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三日月  作者: りり
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其の壱

 大倉屋の奥庭には小さな稲荷社があった。

 商売を営む家にはよくあるもので、(やしろ)の前には赤い鳥居とお稲荷様のお使いである宝玉をくわえた白い狐の像がある。江戸時代の終わり頃に先々代が建てたものだそうだ。

 この社を勧請(かんじよう)してから大倉屋は急に商売が大きくなり、しがない小間物屋から表通りの大店(おおだな)へと出世したという。ご維新の後引き継いだ先代は、更に時代の先見性を備えていたようで、今では舶来品も扱う貿易商へと家業は大きく様変わりした。身代(しんだい)も大きくなった。

 社の小さなお宮の中には、奉紙に包まれた木札が納められているという話だったが、主人以外知る者はなかった。朝夕の掃除や御神酒(おみき)、お供え、お詣りを欠かすことなく勤めてはいても、大倉屋の家人も奉公人も、商家によくある、ごくありふれた商売繁盛祈願のお社だとしか思っていなかったのである。

 だから七度目のお見合いの朝、さな子が熱心に掃除をして御神酒を捧げ、縁談成就を祈願した時も、やっぱり軽い神頼み気分にすぎなかった。

 縁結びなら相応の神社へでも行けば良さそうだが、そこまでする気はない。大倉屋の長女としての勤めのついでに家神さまにお願いするくらいの気分だった。

 父の祥一郎(しよういちろう)が心臓を悪くして、寝たり起きたりの半隠居生活になったのは二年前だ。

 大倉屋は大番頭の時蔵はじめ、しっかりした忠義者ばかりなので家業に支障はないけれども、さな子も既に十九。若主人となる婿を取って父親や皆を安心させねばならないのは重々承知していた。だがこの一年、見合いは破談続きだった。

 そもそもさな子は女としての自分にはあまり自信がない。

 女にしては少し背が高すぎるし、丸みに乏しい体型をしている。真っ直ぐな濃い黒髪はわりに好きだが、顔立ちはきりりとしすぎている気がする。黒目の勝った切れ長の瞳、すっと通った鼻筋、いつも一文字に引き結ばれた小さめの唇は、人によっては美人だと言ってくれる向きもあったが、気性の強さがにじみ出て恐い顔だと評される方が多い。女は愛嬌だぞ、と縁談を世話してくれる伯父にはいつも諭される。だがその愛嬌が―――絶望的に欠けている。

 性格もたぶん、理に勝ちすぎて強い。男ならば先代譲りの大胆さでいい跡取りになったものを、といろいろなところで言われるくらいだ。

 前回もその前も、見合い相手に商売に対する見識を問うたのが失敗だったらしい。大倉屋の主人として相応しい男かどうか見極めるのが務めだと気張りすぎたかもしれない。

 だいたい大倉屋あたりの婿入りを志願してくる男は二種類しかいないのだ。

 一つは逆玉の輿をめざす育ちがいいだけの良家の次男三男。もう一つは自分に自信があって家業を切り回したい野心を持つ男。前者はさな子がいろいろと問い質せばちんぷんかんぷんで、恐れをなしてしまうし、後者は生意気だと怒り出す。そういうわけでまったくまとまらない。

 今回は前もって、母の兄である中村の伯父にも大番頭の時蔵にも、いざとなれば商売はさな子自身が切り盛りすればいいのだ、と言い含められた。相手は老舗の呉服屋の次男坊で、写真を見ればわりと優しげな顔立ちをしている。

 とにかく今度決まらなければ、伯父や時蔵には妹を先にしてくれと頼むつもりだった。

 さな子には二つ下の依子(よりこ)という妹がいた。色白で華奢でつぶらな瞳をした、巷でも評判の美少女だ。しかも素直で気の優しい性格で、立ち居振る舞いも申し分なく、姉の欲目を抜いてさえどこへ出しても恥ずかしくない自慢の妹だった。

 幼い時に母を失ったせいか、姉妹はとても仲が良かった。さな子は心底、依子が可愛い。だから自分に縁談が決まらないために依子に来る良縁も断り続けているこの状況には、心を痛めていた。

