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青紫の太陽1

卵を落とした音に似ていた。質量がありながらも軽く潰れる殻の音。卵の音。

耳をすまさないと聞こえないような些細な音だった。それでも静まり返る図書室でクロックの肉が館の地面に押しつぶされる音がしっかりと耳に届いた。最上階から飛び降りて体中がひしゃげる音。

この館へ来た当初クロックの飛び降りる音に身震いを起こした。それほどその音は生理的に避けたいものだった。けれど慣れとは怖いもので今では無意識に反応することすらしない。

クロックの身投げは時計の役割でしかなくなった。

そんなクロックの潰れる音を聞き、僕は名残おしいと思いながらも読んでいた本を閉じた。そして隣に用意していた本を積み重ねる。

「どうした?」

ペンが声をかけてくる。

「クロックが落ちるころに本を届けるよう言われているんだ」

 右手に持ったペンを回しながらペンは大げさにため息をつく。

「彼女は君にそんなことやらせているのか。それならここへ取りにくればいいのに」

「ペンの顔を見るぐらいなら潰れてぐちゃぐちゃになったクロックにキスした方がましだっていつも言ってる」

「僕も随分と嫌われたもんだな」

 自嘲気味に笑うペンを横目でうかがいながら僕は持ち上げた本の表紙を見下ろす。どれも医学や人体について書かれた本のようで、専門用語の並べられたタイトルから内容をうかがうことはできない。知識の量と比例するのかどの本も分厚く、それなりの重量があった。僕には一生縁のない本に思える。

「思い出せば君が来てから彼女の顔を見てないな。顔を合わせれば口論ばかりしていたけど今ではそれが懐かしいよ」

「僕が来てからそれほど経ってないじゃないか」

「だからさ」回していたペンを止めて掌の上に顎を乗せた。「余計にそう感じるんだよ。いつもなら三日おきぐらいに仕方ないような顔でやってくる。その時の口論が僕は楽しみでしかたなかったんだ。どうやったら彼女の怒る顔が見れるのか。本を読むのに疲れたらいつも考えていたからね」

「そんなことしてるから嫌われるんだよ。もう少し仲良くしようとか思わないの」

「いやいや、それが彼女との正常なコミュニケーションであり、怒りながらも彼女も内心では楽しんでいたと思っていたんだよ、僕は」

「致命的だね」

 重い本を抱え足で椅子を机の中に押し込んだ。古美術品とも言えるほどきめ細かな造形をあしらった木製の椅子だがここでは椅子以上の価値はない。

 同じように芸術的とも言える幾何学模様に彫られた扉を蹴破るように開け、僕は片足を扉にひっかけて振り返る。

「ふと思ったんだけど。そんなに楽しみだったなら、自分からウォーターに会いにいけばいいじゃないか」

「それもそうなんだけど」ペンは珍しく言葉を濁した。「何というか落ち着かないんだ、ここにいないと。椅子に座って本と向き合う。それ以外の姿勢はすごく違和感がある」

「でも、たまには外に出た方がいいよ」

「気が向いたらね」

僕の知る限りペンがこの図書室から外で出たことはない。別に彼が外にでない事で何か問題があるわけではないが、やはり多少は運動をした方がいいと思う。

それがウォーターの使い走りだとしてもだ。

廊下に出て赤い絨毯を踏みながら歩くうちに本を持つ腕が震え始めた。一度内窓の近くにあったテーブルに本を置く。人の事は言えないなと内心思いながら、手の筋肉をほぐしつつ内窓からウォーターのいる中庭を見下ろした。

中庭は緑に覆われ道になっている白い煉瓦や休憩所の白い屋根がよく目立つ。その白い屋根のある休憩所にウォーターはいるわけだが、それよりも端にある赤い染みが目にいった。

白い煉瓦を敷き詰められた道の上で、面白いほど体を自由に折り曲げたクロックが転がっていた。遠目で見れば白い石に描かれた大きな花に見えないこともないクロックの肉塊。趣味の悪さがうかがえる不気味で大きなラフレシア。

屋根が邪魔で見えないがウォーターはきっとぐちゃぐちゃになったクロックを見つめながら趣味の悪い笑みを浮かべているはずだ。

その姿が容易に想像できた。

階段で転ばないよう細心の注意を払い一段ずつ確実に降りていく。数冊程度なら何の造作もないだろうが、胸元まである本の束は僕の体重の三分の一を超えている。歩いているだけですら足がおぼつかないというのに、階段を降りるとなると重心を探すだけで頭がいっぱいになる。

