其の壱(続き)
どこかで風鈴がちろんちろんと鳴っている。
盆が過ぎて夕風はだいぶ涼しくなった。肌に柔らかい微風が浴衣の袖をもわり、とすり抜けてゆく。
離れの縁側では祥一郎と桂次郎が、団扇片手に囲碁に興じていた。
祥一郎の顔はどこか浮かない。桂次郎は気づかないふりをしていたが、時折心配そうな視線をちらり、と祥一郎に向ける。やがて口を開いた。
「来月の分家衆の集まりのことがご心配ですか‥?」
「うむ‥。ま、いろいろとあるわな。ばかばかしい風聞も耳に入る。」
かちり、と満を持して打った手が決め手となった。
「俺の勝ちだな。たまにはこうして花を持たせてくれよ、桂次郎。おまえは何でもすぐ真剣になる。」
「いや、今日は完敗です。花を持たすなんてとんでもない。」
碁石を片づけついでに桂次郎は立ち上がり、祥一郎の湯飲みに麦湯を注いだ。
「おう、ありがとよ。」
「‥‥小父さん。ばかばかしい風聞とはぼくのせいですか。」
祥一郎はからからと笑い、団扇を振った。
「違うよ。おまえの話は十年来おんなじ蒸し返しさ。そうじゃない、本家のことだよ。」
「本家というと‥?」
「気になるかい?」
「そりゃあ、まあ‥。あの屋敷にはまだ母がいますし‥。」
桂次郎は目を伏せた。
「雪乃さんなら相変わらずだよ。分家衆の口の端に上ることもない。」
ちらりと桂次郎に慈しむような視線を向け、祥一郎は続けた。
「ご当代が持て余してるのはどうやら妹御連中だ。誰が先に立ったかァ知らないが、正月から三人揃って婿さん付きで本家に居座ってるそうだよ。何が起きてるんだ、って分家の寄合じゃあ大騒ぎなんだがねえ‥。俺の見るところ、先代の指金なんじゃないのかね。先代は分家を増やす考えを捨ててないんだな。だから当代をなるべく牽制しとこうって腹だろうよ。」
「それは‥やっかいですね。」
溜息を一つこぼして、桂次郎はうなだれた。
「姉さん方が騒ぎ出すと本殿が揺れるのですよ。兄さんは結界を保つのにさぞ苦労なさっているでしょうが‥。先代はどこまで業が深いお人なんだか。」
「噂には聞いてるが‥。ほんとうに揺れるのかい、桂次郎?」
「揺れるのです。ぐらぐらと。」
「そりゃ、すごいね。本殿には近寄らせてもらえないからなあ。一度見たいものだが。」
桂次郎は苦笑した。
「およしなさいよ、小父さん。嫌な気分になりますから。姉さん方の起こすのは特にひどいのです。何しろわがままと身勝手で引き起こすのですからね。」
「三人寄ればかしましいのが女ってもんだ。もっともうちのさな子は一人で十分、大倉屋を揺らせるがね。‥昨日も帳場で若いのが叱られておったが、なかなかの見物だった。」
ははは、と祥一郎は笑った。
桂次郎は少しだけ微笑したが、すぐ真顔に戻って訊ねる。
「分家衆はむしろ本家と縁を切りたい方が多いのでしょう?」
「本音ではね。上納金を耳を揃えて払えない分家も多いよ。でもいざって言うと‥。思い切る度胸はないのさ。」
再び祥一郎は眉間に皺を寄せた。
「先代が何を考えているのか、それが俺は気がかりなんだよ。ご当代は気が弱すぎる。大倉屋は弓削の本家を支える気持ちに変わりはない、と分家の寄合では今までどおり主張するつもりだが‥。杉浦あたりがまたこそこそと何か画策しているらしくてね。」
杉浦というのは生糸問屋の主人だった。祥一郎より三つほど下で幼なじみと言ってよいのだが、気が合った験しがない。何事につけ鷹揚な祥一郎と違い、細かい根回しがすべてだと思っているような姑息な男だ。
昔から一人じゃ何もできねえのさ、と祥一郎は歯切れのいい江戸弁で切って捨てた。
桂次郎はふうっと吐息をつく。
「小父さんにはほんとうにご心労をおかけします。」
「よしなよ。おまえは弓削を出された人間なんだから、気に病むこっちゃないんだ。何があっても桂次郎は桂次郎だよ。いいね?」
はあ、と答えたものの、桂次郎はうつむいたままだった。
祥一郎は不憫そうな眼を向け、しばらくそっと眺めていたが、不意に話題を変えた。
「ところでここ数日、さな子のどなり声が聞こえないようだが‥。やっとおまえに当たるのをやめたのかねえ?」
顔を上げた桂次郎はいや、と苦笑した。
「むしろとうとう愛想を尽かされたみたいです。先日怒らせてしまいまして、それから口をきいてくれないのですよ。」
「いいじゃないか、静かになって。」
「まあ、そうなんですが‥。二年余り毎日続いていたので、なくなれば叱言も何だか物足りない気もします。」
損な性分だねえ、と祥一郎はくすくす笑った。
桂次郎はつられて微笑を浮かべたけれど、内心はやや複雑だった。
頬を張りとばされた一件以来、さな子はぷっつりと奥庭には姿を見せない。
母屋で食事をとる時や祥一郎の用事で帳場に行けば顔を合わすわけで、そうすれば挨拶は普通にする。以前と同じと言えば同じなのだけれども、桂次郎としても不本意に傷つけた自覚があるので手放しで喜ぶ気にはどうもなれないのだ。
滅多に落ちこまないさな子がぽろりとこぼした涙を見て、あの時桂次郎はずっと以前のある情景を思い出したのだった。
芝居に出てくる女剣士に夢中になって棒を振り回したあげく、依子に怪我をさせてしまった時のことだ。依子やおさとの前では神妙な顔で黙って叱言を聞いていたさな子は、その後一人で稲荷の裏に行き、唇を噛みしめて忍び泣いていた。たまたま桂次郎が通りがかってよくよく話を聞くと、どうやら叱られた辛さではなく小さな妹の腕に残った青あざに愕然となり、自分を責めて湧いた涙だと解った。
その時にさな子は初め、桂次郎の顔を見て慌てて涙を隠そうとしたものの、結局は彼の胸にすがりついて号泣した。誰にも言わないと約束して、背をさすってやった生温かい感触を覚えている。
