留守の算段に追われ、ばたばたしている真っ最中だった。

 ゆっくり眺めている暇はなかったと思い直し、奥庭へ急ぐ。書庫に籠もっているはずの桂次郎に、もう一度一緒に行く気はないかと確かめに―――ほんとうは頼みに行くところだった。

 会合のあとに設けられた西洋風の晩餐会がなければ彼をわずらわせる必要もないのだけれど、と溜息をつく。前回のように独身(ひとりみ)と間違われて、やたら異人の男性に話しかけられるのも鬱陶しいし、会話にも今一つ自信がない。

 五日ほど前にさな子がそう言うと、桂次郎は笑って首を振った。

「ぼくがいたところで役には立たないと思いますよ。西洋では男性顔負けの聡明な女性が魅力的とされるそうですし、ましてさな子さんは美人で姿がいいじゃないですか? 誰でも話しかけたくなるんです。仕方ないですよ。」

「でも英語がどうも‥。」

「なおさらぼくは役立たずです。学校で習っただけですから。二番番頭の弥吉郎さんを始め、大倉屋の手代さんたちがご同道するんでしょう? なんなら通事ということで弥吉郎さんに晩餐会もご一緒してもらったらどうですか?」  

「‥‥あなたがそう仰るなら、そうします。」

 その時はそれで引き下がったけれど、もう一度頼んでみようと思うのはほんとうの理由がそれだけではないことを自分でも解っているからだった。

 長年密な取引を行ってきた早川商会がどうもよろしくない、と耳に入ってきていた。取引を小さくするか、あるいは思い切って止めてしまうか。早急に決断せねばならない。

 切るのは簡単なのだ。けれど代わりになる貿易商を見つけるのが至難の業だった。今回の会合で新たな取引相手の目星をつけられなければ、大倉屋の品揃えの一部が滞ることになり、商売に大きく支障が出る。

 そういう意味でさな子にとって今回の会合は常になく緊張するものであったので、桂次郎にはできれば(そば)にいて欲しかった。

 茫としているようで人を見る眼は確かだから、と足を速めながらさな子は思う。

 奥庭の社の前を通りがかって、ついでと言っては申し訳ないけれどもぱんぱん、と柏手(かしわで)を打った。そして裏手へと回る。小走りで抜ける雑木林は青々とした新緑に覆われ、清々しい風がさな子の頬を撫でていった。

 桂次郎は桂の木の下で、若葉が光る枝を見上げて微笑んでいた。

 やや離れた場所からその姿を見つけたさな子はつと立ち止まった。

 思わず(まばた)きを繰り返す。木漏れ日を浴びた夫の横顔が、前に月光の中で見た異形(いぎよう)の男と重なったのだ。

 じっと目を凝らして見つめていると、彼の姿はみるみる変化し始めた。

 金とも銀ともつかない(つや)やかに透き通った髪は、見る間に膝のあたりまでに伸びていき、同じ色の瞳は獣じみた猛々しさを含んできりりとつりあがった。能面を思わせるほど白く変わった(おもて)には血の色をした唇が引き結ばれている。御巫(みこ)のような白装束に身を包んで片手を桂の樹幹に添わせ、凛然と立つ姿は凄艶で幻のようだった。

