一話.
ミステリーが好きなので、書いてみましたが、いや〜大変ですね。
世の中のミステリー作家に祝福を!
『論理使いの凡人探偵』第1話
一、もやしと壺と一千万
新宿の片隅に佇む、うらぶれた『切塚探偵事務所』。傾いた西日だけが差し込む静かな室内に、パタン、と硬い音が響いた。
「マスター。今日の晩御飯ですが、このままだと具なしもやし炒めになります」
銀髪の美少女助手、フェリシアは、1円単位まで計算された家計簿をピシャリと閉じた。その涼やかな瞳には、北極圏の氷山並みの冷徹さが宿っている。
「嘘だろフェリ……。先週、闇カジノの異能イカサマ事件を解決したじゃないか。あの報酬はどこに消えたんだ!」
ソファーから飛び上がった切塚が、絶望に顔を歪めて叫ぶ。
「マスターがいらない物をいっぱい買ってくるからでしょ」
「いらないってなんだ! 全部、探偵として『必要不可欠』な買い物だろ!?」
フェリシアは、はぁ、と手際よく検収書を一枚ずつめくり始めた。
「ではお聞きしますが、その奥で神々しく光っている『限定版の魔王等身大フィギュア』は、我が事務所のどの業務に使うのですか?」
「悪の心理を理解するには、悪の頂点の造形を360度から観察して精神をシンクロさせる必要があるんだよ! 必要経費だ!」
「百歩譲って流します。では、その横の『最高級アッサム紅茶の茶葉(特大缶)』と『純銀製のアンティークティーセット』は?」
「英国の高名な名探偵はみんな優雅に紅茶を飲みながら推理してるだろ!? 凡人の僕には形から入るプラシーボ効果が必要なの!」
「……ちなみにマスター。この特大缶、開封後の賞味期限は三ヶ月です。マスターが一日一杯飲んでも、絶対に飲み切れませんよ」
「うっ……だ、大丈夫だ。本格的な紅茶好きの金持ちって意外といるからな。名探偵が愛飲した由緒ある茶葉ですよって付加価値つけて売れば——」
「それ犯罪じゃないですか?」
「えっ」
「えっ、じゃないんですよ」
フェリシアは次の検収書をめくった。
「ハンガーラックの『全く同じブランドの、全く同じ色のトレンチコート3着』は? マスターは腕が6本ある異能者にでも転職されたのですか?」
「歴史に名を残す名探偵は年中同じ服を着てなきゃいけないんだよ! 1着目は実戦用、2着目は保存用、3着目は鑑賞用だ!」
「最後にこれです」
フェリシアはデスクの一等地に鎮座する、怪しげなドクロの陶器を指差した。
「通販サイトで『これを持っていれば君も今日からシャーロック!』という謳い文句で売られていた、この『名探偵になれる壺』は何ですか。ただのオカルトです」
「フェリくん、君は何も分かっていない! 必要なのは知識じゃない、偉人が残したスピリチュアルな『風格』と『概念』なんだよ!」
「すべて却下、および全額マスターの小遣いからの天引きとします」
ピシャリと言い放ったフェリシアは、冷徹なトーンを崩さない。
「現在の運転資金、残り240円です。もやし二袋で破産します。次に『名探偵の風格のため』などと言って1円でも無駄遣いをしたら、マスターの脳を私の催眠異能で書き換え、明日から主食をドッグフードにして差し上げます」
「最強クラスの洗脳異能をそんな極悪な食生活改善に使うなよ!?」
——コンコン、と。安物の木製のドアが、驚くほど上品なリズムでノックされた。
「おっと、来客かな?」
切塚は救われたとばかりにトレンチコートの襟を正し、バッと扉を開けた。
「はいっ、こちら切塚探偵事務所! どんな難事件でも難なく解決、名探偵、切塚DE・SU!」
親指を自分に向けてビシッとドヤ顔でポーズを決める切塚。だが、開いたドアの先に立っていた人物を見て、切塚の動きが完全に静止した。
仕立ての良いスーツを纏った、白髪の老紳士。背後には黒スーツのSPが二人。老紳士は、うらぶれた事務所と妙なポーズを決める男を交互に見て——
「……あ、いや……失礼。お取り込み中、だったかな……?」
あからさまに、ガチで引いた顔をした。
「あ、すんません調子乗りました」
「常盤会長、大変失礼いたしました」
フェリシアは完璧な営業スマイルで老紳士に向き直り、切塚の首根っこをガシッと掴んだ。
「マスター……少し裏に来ていただけますか」
「え、ちょっとフェリさ——」
「ふぁい……ぉゔぃらいを、どうぞ……っ」
魂の抜けた名探偵の姿に、老紳士はククッと喉を鳴らした。
「ふふ、仲が良いのだね。改めて挨拶を。私は常盤源一郎。不躾ながら、ひとつ君に厄介な仕事を依頼したくてね」
「と、常盤——あの常盤グループの!?」
切塚は腫れた頬のままガバッと起き上がった。政財界の頂点に君臨する巨大財閥のトップが、なぜこんな凡人探偵の事務所に直接足を運んだのか。常盤会長はSPに目配せをした。カチリ、と重厚なアタッシュケースがデスクの上で開く。そこに綺麗に敷き詰められていたのは、見渡す限りの万札の山だった。
「一千万円……!?」
「単刀直入に言おう。今夜、私が滞在しているホテルの最上階まで来てほしい。調査の前金として、これで手を打ってはくれないかね」
「引き受けましょう! ちょうど今夜の予定は具なしもやし炒め、ゲホン、白紙だったところです!」
ドリル回転で手のひらを返す切塚に、常盤会長は少しだけ哀愁を帯びた目を向けた。
「私の息子たち——いや、息子『二人』の周辺が、酷く不穏でね」
「……二人、ですか」