でもあれはもう十年も前、さな子がまだ十才の時だ。たとえ涙の種類が同じだと感じたにしろ、同じに思うなどどうかしている。二十の女性を十の娘と同等に扱えば殴られるのは当然だった。
おまけに慰めるつもりだったのに、桂次郎の浅慮な行動はさな子を更に深く傷つける結果となったらしい。彼女の叱言三昧には確かに閉口気味だったが、善意だというのはよく解っていた。恩を仇で返すような真似をしたと思えば、後味が悪い。
「さな子さんはそのうち、赦してくれるでしょうか‥。」
溜息まじりにつぶやけば、祥一郎は笑った。
「怒ってるわけじゃないだろうよ。あれは昔からすぐ喧嘩腰になるが、いつまでも根に持つ性分じゃない。やつあたりしていたのに気づいて、恥ずかしくなったんだろうさ。」
そうでしょうか、と桂次郎は目を伏せた。
大倉屋の鬼娘と呼ばれているとさな子が知ったのは、九度目の見合いに出かけた料亭でのことだ。
今度の相手は小さな豆腐屋の息子だったが、苦学して大学を出た秀才だそうだった。
仲人の話では向こうは非常に乗り気で、先方から断ってくる状況は今度こそないと言う。
見合いは和やかに―――さな子の感触としてはとても和やかに進んだ。
ところが相手がちょっと席を外したのでさな子も化粧直しに厠へゆきかけた時、廊下のつきあたりで女中の噂話が耳に入った。
「また大倉屋の鬼娘の見合いだってさ。よくお相手が尽きないねえ。」
「しっ、大倉屋さんは上得意さまなんだからね。軽々しい口をおききじゃないよ。‥でも今度は決まるんじゃないかねえ。」
「そうなの?」
「つい今しがたあちらの縁側で、鬼だろうが蛇だろうが妖しだって構わない、あの大倉屋が手に入るならば、って仲人さんと話してたからね。」
さな子はその場を離れて座敷に戻った。化粧など直す気分じゃなくなっていた。
自分では冷静なつもりだったけれども、頬がやや引き攣っていたのかもしれない。中村の伯父がさな子の顔を見るなり、どうした、と声をかけた。
「伯父さま。わたしは世間では大倉屋の鬼娘と呼ばれているのでしょうか?」
「誰が、そんなことを言った?」
「誰でもよろしいのです。そうなのですか?」
「‥‥さな子。どこにでも口さがない者はいるものだ、いちいち気にすることはない。」
「では‥評判なのですね? 誰でも知っているほど。」
伯父は宥めるような苦笑を浮かべた。
そこへ仲人と見合い相手が戻ってきた。
仲人はにこにこして、縁談を進めて構わないでしょうね、と伯父の方を見遣った。さな子から断るなどありえないと言わんばかりの調子だった。
腹が立つよりもさな子はむしろ、開き直った気分で口を挟んだ。
「申し訳ありませんが、少々考えさせてくださいませ。一応父や伯父と今一度相談したく存じます。」
伯父はちらりとさな子を見たが、すぐに諦めたようにうなずいた。
豆腐屋の息子は少し鼻白んで、どこかお気に召しませんか、と訊ねてきた。
さな子は正面からじっと見据え、にっこりと微笑した。
「いえ、とんでもございません。鬼でも蛇でも妖しでも良いと申していただいたとかで、たいへん感激している次第ですの。ところがあいにくと、わたくしはただの人間の女にすぎません。ご期待に添えるかどうか自信がございませんもので。」
そこでからりと笑いとばせるようであれば即決しようと思っていたのだが、逆に男は真っ赤になって立ち上がり、失礼、と憤懣やるかたないといった表情で出ていってしまった。侮辱されたと感じたのであろう。
仲人が慌てて追いかけた後で、中村の伯父はやれやれと溜息をついた。
「さな子や‥。気持は解るがね。もう少し言い様があるだろうに。」
「ごめんなさい、伯父さま。別に侮辱するつもりではなかったのですけど‥。」
「いや、いいよ。わたしもね、あの男はどうも気にくわなかったんだ。ただね‥。おまえの評判がまた‥‥。」
はあ、とさな子はうなだれた。
大倉屋に戻り、伯父と一緒にまっすぐ祥一郎の離れに向かった。今回の仕儀を報告するためだ。父はくすり、と笑っただけで何も言わなかった。
帰る伯父を何度も何度も頭を下げて見送って、さな子は溜息をついた。
―――選ぶ権利はさな子さんにあるのですよ。でんと構えていらっしゃい。
桂次郎の言葉を胸の奥で反芻する。
何か今日の一件でふっきれた気がした。我慢して添うてもらっても仕方がないじゃないか、とつくづく感じる。自分でも持て余しているくらいの厄介な気性だけれど、全部引き受けてくれる男でなければ結局うまくはいかないのだろう。
話を聞かされたおさとがこらえきれずに吹き出すのを、横目でじろりと眺め、さな子はふくれた。
「おさとだって、わたしが鬼娘って呼ばれてるのを知ってたのでしょう? 何で教えてくれないのよ?」
「そりゃあ、ご本人に面と向かって言えませんから。それに失礼な話ですよ。うちのお嬢さまをば鬼とは‥! 少々剣呑なお顔つきだというだけなのに。」
おさとの方がよほど失礼じゃないか、と思いつつ、三面鏡に映る自分を見れば納得してしまうから嫌になる。豆腐屋の息子に見せた微笑は凄みがあった、などと伯父が父に説明していたのを思い出して、なぜ依子のように愛らしい笑みを浮かべられないものかと情けなくなってしまう。
気がつくと夕餉どきで、大倉屋の中はせわしい空気がたちこめている。台所を覗くとちょうど祥一郎に運ぶ箱膳の支度ができたところだった。
「こっちは桂次郎さんの? また囲碁の勝負が終わらないのね。‥いいわ、お父さまのはわたしが運ぶから。」