 怖いとは思わなかった。むしろ美しいと思った。

 愛おしさが強くこみあげてきて、しばし見惚れて立ち竦んでしまう。

 異形の男は視線に気づいたのか、ゆっくりと振り向いてさな子を見留めた。

「さな子さん‥? どうしました、そんなところで。」

 一瞬で異形の男は見馴れた桂次郎の姿に戻っていた。身につけているのも白装束などではなく、ごくありふれた(ひわ)色の紬だ。

 さな子は深く考えることもなく、桂次郎のもとへ駆けよった。

「いえね。やはり明後日の横浜行き、ご一緒してくださらないかとお願いにあがったのですけれど‥。」

 桂次郎は気のせいか、少し困惑気味の表情をうかべた。

「‥‥ぼくが入り用でしょうか? どうしてもと言うのなら考えますが‥。」

「お嫌なの? 滅多に夫婦で出歩く機会もないものだから、ついでに横浜見物でもしようかと思っていたのですけれど。」

「‥‥できれば家を離れたくないのです。ちょっと気になることがあるので‥。」

「気になること‥? 何ですの?」

 ますます困惑気味に、桂次郎はうつむいた。

「内緒ごとなら‥無理に聞きませんけれど‥。」

「‥さな子さんに内緒の話などありません。ただ‥うまく説明できないのです。いずれそう遠くないうちにお話しますから、もうしばらく待ってくれませんか。」

 さな子の胸にはさきほど感じた愛おしさの余韻が残っていた。鷹揚に微笑し、解りました、と答える。何となく今度の横浜行きへの不安や緊張もきれいに消えてしまったようで、さっぱりした気分だった。

「ところで、桂次郎さんはこの木がお好きね。いつも見ていらっしゃる。」

 ああ、と桂次郎は微笑んだ。

「この桂は特別なのです。ぼくが大倉屋に初めて来た日に、お義父さんが植えてくだすったものですから。守りになるように、とね。」

「名前にちなんでですか。」

「そうです。もともとぼくの名は、弓削(ゆげ)の家にある桂の木にちなんでつけていただいたんですが‥。さな子さんはお義父さんからぼくの名前の由来を聞いたことがありますか?」

「お父さまから‥? いいえ。お父さまが関係あるのですか?」

 桂次郎はうなずいた。

「桂次郎というのは、お義父さんがつけてくれたのです。さな子さんが生まれる前の話ですけど。」

「では‥お父さまは桂次郎さんの名付け親というわけなのね。知らなかった。」

 さな子はへえ、とつぶやいてあらためて桂の木を見上げた。

 しばらく感慨深く見入って、やがてさな子は桂次郎を振り向いた。横浜へは一人で行ってまいります、と苦笑まじりに言うと、桂次郎は目を伏せてすみませんとつぶやいた。


 桂次郎の言う『ちょっと気になること』がさな子の中で重くなったのは、小雨の横浜を出立して帰途についたあとだった。

 無事に会合を終え、満足のいく手応えを感じ取って気が緩んだためかもしれないし、梅雨の(はし)りのむっとした雨に包まれて滅入った気分になったせいかもしれない。

 雑木林で立ち話をした日の晩のことだ。桂次郎の文机に女文字の封書が置かれていた。

 目に留めた記憶すら定かではなかったのになぜ今頃くっきりと思い出すのか、さな子には自分が解らない。差出人は誰かと訊ねるなど天地がひっくり返ったってできそうもないけれど、こっそり盗み読みするのはもっとできそうもない。なのに気にしている。このあさましい気持を悋気(りんき)と言うのだろうか、とさな子は溜息をつく。

 さな子は好んで噂話に興じる方ではないけれど、女ばかりの集まりでは当然のように亭主の浮気話が出てくる。しなのやの菊のように淑やかな人でも悋気することはあるようで、以前に芸者が旦那の子を妊った時には、手を切らせるのに大揉めに揉めたそうだ。

 毎月例会と称して開かれる、同業者組合の旦那衆の寄合などは、吉原の錦水楼と場所が決まっていた。それからして推して知るべしで、中身がないのは明らかだ。わざわざ桂次郎に出席してもらうまでもないのでは、とさな子が言えば、時蔵はそれでは義理が立たない、と一蹴した。