切塚は、ふと耳に引っかかった。報道では、常盤家は三兄弟だったはずだ。会長は一瞬、目を伏せた。
「長男の一郎は……三ヶ月前、海外で事故に遭ってね。今も意識が戻らん。生死の境を彷徨っている」
「……それは」
「だからこそ、今夜の話し合いには出てこられん。だが——あれが倒れてから、家の中の歯車が、明らかに狂い始めた」
会長は、それきり一郎の話を打ち切るように、軽く首を振った。
「失礼ですが、常盤グループほどの企業なら、エリート異能者のSPをいくらでも動かせるのでは?」
「ああ、もちろん動かしている。今夜のホテルは、超一流の索敵異能者で固めてある。蟻一匹、異能を発動させれば即座に捕捉されるくらいにはな」
会長は、ほんのわずかに目を細めた。
「だが、そこまでやっても、私は安心できんのだよ」
「と、言いますと」
「異能者というのは、結局のところ『異能の気配』しか見ない。魔力の揺らぎ、殺気の残滓——そういうものを感知することにかけては超一流だが、それ以外には目が向かん。彼らは『能力の強さ』でしか物事を見ない」
会長は、深く息を吐いた。
「身内の陰謀というのはな、切塚くん。多くの場合、能力なんて使わずに、ただの『嘘』と『工夫』だけで成り立つものだ。だからこそ私は、異能に頼らず純粋な論理を武器にする男を呼んだ」
「論理……」
横でフェリシアが「スン……」とした視線を切塚に突き刺した。
「分かりまじた! この名探偵切塚、風格と論理をもって、会長の身の安全を完璧に保障してみせましょう!」
「ふふ、期待しているよ」
会長は優雅に一礼し、事務所を後にしようとした——その時。ふと、足を止めた。
「ああ、そうだ。切塚くん。一つだけ覚えておいてくれ」
「は、はい?」
「私は紅茶を飲む時、必ず二杯目を用意する。一杯目を飲み終える前にね」
会長は懐から取り出した懐中時計を、わずかに眺めた。
「温度の変わりゆく様を比べるのが、長年の習慣でね。だから、私の席には必ず、ポットと、伏せた予備のカップが、常に横になければ落ち着かんのだよ」
「はあ……偏屈なこだわりですね」
「ああ、ただの老人の戯言だ。だが——『純粋な論理』を扱う君なら、この意味が、いずれ分かるかもしれないな」
「え?」
「いや、独り言だ。気にせんでくれ」
会長は微かに笑い、扉の前で足を止めた。それから、ほんの少しだけ振り返った。その目が、珍しく、まっすぐ切塚を見た。
「——何があっても、君ならば、分かってくれると信じているよ」
今度こそ事務所を後にした。残された事務所で、切塚はガサァと一千万円のケースに飛びつこうとしたが、それより早く、フェリシアの細い足がケースの蓋をパタン!と踏みつけて閉じた。
「マスター、早く準備してください。もやし生活から脱出するチャンスです」
「あ、はい、すぐ行きます」
切塚はトレンチコートを羽織りながら、老人の残していった妙な言葉を反芻した。
「……偏屈なじいさんだったな」
「マスターのフィギュア趣味よりは、よほど健全な偏屈さかと」
「言い方ァ!」
これが、すべての始まりだった。
二、グランドタワー新宿
グランドタワー新宿は、文字通り夜空を突き刺す超高層ビルだった。
「……でっかいな」
切塚は首を反らして呟いた。
「マスター、口が開いています」
「しょうがないだろこのデカさは。なあフェリ、ここに一泊するといくらかかるの?」
「マスターの生涯収入の、三倍以上かと」
「聞かなきゃよかった」
最上階専用のエレベーター。壁には本物の大理石。指先がひんやりとした。廊下に降り立った瞬間、切塚は「ああ」と小さく呟いた。
間接照明、本物の絵画、足元の絨毯はこれまで眠ったどんな布団よりも柔らかい。突き当たりには、夜の新宿が広がるパノラマ窓。廊下の壁沿いには、柔らかな間接照明に浮かび上がる調度品が点在していた。その中に一つ、ずっしりとした存在感の青磁の壺が、廊下の折れ曲がった角のちょうど手前に鎮座している。艶やかな釉薬に光が滲んで、なかなか見事な代物だった。
切塚は一瞬だけそれを眺め、先へ進んだ。廊下の要所には、黒いスーツを纏ったSPが微動だにせず立っていた。一見、ただの警備員だ。だが、切塚の隣でフェリシアが、ぼそりと呟いた。
「……マスター。あの方々、相当の使い手です」
「分かるのか」
「立ち姿だけで。魔力感知系、殺気感知系、空間把握系——それぞれ専門が違いますが、いずれも一流の索敵異能者です。蟻一匹、異能を発動させれば即座に捕捉される配置かと」
「……鉄壁じゃん」
「ええ。少なくとも、廊下と外部から内部へ向かう異能の動きは、完全に封鎖されています」
切塚は頷きかけて、ふと、ある一室の扉の脇に小さな金属プレートが嵌め込まれているのに気付いた。電子的な紋様が刻まれ、淡く青白い光を放っている。
「フェリ、あれは?」
「……ああ。あの部屋ですか」
フェリシアは、わずかに眉を寄せた。
「『異能遮断室』ですね。財閥クラスの要人が機密会議に使う特別仕様の部屋です。あの紋章は、室内全体を異能から完全に遮断する結界術式。室内では、攻撃系・感知系・通信系——あらゆる異能が一切作用しません」
「マジで?」
「ええ。盗聴も読心も、念話も透視も、すべて無効化されます。会長が今夜の会議をあの部屋で行うのは、子息間の話し合いを完全な密室で済ませたい——という意味でしょう。ですが」
