9話
視線が二人へと集まった。二人はゆっくりとした足取りで広間の中へと足を踏み出す。歩き出すと同時にセフィリアたちは多くの人々に囲まれた。
「陛下、本日はお招きありがとうございます」
「王妃陛下も相変わらず麗しいですわ」
多くの人間に囲まれ、あらゆるところから声を掛けられるが、ルシアンはただ笑ってその場を抜ける。それはセフィリアも同じだった。
二人は奥に据えられた玉座に並んで座る。途端に広間は波を打ったように静かになった。ルシアンはそれを確認するとゆっくりと立ち上がる。
「諸君には集まってくれて感謝している。今日は私的なものゆえ、あまり堅苦しくしないでくれ。さぁ、音楽を」
ルシアンの言葉を受けて、宮廷楽団が音楽を奏でる。すぐに舞踏会は華やかなものへと変わった。ルシアンは密かに息を吐き出す。そんなルシアンにラウルがこっそり近づいた。
それが何を指すのか理解したルシアンは思わず顔を歪める。セフィリアを振り返るが、彼女は優しく微笑むだけだった。
「いってらっしゃいませ」
「……はい」
後ろ髪を思いっきり引かれながら、ルシアンは玉座から降りて広間へと向かう。すぐに恰幅のよい大柄な男が寄ってきた。
「陛下! 今日はお招き、ありがとうございます!」
「モルトン侯爵こそ来てくれて感謝している。そなたの活躍には私も助かっているぞ」
「いや、私などただ館に引っ込んでいるだけでして。あぁ、そうでした! 今年も素晴らしい馬が用意できますよ」
機嫌よくシャンパンを煽るモルトン侯爵に合わせ、ルシアンも笑顔で話を続ける。内心では面白く思っていないのだが。
話す内容はちょっとした世間話から政治の話へと移る。領地のことや今年の作物の実り、各国の動きなど、地方ならではの話を注意深く聞いていく。
まったく。どうしてこんなことをしなくてはならないのだ。そう言ってやりたいが、ラウルが社交も政治の一つといって逃がしてはくれないだろう。それが分かっているから、ルシアンも大人しく各地の諸侯たちの様子を窺う。確かにこのような機会でもなければ、話すことができない者も居るからだ。
「今年は気候が穏やかでしたから、穀物の実りも良かったみたいですな」
「そのようだな。エレンス伯爵からもそのように報告を受けている」
「ほぉ。あそこは小麦と……あぁ、上質なワインで有名なところでしたな」
あそこのワインは実に良いですな! と言って笑うモルトン侯爵に笑顔で頷き、その場を離れる。他の者たちからも世間話を装いながら各地の様子を窺った。
「今年も比較的、どこも問題ないようだな」
「はい。北部でも冷害などの被害報告は受けていません。今年も規定通りの税収は確実でしょう」
ラウルの言葉にルシアンも頷く。
エスパドール王国は比較的気候の穏やかな国だ。土壌も豊かであり、各地で多くの作物が取れる。強いて問題があるとすれば、夏に来たから吹きこむ風による冷害くらいだった。特にここ最近は大きな災害にも見舞われず、エスパドール王国は大変潤っている。
しかしそれは、物資が国内に溢れるということでもある。
「値崩れに気をつけねばならんな……」
「今年は隣国が嵐による水害に見舞われました。余剰分を国で買い取り、輸出するのはいかがです?」
「そうだな……。どちらにしても議会で話し合わないとだな」
舞踏会の華やかな場所でするような話でないことは分かっている。だが、それがルシアンの居る場所だった。
常に「公」を大事にし、仕えてくれる諸侯や大臣、国を支えてくれる民のために労力を惜しんではいけない。自分が座る玉座が多くの人間に支えられていることを忘れてはいけないのだ。
だからこそ「私」の部分では大きな安らぎが欲しいのだが。背後にある玉座を振り返り、ルシアンは項垂れる。
「現実は厳しい……」
癒しを与えてくれるはずの正妃からは心労しか与えられていない。ルシアンは冗談ではなく涙が出た。あまりにも悲しすぎるその現実に。
