その七
――河童淵も随分と人が来なくなった。常に吊るされていたきゅうりも今では見ることができなくなっている。残っているのは神社と、それを祀っている河童の置物の数々くらいだ。
五〇年という月日は、物事や思考を変えるには長かった。人々の技術は進歩を続けていくが、同時に、古き物は過去になっていく。過去になればなるほど、記憶は薄らいでいく。当たり前のことだった。だがそんな当たり前のことは時として、一部の者を悲しませる。
河童淵にいた河童もその一部だ。もはや、観光地として機能しなくなったその場所に人は訪れることなく、妖怪界と人間界を繋ぐ出入口があるにも関わらず、妖怪は出なくなった。人がいない場所に妖怪は存在していても仕方ないのだ。妖怪にとっては、何度も繰り返されている事実だった。彼らはその度に寂しさを覚えていく。ただ、それだけだ。
一匹の大人の河童がそんな河童淵に姿を現した。蝉は昔と変わらず鳴き続ける、蒸し暑い夏の日中のことだった。緑は太陽の下で萌え、人が寄り付かなくなったそこは反比例するように川の水も以前より透明になっていた。
そんな光景に、若干の違和感を覚えながらも、河童は辺りを見回す。
昔登った木がそこにはあった。その上から友人を見下ろしていた。当時の友人は石に書かれた文字を読んでは、顔を上げ、彼のいる木を覗いていた。
彼の姿は、普通の人間には見ることはできない。彼が意図的に術を消そうとしない限り、その『消える術』は半永久的に続いていく。彼は河童と言う名の妖怪だ。妖怪に必要な遺伝子は受け継がれていた。
そんな彼の名前は平之助。人間界に出てくるのは五〇年ぶりであった。
彼は過去に、人間と友人になった。そして妖怪界の歴史に残る大罪を犯してしまったのだ。その友人の名は優。彼とは二度と接触をしてはならないと、そう妖怪の大将に告げられていた。人間と遊んでいた事実は彼を以後五〇年間苦しめた。彼にとっては些細な、妖怪界にとっては大きな出来事が理由で、いじめにもあった。孤独を感じるほどに、毎日が一人だった。それは大人になっても続き、仕事に就くことさえままならなかった。
彼が河童淵にいるには、そんな友人に復讐するためだろうか。否、そうではない。彼は、会いたくて仕方なかったのだ。彼を苦痛の五〇年間に追いやった罪さえも、彼には素晴らしい出来事だったのだ。それを理解してくれているのは、彼の母親くらいである。
平之助は祀ってある河童の置物に目をやった。そして、ふと違和感を感じる。そこに添えられている花が、美しかった。すたれてしまった河童淵に人が来ているのだろうか。
平之助は友人の顔を思い出す。彼が来ているのではないかと、小さな希望が芽生える。そして、奇跡は起ころうとしていた。
「お父さん、早く帰ろうよ」
女性の声がしたのだ。平之助はどきりとしたが、彼の姿は人間には見えないはず、と思い出し、平常心を取り戻す。
以前の木に登って声の主を確認することにした。木の下に現れたのは齢一〇代半ばの女子学生であった。平之助はがくりと肩を落とすも、すぐにあることに気付き、顔を上げる。
(この匂い、優に似てる!)
女子から匂ってくるその香りに平之助は体を硬直させる。まさか、と心臓が早まった。
「夏限定、一日一回お礼参り、それくらい付き合ってくれてもいいだろう」
野太い、でもどこか懐かしい男の声がその女子の後ろから聞こえてきた。風が一瞬吹いた。ふわりと、その男の匂いが平之助を駆り立てる。
(優……!)
声には出さなかった。出してはいけなかった。だが、見えたその姿に、平之助は一筋の涙を無意識に流した。平之助の目に映るのは、大人になった、人間の友人、優の姿。娘を持った、一父親の姿だった。良く見ると、少し小太りになっていたが、優しい目つきは変わっていない。匂いも、彼の昔の匂いそのままであった。
平之助はどうしようと慌てた。摘んできた花を供え、両手を合わせる二人の人間の前に、あたふたとする。このままでは帰ってしまう、そう平之助には予感があった。彼は、今日を逃したらまたしばらく人間界に来ることは許されていないのだ。これが最初で最後のチャンスになるかもしれないと、ただ焦るばかりだ。
ふと、彼は思い立って、急いで川に飛び込んだ。そして数十秒後またそこに姿を現す。彼の手に持っていたのは、ぼんやりと光る不思議な石であった。そこに、彼は石を使って文字を彫る。
その間にも人間二人は、何か一言二言会話を交わし、踵を返す。女子は早く帰りたげに父親を急かし、一人で先に歩いていく。その姿を見ながらも、父親優は、優しい目をしてその背を見つめる。彼も歩もうとした。その直後。
――ぱしゃ。
「冷た!」
どこからか優に水が跳ねた。思わず再び河童淵に目をやった。するとそこには、どこか見覚えのある石が、ぼんやり光る石が置いてあった。
優ははっとした。きょろきょろと辺りを伺うその姿を見た平之助はほっと胸を撫で下ろす。
(ぎりぎりだった。気付いてもらえた)
平之助は姿を見せることはできなかった。何故なら、接触してはいけない、会ってはいけないと、そう告げられていたからだ。しかしこれならぎりぎり大丈夫であろう。事故の一つくらいにしか見られないはずだ。そう、平之助は思った。
一方優は、光る石を手にとって、相変わらず辺りを見回している。
「ぺい! ぺいなのか」
懐かしい名を河童淵に響かせる。その音に平之助は思わず、ふっと笑みをこぼす。
(これで良かった)
別れた時は、お互い何も言えなかった。ごめんと謝ることしかできなかった。でも本当に言いたいことはそうではなかったのだ。それを五〇年間平之助に、後悔をさせていたことだった。孤独を感じるよりも、言いたい事を言えなかったことをずっと悔いていた。
平之助は、また木に登ると、きょろきょろとする姿をじっと見つめる。
(気付くかな?)
そう思ったと同時に、優は不思議な石を見つめため息をつく。と、おもむろにその石をひっくり返した。
「あっ」
優は思わずそれに声をあげる。そして、思い出したかのように木を見上げる。
「ぺい、いるんだね」
「……」
何も返さないで、平之助は小さく頷く。見えているはずもないのに、目の前の男性は目を弧にし「うん」と頷き返す。
「僕もずっと言いたかった。ぺい、楽しかったよ」
優は石を頭上に高く上げると、にかっと笑った。
「ありがとう、ぺい」
天高く上げられた石に彫られていた文字は「アリガトウ」その五文字だった。
「お父さーん! まだー?」
「ぺい、僕はもう行かなきゃ」
そう言う優の言葉にまた小さく平之助もうんと、頷いた。優の背を向けた姿を平之助はただただ黙って見送る。
風が囁く。ふわりと、優の匂いがする。
「バイバイ、優」
聞こえるか、聞こえないかの声でそうぺいは呟いた。
河童の置物に添えられた不思議な石は、今もなお、真夏の陽の中でぼんやりと光り続けた。
了