フェリシアは、少しだけ声を落とした。
「裏を返せば、あの部屋の中では、SPたちの索敵異能も一切届きません。室内で何が起きていても、外からは——物理的な『音』と『目視』以外、何一つ察知できない」
切塚の足が、わずかに止まった。青白く光るプレートを見つめる。最強の警備で固めてあるはずなのに、そこだけ、ぽっかりと『盲点』ができている。コートの裾を正し、背筋を伸ばす。形から入る。これが彼の、数少ない処世術だった。
ロイヤルスイートのリビング——その異能遮断室は、広すぎた。部屋の中央のソファーに常盤源一郎会長が腰を下ろし、向かいに二人の男が座っていた。
三つ並んだソファーのうち、ひとつがぽつんと空いている。その空席の前には、ご丁寧に、誰も手をつけない紅茶が一杯。湯気はもう、立っていなかった。会長の手元には、湯気を立てた紅茶のカップ。隣のサイドテーブルには同じ柄のティーポットと、二枚のカップが綺麗に重ねて伏せられていた。
左のソファーで体を投げかけているのが、次男の常盤栄二。肩幅のある大柄な体に高級スーツを纏っているが、ネクタイが少し緩んでいて、型にはまることを嫌う男だと一目で分かる。
右のソファーから立ち上がり、柔らかく会釈したのが三男の常盤圭三。細身の体に仕立ての良いスーツをきっちりと着こなし、銀縁の眼鏡の奥で穏やかに笑んでいる。
「お二方にも紹介しよう。当社の競合他社の件を調査していただくために雇った、切塚探偵事務所だ」
「あ、どうも! どんな難事件でも風格をもって解決する名探偵、切塚悠です!」
「……フェリシア。助手です」
栄二は「ほう」と目を細め、ソファーから身を起こした。
「そりゃ心強い。うちのためにひとつ腕を振るってくれよ、探偵さん」
気さくに切塚の肩を叩く。あっけないほど親しみやすい男だ。
「切塚さん、ですね。父さんが頼りにされているのですから、有能な方のでしょう。よろしくお願いします」
圭三が丁寧に一礼する。その所作には、隙がない。
——その瞬間。フェリシアは、内心で、わずかに首を傾けた。廊下ではSPの索敵異能が四方を張っている。だが、自分の異能もまた、廊下では機能する。隔たりがある部屋の中だが、先ほど栄二の隣を通り過ぎた時——かすかな、氷のような何かが、指先をかすめた。殺気、とも違う。感情の輪郭を失った、乾いた凪のようなもの。ただ、その感触を、まだ言葉にはしなかった。根拠がなさすぎる。
会長は、誰も座らない空席を一度だけ、ちらりと見た。それから、何事もなかったかのように手元のカップに口をつけ、ゆっくりと一口含んだ。おもむろに、サイドテーブルのティーポットへ手を伸ばし、伏せてあった二つ目のカップをゆっくりと起こす。ポコポコと、紅茶がカップに注がれる静かな音が、広い室内に満ちた。
その時、左のソファーの栄二が、ふ、と小さく鼻で笑った。
「親父のそれ、もう何十年だよ。家にいた頃、毎晩見せられたよなぁ、圭三。一杯目飲みながら二杯目入れて、温度比べるって。あれ、何が楽しいのかさっぱり分からん」
その言葉は、いかにも息子らしい気さくな所感に聞こえた。だが、切塚の耳の奥で、何かがわずかに引っかかった。この場に、初対面の自分とフェリシアがいる。わざわざ今、それを聞かせる必要がどこにあるのだろうか。
「……ええ、まあ」
圭三は曖昧に頷いた。だが、その視線は、空席の冷めた紅茶の方へ、わずかに泳いでいた。
「父さんの趣味、僕はあまり——」
「そりゃそうだ。お前、家にいた時期短かったしな」
栄二は軽く笑った。何気ない兄弟の会話のようでいて、ほんの少しだけ棘があるように聞こえた。
「さて」
会長はカップを置き、ふっと笑った。
「本格的な家族会議は一時間後、この部屋で行う。それまで各々、別室で少し頭を休めておきなさい」
その一声で、一同は解散となった。立ち上がりかけた圭三が、ふと振り返った。
「父さん。会議の前に、少しだけ二人で話せませんか。三十分後でいい」
会長は、しばし圭三を見つめた。
「……いいだろう。三十分後に来なさい」
圭三は深く一礼して、部屋を出た。そして栄二も、立ち上がりながら何気なく言った。
「親父,後でちょっと頼みたいことがある。出る時に廊下で渡したいものがあるから、一声かけてくれ」
「ああ、構わんよ」
三、廊下にて
切塚とフェリシアも廊下へ出た。——それから数分後。廊下の角を曲がりかけたところで、切塚の足が自然と止まった。物陰の向こうで、次男の栄二がスマートフォンを耳に当てて立っていた。先ほどの気さくな笑顔は、完全に消えている。
「……俺だ。静かに聞け」
押し殺した声だった。
「親父が今夜、探偵を連れ込みやがった。……ああ。念のためだ——例のあれ、全部片しておけ。痕跡も残すな」
一拍の沈黙。
「……それと。兄貴の方だ。今日も意識は戻ってないんだな? ……そうか。引き続き、何かあったらすぐ知らせろ。圭三の方からも、誰か接触があったかもしれん」
切塚の眉が、ぴくりと動いた。
「……ああ。兄貴を、頼む」
ツー、ツー、と通話の切れる音。コツ、コツ、と遠ざかる足音。
「……マスター」
いつの間にか隣に立っていたフェリシアが、静かに耳打ちをする。
「廊下では、私の感知異能が機能します。先ほどの電話中——栄二さんの背後から、かすかなものを感じました」
「かすかな?」