桂次郎とは頬を思い切り引っぱたいてしまった手前、あれからずっと気まずいのだが、今日はちゃんと話ができそうな気がする。叩いたこともきっと許してくれるだろう。何といっても実の兄のようなものなのだから。
箱膳を襖の前に置いて膝をつき、声をかけようとした時、話し声が聞こえた。
「‥‥そういうわけで、さな子の見合いは今度も流れた。」
祥一郎の声はやけに楽しげだ。どうやら今日のさな子の武勇伝を桂次郎に聞かせていたらしいと気づけば、知らず知らず頬が熱くなる。親のくせして面白がるとはどういう了簡なのか、とちょっとムッとした。
桂次郎は苦笑しているらしい。カチリ、と石を打つ音がして、また祥一郎の声がした。
「あの分じゃ、おまえがここを出ていくというのもまだまだ先のようだよ。考えは変わらないのかい、桂次郎?」
「はあ‥。さな子さんの縁談が決まったらなるべく早く大倉屋を離れるつもりです。主人が代わるわけですから‥。大恩ある大倉屋の障りになるわけにはいきません。」
「おまえがそう言うのなら仕方ないが‥。淋しくなるねえ。」
「なに、そんなに遠くには行きませんよ。しょっちゅう小父さんのお顔を見せて貰いに参りますから。」
さな子は驚きすぎて、暫時呆然としてしまった。
気を取り直して、声をかけ、何事もなかったように膳を運び入れる。そこへもう一つの膳を持って、女中のおさいがやってきたので後を任せ、隠居所を後にした。
渡り廊下を母屋へと戻りながら、次第に胸が高鳴ってくる。轟きすぎて痛いほどだ。
桂次郎がこの家を出ていくなど、今までちらとも考えたことがなかった。
あの人が出ていく必要などないのだ。さな子はぎゅっと唇を噛みしめる。
けれどさな子がそう言ったところで、桂次郎自身が自分を障りだと思うなら、留めておけないのは明らかだった。
さな子がいくら兄同様だと思っていても、世間には通らないという意味なのだろうか。
さな子の婿になる男からすれば、家の中に血縁でもない若い男がいるのは好ましくない状況なのか? それなら桂次郎も嫁をもらえばいいのだ。そうすれば変な勘ぐりをされることもないはず。
しかしさな子はその考えが気に入らなかった。桂次郎に嫁―――まるきり気に入らない。気に入らないというより、とにかく嫌だ。
そう。嫌なのだ。
夕闇に包まれた庭の池をじっと見つめ、さな子は両手で顔をおおった。
それから数日後、所用で訪れた中村の伯父と父に向かって、さな子は婿を迎えるのはやめにする、と宣言した。
「九度も見合いに失敗すればもう十分ですから。わたしが大倉屋を嗣いで家業をもり立てていくことに決めました。一生夫は要りません。よろしいでしょう、お父さま?」
祥一郎はただまじまじと娘を見ていたけれど、好きにおし、とつぶやいた。
伯父も聞こえよがしな吐息をついただけで、微笑を噛み殺していた。
それからさな子は大番頭の時蔵のところへ行って、同じ事を告げた。時蔵はもっとあっさりと、その方がよろしいと存じます、とうなずいた。拍子抜けするくらいだ。
「それでは早速明日より、わたしの下でしばらく見習いをしていただきます。手心は一切加えませんので、そのお覚悟でお願いします。」
うなずくしかなかった。
大倉屋では毎年、八月十五日の十五夜には盛大な月見の宴を開く。
宴といっても客を呼ぶわけではなく、奉公人や会社の従業員、その家族など内輪で行う酒宴だ。この日ばかりは早仕舞いして、大倉屋の三十畳敷の大座敷を二つ繋げ、更に内庭や中庭をも開放して騒ぐ決まりになっている。
幸い月はとても美しかった。雲一つなく澄み切った紺碧の空に、金色のまんまるの月が神々しく輝いていた。
さな子には一年でいちばん、大倉屋が愛おしく感じられる日だ。
祥一郎がよく言うように、ここに集う全員が大切な家族なのだ。この中にはさな子を鬼娘と蔑むような人間は誰もいないと信じられる。まあ恐いとは思われている―――だろうけれど。
宴が進むにつれ、酔って本音が飛び交う中で、どうやらたいていの者がよそから主人が来るよりも、さな子が主人となる方がいいと考えてくれているようだとさな子は安堵した。
それどころか初めからなるものだと思いこんでいた連中も多くいるらしかった。女としては可愛気のないきつい気性も、主人として捉えれば頼もしいというところだろうか。
台所の片づけがあらかたすんだのを見届け、戸締まりも確かめて寝所に落ち着いたのはもう真夜中だった。
いくらかたしなんだ酒が身体にまだ残っているのか、ほんのり火照ってなかなか寝つかれない。ほんとうは宴の途中で席を立ったきり戻らなかった人のことを気にかけているせいだなんて、意地でも認めたくなかった。寝返りを打っては、頬を押さえる。
いったいどこへ行ったのだろう? 時蔵に連れられて吉原へ繰り出す若い衆の間にはいなかったようだけれど。
もっと早い時間から姿が見えなかった。でもなぜか誰も気にかけないから不思議だ。ほんとうに座敷童しみたいな人、と考えて、さな子ははたと気づいた。
そうだ。座敷童しは座敷にいるもの。自分の部屋に帰ってしまったのに違いない。きっと読みかけの本が気になっていたとかそんな程度の理由で。
自分の中で納得したら急に眠気がこみあげてきた。我ながらげんきんなものだ。
もう見合いはしない、婿は取らない、と決めてからさな子はまた、以前のように桂次郎を捉まえては叱言を浴びせていた。大人げないから止めようと思うのに、彼の姿を目にすればつい文句を言いたくなる。しかも胸の奥に燻る気持を素直に認められないものだから、余計にきつい口調になってしまうのだ。桂次郎は苦笑しているだけだけれど、内心はうんざりしているに違いなかった。
さな子は布団の中で深い吐息をついた。
いったい自分は―――何を望んでいるのだろう?