 先日はどこで見初(みそ)めたものか、男爵家からの申し込みがあったのだ。

 話を持ってきた婦人は少々興奮気味に、若き男爵様は英国帰りでとびきりの好男子、妻になりたい女性は星の数ほどいるけれども依子を是非にと仰っている、と告げた。

 写真を手にした依子がほんのり頬を染めたのを、さな子はしかと見た。その時に決心したのだ。順序なんぞに(こだわ)って妹の幸福を壊してはならない、と。

 社に向かってぱんぱん、と手を打ち、お使い狐をぐっと睨むように見つめてさな子はもう一度お願いをした。


「お嬢さま。まただめでしたか?」

 その日の午後、晴れ着を脱ぐ手伝いをしながら、溜息まじりに女中頭のおさとが訊いた。

 さな子は憮然とした表情でうなずいた。

 今までで最悪だった。呉服屋の息子は最初から最後まで怯えたふうのまま、さっさと帰ってしまった。しかも帰り際に早くも仲人に断りの言葉を告げたそうだ。

「何が悪かったのかしらね、おさと。今日は伯父様のお言いつけどおり、ずっと黙っていたのに‥。」

「黙りこくってぎゅっと睨み続けてたと、中村の旦那さまがうちの旦那さまに仰ってましたよ。あちらさまがお尋ねになるのも、ろくにお返事しないんじゃだめですって。お嬢さま、そんなに気にくわなかったんですか?」

 おさとはさな子が生まれる前から大倉屋に奉公している。ある意味母代わりだったので、他に人がいない時はお互いに気安い口を利いた。

「そうでもないけれど‥。」

「それならにこにこなさらなくっちゃあ。お嬢さまは姿はいいんですから、愛想笑い一つでずいぶんと違うんですよ。」

 さな子は眉を顰めて口をとがらせた。それができればとっくに決まっている。

 思うに、大倉屋の身代を(かんが)みてさえ妻にしたくないというのはよほど鬼か蛇かと思われたのだろう。

「もういいのよ。伯父様には、先に依子の縁談を進めてくださいとお願いしたから。おさとも依子のお支度を考えてあげてちょうだいな。」

 振り袖を丁寧に衣紋掛けにかけながら、おさとは解りました、とあっさり答えた。

「何といっても男爵様ですものねえ。盛大なお支度でしょうよ。大倉屋の名にかけて、依子お嬢さまが肩身の狭い思いなど決してなさらないよう、立派なお支度をこさえなきゃいけません。」

 まるですっかり決まったことと言わんばかりだった。

 確かにすぐ決まるだろう、とさな子はうなずく。

 伯父もさな子の縁談をまとめるより、今は依子の縁談を先に進める方が大事だと納得してくれた。父はいつもの通り穏やかに笑っていただけで、反対しなかった。これでいいのだ。さな子はほっと安心の吐息をついた。


 それからさな子はお社に一応御礼の油揚げを供えに向かった。

 柏手を打って拝礼し、ふと溜息をつく。

 そろそろ色づき始めた楓の葉がふわりと揺れた。秋の夕暮れは裏庭を金色(こんじき)に染めて輝いている。

 社の裏手からは雑木林が閑散と続き、土蔵の建ち並ぶ中庭の方へと抜ける近道になっていた。幼い頃はよくここで、依子とおままごとや人形遊びに興じたものだった。

 さな子は無駄のない所作でさっさと歩き出し、雑木林を抜けたところを中庭とは違う小路の方へ曲がった。いきなり視界が開け、一本の桂の木とそこに寄り添うように建つ小さな土蔵が現れた。

