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終わりきれなかった世界  作者: 牧田紗矢乃


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5

 




「……そっか。やすちゃんも色々大変だったんだね」


 話を聞き終えた仁美は泣いていた。化粧が崩れ、顔が汚れてしまうのもお構いなしに。


「大変だったのは、私じゃないわ。娘の亜実なの。それなのに、私は何にも気づいてあげられなくて……。

 だから、五年って期間も、あの子の苦労を思えばなんて事ないのよ」


 初めは仁美の部屋へ行く事を即決できなかった泰子だが、仁美と話すうちに、こうして話を聞いてもらう事ができて良かったと思うようになっていた。


「あたしも、やすちゃんみたいなママが欲しかったな」


 ぼそり、仁美が呟いた。


「どうしてそんな事言うの? 私が酷い母親だって、今の話で分かったでしょう?」

「そりゃ、やすちゃんだって悪いところはあったと思うよ。でも、今はこうやって子供達の事を思って、ここに来てるわけじゃん。

 うちのママだったら、あたしが死んでも別に心配とか後悔とかしないんだろうなーって思うの」


 ふと遠くを見つめた仁美は、ため息を漏らす。

 そんな仁美を叱責するように、泰子は口を開いた。


「自分のお母さんの事、そんなに悪く言っちゃ駄目よ」

「は? あんなの母親として認められるはずないじゃん。新しい男作っては何日も家空けてさ、一日中香水の臭いぷんぷんさせて……。あたしや妹が何を言っても聞き入れてくれないし。ほんっと、最低な親だったよ」


 ぐっと睨みつけるような仁美の視線に、泰子の口が固まる。仁美の眼差しには、濃い憎悪の色が見て取れた。


「……こんな話しても、暗くなるだけだから。あたしがここに来た理由でも話そうか」


 肺の中の空気を全て吐き出すように大きく息をつくと、仁美は笑顔を作った。


「中学ん時に一緒だった友達がいたの。その子と恋バナしたり、街に買い物に行ったり、ずーっと一緒にいた。

 ……でもね、中学を卒業するちょっと前だったかな? その子にカレシとられちゃったの。そっからあたしらの仲は急に悪くなってね……」


 そこまで一息に喋ると、仁美は悲しそうな目をした。仁美には悪いが、その話だけ聞けば、どこにでもある風景のひとつのようにも思える。


「その子ったらね、嫌がらせみたいに、のろけ話してくるんだ。それで……ついカッとなって、階段から突き落としちゃったの。幸い大きな怪我にはなんなくて、友達はすぐに学校に来れるようになったんだけどね、傷が残っちゃったの。おでこの……この辺」


 前髪を持ち上げて、左目のやや上の部分を指差す。


「女の顔に傷を残すなんて、って散々怒られた。……でも、友達だけはそのとき何にも言わなかったの。それが何だか怖くって。

 高校はバラバラになって、もう会うことはないかなって思ってたのに、偶然街で会ってね、お互い暇だったから喫茶店に入ったの。やっぱり傷は残ってた。それでもあたしは意地張ったまんまで、謝れなくて。

 それから何日も経たない日にね、その友達のお母さんから電話が来たの。その子が自殺したって」


 俯き、ぼそぼそと語る仁美を、泰子はただ黙って見守っていた。


「友達は、あたし宛に遺書を書いてたんだよ。『中学の時はごめん。早く仲直りして仁美と遊びたかった』って……。ふざけんなって感じだった。あたしはまだなんにも言えてないのに、先にいなくなっちゃうなんて。

 そんな時にね、あのアンケートがあって。一生を掛けて償いたいって思ったの」


 全て語り終える頃には、仁美の化粧の大部分は涙によって流れ落ちてれていた。


「……仁美さんは偉いわね」


 しばしの沈黙の後、泰子は小さく言った。


「そんなこと、ないよ。あたしは悪い子だから」


 仁美は力なく首を振ると、そのまま泣き疲れた子供のようにすやすやと寝息を立て始めた。

 泰子はそんな仁美の様子を、子供が幼かった頃の姿と重ね、崩れた化粧で汚れた頬を優しく拭った。





「じゃ、やすちゃん、お元気で!」


 元気よく、にっこりと笑って仁美は施設を出ていった。

 その時仁美は、今まで片時も離さず持っていた携帯電話を施設で処分してもらうのだと言って置いていった。


 施設の人にお願いしてその携帯電話を譲ってもらおうかとも考えたが、これまでの人生で一度も触れた事がないものを持つことに少々の抵抗を感じたのでやめることにした。

 今までは姿は見えなくとも、音が聞こえなくとも、隣室に人がいるという安心感がどこかにあった。しかし、仁美がいなくなってしまった途端、急に心細さを感じ、反対隣の部屋を訪ねた。


 しかし、何度ノックしても返事はない。

 諦めた泰子が部屋でノートと向き合っていると、夕飯が運ばれてきた。

 今日の夕食を運んできたのは、いつもの青年ではなかった。しかし、どこかで見覚えのあるような、そんな気がする、そんな男だった。


 男は無造作に食事の乗せられた盆を置くと、無言で立ち去ろうとした。


「あ……あの!」


 そんな男の後ろ姿に、泰子は思わず声を掛けてしまった。


「何です?」

「ここの隣って、どんな方がいらっしゃるんですか?」


 さっき訪ねた時、返事がなかったあの部屋の方を差して尋ねる。


「空き部屋です」

「そ……そうですか」


 男の無愛想な感じに取っ付きにくさを感じながら、泰子は礼を言った。


「それじゃ、失礼します」


 静かに部屋を出た男の後ろ姿を見て、泰子はその男が誰だったのかを思い出した。

 あの、“取調べ”とか言っていた時に遅れてきた、「先輩」と呼ばれていた方の男だ。


 ――しかし、何故その男がここへ?


 いくら考えても思い当たる節はない。難しい顔をしたまま、泰子は夕食の煮物に箸を伸ばした。





「先輩っ!」


 いつものように屈託のない笑顔で駆けて来た後輩に、男は足を止め、振り返った。


「どうした」

「どうしたも何も、聞きましたよ。会って来たんですって? 望月泰子さんに」


 後輩の青年がその名を口にした瞬間、男は苦虫を噛み潰したような顔をした。


「だから何だ」

「えー? 感想とかないんですか? 久しぶりでしょ? 泰子さんと会うのは」

「ない」


 即答した男に、青年は不満げな顔をする。


「そんなにも恨んでるんですか? 先輩、身内に対しては甘いと思ってたんだけどなぁ」


 ふん、と男は青年の言葉を鼻で笑うと、早く業務に戻るように告げて、足早にそこを去ってしまった。


「せんぱーい、待ってくださいよぉ!」


 男の後ろを、青年がバタバタと追いかけていく。

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