翌日桂次郎は朝餉にも昼餉にも現れなかった。
掃除に入るおさいの言うには、昨夜は部屋に戻った気配がないらしい。
「月の半ば頃にはよくあることです。」
「毎月、外泊なさるというの?」
「そうですよ。大抵一晩だけですけど、この春先などは三晩もお留守でした。」
まあ、とさな子が眉を顰めれば、おさとが笑った。
「お嬢さま、桂次郎さまはいい年をなすった殿方です。外泊くらいありますよ。地味に童顔でも子どもじゃないんですから、お嬢さまもたいがいになすった方がいいですよ。」
「‥‥何を?」
「お説教です。ああ毎日がみがみ言われたんじゃ、まったくお気の毒ですよ。居候とはいえ桂次郎さまは本家の人で、大倉屋のいわば主筋にあたるんですからね。いい加減になさいましよ。」
さな子は憮然としたもののうなずいた。おさとの言うのはその通りだから言い返す言葉などなかった。
でも―――毎月外泊するとは?
どこかになじみがいると思うのが普通だろう。芸者か遊女か。いずれ水商売の女に違いない。さな子は何だか胸の奥が痛くなってきて、やや凶暴な気分が湧いてきた。
その晩はあたりまえのごとく寝つかれなかった。
桂次郎はいつのまにか帰宅していたようだったが、さな子は姿を見かけなかった。誰かに訊ねるのも気恥ずかしく、わざわざ探すのも躊躇われたので結局は会っていない。
顔を見ればきっと胸の疑念を問い詰めたくなるだろうし、あっさり答えられればそれはそれで辛い。むしろ頭が冷えるまで当分避けるのが賢明というものだ、と思う。
なのに十六夜の月に誘われるように、気がつくとさな子の足は奥庭に向いていた。
寝間着に薄ものを一枚はおっただけで、湯上がりの下げ髪のまま素足に下駄をつっかけたというひどい格好だ。もし見る者があれば、さな子は頭がおかしくなったと驚くだろう。
雑木林の横を抜けると、桂次郎のいる土蔵が見えた。
二階の通気窓から灯りが洩れている。まだ起きているのだ、となぜか安心した。
闇に白く浮かびあがっているのは、土蔵の傍らに立つ桂の木だった。
桂は月光を浴びて、近づくほどに厳然と神々しく映る。太い枝が桂次郎のいる小窓に向かって、まるで人の手のように伸びている。
開けっ放しの扉口から静かに入り、束の間逡巡したあと、さな子は意を決して梯子段を昇り始めた。胸が痛いほど高鳴ってくる。
桂次郎は窓辺に寄り添い、頬杖をついて月光の溜まりに座っていた。
片膝を立て、もう一方の膝には広げたままの本を置き、ぼんやり外を眺めている。床に置かれたランプの小さな丸い光が手元をぼうっと照らしていた。
梯子段から顔を出して、さな子は小声で桂次郎を呼んだ。
桂次郎はびくっとして、夢から醒めたかのように瞬きを繰り返し、さな子を見た。
「さな子さん‥ですよね?」
ただうなずいて、さな子は梯子を昇り切り、かしこまって座った。
「どうしたんです、こんな夜更けに。月見の散歩には遅すぎますよ。」
「ちょっと‥。眠れなくて。うろうろしていたら‥ここの灯りが見えたものだから‥。」
うつむいて言い訳をしてみる。
「それはまた‥。こんな遅くまで起きているのは灯油の無駄だと叱られるのかと思いましたよ。」
「ち、違います‥! いくら何でもそんな意地の悪いこと・・・・」
言い返そうと顔を上げれば、桂次郎は月明かりの中でほんのりと微笑していた。からかわれただけだと悟る。
さな子は何だか泣きたくなって、ランプの灯りも月明かりも届かない暗がりに上半身をずらして隠し、うつむいた。
「ほんとにどうしたんです? さな子さんらしくありませんね。‥‥昼間、時蔵さんに叱られでもしましたか?」
さな子は首を振った。
唇が震えて、声が出なかった。これでは何しに来たのかと訝しがられても無理はない。でもそう言えば―――何しに来たのだろう?