「殺気の残滓、とでも言うべきか。感情の熱を失った、乾いた種類の意志。最初の顔合わせの時に感じたものと、同じ質のものです」
「……分からん男だな」
切塚は小さく呟いた。
「『例のあれ』は何かを隠したい口ぶり。だが、最後の『兄貴を頼む』だけが、妙に響きが違った」
「同感です。あれだけは、演技には聞こえませんでした」
さらにその先——廊下の突き当たり、非常階段の踊り場で、人影が二つ、向き合っていた。切塚は反射的に柱の陰に身を引いた。一人は、三男の圭三。もう一人は、白衣にコート、首から下げたIDカード——明らかに、ホテルの人間ではない。
「……先生。今夜中に、間違いなく」
圭三の声は、低く、震えていた。
「カルテの差し替えだけでは、もう保たないんです。今夜、父にすべて話します。話す前に——あれを、こちらに渡してください」
白衣の男は何かを答えたが、距離があって聞き取れない。男は紙の封筒のようなものを圭三に手渡した。圭三はそれを胸の内ポケットに、深くしまい込んだ。
「……兄が眠っている間に、決着をつけます」
圭三は、そう絞り出した。白衣の男が階段を降り、圭三は深く息を吐いた。それから、誰もいない廊下に向かって、独り言のように呟いた。
「……父さん。許してください。でも、これ以上、兄さんを——」
ピ、と自室のカードリーダーが鳴り、圭三は部屋の中へ消えた。切塚は柱の陰からゆっくりと姿を現し、圭三が消えたドアをじっと見つめた。その目は先ほどの悪ふざけが嘘のように、冷ややかに冴え渡っている。
切塚は何も言わず、ただトレンチコートのポケットに深く手を突っ込んだ。
「……戻ろう」
隣のフェリシアも、その横顔を見て何も言わずに小さく頷いた。そして、自室へと戻った。
カチャ、と扉が開いた瞬間。切塚は止まった。フェリシアも止まった。豪奢なツインルームだった。ベッドが、仲良く二つ並んでいる。
「……あの」
切塚はぎこちなく、案内の使用人に確認する。
「お部屋は、お二方様でこちらをご用意しております」
にっこりと告げられ、切塚は「あ、そうですか全然大丈夫です何も問題ないです」と速攻で答えた。扉が閉まる。静寂。
「……フェリ、同室だ」
「……」
一拍、妙な間があった。フェリシアはツインベッドから静かに目を逸らし、感情の読めない横顔で言い切る。
「問題ありません」
「ベッドは別だから」
「分かっています」
被せ気味なほど、テンポが速い。切塚は、その不自然なまでの歯切れの良さに焦り、一人で言い訳を重ねるように喋り続けた。
「いや僕たち事務所でいつも一緒にいるし全然普通だよね?」
「……そうですね」
視線は、絶対に合わない。
「……フェリ、顔」
「室温が高いだけです。エアコンの故障を疑います」
「エアコン、いま21度設定だけど」
「……少し、警備の確認をしてきます!」
フェリシアはそれだけ言い残し、バッと部屋を飛び出した。切塚はひとり残されたスイートの中央で、ぼんやりと並んだベッドを眺めた。
——いや待て。何を意識してるんだ、僕は。トレンチコートを羽織り、廊下へ出る。エアコンは効いているのに、なぜか耳の先だけが妙に熱い気がした。
「……頭、冷やしてくるか」
最上階の廊下は、夜の静寂の中にあった。ポケットに手を突っ込み、夜景を眺めながら歩く。集合まで、もう時間が迫っていた。
その時——。前方の廊下の先から、声が聞こえてきた。二つの声が、夜の静寂に滲み出してくる。
一つは、圭三の声だった。感情が高ぶっていて、廊下にまではっきりと届いている。もう一つは、低く、途切れ途切れにしか聞こえない。会長の声、だろうか。切塚は、足を止めた。違和感が、脳の裏側をちくりと刺す。
圭三の声は、廊下に立っている自分にまで、まるですぐ近くにいるかのように鮮明だ。なのに——会長の返事は廊下までほとんど届かない。まるで防音された部屋の中から、扉越しにかすかに漏れ出してきているようだ。断片的な言葉だけが、夜の静寂に滲み出してきた。
『——父さん……! ——兄さんは正しかったんです! ——兄さんはあのプロジェクトのために、海外まで行って——! ——このまま旧来の事業だけに固執していたら、本当に全部——失うんです!』
『——圭三……! ——一郎と、同じことを言うのか——!』
——ガチャ、と。前方の廊下に、扉の開閉音(電子ロックの解除音)が響いた。扉が開いて閉まる音が続いた。切塚は慌てて柱の陰に身を隠した。
足音が、来る——。……と思ったが、来なかった。前方から人は出てこない。コツ、コツ、と絨毯を踏む音が聞こえてきたのは、前方からではなかった。
切塚が来た方向——後ろの角から、人影が現れた。圭三だった。
その顔は真っ白に青ざめていた。先ほどまでの端正な笑顔のかけらもなく、眼鏡の奥の目は虚ろに廊下の先を見ている。圭三は切塚の存在に気づかないまま、足早に自室の方へと去っていった。切塚は、柱の陰から動けなかった。
声の発信源と、本人の位置が——物理的に合わない。音の一つ一つは本物のように聞こえた。だが、組み合わせると、どこかが決定的にずれている。切塚の視線が、廊下に立つSPの姿を掠めた。微動だにせず、しかし周囲のあらゆる気配を捉えている、一流の異能者たち。配置に抜かりはない。そして——その視線の先にある、青白く光るあの『異能遮断室』のプレート。
部屋の中は、異能が一切効かない。SPの索敵も届かない。つまり、あの部屋の中で起きたことは——SPには『物理的な音と目視』でしか観測できない。
