8話
セフィリアは湯の張った湯船に身を沈めながら、煮え切らない思いを抱えていた。
先日、セフィリアはルシアンに「部屋を別にしたい」と言った。ルシアンにはきっぱりと断られたが。
ルシアンに側室を提案してから数日。未だルシアンが了承する気配がなかった。
「おかしい。計画では嬉々として飛び着くはずだったのに……」
飛びつくどころか逃げられてしまった。セフィリアの予定では、すでに側室候補の選定に入っているはずだったのだが。
ルシアンに側室を勧めた時、セフィリアは彼がそれを受け入れると思っていた。もっとも、ルシアンがそれを聞いたら嘆き悲しむだろうが。
「やはりまだ……」
湯に肩まで浸かりながら、苦い想いが胸に広がるのを感じる。そのことにセフィリアは唇を噛んだ。
結婚してから二年。ルシアンとセフィリアが出会ってからは長い時間が過ぎた。その中でセフィリアは知ったことがある。――気づいてしまったことも。
ルシアンが望んだから実現したこの結婚。だけどこの結婚に一番驚いたのはセフィリア自身だった。なぜなら、彼がセフィリアとの結婚を望むはずがないことを知っていたから。
驚くと同時に理解した。ルシアンは優しく、そして嘘の上手い人間であることを。だからセフィリアは黙って受け入れた。この結婚を。
「陛下、本当は……」
心の内に浮かんだ小さな囁きは、音にならずに消えた。
湯から上がったセフィリアを待っていたのは侍女たちの気合いに満ちた笑顔だった。その様子に思わず溜め息をつく。
「エリサ、あのね」
「さぁ! 覚悟なさいませ!」
鼻息も荒くセフィリアを呼ぶエリサの様子に、セフィリアは説得を早々に諦めた。あまり派手にして欲しくはなかったのだが、これでは無理だろう。
エリサはセフィリアを化粧台の椅子に座らせると、自分は素早く背後に回る。それからエリサはセフィリアの濡れた髪を丁寧に拭い始めた。
ある程度の水気が取れると今度はそれを丁寧に梳り始める。少し癖のあるセフィリアの髪はエリサの手によって綺麗にまとめられた。
それが終わると今度は立たされる。セフィリアは侍女たちの手によって丁寧にドレスを着せられた。再び化粧台に座らされると、化粧が始まる。
「あまり派手にしないでね……」
気合いが入りまくっているエリサにそっと声をかけるが、エリサは目を吊り上げてセフィリアに従わなかった。
地味な自分が派手に装ってもおかしいだけなのに。セフィリアはそう思ったが口には出さなかった。エリサを含め、周りの侍女たちに何を言われるかわからなかったからである。
柔らかな筆先がセフィリアの頬を撫でる。こうしていると、セフィリアは結婚式の当日を思い出した。
あの日も侍女たちは張り切った様子で、国中が熱気に溢れていた。その中でセフィリアだけが冷静で。祭殿の前で待つルシアンの姿を見つけた時、どうしようもない気持ちがセフィリアの胸を駆け巡った。
それは恋ではなかったと思う。悔恨にも似た、複雑な想い。
「セフィリアさま?」
鏡を見たまま黙り込むセフィリアを不思議に思ったのか、エリサが鏡越しにセフィリアを見下ろす。セフィリアは黙って首を横に振った。
ルシアンは優しい。セフィリアはそれを嫌というほど知っている。そして自分を殺すことのできる人だということも。
だから解放したいのだ。自分から、ルシアンを。
体面上のことはどうしようもない。だからせめて、心だけは。
◇ ◆ ◇
「陛下、落ち着いてください」
さっきからうろうろと落ち着きなく歩き回るルシアンをラウルが呆れたように眺める。言われるとルシアンは足を止めるのだが、すぐにまた不安そうに歩き始めた。
「…どうしよう…」
「何がです?」
「不安だ。嫌な予感しかしない」
ここ数日のセフィリアの奇怪な行動のせいで、ルシアンはすっかりセフィリア恐怖症になっていた。油断していると、何が起こるか分からない。
情けなく項垂れるルシアンに、ラウルはまた呆れたようにため息を漏らした。 ラウルからしてみれば、ルシアンがすっかり萎縮して何も言わないので、セフィリアが揚々と行動を起こしていることが分かる。はっきりと言えば案外、セフィリアは側室選びを止めるかもしれなかった。
しかしそこは惚れた弱味なのか、ルシアンはセフィリアにはっきりと文句を言えない。というかセフィリアに見つめられると、ルシアンは明後日の方を見て会話どころではないのだった。
「いい加減、腹を括ったらどうなんです?」
「あいつの行動は予測がつかん。だからこそ、細心の警戒をせねば……」
ルシアンはぶつぶつ呟きながら、渋面になって床を睨んだ。そんなルシアンの姿に、ラウルは説得を諦める。
やがて重そうな衣擦れの音が聞こえてきた。音の主を振り返り、ラウルは無言で廊下の端へと下がる。
「陛下、何を気難しそうな顔をしているんです?」
「っ、」
聞こえた声に顔を上げ、ルシアンは目を丸くした。
セフィリアはデコルテの広い濃紺のドレスを身に纏い、細い首筋にはダイアをあしらった首飾りが輝いている。髪はアップに上げられ、ドレスと同色のリボンで丁寧に整えられていた。
常にはないその美しい装いに、ルシアンは頬を赤く染める。そしてそれを隠すように顔を背けた。
「どうしました?」
「いや、なんでもない……」
「そうですか?」
顔を背け続けるルシアンに首を傾げながらも、セフィリアはそれ以上聞こうとはしなかった。そんな二人にラウルが足音を忍ばせて近づく。
「そろそろよろしいですか?」
その言葉にセフィリアは頷いて、大広間の扉の前に立つ。送れってルシアンもその隣に並んだ。
セフィリアがルシアンの腕に自分の腕を絡ませる。感じた温もりに、ルシアン心臓が不自然に跳ねた。それを誤魔化すようにルシアンは前を睨み据える。
「国王陛下、並びに王妃陛下。ご入場でございます」
侍従長の言葉とともに目の前の扉が軋みながら開かれる。途端に溢れる光の洪水。
広間に集まっている人々の視線が一斉に二人に向けられた。二人は笑顔を顔に張り付け、その中へと足を踏み出した。