口を開きかけて、さな子は心配げにこちらを見る桂次郎の視線にぶつかった。再び顔を伏せる。頬がかあっと熱くなって火が出たみたいになっていくのを感じた。
「あ‥あの。すみませんけれど、後ろを向いてください。」
「は?」
「お話が‥あるように思ったのですけれど‥。お顔を見たら言えないので‥。」
桂次郎は複雑な顔をした。
「‥‥何だか、怖い気がするんですが。ぼくは何か、さな子さんの機嫌を損ねるような真似をしましたか。」
う、とさな子は言葉に詰まった。
機嫌を損ねているのは―――あなたが昨晩お帰りにならなかったせいです、などとは言えない。ましてどこの女と会っていらしたのですか、とも訊けない。
うつむいたままのさな子の耳に、微かな吐息と本を閉じる音が聞こえた。
「‥後ろを向きましたよ。話とは何でしょう?」
静かな声は呆れているように響いた。当然といえば当然だ。ものすごくばかげた真似をしている、とさな子は唇をぎゅっとかみしめた。
膝をついてにじり寄ると、いきなりランプを吹き消した。驚いて振り向こうとした背中に抱きついてそのまま頬を寄せる。ばかげていても―――もう止められない、と思った。
「‥‥抱いてくださいませんか。一度だけでよいのです。」
肩ごしに振り返る気配がした。さな子はきつく背中にしがみつき、顔を隠した。
「こ、こちらを向いては‥だめです。」
ぎゅっ、と桂次郎の着物を掴んだ指に力をこめる。
「夫など要らぬと決めましたけれど‥。その気持に変わりはありませんが、一度も女にならぬままで一生を終えるかと思うと‥。その、さびしいような気がして‥‥。」
桂次郎は呆然としているのか、身じろぎもせず黙っている。
「い‥一度だけでよいのです‥。こんな恥ずかしいお願い、ほ‥他の人にはとても‥‥」
言えませんから、と続けようとした時、涙がぽろり、とこぼれた。
どうして素直に慕っているのだと伝えられないのだろう。この期に及んでまだつまらぬ意地を張っているなんて。ばかみたいだ、と悲しくなった。
不意に強い力で腕を振り解かれ、身体を起こされた。正面から向き合う形となって、さな子は慌てて袖で顔を隠そうとする。桂次郎はその腕を掴んで顔を覗きこみ、何か言おうと口を開いた。月の光がさな子の真っ赤になった頬とひと滴の涙を照らし出す。
「か‥顔を見ては嫌だと、言ったでしょう‥‥。」
ますます頬が熱くなる。頬だけでなく、羞恥で身体中から火が出そうだ。たまらずにわっと泣き出しそうになった時、桂次郎の瞳がいとも優しく瞬いた。
「‥可愛い。」
あまりに小さなつぶやきだったので、さな子は聞き間違いかと思った。
桂次郎はさな子を両腕でかき抱いた。頬にきつく押し当てられた胸は、さな子と同じくらい大きな音を立てている。
桂次郎の指がさな子のまっすぐな髪の間にすべりこんで、ゆっくりと耳からうなじへと下りてきた。頬に唇が押し当てられるのを感じる。さな子の胸は大きく波打って、破裂しそうに痛くなった。
そのまま緩やかに床に倒れこんで、唇が重なった。
さな子は細かな震えのとまらぬままにしっかりと両腕を彼の首に絡め、すがりついた。
身のおきどころがないほど全身が熱くなってくる。ぎゅっと閉じた目が気恥ずかしくて開けられない。
「‥さな子さん。ぼくの可愛い人。」
独り言のように囁いて、彼は愛おしそうにさな子の長い髪にまた指を入れた。
「嘘‥。わ‥わたしは‥‥。」
されるがままに身を委ねて、切なくて切なくてたまらなくなった。
やがて一つに結ばれて、初めての感覚に戸惑いながらも、ゆったりと満ち足りた気分に包まれてゆく。
桂次郎はさな子を抱いたまま、なおも離そうとはしなかった。頬を指でなぞり、まつげに唇を寄せる。髪をかきあげる。
さな子は恐る恐る目を開けた。
上からのぞきこむ桂次郎の顔は影になってよく見えなかった。肩から背にかけて、月の光が清かに照らしている。
目を凝らしてじっと見ていたら、だんだん彼の姿が月光に溶けて透き通っているかのような錯覚におそわれた。髪も瞳も月の光の色に染まって、微笑んだ顔はまったく見知らぬ異人―――むしろこの世の人ならぬ異形の者みたいで美しい。
異形の男は桂次郎の声でさな子の名を愛おしげに囁き、優しい口づけを繰り返した。
目がおかしくなったのか夢を見ているのか。それ以上考える暇もなく、目に映る姿などどうでもよくなった。この人とこうなりたかった、そんな切ない想いだけが胸に湧いて溢れだしていく。
どれほどそうしていただろう。いつのまにかさな子はまどろんでいたようだった。
気がつくと素肌に夜具がかけられて、傍らに寄り添っていたはずの男はいなかった。手を伸ばせばすぐ届く場所に佇み、何を想うのかじっと月を見上げている。
さな子はのろのろと体を起こした。その気配に男は振り向く。
「さな子さん。目が覚めましたか‥。」
にっこりと微笑みかけたその顔は、普段見馴れた桂次郎の顔だった。
「だめ、こちらを見ないでください。」
自分の露わな姿に気づき、慌てて下敷きになっていた寝間着とはおりものをかき集めて肢体を隠す。
素直に後ろを向いた桂次郎の背中を睨むように見つめながら、さな子は立ち上がって身仕舞いした。今更隠したところで仕方がないのに、と思い至ればまた頬が熱くなる。ざんばらに乱れた髪を何とか整えて、もうよろしいですよ、と小さく声をかけた。
桂次郎はすっと立ち上がって、振り向いた。
「お部屋まで送っていきましょう。」
「‥‥屋敷 裡ですもの、結構です。」
うつむいたまま、頑なな口調でさな子は答える。
あまりにいつもどおりの静かな声を耳にして、なぜか気持が沈んだ。
少しの間、想いが通じたように感じていたのに、すべては錯覚だったのかもしれない。一度だけというわがままをきいてくれただけだったのか、とがっかりする。
「でももう、夜半過ぎです。真っ暗ですよ、いくら屋敷裡でも‥。」
「いいのです。ご一緒しているところをもし誰かに見られでもしたら、困りますから。」
ああ、どうしてこんなきつい言い方しかできないのだろう? 自分から押しかけておいて随分と身勝手な言い分だ。桂次郎は呆れたか、それとも怒っただろうか。
微かに溜息が聞こえた。
「解りました。では社のところまでお送りします。それならいいでしょう?」
返事を待たずに桂次郎は、ランプを手に先に立って梯子段を降り始めた。
さな子は自分に失望し、悄然と後へ続いた。
稲荷社というものは多くは、京都の伏見稲荷大社より勧請を受けてお祀りするものである。商家の屋敷神とて例外ではない。
けれど大倉屋の稲荷社は違っていて、先々代の頃に本家と仰ぐ弓削家の守護神を分霊してもらって建てた。つまり実は稲荷ではないのだが、その事実もご神体の正体も知っているのは主人一人だけで、あとは誰も大番頭の時蔵でさえまったく知らない。
