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「おはようございます」
まるで旧知の間柄であるかのように、青年がにこやかに初老の女性に声をかけた。
「……おはよう、ございます」
すると、声を掛けられた女性は戸惑いながら頭を下げ、青年の顔を見つめた。
「……ここは、どこですか?」
女性が問いかけたのも無理はない。
彼女が現在いる場所は、三方向を窓のないコンクリートの冷たい壁に、残る一方向にはコンクリートの壁の一部をくりぬいて、代わりに悪意をむき出しにしたような鉄格子をそこにはめ込んだ壁という、牢獄を模した部屋である。
いや、もしかすると、牢獄そのものかも知れない。
このような部屋に入れられる謂れなど、彼女には皆目見当も付かなかった。
「刑務所……いえ、まだあなたは罪が確定していないんでしたっけね。じゃあ、拘置所といったところです」
にこやかな笑顔で鉄格子越しに放たれた青年の言葉を聞いた女性の顔が、一瞬にして驚愕に引きつる。
「あ、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。
別にあなた、法に触れるようなことはしてないんでしょう?」
それならばなぜ。
思わず声を上げそうになるが、周囲の人の目を気にしてそれを思いとどまる。
優しい言葉の中に潜む棘が、じわりじわりと女性を痛めつけた。
「今日の午後から、取り調べ――まあ、形だけですけど――を行いますので、心の準備をお願いしますね」
爽やかにそう言い残すと、青年は隣へ移っていってしまった。
どうやらここに入れられているのは自分だけではないらしいと理解した女性だったが、その僅かな鉄格子の隙間からでは他の部屋の様子は窺えない。
諦めて、青年が再びこの部屋の前に戻ってくる時を待つしかないようだ。
「……私、こんな大事になるとは思ってもいなくて……」
「誰だってそうですよ。ここに来る人達はね、何気ない気持ちで、でも、正直に本当のことを答えた、心のきれいな人達ですから」
「は……はあ」
取調べが始まって、五分が過ぎていた。それなのに青年は、核心に迫るようなことは尋ねず、かといって初老の女の話にまともに取り合うでもない。
ただ、のらりくらりと話を先延ばしにし続けているのだった。
そんな青年とのやり取りの中で女が理解できたのは、自分は街頭アンケートで「一生をかけて償いたい罪がある」という問に「YESと」答えたからであるらしい、ということくらいだろうか。
「すまない、遅れた」
そう言って入ってきたのは、青年よりも年上の、体格のいい男だった。どうやらこの男は青年の上司らしい。
「じゃ、先輩、始めましょう」
青年はにこやかにそう言うと、急に表情を引き締めた。女はその変わりように困惑の表情を浮かべるも、口を開くことはしなかった。
「まず、あなたのお名前と、悔いている罪の内容を、できるだけ詳しく、教えてください」
「は……はい。私は望月泰子です。私が後悔していることは、子供を幸せにしてやれなかったことです」
「と言うと?」
青年は硬い表情のまま問う。
「ええ……私は、子供達がまだ幼い頃に離婚しました。私はその子を養うために、昼も夜もなく働いたのです」
「それを悔いている?」
「いいえ。そうではなくて……私、子供の異変に気付いてやれなかったんです」
言うと、泰子は顔を伏せた。
「そうですか……それで、その子は?」
そんな泰子の様子を見ながら、尚も問い詰める青年。
「その子は、死にました。
私が家に帰ったときに、上の子……亜実が、『拓が死んじゃう』と……拓というのは下の子供の名前です……泣きじゃくっているのを見て、救急車を呼びました。
でも、手遅れだったんです。その時にはもう、息子の息はありませんでした……」
泰子は肩を振るわせ、嗚咽を漏らし始める。
「それだけ、ですか?」
「……いいえ。まだあります」
泰子は俯いたまま、涙を拭き、再び語り出す。
「私は息子への罪悪感から、重度の鬱になって仕事を辞めてしまったんです。家事は全部娘に押しつけて。
そうこうしているうちに、水道やガスは止まり、住む家も失いました。そんな時、娘に言われたんです。『拓の帰ってくる家がなくなっちゃった』って。
その時私ははっと現実に戻ってきたような感じで、嘆いているだけじゃ駄目だったんだ、ってようやく気付いたんです。それなのに……」
「それなのに?」
「それなのに……私、死んだ子のことばかり考えて、上の子のことは全く考えて無かったんです。
上の子のことを置いて旅行に行ったこともありました。それでも、あの子は……私を、そして、息子を許してくれていました」
再び嗚咽を漏らし、肩を震わせる泰子の背を青年が優しくさする。
女が落ち着くまでの間、しばし沈黙が訪れた。
「落ち着きましたか?」
青年の声に、泰子は力なく頷く。
「では、続きを」
「はい……。娘は、きっと私に心配をかけまいと気を使っていたのでしょうね。私はそれを……表面上の娘の姿を……本当の娘の姿だと思っていました。
でも、ある日、ついに娘は壊れてしまったんです。私はそれにすら気付けなかった。娘が部屋から出てこないのを不審に思って……あの子の部屋に行ったら……、あの子はもう……首を吊って……死んでいました……」
後半は、ほとんど嗚咽と言っていいような、聞き取ることも困難なほどの言葉だった。
「それで、ようやくあなたは反省した?」
「そう……です」
「はあ……」
青年がため息をつく。
「あなたの罪、相当重いですよ? 間接的にとはいえ、二人殺してますからね……」
どうです、先輩、と隣で座っているだけだった男に意見を求める。
「そうだ……な、まあ、五年ってとこか」
先輩と呼ばれた男は、思いのほか短い年数を提示する。
「そうですか。じゃ、五年ということで」
先輩の言葉をいぶかしむでもなく、素直に受け入れた青年に、驚いたのは泰子の方だった。
「あの……そんなに短くていいんですか?」
「ん? あ、ああ。これでも相場より、長いですから」
必要最低限の言葉しか発しないところを見ると、この先輩と呼ばれた男、元来から口数の少ない性分らしい。
「そうですよ。ここ、警察とかなんだとかっていう役所の絡んでる所とは違いますから。短くても十分なんです」
付け加えるように青年は言うと、「では、お部屋にご案内いたします」と、まるでホテルか何かの接客のように、泰子を新しい部屋へと導いた。