この最上階で起こり得る犯罪は、二重の縛りで限定される。SPの異能から逃れるための、純粋に物理的な手段。物理トリックの世界。
「……繋がっちまったな、クソが」
切塚は、不敵に笑い、ポケットの奥で拳を握りしめた。
「一番厄介なパズルに」
四、密室
一時間後。ロイヤルスイートの前の廊下に、再び人の気配が集まり始めた。
切塚とフェリシアが廊下に出ると、次男の栄二がすでに来ていた。腕を組んで壁にもたれかかり、不機嫌そうに口元を引き結んでいる。
「遅いな、親父は」
栄二はそう言い、ドアをノックした。コン、コン、コン。返事がない。もう一度。コン、コン、コン。沈黙。後からやってきた圭三が、静かな声で言う。
「父さん? 入りますよ」
ドアのレバーに手を掛ける。施錠されていた。
「……鍵が、閉まっている」
「親父! おい、親父!」
栄二が拳でドアを叩く。廊下に鈍い音が響く。切塚は一歩前に出て、ドアに耳を当てた。室内から、物音ひとつ聞こえない。
「フェリ」
「——はい」
フェリシアは短く頷き、使用人の詰め所へと走った。マスターキーを持った使用人が飛んでくるまで、一分もかからなかった。ガチャリ、と解錠の音。ドアが、開く。一歩踏込んで、切塚は照明のスイッチを入れた。光が室内に満ちた、その瞬間——
「……」
切塚の声が、抜け落ちた。ソファーの向こうで、常盤源一郎会長が床に倒れていた。胸の中央に、銀色のナイフが突き立っている。会長の周囲の絨毯は、鈍い色に染まっていた。
「父さん……!」
圭三の声が、かすれた。
「おい……! 親父……!!」
栄二が駆け寄ろうとするのを、切塚がとっさに腕を掴んで止めた。
「触らないでください」
切塚の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「……フェリ、警察に」
「——既に」
切塚は室内をゆっくりと見渡した。パノラマ窓——施錠。ベランダ扉——施錠。通気口——人が通れる大きさではない。
そして入り口のドアは——マスターキーを使うまで、内側から完全に鍵が掛かっていた。完全な、密室殺人だ。
その視線が、ふと、サイドテーブルの上で止まった。サイドテーブルの上にあったのは、ティーポットと、紅茶のカップが二つ。一つ目のカップは半分ほど減っており、二つ目のカップは、底に薄く茶渋が残るだけでほぼ完全に空っぽだった。
そして、テーブルの上には、それ以外、何も無い。伏せられた予備のカップは、どこにも無かった。切塚の喉が、ごくり、と鳴った。事務所での、老人の最後の言葉が、鮮烈に脳裏に蘇る。
会長の倒れている、その傍ら。血の付いた指先が絨毯の上に引いた、歪な一文字。
「一」
切塚は、その横線の書き始めを、じっと見つめた。頭の中で、何かが繋がり始めていた。
五、刑事の到着
エレベーターが開いた。廊下の向こうから、大柄な男が歩いてくる。くたびれたジャケットにノーネクタイ。見るからに疲れ切った顔だった。
切塚の姿を認めた瞬間、その男は深々とため息をついた。
「……やっぱり君か」
「お久しぶりです、厳吾さん」
大河内厳吾は天井を仰いだ。
「現場に探偵がいると聞いた時点で、嫌な予感はしていたが」
「ひどいなぁ」
「君がいるところでは、何かしら事件が起きる」
「順番が逆なんですよ」
「毎回そう言う」
大河内は視線をフェリシアへ向けた。
「フェリシアさんも苦労しているね」
「ええ。主にこの人のせいで」
「聞いたかね、切塚君」
「最近みんな当たり強くないですか?」
大河内はそれには答えず、現場へ目を向けた。
「——鑑識、入れ。俺も確認する」
その声で、空気が切り替わった。大河内が現場検証を終え、戻ってくる。
「死亡推定時刻は——集合予定の、二十分前後だ。胸部の刺創による失血死。ただし、即死ではない。医師の見立てでは、刺されてから死亡まで数分の猶予があったと思われる。最後の一分程度は意識が残っていたと考えて間違いない」
「……血文字を書くことが、できた」
「ああ。凶器はそのナイフで間違いない」
「ドアと窓は?」
「全部、施錠されてた。このスイートのドア錠は、外からは解錠不可能。マスターキーで開けるまで、室内に他者が入れる隙間はなかった」
「……現時点では、完全な密室、と」
大河内は手元の資料を開いた。
「もうひとつ、補助情報がある。ホテル側に、入口の電子ロックの全ログを開示させた。会長の部屋の今夜の入退室記録。まず、会長本人のカードで、本人と君たちが入退室。次に——解散の直後、会長がフロントデスクに直接電話を入れ、来客用ゲストキーの発行を依頼している。備考は『次男・栄二へ』だ。栄二氏本人が廊下のフロント内線でそれを受け取ったのが、解散から三十分後だ」
切塚は動かず、大河内の言葉を聞いている。
「さらに——そのゲストキーで会長の部屋に入った記録が、一つ。集合予定時刻の二十分前だ。退出の記録は——『なし』。このホテルのシステム、内側から退出する際にはキーを必要としない仕様でな。退出の痕跡は残らんのだよ」
「お前に渡されてはいないのか」
大河内の目が、栄二の方を向いた。
「親父からは、確かに『先に部屋へ戻ってる、後で来い』とは言われた。だが、ゲストキーなんて、俺は受け取ってないぞ!」
栄二の声が、わずかに上ずった。