そもそも明らかに数日で読める量ではない。これは僕を苦しめるために用意されたウォーターの嫌がらせだとしか思えないのだが、それを問いただす勇気も僕にはない。

必死になって階段を降りていると一階に着く手前で初めて見かける子と遭遇した。

両手に頭をうずめ階段の端に座り込んでいる。そこらでうずくまっているブロンズと同じように僕と同じほどの年齢に思えた。

ブロンズ、と僕たちは彼らの事を呼ぶ。言葉を話すことなく、どこかしこに座りこみ頭を抱えている。

その姿は銅像の考える人に似ている。そのためにブロンズと呼んでいるのだとペンに説明されたが、僕からすれば考えるというよりもムンクの叫びのようににしか見えない。

声をかけても返事があった試しはないので僕もそのまま素通りする。微かに魚に似た生臭さが鼻をつき何の匂いか気になった。

 中庭に続く幾何学模様している扉を蹴り開けると油なんてさしていないであろう扉は鉄がひしめく嫌な音を上げた。

澄んだ空気が館内に入ってくる。緑の色が目の前に広がった。中庭は館内で唯一緑がある場所だった。緑と言っても手入れのされた上品なものではなく、放置された公園のように好きなように草木がはびこっているだけだ。土に埋め込まれた白煉瓦の間から無作為に雑草が生い茂っており、中庭にある休憩所だけでなく館全体にもまんべんなく蔦が絡まっている。

廃れた庭園という言葉がよく似合っていた。もちろん癒しなどとはかけ離れており、どちらかと言うと不気味さしか残っていない。それでも館内の無機質さに比べると中庭は確実に生きていた。

「ちょうどいい時に来たわね」

 バランスをとりながらふらふらと中庭を歩く僕を一瞥してウォーターが声をかすかにはずませる。彼女は休憩所の欄干に肘をつき眠そうな目をこちらに向けていた。

「しばらくしたらクロックも起き上がるころよ。早く本を持ってきて」

「いい趣味だね」

 クロックのことだ。それを聞いたウォーターは不敵な笑みを返す。

休憩所の床を埋め尽くすように本が散らばっているその上ベンチと欄干にも建物のように本が積まれているためほとんど空いているスペースはなかった。面倒だったので適当に本を降ろす。持ってきた本はすぐに崩れそれまでにあった本と区別がつかなくなる。

それを見てもウォーターは怒らない。本も本以上の価値はないし、ウォーターなら今まで読んだ本と読んでない本は区別できるのだろう。きっと。

だるくなった腕で手前のベンチあった本のタワーを崩しそこに腰をかけた。両隣りには僕の座高より高い本の山ができており多少窮屈ではあるがさしあたって問題はない。これ以上崩せば帰るとき大変になる。

「言われたとおりのものを持ってきてくれたのね、嬉しいわ」

「どの棚の何列目まで指定されたメモを渡されたら誰でも分かるよ」

 こちらの話を聞いているのか細かく頷きながら一冊ずつ届けた本を眺めている。

手持無沙汰になった僕は隣に積み上げられている本を眺めた。タイトルを上から順番に読んでいくが、やはりタイトルからでは何について書かれているのかさっぱり分からない。とりあえず一番上にあるものを手に取った。

その表紙には鮮やかな青い蝶々の姿が描かれていた。黒い背景に羽を広げた蝶々は標本のようで全く生命を感じられない。蝶の輪郭を指先でなぞる。触れるのはやはり紙の質感だけで、凹凸の質感さえない指先に不満が残った。とくに期待もせずその指先こすりあわせたが鱗粉の感触はない。