 桂の木に寄りかかって本を読んでいる男の姿に、さな子は眉を(ひそ)めた。

 彼の周辺には竹箒と中途半端に集めた落ち葉が散らばっていた。

桂次郎(けいじろう)さん。また途中で投げ出していらっしゃる。」

 さな子の叱声に桂次郎と呼ばれた男はびくっとして顔を上げ、きまり悪そうに微笑んだ。

「さな子さん‥。早かったのですね。」

 桂次郎は急いで本を閉じ、散らばった箒と落ち葉を片づけ始めた。さな子はつかつかと近より、竹箒を取り上げると手際よく落ち葉を掃き寄せた。

「ご本はお部屋から持ち出さねばよいのです。桂次郎さんはご本を読み出すとすべて忘れておしまいになるのだから。」

 山にした落ち葉を塵取りにさな子が寄せ終わると、桂次郎は本をさな子に預け、塵取りと竹箒を受け取った。

「面目ありません。ただね、ほら、この楓の葉があんまり真っ赤できれいだったので‥。確かこの本にちょうど紅葉の描写があったなあと思って‥。」

 しきりに言い訳しながら塵取りと箒を下げ、桂次郎は焼却するための集積場に歩いていく。後についていくさな子は呆れて、やれやれと首を振った。

「それでそのまま読み続けてしまったのでしょう? 仕方のない方‥! それでは子供より役に立たないじゃありませんか?」

 桂次郎は苦笑した。

「手厳しいなあ‥。もしかしてさな子さん、今日もよろしくありませんでしたか?」

 さな子は真っ赤になった。

「あ‥あなたに言われたくないわ! だいたいわたしは‥縁談には不向きな性質(たち)なのです。まったく、男に生まれていればよかった。」

「確かにさな子さんが男だったら大倉屋は安泰、小父さんもご安心だったでしょうね。」

 桂次郎はくすりと微笑した。

「でもさな子さんなら、家業の切り盛り以上に良妻賢母も難なくこなせるでしょうに。見る目のない男なんか捨ておけばいい。十回でも二十回でも構わないじゃないですか? 選ぶ権利はさな子さんにあるんですから。」

「まだ、七回です! 十回二十回だなんて縁起でもない‥!」

 さな子は(まなじり)をあげてキッと睨んだ。

「それは申し訳ない。」

 軽く頭を下げ、桂次郎は落ち葉を集積場に空けて箒と塵取りを片づけた。そして手を洗うためか、井戸端へ向かう。

 さな子は後ろから肩ごしにがみがみと説教を続けた。

「わたしのことより、あなたはどうなのです? せっかく帝大をご立派な成績で卒業なさったのに、ふらふらと遊んでばかり‥! わたしが何かお仕事をなさいませと申したのは、こんな小僧のするような落ち葉はきの意味ではありません。お帳場にいらっしゃればいい、という意味でしたのに!」

「はあ‥。ですがさきほどは子供より役に立たないと仰ったでしょ? ぼくが帳場などに顔を出してはご迷惑がかかると思うのですよ。」

 桂次郎は着流しの帯にはさんだ手ぬぐいを取り、洗った手を拭く。それからさな子の抱えている本に手を伸ばした。しぶしぶさな子は本を返してやる。

「よろしいですか、桂次郎さん。なさる前から言い訳を考えるなど卑怯というものです。大の男が恥ずかしくないのですか?」

 それからさな子の説教は四半刻(しはんとき)も続いたろうか。あたりは夕闇にとっぷりと包まれた。

 はあ、とかええ、とか聞いているのかどうかさっぱり解らぬ曖昧な返答を繰り返していた桂次郎が、不意にさな子の手を掴む。さな子はびくっとして言葉を留めた。

「さな子さん。申し訳ないがすっかり日が暮れました。風邪をひくといけません、中に入りましょう。」

 真面目な顔でそう言ったかと思えば、恥ずかしそうに微笑み、お腹も空いたし、などとぬけぬけとつぶやく。

「まったく、あなたというお方は‥!」

 さな子は手を振り払うと、くるりと背を向け、母屋に向かってつかつかと歩き出した。桂次郎は神妙な面持ちでその後に従った。


 弓削(ゆげ)桂次郎という人がなぜ大倉家に寄食しているものか、さな子は承知していない。

 本家の庶子だと耳に挟んだことがあるので、漠然と遠縁なのだろうと思う程度だ。

 まださな子が幼い頃、ある日突然父が連れて帰ってきて、今度引き取ることになったと母に告げていた記憶だけが残っている。母はそれから一年も経たずに亡くなった。

 あの時彼は十二、三才だったろうか。とすれば七つ違いだからさな子は五つか六つだ。もっときちんと覚えていてしかるべきだろうが、少年時代の桂次郎は全体的に印象が薄く、どんな風貌だったかという明確な記憶はさな子にはない。おさとはよく、いるのかいないのかはっきりしないという意味で座敷童(ざしきわら)しの坊ちゃま、と呼んでいたものだ。

 十三詣りを終える頃まではさな子も依子もよく遊んでもらった。

 木登りやままごと、鬼ごっこ、かくれんぼ。お転婆なさな子にも女の子らしい遊びが好きな依子にも、嫌な顔一つせずよくつき合ってくれた。さな子についてこれずに転んで泣く依子を負ぶって宥めるのはいつも彼の役だったし、そうかと思えばさな子に木の天辺(てつぺん)まで登る方法を伝授してくれたのも彼だ。いつも微笑んでいたように思うけれど、不思議なことにその微笑もよく思い出せない。

