7話:舞踏会での攻防戦
セフィリアがルシアンと出会ったのは今よりもずっと昔。お互いに今の立場など、想像もできないような歳だった。
その日は朝からなんだか騒がしくて。レナヴィスト公爵家のカントリーハウスでは使用人たちがひっきりなしに歩き回っていた。セフィリアは彼らの邪魔にならないように母と姉の三人で庭の四阿に居たような気がする。
そこにルシアンが現れたのだ。ものすごく不機嫌そうな顔で。
漆黒の髪に澄んだ紫水晶の瞳。その瞳が自分に向けられたとき、セフィリアの心臓を言いようのない衝撃が駆け抜けた。
それまでのセフィリアにとって、この世で最上の人間と言えば自分の姉だった。
全てにおいて完璧な姉。姉はあらゆる場所でレナヴィスト家の至上の宝と呼ばれていた。姉の隣に居るとセフィリアの平凡さはさらに際立たされる。周りの人間もセフィリアと姉を比較しては、落胆の雰囲気を漂わせていた。
それまでセフィリアにとって、姉だけが世界の中心であり、完璧な人間だった。
そこに現れたのがルシアンである。
神の造形物とも言うべき完璧な容姿。幼いながらも、将来は美男子になること間違いなしだった。そんな彼は、セフィリアの無遠慮な視線を感じたのかこっちを見る。
『……何見てんだ』
――セフィリアの感動は、一瞬で脆くも崩れ去ったのだが。
◇ ◆ ◇
「――リアさま? セフィリアさま? どうかしましたか?」
耳元で聞こえたエリサの声に、セフィリアの思考が覚醒する。目の前に大量に広げられた色とりどりのドレスたち。
「え……?」
目をしばたたかせるセフィリアに、エリサが呆れたような顔をする。えっと、何だったかしら……?
「どうしたんですか? ドレス、気に入ったのありませんでしたか?」
そうだった。今度の舞踏会のドレスを考えてるんだった。
セフィリアは目の前に広げられたドレスたちを見る。全てルシアンが用意してくれたドレス。それを眺めていたら、昔のことを思い出してしまった。
ルシアンと初めて会った時のこと。今となっては遠い昔のこととなった、優しい思い出。
「……陛下の用意したドレスは着ませんよ」
「なぜですか!?」
「当然です。陛下の側室を選ぶのにどうして陛下のくださったドレスを着ることができますか」
今回の舞踏会、セフィリアはなんとしてもルシアンの側室を選びたかった。選ぶとまではいかなくても、候補だけでも決めたい。
それなのにセフィリアが陛下からもらったドレスを纏ったら、まるで彼女たちに見せつけているようではないか。それでは意味がないのだ。
「濃紺のドレスがあったでしょう。あれにしましょう」
「あれですか? どうしてそんな地味なやつを……」
エリサは明らかに不満そうな顔をしているが、セフィリアは取り合わなかった。もちろん分かって選択したのだ。地味な自分が着たら、さらに地味さが際立つだろう。
しかし周りの人間の虚栄心は満たされる。そしてルシアンも、地味なセフィリアよりも美しい女性に心惹かれるはずだ。
「陛下は側室を選んでくださるといいのですけど」
「もう何も言いませんよ、私は」
説得などとうに諦めたエリサは濃紺のドレスを引っ張り出し、それに合わせて宝飾や靴を揃えていく。華美を好まないセフィリアのために小ぶりながらも、極上のそれらを取りだした。
「宝飾品は抑えて……髪は結い上げましょうか。当日は湯浴みも早くから行いますからね」
「そんなに張りきらなくても……」
「いいえ! 着飾らないというなら徹底的に美容を心がけます!」
エリサの宣言に、他の侍女たちも頷く。どうやら舞踏会に側室候補が参加すると聞いて、彼女たちは張り切ることにしたらしい。己の使える主人を一番に輝かせたい。そう思うのは当たり前のことなので、セフィリアは黙って受け入れることにした。
舞踏会には良い思い出がない。できればあんまり目立ちたくないのだが、正妃という立場上、それは無理だろう。あぁ、憂鬱だ。
「何景気の悪い顔をなさってるんです? さぁ! 試しに着てみてください。宝石とのバランスを確かめますから」
ドレスを抱えたエリサに追い立てられるように、セフィリアは着ているドレスを剥ぎ取られた。セフィリアも諦めたのか、大人しく着せ替え人形になっている。
あーでもない、こーでもないと思案錯誤する侍女たちには構わず、セフィリアは舞踏会へと想いを馳せた。
もしも。もしもルシアンがこの舞踏会で側室を決めたのなら。
「私はきっと……」
セフィリアに小さな心の吐露は、誰にも届かなかった。
大広間は舞踏会に向かって急速に整えられていく。ルシアンは主賓として最終確認を行っていた。といっても判子を押していくだけなのだが。