「それともう一点。これは、警察として、関係者に伝えておく」
大河内は、栄二の方をちらりと見た。
「常盤グループの監査部から、緊急の情報提供があった。ここ三ヶ月、常盤栄二氏の個人資産が、相当激しく動いている。海外のヘッジファンドで、相当な額を溶かしている。先月、本人名義の信用枠が、ほぼ限界まで使われた」
「そして、会長の弁護士に確認した。今夜の家族会議のメインアジェンダは、会長の遺言の公表だった。内容は——『長男・一郎が回復するまで、会社の主要決定は会長と圭三の合議で進める。次男・栄二は、当面、意思決定ラインから外す』。もしこの遺言が今夜公表されれば、栄二氏は——来月にも個人破産だ」
栄二は、何も言わなかった。ただ、口元の笑いが、ほんの少し、固くなった。
「あと、圭三さんの部屋の任意捜索も承諾を得た」
大河内は、圭三の方を見た。圭三は、白い顔のまま、ゆっくり頷いた。
「あなたの上着の内ポケットから、封筒が出てきた。中身は、K大附属病院の診断書のコピーが二通。一通は、長男・常盤一郎氏の現在の意識不明状態を示すもの。もう一通は——同じ患者の、『脳幹に外的損傷の痕跡あり』とする、別の所見書だ。事故ではなく、明らかな人為的損傷だと示唆している。それと、同じ封筒から、会長の自筆と思われる遺言書の——草案のコピーも見つかった」
「圭三さん。これは、あなたが密かに入手していたんですか?」
「……いえ」
圭三は、首を振った。
「父さんから、今夜、見せられたものです。会議の前の、二人だけの面会で。父さんは——僕に、これを託しました。『今夜、家族の前で公表する。だが、もしものことがあれば、お前が守れ』と。父さんは……何かを、予感していたようでした」
「兄さんの事故が、本当に事故ではなかったかもしれない——その可能性に、父さんも気づき始めていた。だから僕は、独自に医師を口説き落として、本当のカルテを手に入れた。今夜、父にすべて話して、警察に動いてもらうつもりでした。誰かが、兄さんの本来のカルテを偽造に差し替えていた。担当医を脅していた。僕は、それを本物に戻させた。それだけです」
切塚は、深く息を吸った。圭三の「怪しく見える行動」のパズルが、綺麗に反転する。すべてに、真っ当な筋が通った。
六、解決
捜査本部代わりに使われた隣室に、関係者全員が集められた。栄二は不機嫌そうにソファーに座り、圭三は青白い顔のまま窓際に立っている。大河内と数名の私服警官が壁際に控え、フェリシアは切塚の隣に静かに立っていた。
切塚は、サイドテーブルに置かれたホテルのティーセットに、ふと目を落とした。ポットを引き寄せ、カップに注ぐ。それを目にしたフェリシアが、眉をわずかに上げた。
「……マスター、今から何を」
「形から入る。凡人にはこのプラシーボ効果が必要なの」
「ここは日本のホテルで、それはティーバッグの紅茶です」
「黙ってて」
切塚はカップを一口含んだ。ぬるかった。それでも、トレンチコートの裾をきっちりと正す。
「お時間をいただきます。——常盤源一郎会長を殺害した犯人、ならびにそのトリックを、これからご説明いたします」
「……待てよ、探偵さん」
口を開いたのは、栄二だった。その顔には、いつもの不敵な余裕が戻っている。
「もう答えは出てるだろ。圭三だ。上着から出た診断書に、親父の遺言書の草案。一郎が目を覚ましたら困るのはこいつだ。血文字の『一』も、親父が最期に『一郎』を後継者に指名しようとした証拠だ。お前の推理は、そこから始めるべきじゃないのか?」
「——半分だけ、正解です、栄二さん」
切塚の声が、静かに割って入った。
「長男の一郎さんの事故が、本当は人為的なものだった可能性。圭三さんがその証拠を握っていた可能性。ここまでは、おそらく事実でしょう。ですが、外側の半分——『誰が会長を殺したか』は、まるで違う」
栄二は鼻で笑い、ソファーに深く背を預けた。
「では、前提条件から確認します。会長が殺害されたあの部屋は『異能遮断室』です。室内では誰も異能を使えず、室外の廊下で異能を使えばSPに即座に捕捉される。つまり、この事件のトリックは100%、純粋な物理と心理の領域に限定されます。犯人は、最強の警備網の、その一番脆い盲点を正確に突いたんです」
切塚は、栄二の目をまっすぐ見据えた。
「逆を言えば、SPたちも同じ縛りの中にいた。室内が異能遮断室である以上、彼らは室内の心音も呼吸も、何ひとつ感知できない。廊下に伝わる『物理的な音』と『目視』だけが頼りだった。——何から疑うか。紅茶です」
切塚はサイドテーブルの上のカップを指さした。
「最初の顔合わせの時、二杯目の紅茶は注ぎたてでした。ですが現場発見時、二杯目は底に茶渋が残るだけで、ほぼ完全に空だった。一見、会長が二杯目までゆっくり飲み終えた後に殺されたように見えます。——ですが、現場のテーブルには、ティーポットと空のカップが二つ。それ以外、何も無い」
切塚は一拍置き、言葉を強めた。
「会長の習慣を思い出してください。『一杯目を飲み終える前に、二杯目を用意する』。もし会長が本当に二杯目まで自分で飲み終えたなら——その時点でテーブルの上には、次に使うはずの『三杯目の予備のカップ』が、ポツンと一つ伏せて残っていなければおかしい。ですが現場には、予備のカップは一つも無かった。つまり、会長は二杯目を自分で飲み干していない。犯人が『殺害時刻を遅く見せるため』に中身を別の容器に移して空にし、カップを戻したんです。本当の殺害時刻はもっと早い。——圭三さんの単独面会が終わった、その直後です」