 思春期になればそうそう一緒に遊ぶわけにもいかなくなり、自然と顔を合わせることも少なくなった。そうなると印象の薄い桂次郎の存在はさな子の日常からはぽっかりと抜け落ちてしまい、ここ何年かの記憶はほとんど曖昧で無いに等しい。

 さな子があらためて彼の存在を心に留めたのは去年の春、ちょうど女学校を卒業して毎日家にいるようになった頃だ。

 いつのまにか桂次郎は母屋ではなく、裏庭に近い小さな土蔵に起居するようになっていた。そこは初め、やたら本が増え続けていく桂次郎のために書庫として父が提供したのだったが、結局二階に畳を入れ、布団や文机に灯油ランプまで持ちこんで寝起きする場となってしまったようだった。

 とっくに大学を終えたはずのいい大人が無為に過ごしている。

 そう気づくと生真面目なさな子は無性に腹が立った。兄のように敬慕していた幼少期を思い起こせば尚のこと、なぜあの人は無駄に能力を埋もれさせたままにしておくのかと残念でならない。

 思いあまって父に意見するよう進言してみた。ところがなぜか祥一郎はほんわりと微笑して、桂次郎のことは放っておけ、と取り合わない。

 そこでさな子は、自分が何とか桂次郎をまっとうな人間に戻すのだと決めた。だから顔を見れば意見し、お仕事をなさいませ、と勧めた。あくまでも善意であって、おさとが陰で言うように自分の縁談がうまくいかない八つ当たりなどではない―――はずだ。

 けれど今夜は鷹揚な父にまで叱言を言われたのが少しこたえている。

 夕食後、祥一郎の薬を盆に用意して病室としている離れに行った折のことだ。

「さな子。女の身で大の男を大声出して叱りとばすのはたいがいにしとけ。みっともない。‥‥桂次郎はあれでいいんだよ。」

「お耳に届きましたか。でしたらお父さまから仰ってくださいませ。桂次郎さんは元来が優秀なお方です。無為に過ごされるのはもったいないと思うのです。」

 祥一郎は娘の方を向いて、苦笑した。

「さな子。人にはいろいろな生き(よう)があるんだ。おまえはおまえの信じる生き方をすればいい。だがね、桂次郎には桂次郎なりの‥考えがあるんだから。」

 はい、としぶしぶうなずいたけれど、さな子は納得したわけではなかった。

 父は若い頃古書や骨董に興味を持っていて、許されれば商売よりも学究の道に進みたかったらしい。だから桂次郎に甘いのだ、と思った。

 それに―――さな子はわざと意地悪するつもりなのではない。次に会ったらなるべく良いところを探して、穏やかに淑女らしく接しようといつだって思っているのだ。なのになぜかあの顔を見るとつい、腹が立ってきてしまう。

 ―――やはり八つ当たりなのかもしれない。

 そう思えば自分がひどくあさましくて惨めな気がした。

 さな子は布団を被って、大きな吐息をついた。


 年が明け、あっという間に春が来て、大倉屋の次女依子は男爵夫人となった。

 颯爽とした若き男爵と可憐で愛らしい花嫁はしばらくの間、巷でたいへんな評判となった。新聞にまで載ったほどだ。

 窪塚男爵家は内証(ないしよ)はなかなか苦しいようで、大倉屋に破格の持参金を要求してきた。

 祥一郎は最初、依子はそうまでして嫁に出さなければならない娘ではないと縁談を断るつもりだった。だが意外にも依子自身が、どうしても男爵家に嫁ぎたいと泣いて頼んできた。大人しい内気な次女が父親に頑固に言い張るなど初めてだったから、祥一郎は結局折れて、婚礼となった。