「変態って分かるかしら?」

 突然の問いかけに顔を向けるといつの間にかウォーターの視線がこちらに向けられていた。皮肉を言うような意地の悪い笑みを浮かべている。

「言葉ぐらいは知ってる。確か他の形に変わることだ。青虫が蝶々になるみたいに」

「まあ、それも正解の一つね。正式には幼生が形態、生理、生体を全く変えて成体へと変わることを言うの」

「それがどうかしたの」

「あなたの今持っているその本がそういう本なのよ」

 ウォーターはそう言って僕の手元にあった蝶の描かれた本を取り上げた。彼女は僕と同じように蝶々を指でなぞってから愛おしそうに本をめくっていく。

「ところでロープ、うねうねした毛虫がどうやって蛾に変わると思う?」

 どうしてわざわざ蝶ではなく蛾を選んだのか訊くのをこらえる。

「蛹になってそこで蛾になる」

「じゃあ蛹の中でどうなるの。まさか蛹の中にいる毛虫の背中が割れて、そこから出てくるなんて言わないわよね。それなら蛹になる必要がないでしょ」

 そんなことを考えたことがなかった。

確かに毛虫がどうやって蛾の姿になるのか僕にはさっぱり見当もつかないし、その過程は想像の範疇を越えている。人ならば子供から大人になる。背が伸び、手足が伸びていく。順当な成長だが毛虫はどうなる? 体がしぼみ、六本の足が伸びて、羽が少しずつ生えてくる。そういった退化のようにも思える進化が蛹の中で行われているのだと考えると釈然としないものがあった。

「教えてあげましょうか」いやらしい笑みをつり上げてウォーターは口元を歪ませた。「蛹になった毛虫はね、中で一度ぐちゃぐちゃの液体になるの」

それを表現しているのかウォーターは両手の人差し指でぐるぐると空をかき回した。

「体を全部とかした毛虫は蛹の中で蛾の形に体を作り直す。そうね、人間で考えてみたら気持ち悪くていいわよ。繭に入った人は眠ったまま体が少しずつ解けていくの、皮膚が爛れてそのうち赤い肉が見えてくる。その肉も腐食していくようにでろりと垂れて、最後には水あめみたいにどろどろになっちゃう。それから形が変わっていって目を覚ましたことには自由に飛べるようになってる。どう?」

「気持ち悪い」

ウォーターはそれを聞くと満面の笑みを浮かべてから何がおかしいのかくすくすと笑い出す。何度も言うようだが趣味の悪い鼻につく笑いだった。

「そんな話ばっかりして悪趣味だって言われても知らないよ」

「悪趣味で結構。自分のしたいことができるのなら、他人なんていらないわ。そうでしょ?」

 小さくため息をつく。何も言わないでいるとじっとりと向けられたウォーターの視線が気になった。

「それにしても、あなたが相手だとこっちも面白くないわね。全然反応してくれないし。そんなに私の話がつまらないの?」

「そんなことない。ウォーターの話はあまり気持ちのいい話ではないけど、なんというか、すごく興味深い」

「そう」

 不機嫌そうな声だったが満更でもないという顔をしていた。

「そうだ」僕はできるだけ自然に話を切り出すように言った。「ペンがウォーターと話がしたいだってさ」

「それはご免よ。何度も言ってるでしょ。ペンと会うぐらいならクロックとキスした方がましよって。あなたは頭にウジでもわいてるのかしら」

「クロックとキスしたいのかなと思って」

「あなたの冗談は面白くないわ」

 先程の感情溢れていた声が嘘のようにウォーターは無機質な声を出し、冷たい視線をこちらに向けてくる。

完全に機嫌を損ねてしまったようで、ウォーターは眉の間に皺を寄せて本をめくり始める。

どうしてこれほどペンとウォーターの間には溝ができてしまったのか。

ペンに聞いてもいつもはぐらかされてしまうので、一度ウォーターに聞いてみようと思っていたがこの分ではとうてい聞けそうにはなかった。

ぼんやりとクロックの方に目をやる。

血だまりの中、立ち上がろうとして肘を立てていたクロックは未だに回復しきっていないのか、細かく震えたあと音をたてて崩れ落ちた。あたりに血しぶきが舞い、白い煉瓦を濃く染める。

