青紫の太陽4
全身から冷や汗がにじみ出ていた。喘ぐような息のまま僕はまだ窓の前に立っていた。窓に映る自分の瞳が惨めになるほど震えていた。
夢を見ていたのだろうか。頭の裏側で繰り返される悪夢のような光景。ようすきあうふぐふぐふと。彼らの歌う声が幾度も反芻される。粘つくように彼らの歌が真っ白になった脳から離れない。
濡れた砂袋を交互に引きずるような音。背後の廊下から聞こえてくるそれは、こちらに向かっている。
きっとこれもまた幻聴だと言い聞かせた。それがだんだんと音の大きさが増していく。後ろに伸びる廊下が窓越しに映っていた。その廊下の奥から何かが歩いていた。そのとおりかから影が覗いて僕は咄嗟に目を閉じた。
その間にも何かは足を引きずり湿った音を鳴らして少しずつ近づいてくる。
静まったはずの心臓はまた鼓動を早めていき、両手を窓に置き震えを止めた。足音のようなそれが真後ろにまで来ていた。それは止まることもなく僕の背後を通りすぎていく。その瞬間、生臭い匂いがつんと鼻をついた。
こちらに気づいていないのか興味がないのかそれは通り抜けていく。ゆっくりと息を吐き出しながら気配が消えてくれるのを待っているとそれは歌うような声をだした。
「ようすきあうふぐふぐふと」
目を開いた。それは少し先でこちらを見つめていた。本で読んだ宇宙人のようだった。
色素がなく魚のようにぬめりとした肌。驚くほど手足は長く、猫背気味の姿勢でも頭は天井につきそうだった。本の中での宇宙人ならその顔にアーモンドの形をした大きな黒目がついているはずだが、目の前にいる化物は限りなく人間に近い顔の構造をしていた。ただ眉毛や髪の毛といった毛根が一切なく、全体が弛緩しているにも関わらず皺ひとつないところは人間とはとうてい思えない。もしかしたら熱い蝋を全身にあてて、手足と胴体を縦に伸ばせばこの化物を作ることは可能かもしれない。
じっとしたまま何もしない化物。こちらに敵意はないらしい。ゆっくりと視線を外すとしばらくして化物は歩き始めた。
横目で見ていると化物はすりあしのように歩き、階段がある側のちょうど真正面にあたる扉の前に立った。化物は扉を開けるとかがんでその中に入ってしまった。
あれは何だったのか。ここの建物にきて様々な人間を見てきたが、あんな生き物は見たことがなかった。
踏みつけられた絨毯に足跡がついていた。引きずっていたように思えたが、足は一応浮かしていたらしい。人間と同じ五本指の足跡がくっきりと残っていた。
その足跡を辿って行く着く扉。
その扉には他のどの扉にもある幾何学模様が彫られていなかった。館に共通する扉の幾何学模様はなく、目の前の扉には中心に丸がぽつんと彫られているだけだった。
目の前にある円を見つめて最初は天井に描かれた太陽だろうかと思った。それにしてはあの触手のようなものが足りない。じっとその丸を見つめているところに声がかかる。
「見た?」
突然の声に驚き振り返ると、すぐ後ろにクロックが立っていた。扉の形に気をとられて近づいてくるのに気付かなかったらしい。
「さっきの見た?」
ぼそぼそと呟くような声でクロックはもう一度繰り返した。
いつもの血が固まりどす黒くなったシャツ。皮膚にへばりつく血はかさぶたのようだった。それも乾燥し剥がれていき、真っ黒になった髪や肌からまだらのように人間らしい部分が覗いていた。
「あの化物のこと?」
それを聞いてクロックは笑みを浮かべ首を縦に振る。前髪が目にかかっており何を考えているのかいまいち分からないが、どこか喜んでいるような雰囲気があった。
「ヨウスキアウフ」
「なに?」
「そう言ってただろ」歌うようにクロックが言う。「ヨウスキアウフグフグフトって」
ようすきあうふ。
脳内にまたあの言葉が繰り返される。確かに言っていた。あの歌うような声。
「僕がそう名付けたんだ。君たちと同じ。知ってるよ。君たちは僕のことをクロックって呼んでるだよね。ここには時計がないから僕をクロックって呼ぶんでしょ? ここでは僕が時計なんでしょ?」
クロックは尋ねた。顔を斜めに向け血で固まった前髪がずれる。血走った片目がこちらを覗いていた。引き攣ったように口元を上げて、まるで壊れた人形のような笑い声を漏らす。
「ごめん」
「謝る必要ないよ。僕も君たちの事をそれぞれの愛称で呼んでるんだからおあいこだ」
妙に馴れ馴れしいクロックを見て僕は心底驚いていた。クロックもブロンズと同じだと思っていた。話しかけても返事の帰ってくることはない銅像だと。
僕も今まで何度も話しかけたことはあったがクロックが返事をすることはなかった。血まみれになって倒れているときに口を開いて何か言おうとしたことはあったが、結局は何を言っているか聞き取れない。その時は口の筋肉が痙攣しているのだとうと考えた。それほど彼が話すことは僕にとって有り得ないことだった。
それが急に話しけてくるものだから僕は戸惑い何を言っていいかわからない。
「それはよかった。それで、あの」
「クロックでいいよ」
「じゃあクロック一つ聞きたいんだけど君はあれを知ってるの。あの、ヨウスキアウフを」
僕の言葉を聞いてクロックは今まで以上に口元を吊り上げた。それだけだった。
「ねえ」
問いかけても返事をすることはない。にやにやと笑っているだけ。答えてくれる気はないようだった。
疲れていた。自分の席が恋しかった。早く図書室の椅子に座っていたかったが、目の前のクロックはどいてくれない。
「何かようがあるの?」
クロックに問いかけるが返事はない。
「飛び降りるとね」
「え?」
このまま帰ってしまおうとしたとき唐突にクロックは話し始めた。
「飛び降りると死ぬほど痛いんだ。とくに頭から飛び降りた時は最悪だ。痛覚も潰れてるから痛みはまったく感じないけど、回復するうちにじわじわと染み渡ってくるように痛みが込み上げてくる。肺のなかには血が入っていて陸にいながら溺れてしまう」
クロックは自分の死んでいく様を語っていた。とき歪な笑い声を上げ、思い出すように声を震わせる。
「何で僕が飛び降りるか分かる?」
僕はかぶりを振った。身勝手に話し始めるクロックに怒りを通り越して呆れていた。
「伝えるためだよ。時間を」
当然だと言うようにクロックは言う。それにうんとも言わず、僕はじっとクロックを見つめていた。汚らしい真っ黒な全身。彼から血の匂いがした。先程からじょじょに嫌悪感が込み上げてくる。
「それより、ロープ。君はこの部屋に入るつもりなの」
クロックの目が隣にある扉に注がれた。手を伸ばし丸に彫られた部分をさすっている。そこでようやく最上階に何をしに来たのか思い出した。
「入ったほうがいいのかな」
クロックにではなく自分に言い聞かせるように言った。
「それは止めておいたほうがいい」クロックは扉の前に立ち首を振った。「まだ早い」
「早い?」
「そう、君にはまだ早い」
無理やりどかせることもできただろうが、そういった気もおこらなかった。もうクロックに関わるのすら億劫だった。
「分かったよ」
僕はそういってクロックに背を向けた。じっとクロックがこっちを見ているのが分かる。
微かにクロックの声が聞こえた。聞き取れない低い声でぼそぼそと何かを呟いた。
振り返るとクロックが口元に手をやり笑っていた。こちらがおかしくて仕方ないそう言っているようだった。