 落ち着きを取り戻した初夏。

 隠居所の縁側で祥一郎は、桂次郎を相手に将棋を指していた。比較的調子の良い時はこうして桂次郎を呼んでは、囲碁だの将棋だのの相手をさせるのが日課なのである。

 そよ風がすうっと流れ、誘われるようにこぼれた溜息に、桂次郎はつと顔を上げた。

「どうしたんです? 依子さんのことですか。」

「‥‥わかるかい?」

「そりゃまあ‥。小父さんは依子さんが嫁いでからずっと、淋しそうに見えます。」

「そうだねえ‥。生まれたのがつい去年みたいに思えるから不思議だよ。娘なんか、わびしいもんだな。」

 祥一郎は勝ち目のない盤を見遣り、駒を放り投げた。

 桂次郎は静かに微笑して、駒と盤を片づけ始める。祥一郎は女中を呼んで、お茶を持ってくるよう言いつけた。

「しかしね、桂次郎‥。ほんとうに依子を窪塚に嫁に出して良かったのかねえ‥。俺は今も不安なんだよ。あんなに体面ばかり気にする家が、惚れたはれたで平民から嫁をもらう気になるもんかね? 単に持参金目当てだったなら、依子はえらく苦労するだろうよ。」

 うなずきながら桂次郎は微かに眉を(ひそ)めた。

「依子はあの男爵の派手な外見にすっかりのぼせちまって‥。女はまったく、しょうがないもんだ。」

「依子さんは美人というだけでなく滅多にないほど優しい、気立ての良い人ですから、きっとあちらのお家でも可愛がられますよ。」

 女中が運んできたお茶をすすって、祥一郎は首を振った。

「桂次郎や。ろくに茶屋遊びもしないおまえには理解できんだろうが、男爵みたいに女遊びに馴れた男にとっては依子は物足りないだろうよ。」

「‥そういうものですか。」

「そうさ。おまえも俺に遠慮しないで、たまには吉原でもどこでも遊んでおいで。男にとっちゃそれも大事な経験だ。中村の義兄さんにでも頼んでやろうかね。」

 桂次郎は赤くなって、慌てて首を振った。

「とんでもありません。ぼくはどうも‥ああいう場所は苦手で‥。化粧の匂いには辟易します。それに吉原なんぞに出かけたと知れたら、またさな子さんに叱られます。」

「さな子か‥。あれも困った奴だ。まだおまえの顔を見れば叱言(こごと)三昧(さんまい)かい?」

 目を伏せて桂次郎は頭を下げた。

「申し訳ありません。どういうわけか、つい見咎められてしまいまして‥。」

「ふうん‥どうしてなんだろう。火の気が強いせいかねえ?」 

 不思議そうに祥一郎はまた一口茶をすすった。

「まあ、あれも縁談さえ決まれば落ち着くだろうよ。少々(かん)が立ってるだけだから、もう少し辛抱してやってくれ。」

「ぼくは別に苦ではありませんけど‥。さな子さんは結構、縁談が決まらないのを気にしているようですよ。どうして決まらないのでしょうね? 美人だし気性がまっすぐでしっかり者なのに。」

 祥一郎はくすくす笑った。

「そりゃ、睨み倒してちゃ見合い相手も怖れをなすというものだよ。あれは俺の母親にそっくりでね。武家の出だったんだが、娘時分(むすめじぶん)薙刀(なぎなた)で泥棒を追い返したという武勇伝を持ってた女だ。もっともひそかに恥じていたらしく、自分からは決して語らなかったがね。」

 へえ、と桂次郎は眼を細めて微笑で応えた。


 八度目の見合いに失敗した時にはさすがのさな子も泣きたくなった。

 今回は造り酒屋の三男で、人の良さそうな男だった。ぎこちなく見えたかもしれないけれど、少しは笑みも浮かべ、なるべく余計な口は利かないよう気をつけたつもりだっただけに、三日後に仲人から断りの返事が来た時、さな子は相当落ちこんだ。

 できればもう一度会って、理由は何だと問い詰めたいところだがそうもいかない。どうやら依子と間違えていたらしいと聞けば、尚更どっぷり傷ついた。さな子にとって依子は可愛い妹であるだけでなく、女としての理想だったからだ。

 黄昏の中を奥庭へ向かい、お稲荷社の裏手にひっそりと(たたず)んで女らしく袖を濡らそうとした時、ふと離れた木立の合間に桂次郎の姿を見た気がした。

 見えるはずはなかった。黄昏は濃く、ほんの数歩先に人が立っていたとしても顔が判別できないだろうと思う。枝が揺れたのを見間違えたのだろう、と思いながらもじっと前方に目を凝らした。