 奥方衆の話を漏れ聞けば、どうやらその日は無礼講で、翌日日が高くなるまで帰宅しないのが常らしい。しかし桂次郎は律儀に晩のうちに帰宅する。

 そこで一度心ならずも、泊まってきてもいいのですよ、と言ってみたことがある。

 桂次郎は苦笑して、ああいう場所は苦手なんです、と首を振った。

「でも‥。おひとりだけ中座なさるのは顔が立たないのでは‥?」

「いえ、問題ないですよ。ぼくは婿の身ですから、皆さん快く退座させてくれます。」

「‥‥つまりわたしが怖いからと外で仰ってるわけですか。」

 少しむっとして見上げると、桂次郎は心配そうに見返した。

「ではさな子さんは、ぼくが色街の女性と(ねんご)ろになって帰ってこない方がいいと?」

「そ、そういうわけでは‥。」

「じゃあいいでしょう?」

「まあ‥そうですけど。」

「よかった。たまには息抜きしたいからと、いそいそと吉原へご主人を送り出す奥方もいると聞いたので、もしやと少しばかり心配になってしまいましたよ。」

 ほっとした顔で真面目に言うので、さな子は思わず口元を綻ばせてしまい、気がつけば一つ布団の中で身を委ねていた。

 思い起こせばまた、ほんのり頬が赤くなる。大事に(いつく)しんで貰った熱い感覚が、小雨の中で身体じゅうにたやすく甦った。なのになぜか、悋気など下らぬと笑いとばせない。

 優しい人だから―――機会さえあれば誰にでも優しくできるのではないのだろうか。いつも『可愛い人』と囁いてくれるけれど、さな子はどうしたって自分を可愛いと思えやしないのだ。もしももっと可愛い女が世の中にはごろごろしていると気づいたら―――それでも桂次郎は『ぼくの可愛い人』とさな子に囁くだろうか。

 ばかばかしい、下らない。夫婦になって二年、簡単に壊れる仲ではないはずだ。たかが女文字の手紙一つで何ゆえこれほど動揺するのか。さな子は自分が理解できない。

 屋敷に着いたと弥吉郎に告げられて、さな子は我に返った。

 大倉屋の前には出迎えの者たちが雨の降る中をずらりと並んでいる。

「ご苦労さま。無事、戻りました。留守中は変わりなかったでしょうね?」

 鷹揚に挨拶を返しながら、妄想に呆けている場合ではない、とさな子は自分を戒めた。


「‥‥どうしたらいいのでしょう? わたし‥もう、いっそ死んでしまいたい。」

 すすり泣くか細い声に、ぎょっとしてさな子は足を止めた。

 祥一郎に報告をすませ、土産を持って依子のいる南の座敷へと渡る途中のことだ。障子の向こうに人影が二つ、うっすらと見えた。

「とにかく‥さな子さんに話しましょう。死ぬなんて口にしてはいけません。」

 一緒にいるのは桂次郎だった。ずいぶんと深刻な話をしているようだ。

 依子はわっと泣き出した。

「でも‥。お姉さまに何と言えばいいのか‥。申し訳なくて合わせる顔がありませんもの。」

「大丈夫ですよ。さな子さんはきっと解ってくれます。」

「そうでしょうか‥‥。」

「ええ。‥気をしっかり持って、依子さん。お腹の子には何の罪もないのですから。」

 お腹の―――子ども? さな子は目眩がしてきた。  

 いったい何の話をしているのだろう。さな子に申し訳ないとは―――罪とは?

「あなたは何よりも、無事に子を産むことだけ考えて。‥‥話はぼくからさな子さんにしましょう。」

「いいえ‥。お姉さまには、わたしが‥。」

 再び依子は嗚咽を漏らして、泣きじゃくり始めた。

 障子の影は、かがみこんだ背中をそっと撫でているように映る。それ以上はその場に留まれず、さな子は静かに廊下を戻った。

 自分の部屋にすべりこんで襖を閉め、座敷の真ん中にぺたんと座りこんだ。

 桂次郎の気がかりとは依子のお腹の子のことだったのか。いったいいつのまにそんな間柄になっていたものか、さな子には見当もつかない。

 けれど依子はとびきり可愛い女だ。柔らかい声で優しく話す。傷ついて心細かった依子が、忙しい姉よりも幼い頃から一緒に育った義兄を支えにしたとしても無理からぬことであろうし、そうこうしているうちに―――嫌だ、その先は考えたくない。

 男という(しゆ)はただ一人の女だけを(いつく)しむなど到底できないものだ、というのは真実なのか。でも女は本来、他の女と愛しい男を分け合うようになどできていないのに。