当時、大倉屋と同様に弓削家に分霊してもらった商家が十数軒あった。それが分家と呼ばれるもので、分家の主人は毎年神無月に本家の例大祭に参加する習わしとなっていた。
分家もいつのまにやら八軒に減ってしまったが、年に数回、寄合を開いている。
心臓を悪くして以来、滅多に外出をしなくなった祥一郎も、分家の寄合と本家の例大祭だけには自身で出かけていくことにしていた。
分家の寄合を明日に控えて、桂次郎は迷っていた。
祥一郎の身体を考えれば、なるべくなら外出はしないほうがいいのだ。けれどさな子はまだ見習いの身であるし、そうでなくとも祥一郎は今のところ、弓削家と大倉屋の関係についてさな子に教えるつもりはないらしかった。では弓削の出である自分がせめて傍らに付き添っていくべきではないのか―――桂次郎は先日来ずっと迷っている。
分家衆は全員が桂次郎の身元を承知していた。
桂次郎は弓削の先代の庶子で、『ご当代』と呼ばれる当主とは二十以上も年齢が離れているが異母弟に当たる。
生母は先代の妾だった芸者で、雪乃という。霊感の強い性質だったとかで、先代は雪乃の腹の子供が弓削の家に多大な力をもたらすと期待していたそうだ。
ところが雪乃は桂次郎を生んでまもなく精神を病み、ほとんど言葉も解さない状態になった。それからずっと弓削の敷地内にある座敷牢に押しこめられたままだ。
桂次郎自身も祥一郎に連れ出されるまで、やはり母と同じ座敷牢で育った。生まれてまもなく、実父である先代に見切りをつけられたためだった。
名前も定かではなく、学校はおろか自分の家の敷地内でさえ自由に歩くことを許されない。そんな見捨てられた少年を偶然見つけて、桂次郎と言う名を与えたのは大倉祥一郎だった。そして自分の家に引き取って、学校に通わせ、人間として育ててくれた。桂次郎はその恩を忘れたことは今日まで一日としてない。
分家衆はその間の事情をすべて知っていた。
初めに祥一郎が桂次郎に関心を示した時には、揃って物好きなと嘲笑したと聞く。けれど桂次郎が長じるにつれて誰が言いだしたものか、大倉屋の群を抜いた繁栄ぶりは本家の息子を屋敷内に置いているからだと口々に言い始めた。本家では見捨てられた子でも、分家の社のご神体を活性化させるくらいの効果はあるというのだ。
祥一郎はもとよりそんなばかげた噂は一笑にふして、相手にしなかった。それどころか怒ってさえいた。だから本家からも分家衆からも桂次郎を切り離して、今まで一度も関わらせようとしたことはない。
しかし。祥一郎の身体を案じるならば、いつまでも庇護に安穏としていてはならぬのではないか、と桂次郎は強く感じる。その一方で、自分が本家や分家に関わるのは大倉屋にとって逆に障りになるだけだというのも事実だ。
どうすればいいのだろう。桂次郎は結論を出せずに、天を仰いだ。
桂次郎の申し出を祥一郎はあっさりと断った。
ここのところはだいぶ調子がいいから平気だよ、と明るい調子で言われて、それ以上言い張るわけにもいかなかった。
浮かぬ顔の桂次郎に、祥一郎は更に続けた。
「最近はさな子がみんな肩代わりしてくれるからね。俺はのんびり養生するしかやることもないんだよ。おかげでかなり元気になった。」
はあ、と相づちを打てば、祥一郎はにやっと微笑する。
「さな子だがね。あれは俺よりよほど商才があるよ。祖父さんに似たんだな。おかげで俺はこのまま楽隠居できそうだ。親孝行な娘を持って、まったく幸せだよ。」
すっかり隠居所となった離れを辞して奥庭に向かう途中、社の前の楓が目に留まった。そして祥一郎の、さな子を語る時の嬉しそうな顔を思い出して、また嘆息する。
さな子はあの翌日、以前よりも更に冷たい態度でにこりともせずに鋭い言葉を浴びせてきた。とりつくしまもないというか、返事さえ待ってくれないほどで、桂次郎は前夜の自分の行為をひどく後悔したのだった。
だがそんなふうに三日ばかりが過ぎた夜、さな子は再び桂次郎を訪ねてきた。謝りに来た、と口ごもりながらつぶやく。
そのくせ詫びる言葉などひと言も口にせず、黙りこんでうつむくだけだ。
頬を真っ赤に染めて恥じらう姿に、桂次郎は無条件ですべて許した。
意地っ張りで気の強いさな子の、凛と美しい切れ長の瞳が切なげに潤んで、きりりと結んだ唇が薄く開いた様子はとても拒めるものではなかった。
前と同じように腕にかき抱いて、なんて可愛い人なんだろう、と心の底から想った。
さな子は普段とは別人のように狂おしく乱れて、時には涙をにじませた。他の誰にも見せないはずの素直な感情に溢れた表情が、すがりついてくるしなやかな腕が、桂次郎は愛おしくてたまらなかった。何もかも忘れて、ただ溺れた。
それから彼女は三晩に一回は忍んでくるようになった。
三晩に一回が二晩に一回、やがて連夜となり、どこか張りつめていた頬には優しい微笑みが多く浮かぶようになった。昼間は相変わらずだったが、冷たい態度は不器用な照れ隠しだと解ってしまえばそれさえも愛おしい。
しかし。
さな子は祥一郎の愛娘で、大倉屋の大切な跡取りだ。桂次郎のしていることは祥一郎への裏切り以外、何ものでもなかった。
恩を忘れたことは一日とてない―――それは真実だ。なのに。
赤く色づいた楓の陰から、ふと社の白狐がじっとこちらを見据えているような気がした。
さな子が夜な夜な社にお詣りに通っている、とは、おさとはおさいから知った。
「あのさな子お嬢さまでも、大倉屋の主人の名代となると神頼みしたくなるものですかねえ、おさとさん?」
「何のこと?」
「ほら、明後日の同業者の方々の寄合です。初めて旦那さまの名代として出席なさるのでしょう? あれが決まってからお嬢さま、どうやらよく眠れないらしくて、奥庭のお社さまに毎晩お詣りしているみたいなんです。」
「おやまあ‥。あのお嬢さまがねえ、ふうん‥。」
おさとは微かに眉を顰め、考えこんだ。
奥座敷の風通しをしている最中で、近くには二人の他には誰もいない。
「おさい、それ、あんたが見たの‥?」
「はい。昨夜厠に立った時に。お社の方へ行くのを見かけたのでお声をかけたら、そう仰ってましたよ。‥‥いけない、恥ずかしいから誰にも言うなって言われてた‥。おさとさん、あたしが喋ったことはどうぞ内緒に‥。」
おさとはわざと冷たい眼で見た。
「わたしゃ、喋りはしないけど‥。あんたがその伝でぺらぺら他でも喋れば、すぐお嬢さまにわかってしまうよ。そしたら庇うつもりはないからね。」
「喋りませんよぉ‥。今だって、おさとさんだからつい、口が滑っちゃったんです。」
おさいは半泣き状態でおさとにすがりついた。
今度は笑って宥めてやったけれど、も一度口止めをすることも忘れなかった。
あとはひとりで大丈夫だからとおさいを去らせた後、おさとは再び考えこんだ。
さな子が名代として寄合に出席するくらいで、眠れなくなる―――?