 木立の合間にはうっすらと白く光る影のようなものが揺らいでいた。見ようによっては人影のように思える。怖いもの見たさでゆっくりと近づいてゆけば、白っぽい影は見覚えのある着物に見えてきた。

「おや‥? さな子さんですか。どうしたんです、こんなところに?」

 人影は肩ごしに振り向き、びっくりしたような声をさな子にかけた。

「‥‥桂次郎さん? いえ、誰かと思って‥。」

 桂次郎は腕組みをして木立に寄りかかり、何かを見ていたようだった。 

 何を見ていたのかと問えばはにかむように目を伏せて、いえ、と答える。

「それよりさな子さんは散歩ですか? だいぶ暗くなりましたよ。」

「散歩というわけでは‥。」

 さな子は口ごもる。

 桂次郎は急に慌てた様子で、まっすぐさな子に向き直った。

「まさか‥。ぼくを探していたとか仰らないでしょうね? 今日は小父さんの手伝いで代書をしていたんです。遊んでいたわけではありませんよ。」

「ち、違います! わたしだっていつも‥怒っているわけではありませんから。‥‥落ちこんで‥泣きたくなることもあります。」

 言葉に出してしまえば涙はたやすく湧いた。ひと粒、ふた粒、と頬にこぼれ落ちる。

 さな子は慌てて後ろを向き、袖で目頭を押さえた。

「どうしました? もしかして‥。」

「ええ。また断られました。大倉屋の娘と聞いて、以前見かけた依子と勘違いしていたそうです。何て滑稽なお話でしょうね。」

「それはまた、ずいぶんと失礼な返事ですね。理由どころか言い訳にもなってない。」

 桂次郎は珍しく強い口調でそう言い、さな子の顔を覗きこんで訊ねた。

「‥‥そんなにいい男でしたか?」

「な、何を‥‥。」

 さな子はついうろたえる。桂次郎はにっこりと微笑んだ。

「だってさな子さんが泣くなんて。よほど気に入っていたのかなあと‥。」

「そういうことじゃありません!」

「じゃあ、いいじゃないですか。前も言いましたが、あなたが気に入るかどうかが大切なんですよ。大倉屋の跡取りはさな子さんなんですから、選ぶのはさな子さんの方で相手の男じゃない。遠慮することなど何もないですよ、でんと構えていらっしゃい。」

「‥そんなわけにいかないでしょう!」

 さな子はカッときて、振り向きざまに叫んだ。

「わ‥わたしは殿方には好かれない性質(たち)なのですから‥。桂次郎さんがいちばんよく知ってるでしょうに、嫌味なこと言わないで!」

 言ってしまってから後悔した。慰めてくれているのだと解っているのに、どうしてこんなきつい言葉しか返せないのだろう。

 けれどいったん口に出た想いはとめどなく溢れ出す。

「依子と違ってわたしは‥肩もいかっているし、上背もあるし‥。顔立ちも性格もきついし‥。どこを見ても殿方がかばいたくなるようなたおやかさは微塵もないんですもの。お、大倉屋の身代がついていてさえ、わたしなど欲しくないという方ばかり‥。」

「ああ、それは違いますよ、さな子さん。」

 さな子の半泣きの声をやんわりと遮って、桂次郎は訂正した。

「さな子さんが聡明でしっかりした女性だと解ったから、そうそう大倉屋の身代も自由にはならないと思って逃げただけです。それだけの(うつわ)の相手だったのですよ。」

 彼はゆっくりと近づいてきた。

「さな子さんはすらりとして姿がいいじゃありませんか? ぼくは男としては中くらいの上背しかありませんが‥。」

 心底驚いたことに、桂次郎はさな子の肩をふんわりと両腕で抱えこんだ。

「ほら。背が高すぎるなんてことはまったくないでしょう?」

「な、何をなさるの‥!」

 思わず手を挙げて頬を打った。ばしっ、と小気味良い音が夕闇に響く。

 痛い、とつぶやいて桂次郎は、ゆるゆるとさな子から手を放した。もともと肩に添えられた程度ではあったけれど、さな子はかあっと頬が熱くなるのを感じていた。

「ごめんなさい。つい、子供の頃のさな子さんみたいな気がしてしまって‥。もう一人前の大人の女性でしたね。失礼しました。」

 苦笑気味の口調に、ばかにされたような気がしてよけいに頭に血が上ってしまう。

 さな子は黙って背を向けると、母屋へと一目散に走った。

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