 さな子は両手で顔をおおい、声を殺して(むせ)び泣いた。

 どれほどそうしていたろうか。しばらくしてやっと泣きやんださな子は、鏡に向かい、涙の痕を消すために化粧を直し始めた。

 泣いたところで仕方がなかった。あれほど望んでいた桂次郎の子どもが依子のお腹に宿ったというのなら―――もともと自分は縁が薄かったのだろう。身を引くしかないではないか、と潰れそうな胸を必死に励ます。

 いつのまにか夕暮れが迫ってきた。

 さな子は鏡の向こうで微かに震える唇に、きゅっ、と真っ赤な紅をひいた。


「桂次郎さん‥。お話があります。」

 その晩、さな子は二人きりになるとすぐに切りだした。

 夜具の上で振り向いた桂次郎は、髪も帯も解かずに立ったままでいるさな子を見て、自分も起き上がった。

「どうしました? あらたまって‥。」

「依子の‥‥お腹の子のことです。」

 ああ、と思い当たった顔で桂次郎はうなずいた。

「依子さんが話したのですね。」

「いいえ。わ‥わたしも女ですから‥。うすうす解ります。」

 さな子はうつむいて、唇の震えを隠した。

「‥‥それで、どうなさるおつもり?」

「‥‥ぼくに‥どうしろと? できることがありますか。」

 困惑しきった声音にかっとなり、さな子は顔を上げた。

「み‥見損ないました‥! そんなに無責任な方だったなんて! 依子を何だとお思いですの、わたしの大事な妹ですよ‥!」

「ちょっと待って、さな子さん。あの‥それは‥‥」

「言い訳なんぞ聞きたくありません! ‥とにかくわたしは今夜から奥の座敷で(やす)みますから。」

 勢いよく言い切ると、さな子はくるりと背を向けてすたすたと歩き出した。

 桂次郎は慌てて追いすがり、(たもと)を掴んだ。

「さな子さん、落ち着いて‥。ちょっと話を聞いてください。」

「触らないで!」

 さな子は思い切り手を振り払い、背を向けたまま叫んだ。

「あなたなんか大嫌い。二度と顔も見たくない‥!」

 今にもこぼれ落ちそうな涙を、唇をぎゅっと噛んでこらえる。

「‥‥本気で言ってるの‥?」

 茫然とした声が虚ろに響いた。

 ええ、と答える。

 やや間を置いて、桂次郎は解った、とつぶやいた。

「あなたが出ることはない。ぼくが‥出ていきます。」

 あまりに静かな口調にはっとして振り向いた時には、もう彼の姿は襖の向こうへ消えていた。ぴしゃり、と閉じられた襖の前で、さな子はしずしずと崩れ落ちた。


 それ以来桂次郎は昔のように書庫に籠もったきり、出てこなかった。

 もともと影の薄い若主人がどこで何をしていようとさして気にかける向きもなく、ましてさな子と顔を合わせるのを避けていると気づく者もいなかった。たださな子のぴりぴりした様子に、おさとだけは何となく夫婦喧嘩があったらしいと察していたけれど、それとて(つね)のことなので早いとこ仲直りしてくれればいいのにと思っていただけだった。