ありえない、あのお嬢さまは度胸だけは鋼鉄並みなんだから、とおさとは首を振った。
これは何かある。何だかわからないが、きっと夜に社へ通う別の理由があるはずだ。
だいたいさな子が気弱になるのは、依子が絡む場合と自分の縁談の場合の二つだけと決まっている。それ以外には地震が来ようと雷が落ちようと火事になろうと、次の瞬間には平然と指図を始めるようなお人だ。そのさな子が眠れないとは、大倉屋の大事に関わることなのかもしれない。
今晩、確かめてみよう。おさとは心に決めた。
さな子が寄合から帰宅したのは夕餉どきの少し前だった。
すぐに祥一郎に報告するために隠居所へ足を向けると、入口付近の渡り廊下におさとが控えていた。
おさとは座敷の方へ心配そうに顔を向けていたが、やってくるさな子を見るとぎょっとした表情を浮かべた。
「お嬢さま‥。ずいぶんとお早いお帰りですね。」
「お父さまはいらっしゃるかしら。ご報告をしたいのだけど。」
「ああ‥。ええと、旦那さまは今お取り込み中で‥。誰も近づけるなと‥。」
「取り込み中‥? どうかなさったの、まさかお身体が・・?」
おさとは慌てて手を振った。
「いいえ、お身体は何ともございません。ただ、今‥大事なお話の最中で‥。」
「どなたと‥?」
「ええと‥。」
さな子は常に似合わぬおさとの歯切れの悪さに疑念を抱いた。
「おさと。いいから早くおっしゃい、でなけりゃ勝手に通るわよ。」
「‥‥時蔵さんと‥‥桂次郎さまです‥。」
おさとはしぶしぶ答え、上目遣いにちらりとさな子を窺った。さな子は顔色を変えた。
「何のお話か、わたしも聞かせていただくわ。」
「だめです、お嬢さま‥! いずれにしても旦那さまは、お嬢さまもあとでお呼びになるおつもりで‥‥」
おさとの制止を振り切って、さな子は隠居所に駆けこんだ。座敷の前でつと立ち止まり、乱れた息を整えようと間を取る。その時に話し声が耳に入った。
「それじゃ‥‥ほんとうなのか、桂次郎?」
祥一郎の声だ。ひどく驚いているらしく、やや上ずっている。
対照的に桂次郎の返答は静かだった。
「申し訳ありません‥。さな子さんに‥懸想しまして、分別を失くしました。」
「何と、まあ‥!」
「ほんとうに申し訳ありません‥。大恩ある小父さんに仇をなすような真似をして、何とも申し開きのしようもありません。」
恐らく桂次郎は畳に頭をこすりつけんばかりに伏せているのだろう。声がくぐもって聞こえる。
祥一郎の深い吐息が聞こえた。
「さな子に懸想‥。おまえ、そりゃ相応の覚悟を持って言っているんだろうね? さな子は大倉屋の大事な跡取り娘だよ?」
「はい‥。自分のしたことの罪の重さはわかっているつもりです。責任は全部ぼくにあります。どうか気のすむようになさってください。叩き出されても文句は言いません。」
「やれやれ‥。叩き出すのは簡単だがね‥。まったく、この大ばかもんが‥!」
そこでさな子は我慢しきれずに、襖を開けて飛びこんだ。
「お父さま‥! 桂次郎さんは悪くないのです、わたしが‥‥。」
さな子、と祥一郎はびっくりして、危うく煙管を取り落としそうになる。
さな子は父の前に走り寄って膝を折り、桂次郎の隣にかしこまった。
「さな子。おまえにはあとで言って聞かせることがある。今は出ていなさい。」
「でも、お父さま‥。わたし‥‥」
「まさか、女の身にあるまじき事を口にする気じゃあるまいね?」
祥一郎は射すくめるような視線をさな子に向けた。さな子は真っ赤になって口を噤んだ。
女の方から言い寄ったなど良家の娘としてあってはならないのだ、と思い当たる。たとえそれが真実でも、少なくとも時蔵やおさとの前で口にはできない。だから桂次郎は責任は全部自分にあると言っている。けれどこのまま引っこむわけにはいかなかった。
ただ首を振って、うつむいた。
胸がじんわり熱くなってきて、涙が一気に湧いて出る。
「け、桂次郎さんを叩き出すなら、わたしも勘当してください‥。」
「何だと‥?」
背後でお嬢さま、とおさとの諫める声がした。
「わ‥わたしは‥桂次郎さんがいなくては、生きてゆけません‥。わたしもどうか追い出してください。」
涙をぽろぽろこぼしながら、さな子は必死で訴えた。
桂次郎が慌てた顔になり、さな子の袖を引いて思いとどまらせようとする。
「さな子さん、いけない。あなたは今、何を言っているのか解っていないんです。おさとさん、さな子さんを向こうへ‥。」
はい、と後ろから差し出された手を振り払って、さな子はいいえ、と叫んだ。
「ちゃんと解っています‥! お父さま、わたしをどうぞ勘当してください。」
祥一郎の顔が怒気でうっすら赤くなる。
「‥‥黙りなさい、さな子。」
「いいえ、黙りません‥。わたしは、どうしても‥‥」
「いいから、黙れ!」
一喝されてさな子は黙った。けれど涙があとからあとから溢れ出てくる。畳に面を伏せて、すすり泣き続けた。
再び祥一郎は深い吐息をつき、脇息にもたれて傍らの時蔵に白湯を言いつけた。
湯飲みを受け取り一口すする。そして三度めの吐息をつく。