栄二は冷めた目で切塚を睨みつけた。
「それは親父が今夜たまたま予備を出し忘れただけかもしれないだろ。そんなものが証拠になるかよ」
「ええ。そのセリフを言ってくれるのを待っていました」
「……何?」
「最初の顔合わせの時、あなた自身が言いましたよね。『親父のそれ、毎晩見せられた』『何が楽しいのかさっぱり分からん』と。わざわざ初対面の僕らの前で、会長の紅茶の習慣を詳しく説明してみせた。あれは、現場に二杯のカップが並んでいる状況を、僕らに『会長の日常』として受け入れさせるための、事前の刷り込みです。あなたは現場の偽装を、僕らの記憶の中に先回りして仕込んでいた。——ですが、あなたの説明には『予備のカップが常に必要』という核心が抜けていた。毎晩見せられていたからこそ、習慣の表層しか覚えていなかったんですよ」
切塚は一歩踏み出し、畳みかける。
「あるいは、予備のカップが収納されている棚を開けて余計な指紋を残すリスクや、次の行動へのタイムリミットという物理的な焦りが、あなたから『予備のカップを戻す』という最後のバッファを奪った。毎晩見ていた光景だからこそ、『2杯のカップを並べれば完璧だ』と思い込んでしまった。それが、あなたの計算違いです」
栄二の口元から、わずかに笑みが消えた。だが、すぐに小刻みに頭を振った。
「……バカバカしい。仮に殺害時刻がそこだとして、じゃあ廊下で聞こえた『口論』はどう説明する? SPも、お前自身も聞いたはずだぞ。親父と圭三が部屋の中で怒鳴り合ってた声をな。スピーカーだとでも言う気か? じゃあ室内のスピーカーはどうやって仕掛けた。俺は親父の部屋に入った証拠がない」
「ゲストキーですよ、栄二さん」
切塚は静かに言い放った。
「会長は解散の直後、フロントに直接電話を入れて、来客用ゲストキーの発行を依頼している。備考は『次男・栄二へ』。受け取りの記録は、解散から三十分後。廊下のフロント内線の端末ログとして、確実に残っています。あなたは最初の顔合わせの最後で、『出る時に廊下で渡したいものがあるから一声かけてくれ』と言った。あれは、会長があなたを警戒しないよう、自然な口実を作っておくための布石だった。実際には、手に入れたゲストキーを使って、あなたの方から無防備な会長の部屋に入った。——ホテルのシステムログに、嘘はつけない」
「ふん……。だが、それだけじゃ足りねえな」
栄二は身を乗り出し、鋭い視線で切塚を値踏みした。
「スピーカーを仕掛けてたんなら、そいつはどこにある? 現物はどこにあるんだよ、探偵さん」
「——本体は、まだあの場所にあります」
切塚は、廊下の方を親指で指し示した。
「正確には、あの青磁の壺の『中』です」
壁際で聞いていた大河内が、鋭く眉を動かした。
「……壺の中だと?」
「ええ。犯人は回収していません。回収する必要が最初からなかったからです。あの青磁の壺は、口が広く、胴の内側が空洞になっている。そして大理石の壁で四方を囲まれたあの廊下は、音が極めて反響しやすい、いわば巨大な『メガホンの内部』のような空間です。そこに超小型の指向性スピーカーを仕込めば、音波は硬い大理石に効率よく反射しながら、廊下の奥まで驚くほど鮮明に伝わる。外から見れば、ただの骨董品にしか見えません。大河内さんが先ほど仰ったのは、壺の口の内側、縁の陰に薄く残っていた粘着剤の跡のことです。鑑識がライトで中を覗き込んだからこそ見つかった、スピーカーを固定していた痕跡ですよ」
切塚は言葉を強めた。
「つまり犯人は、最初からスピーカーを壺の中に隠していた。用が済んだあと、廊下に出て回収する必要は一切なかった。だからこそ、SPにも目撃されず、時系列の破綻も起きない。——大河内さん、SPに指示を。壺の内部を確認してください。Bluetoothスピーカーが一つ、まだ残っているはずです」
大河内が顎を動かす。一人のSPが音もなく部屋を出ていき、数十秒後、透明な証拠品袋に入った小さな黒い機械を手に戻ってきた。
「室内ソファー裏から出たスピーカーと、同型のはずです」
切塚は栄二に視線を戻した。栄二の額に、うっすらと汗が滲んでいる。
「偽の口論の最後に流れた『扉の開閉音』。あれは実際の音をかき消すためではなく、僕ら目撃者全員に『今、あの扉が開いて閉じた』という先入観を植え付けるための、認知の誘導でした。スピーカーから響いたその音によって、僕らは『犯人が今、部屋から出て逃げたんだ』と思い込まされ、実際の死亡推定時刻から完全に目を逸らされた。あなたは自室にいながらにして遠隔でこの音声を再生し、完璧なアリバイと、圭三さんへの容疑のなすりつけを同時に完了させたわけです。SPの任務は、あくまで出入口と異能反応の監視です。廊下に最初から置かれているホテル備品の内部まで、一つ一つ分解点検する発想はなかった。彼らは『部屋から出てくる人間』を警戒していて、『廊下の壺の中身』まで疑う理由はなかったんです。——これこそが、あなたの計画の盲点です」
「……仮に、仮にそうだとして!」
栄二がソファーの肘掛けを激しく叩いた。声を荒らげ、初めて明確な焦燥を露わにする。