 そんなふうに五日ほどが過ぎたある日、さな子が蔵の見回りから戻ると、祥一郎が呼んでいると時蔵に告げられた。

「お父さま。お呼びでしょうか。」

 襖を開けて入ると、そこには依子とおさとがいた。みぞおちのあたりにきゅんと痛みが走る。はたして用件は依子が妊っている件だった。

 父の話を聞いてさな子が依子へ視線を移すと、依子はわっと泣きだした。

「泣くことはないわ‥。おめでたい話じゃないの。」

 さな子は優しく背を撫でてやる。

「ねえ? 心配しなくていいの。その子は大倉の子として、大事に育てましょう。」

「大倉の‥。では、お姉さま‥。わたしはここにいていいのですか‥?」

 依子はおずおずと顔を上げて、すがるような必死のまなざしをさな子に向けた。

 さな子はその瞳に胸を衝かれて、当たり前じゃないの、と強い口調で答えた。依子はまた涙をぽろぽろとこぼし、袖で顔をおおった。

「嬉しい‥。こんな身体になっては‥窪塚へ戻らなければいけないかと思って‥。」

「窪塚へ戻るですって‥? まあ、とんでもない! わたしがそんなことを言うと思っているの?」

 さな子は唖然とした。いくら悋気に駆られたとしても、大事な妹にそんな惨い仕打ちをするはずがないのに。

 祥一郎はほっとした口調で口を挟んだ。

「俺もそう言ったんだよ。だが俺は隠居の身だし、一応主人であるおまえたち夫婦に断らなきゃいけないと思って呼んだのさ。依子、案ずるほどもなかっただろうが?」

 はい、と依子は涙を頬にくっつけたまま嬉しそうに頬笑んだ。おさとも安堵した表情を浮かべている。

 どこかちぐはぐな気がしてきたさな子に向かって、祥一郎は続けた。

「窪塚が何か言ってきても相手にするな。ま、言ってくる気遣いもないだろうがね。‥依子や、その子はこの家で男爵家の名前を貰うよりずっと大事に育ててやればいいんだ。変な遠慮して、つまらない了簡を起こすんじゃアないよ。」

 窪塚が何か言うだの、男爵家の名を貰うだの―――何の話だろう? 

 さな子は頭では既に理解していたけれど、気持がついてゆかずに困惑した。

「ところで桂次郎はどうした? あれにも話しておかなければいけないんだが。」

 祥一郎に訊かれて、さな子は顔を上げたが答えられない。

 するとおさとが脇から答えた。

「旦那さまは朝から大学の先生さまのところです。多分、お帰りは遅いかと‥。」

「ああ。その日か。そうだったな。」

「お義兄さまなら‥‥何もかもご存じです。」

 涙を拭き拭き、依子が小さい声で言い添える。

「わたしの‥様子が変だと気づいて、お声をかけてくだすったのです‥。ともかくもお父さまなりお姉さまなりに相談なさいと励ましてくださって‥。わ、わたしが‥窪塚へ戻りたくないなら戻らなくてよいのだからと‥。」

 さな子の心を固めていた何かが音を立てて剥がれ落ちてゆく。

 下らぬ悋気に囚われて、猜疑心が先に立ってしまった自分は何と愚かなのだろう。依子の語る桂次郎は、まったくさな子のよく知る人そのものではないか。後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。

 さな子の内心の動揺には気づかず、祥一郎はそうか、と依子へうなずいた。


 帳場へ戻る気になれずに、さな子は髪を直すためと断って、自分の部屋へ戻った。

 鏡の前で手早く直しながら、呆然とした気分を拭えずにいる。さしなおそうとした(かんざし)であやまって指を突いてしまった。懐紙で押さえつつ、座敷からさまよい出て、おさと、おさと、と呼びながら仏間のほうへ向かう。

 ちょうど仏壇の前には依子もいて、亡き母に線香を手向(たむ)けていたところだった。

 おさとはさな子の指を見て、薬を塗り、(さらし)を裂いて巻いてくれた。

「何ですか、奥さま。子供みたいな‥。ぼうっとなすっているから怪我なんかなさるんですよ。‥‥さっさと旦那さまと仲直りすればいいんです。」

「し‥知ってたの・・?」

 さな子は真っ赤になった。

「あたりまえですよ。奥さまがぴりぴりしているものだから、お帳場内の空気が強張ってて困ると時蔵さんもこぼしてましたよ。奥さまの苛々のはけ口は、(つね)どおりに旦那さまに引き受けていただかなくっちゃあね。それが大倉屋の家内安全の不文律です。」

 どういう言われ(よう)だ、とさな子はぷくりとふくれたが、そんな他愛もない話ではなかったのを思い出し、溜息を漏らす。

 依子が心配そうに訊ねた。

「桂次郎義兄(にい)さまと喧嘩なさったのですか‥。でも、どうして‥?」

「いえ‥。何でもないの、依子は心配しなくていいのよ。いつものことだから。」

 ぎくり、として、さな子は後ろめたさを隠そうと笑って見せた。二人の仲を疑ったなどと知れたら、いくら温和な依子でも―――泣いて怒るだろう。妹にまで愛想づかしをされたくはない。

 おさとはそんなさな子をじっと見ていたが、何も言わなかった。


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