「そういえば」先ほどの通り感情のないままウォーターが話しだす。「あなたはここにきてどのくらいたったのかしら?」

「クロックが十回以上は落ちた」

「そう、もうそんなにたつのね」

十回ねと小さく呟いたあと、ウォーターは今までにない虚ろな瞳をこちらに向けてすぐ視線を下げた。

「それで、ここの事はどのくらい聞いているの?」

 ここのことと言われ一体どこのことかと思ったが、すぐにこの館全体のことなのだと想像がつく。

「さあ、ここで自由に過ごせばいいとしか聞いてないかな。していうなら外には出られないってことだけは聞いた」

 ウォーターが軽く目頭を押さえる。

「そんな説明で納得したの。それにあなたたちいつも図書館で一緒にいるんでしょ。いつもなに話してるのよ」

「なにって、変わったことは話してない。雑談程度。それに僕たちはたいてい本を読んでるから。話すときはお互いに本を読んで疲れた時ぐらい」

「もういいわ。ペンの逃避も嫌いだけど、あなたの危機感のなさも私は嫌いなの」

「そんなこと言われても」

「あなたもそろそろ知っておくべきだと思うわ。気になるでしょ、この場所が何なのか。外への扉はない牢獄。中には同じぐらいの年齢の子たちが頭をうずめている。おまけに」

ウォーターはそう言って休憩所を出ると草を踏みしめ仰ぐように顔を上げる。

「天井には青紫の太陽が輝いている」

 彼女は皮肉っぽく微笑み天井を見上げていた。まるで何かを羨望するようで、本物の太陽を見て目を細める表情に似ていた。

しばらくウォーターを見つめてから欄干から身を乗り出し上を覗きこむ。はるか頭上の天井に青紫色をした太陽の絵が描かれていた。

白い天井をバックに青紫をした丸が大きく描かれている。青紫の球体からギラギラとした光をイメージしているのであろう触手が全体に生えていた。デフォルメされた太陽。怪しげな宗教のシンボルにも見える。

「あなたはこの館に疑問を感じない?」

 青紫の太陽が描かれた館。

 常識を逸している館。

円柱の真ん中をくり抜いた形をしたこの館に出口はない。外に面する窓はなく、もちろん扉なんてものはない。唯一外が伺えるはずの中庭の天井には蓋をするように青紫の太陽がこちらを監視している。

外が気にならないわけではなかった。僕がこの館にやってきた当初、出口はないかと館の中を探索した。 どの部屋も少し贅沢な監獄といったような部屋しかなく、たまにかくれんぼをしている子供のようにブロンズがいるだけだった。

当然すぐに飽きてしまった僕は図書室に戻りそのことをペンに報告する。上もほとんど同じだと言われ、僕はすぐに館への興味がなくしてしまった。

「空はどうなってるんだろうな」

 天井を見上げたまま何となく感じた疑問を口にすると冷たい視線で睨みつけられる。

「あなたって本当に馬鹿ね。気にならないの? ここまで徹底して外を隠してるのよ」

「そうだな、きっと外には凄いものがあるんだ。僕の予想だとこの外は宇宙で、僕たちはきっと館との形をした宇宙船で旅をしているんだ」

 呆れたようにウォーターは溜息をつく。

「あなたSFの読みすぎよ。もしも、この館が宇宙船だとして私たちはいったいどこに向かっているというのよ」

「きっと新しい惑星じゃないか。地球はもう人が住めなくなったから新しい所へ行くんだ。僕たちはそれで選ばれた子どもたちってわけ」

「想像するのは自由よ。それにしても、あなたを見てると怒っていいのか笑えばいいのかわからなくなるわ。でも一つ言えることは現実を見てってこと。とりあえずあなたがここへ来た時のことを思い出せばいいんじゃない」

 少しはましだった気分が急激に萎えてしまった。

「ウォーターは夢がないな」

「夢も希望もすでに一回無くしてるから」

 疲れたというようにウォーターは目をつぶり小さな宮殿の欄干にもたれた。閉じた本は太ももの上に置き、眠りにつくようゆっくりと呼吸を繰り返す。

彼女は何を考えているのだろうか。

ウェーブしたなめらかな金髪をした彼女を眺めて僕は思う。目を閉じてさえいれば人形のように精巧で繊細な彼女の表情には何も浮かんでいない。いつも喜怒哀楽がはっきりとしている分、何の感情もなく目を瞑る彼女が何を考えているのか予想がつかない。

僕も同じように目をつぶり何かが浮かんでくるかふけってみたが、真っ暗になった視界の中でびちゃびちゃと音をたてるクロックの音が邪魔で集中出来なかった。

ただ、視界が真っ暗になったときこの館にやってきた時のことを思い出した。


全体で原稿用紙100枚ほどの短編になります。

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