セフィリアは次々にやってくる招待客を相手に談笑している。やがてルシアンの視線に気がついたのか、セフィリアがこちらを見る。「っ!」目が合った瞬間、セフィリアが立ち上がりこちらに向かってきた。
「こっちに来るぞ! どうしよう!」
「ご自分の妻でしょう。笑ってお迎えなさいませ」
「怖い……」
すっかり脅えきっているルシアンに、ラウルは呆れて放置することに決めた。ルシアンがおろおろと慌てている間にも、セフィリアは二人の方に近寄ってくる。
セフィリアはルシアンの前に立った。ルシアンは顔を引きつらせながらも、大人しくセフィリアを迎える。
「どうしたんだ……?」
「お話が終わったようなので。わたくしも一緒に挨拶をしようかと思いました」
思いがけずまともな意見が返ってきたので、ルシアンはホッと安堵の息を漏らした。セフィリアが腕を絡ませてくるのでルシアンは自然とエスコートする体勢になった。
二人で寄り添って広間を回る。セフィリアはさりげなく、窓際の淑女の集団にルシアンを案内した。
「まぁ、陛下!」
「陛下、本日はこのような素晴らしい場に招待していただき、感謝していますわ!」
すぐさま周りを豪奢なドレスを身に纏った淑女たちに囲まれる。どれもルシアンが招待した覚えのない子たちばかりだ。
ルシアンは困惑顔でセフィリアを振り返り、その顔に隠しようのない喜色が浮かんでいるのを見る。気づいた時には全てが遅かった。
ルシアンは周りを淑女たちに囲まれる。乱れのないその動きに、逃げる機会を失った。
「セフィリア、これは……」
「ご紹介しますわ。こちらガルト伯のご令嬢、アマンダさまです」
セフィリアの紹介に、紫のドレスに髪を結いあげ、薔薇で飾った女性がお辞儀をした。
「そしてこちらに居るのがヴォルデモ子爵の妹御である――」
セフィリアは嬉々として紹介していく。ルシアンの耳には恐ろしいほど残っていないが。
目の前には輝く笑顔の淑女たち。背後には同じく笑顔のセフィリア。悪夢だ。悪夢以外の何ものでもなかった。
「皆さま、素晴らしい方々ですわ。きっと陛下も気にいると思いますの」
「もう驚かないぞ、俺は……」
苦々しい想いでルシアンはセフィリアを見る。そうか。そっちがその気なら、こっちにも考えがある。
ルシアンはセフィリアに音もなく近づくと、その腰元を攫う。そしてセフィリアが驚くのも構わず、その桜色の頬に優しく口づけた。
セフィリアは音もなく固まる。淑女の方々はなぜか色めきたって二人を見た。
やがてルシアンの唇がセフィリアの頬から離れる。セフィリアは茫然とルシアンを見る。ルシアンは勝ち誇ったようにセフィリアを見下ろした。
「麗しいわが妃。今宵は一段と美しいな」
「……正気ですか」
「この場に居る誰よりも美しい。他の女性など気にならないほどにな」
セフィリアはハッとルシアンを見た。その表情に焦ったようなものを見つけ、ルシアンは内心でほくそ笑んだ。それからセフィリアの腰を支えたまま、淑女たちの一群を抜ける。
そのまま並んで広間を歩いていく。声を潜めて言い合いをしながら。
「陛下、せっかく来ていただいたのに」
「頼んだ覚えはない。この先も頼まない」
「きっと気に入ります。お話だけでもいかがです?」
「気に入ることはない。何度も言うが、俺の妃は一人で十分だ」
お互い笑顔で、だが心の中では激しく戦っていた。ルシアンはさっきの一団に戻ろうとはせず、セフィリアも彼を戻すことはできなかった。
勝った……! ついに勝つことができた! ルシアンは初めての勝利に酔いしれた。
セフィリアはそんなルシアンを横目に溜め息をこぼす。予想外の切り返しに何もできなかった。頭の中が真っ白になってしまったのだ。
「不覚です……。まさかこんな手でくるとは……」
嬉しそうなルシアンを見ながら、セフィリアは次なる手を考える。
「諦めないことが私の長所なんですよ……?」
セフィリアが扇の影で妖しく微笑んでいたことを、ルシアンはまだ知らない。