青紫の太陽2
視界が真っ暗になったとき、この館にやってきた時のことを思い出した。 この館へやってきた時も瞼を閉じている時と同様に視界が真っ暗だった。
意識ははっきりしていた。目を覚ましたというより今までの記憶をすっぽりと落としているような感覚だった。次第に記憶がよみがえるなかで、特に理由もなく手を伸ばした。指先が細やかな布の繊維に触れて掴む。その感触に自分が生きていることを実感した。
だんだんと歯車が重なるように僕の頭は正常に動き始めた。真っ暗な中でしゃがみ込み布をめくり上げる。暖かな灯りに目を細めた。
ぼやける視界のなかでふらふらと立ち上がる。次第に鮮明になる視界の中、電球の下で本を広げている自分と同い年ほどの少年と目があった。
少年は手に持ったペンをくるりと回すと立ち上がり、ようこそと言いながら手を広げた。
「ここは?」
僕の問いに彼は答えた。
「青紫の太陽」彼は言った。「青紫の太陽が見下ろす子供たちの館」
格別面白い冗談を言ったというようにペンは自嘲の笑みを浮かべたのだった。
そんな彼の言葉に疑問に思うこともなく僕は呆けるようにあたりを見回していた。その部屋にはたくさんの本があった。目を輝かせていたのだろう。ペンは今までの不自然な笑みを消して自然な笑みを浮かべて言った。
「君も本が好きなのか?」
僕が出てきた場所はカーテンの裏だった。外の窓もないというのに図書室にはなぜかカーテンがかかっている。ペンから言わせればそれもまたこの館の「皮肉の利いた洒落」ということだった。
皮肉の利いた洒落とはどんなものかと訊ねるとペンは自分とウォーターが現れた場所を教えてくれた。ペンはいつも彼が座っている場所で本を読む態勢のままここに来た。そしてウォーターは中庭にある水場の隣で座っていたということだった。
ペンはあまりこの館のことを教えてはくれなかった。知りたければ自分から知ればいいし、知りたくなければずっとここで本を読んでおけばいい、駄目なことは教えてあげるけど、それ以外のことは自分で選んでしたいことをすればいい。ペンからの情報はこれだけである。
とくに知りたいと思わなかった。なによりも本が読みたかった。
「あなたはもっと現実を見るべきだと思うわ」
ふいにウォーターがつぶやいた。詰問するような口調だった。目を開けると彼女の目がこちらに向けられている。
「彼は知らないものは知らない方がいいって言うかもしれないけど。私は逆に知らなければいけないと思う。あなたもここへ来た理由ぐらい分かってるでしょ?」
「したくない話題だけど」
「それなら他の人と私たちは違うのも分かるはずよ。周りを見てみなさい。ここにはいっぱいの子供がいる。一日中座ってるブロンズが一杯。その中で私たちは話をしている。これはきっと私たちが選ばれたからなのよ」
天を仰ぐように熱弁する彼女は宗教家のようだった。
「確かに周りを見てると僕たちの方が異質のように思えるね」
「そう選ばれたのよ。ここから脱出するべく人間として。そうに決まってるわ。これは私たちに与えられた試練なの。この難問の答えを出すことで私たちは救われるの」
いったい誰に救われるのさ。そう訊こうと口を開いたが、すぐに考えをやめて話しに乗ることにした。
「例えそうだとしても、どうやって外にでるのさ。入り口どころか外への窓もないっていうのに」
「誰がないって言ったの」
意地悪な目をこちらに向け焦らすようにウォーターは言う。
「ウォーターが言ったんだろ。外に出る扉はないって」
「確かに外に出る扉はないって言ったわ。でも出口は扉だけじゃないわよ」
扉がないなら何がある。自問してすぐに思いつく。
「……窓。でも、どの部屋にも窓なんてなかった」
「全ての部屋を見たわけじゃないでしょ。行ってないところもあるんじゃない。特に」
最後まで言わずに彼女は天井を見上げた、と思ったが違った。彼女の視線は天井の隣にある窓にそそがれている。
「最上階? そこに窓があるの?」
「それは自分で確かめてきたらいいんじゃない」
試すような視線がこちらを射ぬく。僕は腕を組み少し考える。おかしなところがいくつかある。
「たとえ窓があるとしてさ。どうしてウォーターはそこから脱出しないのさ」
そもそもそういう話だったはずだ。どうやってこの館から脱出するか。本当に外への窓があるのなら、この問題はほとんど解決したに等しい。
「なんのこと?」
とぼけた表情でほほえむウォーターにいらだちを含んだ声を返す。
「何って、本当に窓があるならウォーターがそこから脱出できるじゃないか」
「あら、私は窓があるなんて言った覚えはないわよ」
なに言ってるんだと声を荒らげそうになり、実際彼女の言葉から窓なんて一つもでてないことに気がついた。
「それなら最上階に何があるのさ?」
それに対してウォーターは軽く微笑むだけだった。
「……興味をそそるような事を言っても僕はいかないからね。足が疲れてるんだ。とてもじゃないけど、最上階まで行く気力はないよ」
「そう」
ウォーターは静かにそう言った。
視界の隅でふらふらとクロックが立ち上がる。ようやく立てるようになったようだが、まだ足元はおぼつかないようで転んでは立ち上がりを繰り返している。ウォーターはその姿を名残惜しそうに見つめていた。
「最近良く思うの」
視線をクロックに向けたまま大きなため息をついて彼女は話し始めた。
「毛虫は本当に蛾になりたいのかなって。蛾になれば自由に空を飛べる。毛虫は本当に蛾になることを望んだのかしら。頭にあるのは幾ら葉っぱを食べれるかという本能だけ。蛾にならなくてもその生活に満足していたんじゃないかしら。今のままでもいいじゃないかって思わなかったのかしら。進化っていうのはそれほど大切なことなのかしら」
彼女の声は話すごとに萎んでいく。
「望まなくても訪れるもの。災害、退化、進化、罰、時間。さあ、私たちはそのうちのどれに当てはまるのかしらね」
僕たちはお互い微笑み合った。そうすることで彼女が安心するのなら頬の筋肉を上げることは簡単なように思えた。
「私はねロープ。こう見えて不安でたまらないのよ。少しでも、一時間でもこの不安がなくなるなら何だってする。分かるのよ、追い込まれてくのが。誰も助けてくれない。ゆっくりと泥の中に体が飲まれていく不安。それをただ黙って見守ることしかできない焦燥」
ため息をつくしかなかった。
「分かった。行くよ」お手上げだと僕は両手を上げた。「行けば、ウォーターの不安が少しでも薄れるなら」
「私そんなこと言ったかしら」
言葉とは裏腹にウォーターは試すようにこちらを見つめた。
「いいさ、僕だって気にならないわけじゃない。その代わり条件がある」
「何かしら」
「僕が最上階に行ったらペンに会いに行くってのはどうかな」
ウォーターは少しためらってから表情を歪め苦々しい声を出した。
「考えとく」
「忘れないでね」
それじゃあ最上階に行ったら戻ってくるから。僕はそういって中庭の休憩所を出た。
「待って」
「どうしたの」
ここに来たときと同じように欄干にもたれ彼女は言った。
「ありがとう……ごめんなさい」
最後の声は聞き取れるか聞き取れないかほどの小さな声だった。僕はそれに軽く手をあげて答えた。