「舞踏会なんてやらなくたっていいじゃないか」
「そのようなこと仰らないでください。社交も大事ですから」
「うるさいことを言うジジィどもの顔なぞ見たくない……」
ルシアンの悲しい声が執政室に響き渡る。しかし、ラウルは気にせず書類の束をどんどんルシアンに押しつけた。
流れ作業のように判子を押しながら、ルシアンはふと思った。そういえばセフィリアの正装を見るのは久しぶりだな、と。
この間見たのはいつだったかな。……可愛かったなぁ。仏頂面さえなければ最高なのになぁ。
「にやにやしているとこ大変恐縮ですが、お客さまですよ」
「誰だ?」
「私です」
「……え?」
聞き慣れた声が聞こえたと思いルシアンは顔を上げ、そこに立っている己の正妃に口をポカンと開けた。間抜けな夫のその姿に、セフィリアは顔をしかめる。
「口を閉じたらいかがです?」
「あぁ……いや! なんでここに……」
言われてルシアンは口を閉じ、叫んで椅子から立ち上がった。セフィリアは優雅な仕草で布張りのソファーに腰かける。
セフィリアは堂々とした姿で、執政室に居座っている。あまりにも堂々としているので、ルシアンはこの部屋の主は誰かな、などとくだらないことを考えてしまった。
「座ったらいかがです?」
「あぁ……」
促されるまま素直に座り、ルシアンは目の前のセフィリアを観察する。あの晩餐以来、まともに顔を合わせていないのでルシアンは妙に緊張した。
最近のセフィリアは突拍子もないことを言うので、ルシアンは警戒しながら彼女を見る。セフィリアは感情の読めない目をルシアンに向けている。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
結局、見つめられることに耐えられなくなったルシアンが、恐る恐る尋ねた。するとなぜかセフィリアはかすかに目を見張り、わずかに目を逸らす。
常にないセフィリアの様子に、ルシアンは驚いた。それはそれは驚いた。
「俺には言えないことか?」
「いえ、そうではないのです」
「じゃあなんで言わない?」
「陛下は私が口を開くと怒りますから……」
その言葉にルシアンは呆れた。ルシアンが怒るのはセフィリアが突拍子もないことを言うからで、それさえなければセフィリアに怒る理由などない。
しょげたようにうつむくセフィリアに、ルシアンは言いようのない愛しさを覚えた。よほどルシアンが怒ったことが堪えたのだろう。そう思うとなんだかくすぐったいような思いも感じた。
「別に怒っていない。だから話してごらん?」
「本当ですか?」
「あぁ」
「では陛下にお願いがございます」
ルシアンが瞳を輝かせてルシアンを見つめる。その視線を受け止め、ルシアンは言いようのない高揚感を感じながら、セフィリアを満面の笑みで見つめ返した。
「では寝室を別にしてくださいませ!」
――笑顔は一瞬で固まった。
頭がおかしくなったのかと思った。今、恐ろしい言葉が聞こえたような……。
「……え、なんだって?」
「ですから寝室を別にして欲しいのです」
「なんだって!?」
思わず立ち上がる。青くなってセフィリアを見るが、真剣な瞳で見返されてしまった。
もはや何に対して驚いたらいいのか分からなくなった。どうしてこんなことを言うのか。寝室を別にする必要性はどこにあるのか。
「側室が選ばれた場合、今のように一緒の寝室では過ごせませんわ。今のうちから部屋を賜りたいのです」
「あぁ……側室ね……」
あまりにも真剣にセフィリアが言うので、訂正するのも忘れてしまう。ルシアンは脱力して椅子に座りこんだ。どっと疲れを感じる。セフィリアだけは真剣で、それがまたルシアンを疲れさせる。
「陛下、これは大事なことですわ」
「…………」
「側室を迎える際、その方に肩身の狭い思いをさせてはいけませんし……」
真剣に考えるセフィリアの姿に、ルシアンは気が遠くなった。ルシアンはその優しさの半分でも自分に向けて欲しいと思うが、言っても実現しないことは分かっているので言わない。
ルシアンは溜め息をついて椅子を立った。そんなルシアンをセフィリアが見上げる。
「部屋は別にしない」
「陛下、」
「そもそも側室を持つつもりはないし、持とうとも思わない。部屋を別にする必要はないだろう?」
尚も言い募ろうとするセフィリアを、ルシアンは己の唇を使って黙らせようとする。しかしルシアンが顔を近づけた瞬間、セフィリアの顔がはっきりと強張った。
それを敏感に感じ取ったルシアンは、結局何もせずに離れる。するとセフィリアは安心したように肩から力を抜いた。
「側室なんかいらん」
それだけ言ってルシアンは執政室から出ていった。