「このばかもんどもが‥。世話の焼ける‥!」
時蔵が目を伏せて微かにうなずく。
祥一郎は桂次郎に向き直った。
「桂次郎。覚悟があると言ったな。ならば大倉屋の婿になれ。」
桂次郎は顔を上げた。
「小父さん‥。それは‥?」
「文句は言わないんだろ? このばか娘を嫁にして手をつけた責任を取れと言うんだ。当たり前の話だろうが。」
さな子はすすり泣くのを止めた。
「さな子さんを‥‥ぼくにくださるんですか‥。本気ですか、小父さん?」
まだ顔を上げられないさな子は、桂次郎の膝に置かれた手が震えているのに気づいた。
「弓削の名前を捨てて貰わなくちゃいけないがね。どうだい?」
「弓削の名など‥。ぼくには何の意味もありませんから。ですけど小父さん‥。」
何かを言いかけた桂次郎を遮って、祥一郎は言葉を継いだ。
「おまえを引き取った時からゆくゆくはさな子の婿にと考えていたんだよ。本家には俺が話を通す。心配しなくていい。‥‥それから、さな子。」
さな子は涙で化粧の剥がれた顔をゆっくりと上げた。すると祥一郎が眉を顰め、さな子をじっと見据えている視線と目が合った。
「お父さま‥。あのう‥。」
「‥‥ばかもんが。桂次郎を好いているなら好いているとなぜ、先に言いに来ない? 夫は要らないなどと下らぬ見栄をはりおって‥!」
「ですけど‥。お‥お父さまだって、一度も桂次郎さんはどうかとお聞きにならなかったじゃありませんか‥。他所からの縁談ばかり来るんですもの、てっきり桂次郎さんはだめなのだと‥。」
「おまえがああも毎日がみがみ叱りつけていなきゃ、いっとう初めに桂次郎と一緒になれと言ったはずなんだよ。あれが好いた男に対する仕打ちだなんて、いったい誰が気がつくもんかね? なあ、時蔵。」
時蔵はまったくです、とうなずいた。おさとも何度も何度もうなずいている。
さな子は今更だが無性に恥ずかしくなって、首を竦めた。顔から火が出そうだ。
祥一郎はそんなさな子を見遣って、苦笑いを浮かべた。
「さてさて‥。時蔵、おさと。すまないがね、すぐに祝言の支度にかかっておくれ。年内に仮祝言をして、年明けにはお披露目だ。なに、さな子は身一つでも出ていく気だったんだから、衣装も道具も拘りゃしないよ。急ぐ理由を誰かに訊かれたら、俺がぽっくりいきそうだからとでも言っとけ。」
からかい口調で言いつけると、祥一郎はさな子に真顔で向き直った。
「祝言までは身を慎め。大倉屋の長女たるもんが、夜更けに男の寝所に忍んでいく姿なんぞ間違っても見られちゃならないよ。‥‥了簡したらさっさと顔を洗いにいきなさい。俺は本家のことで桂次郎と少しばかり話があるから。」
はい。身を竦ませて返事をしながら、さな子はおさとと部屋を出た。
時蔵が女たちのあとに続いて出ていってしまうと、祥一郎は桂次郎に足を崩すよう言って微笑んだ。桂次郎は何とも居心地の悪い思いで、座り直す。
「小父さん、あの‥。ぼくはほんとうに大倉屋に入っていいのでしょうか‥。」
祥一郎はくく、と笑った。
「いいも悪いもないだろうに。おまえがいなきゃ生きていけない、とさな子が言うんだからさ。あれは頑固だからほんとに身投げしかねない。‥しかしまあ、あの叱言三昧が好いてるって意味だったとはねえ‥。わが娘ながら厄介な女だよ、まったく。」
煙草をふかしつつ、祥一郎は桂次郎を見た。
「正直なところ、今日呼びつけた時はおさとの勘違いだと思ってたよ。おまえの口からさな子に懸想しているなんて聞くとは思わなかったねえ。あれは‥どうなんだ? 本心かい、それともさな子を庇うためかい?」
桂次郎は思わず赤くなって、目を伏せた。
「本心です‥。小父さんの前でなんですが‥さな子さんは誰よりも可愛い人だと‥。」
「ふうん。分別を失くすほど、なんだな?」
ますます赤くなってうなずく。
祥一郎はぽん、と煙管を叩いた。
「それなら大丈夫だろう。桂次郎、これからはさな子がおまえの守りになるよ。何も案ずることはないやね。」
「そうでしょうか‥。」
「そうとも。いいかい、さな子には何も言うんじゃないよ。そのうち折を見て、俺からちゃんと話すから。おまえが言わなくていい。」
「でも小父さん。それではさな子さんは瞞されたと思うのでは‥。」
「そんな腹の小さい女じゃないって解ってるだろう? 第一、瞞されたもへったくれもあるもんかい。あれからおまえのところへ押しかけたんだろうが?」
「いや‥。それは‥。」
「おまえから女を口説くわけはないし、そもそも自分で思いこんだ相手でなきゃ、あのさな子が承知するわけないじゃないか? ‥まあ、おまえでよかったよ。」
桂次郎は唐突に顔を上げ、どこか必死な目をして祥一郎を見つめた。
「‥‥ほんとうにそう、思いますか?」
祥一郎はいたわるようなまなざしを向け、にっこりと微笑んだ。
「初めからそうなることを望んでいたと、さっきも言っただろう? しかもさな子が自分でおまえを見つけた。俺はね‥‥嬉しいんだよ。」
ありがとうございます、とつぶやいた桂次郎の声は幽かに震えていた。