「スピーカーを壺に仕掛けたのは俺だという証拠はどこにある! 他の誰かが仕掛けた可能性だってあるだろ!」
「あの壺の位置は、会長の部屋の真正面ではなく、廊下を折れ曲がった角の手前です。音声の指向性を考えれば、あの位置から『廊下の中央』に向けて音を流すのが最も自然だと、事前に知っていなければ仕掛けられない。スイート担当の使用人たちの証言では、圭三さんは数年前から会長との関係が冷え込んでおり、この最上階のスイートには最近全く上がっていなかった。対して、融資の相談などで頻繁に会長を訪ねていたあなたは、この廊下の構造も、部屋に常備されているティーセットのパターンも、完璧に把握していた。あの壺を使った仕掛けを事前に用意できた人物は、この時点であなたに絞られます」
「それだけじゃ……声の件が説明できねえだろ! 圭三の声はどうした! あいつがあんな怒鳴り声を録音させるわけがねえ!」
栄二が狂ったように笑う。だが、その笑い声は、わずかに引き攣れていた。
「圭三さんのあの『遺言書を書き直すなんて、あんまりだ!』という音声データ。——あれは、今夜録られたものではありません。数ヶ月前、長男の一郎さんが事故に遭った直後——圭三さんが会長の部屋で激昂した、あの時の音声です。あなたが、隠し録りしていたものです。あなたには、家族会議や親族の会話を『念のための言質』として、昔からスマホでメモ録音する癖があった。圭三さん自身から、あなたが過去の親族の揉め事を録音で脅してきたという証言を、こちらは既に得ています。あなたは、過去のストックの中から『今夜の状況でも不自然ではない圭三さんの怒鳴り声』を拾い上げ、会長の音声と合わせて、まるで一続きの口論に聞こえるよう、芝居の台本みたいに継ぎ合わせた。——違いますか?」
「……っ」
「そして最後は、ダイイング・メッセージです」
切塚は、現場の血文字の写真を、机の上にそっと置いた。
「現場の床には、会長の指先が引いた一本の横線がありました。あれを完成した『一』の一文字だと読むには、あまりにも座標のバランスが不自然です」
「座標……?」
「ええ。人間がダイイングメッセージとして『一』という完結した一文字を遺すなら、そのスペースのバランスを考えて、無意識に中央付近に書くはずです。ですが、会長が遺した横線は、不自然なほど左端の狭い位置に押し込められていた。画像、その右側には、意図的に空けられたとしか思えない、複雑な文字を書き進めるための『広大な空白』が残されていた。あれは、単独の『一』ではない。右側へさらに文字を書き進めようとした形跡——『栄』のワ冠の横線を引いたところで、限界を迎えた証拠です。会長は床に、あなたの名前を刻ようとした。——そして、あなた自身が、その意味に気付いていた」
切塚は、わずかに声を落とした。
「現場発見時、あなたは血文字を見た瞬間、異常なほど黙り込んだ。圭三さんは『兄さん』と呟いたのに、あなただけは、何も言わなかった。なぜか? あなたは知っていたからです、あれが完成していたら、自分の名前になっていたことを。だから、もしあの時、廊下が静かなままだったら、あなたは会長の指に血をつけ直して、横線の後ろに『郎』を書き加えるつもりだった。そうすれば、父親の最期の告発が、そのまま兄への疑いに変わる。——ですが、廊下の足音が、あと三秒を奪った。圭三さんと僕らが、ちょうど集まり始めていた」
部屋に、重苦しい沈黙が落ちた。栄二は動かなかった。組んだ腕のまま、ゆっくりと、しかし深く深く息を吐き出した。やがて、その肩から完全に力が抜けていく。
「……親父の野郎」
栄二は、低く呟いた。
「紅茶の話、お前にしたのか」
切塚は答えなかった。
「ふん。なら、もう仕方ないな」
栄二は、ソファーに深く座り直した。憑き物が落ちたような、不思議に静かな顔だった。
「……あの瞬間な。親父の指が、床で動いてた。横棒一本、引かれてた。俺は思ったよ。『あ、これは栄の一画目だ』って。——すぐに分かった。あと『木』と『ノ』を書かれたら終わりだってな。親父の手にはもう力が入らなかった。俺が指を取って、続きを書かせることもできた。『郎』を書き足せば、兄貴の名前になる。完璧な絵が描けるはずだった」
栄二の目に、一瞬、工芸品のような冷たい光が宿った。
「親父の血を、指先につけ直した。俺の手は震えてなかった。震えてたのは、親父の指の方だ。ちょうどその時、廊下で足音がしたんだよ。コツ、コツ、って、絨毯を踏む音がな。俺は親父の指を離した。あと三秒。三秒あれば、『郎』まで書けた。完璧に、兄貴をハメられたのによ……」
栄二は、長く息を吐いた。
「親父を仕留めた後、ゲストキーをポケットにねじ込んでドアを閉め、自室に戻った。あとは部屋からタイミングを合わせてスピーカーを遠隔再生するだけだった。心臓が、ずっと、うるさかった。——親父の指が、最後まで、俺を指してたんだ」
「三ヶ月前——兄貴のプロジェクトを、現地で潰したい連中がいた。海外の競合だ。俺は、ちょっとした情報を渡しただけだ。連中が勝手にやった。だが、兄貴が倒れた瞬間、俺が次の後継者だった。何の苦労もなく、兄貴の隣の席が、俺の席になるはずだった。ヘッジファンドの損失は、もともと、その『勝つはずだった次期当主の地位』を担保に組んだ取引だった。俺が会長になれば、全部回収できる予定だった。親父は、俺じゃなく圭三を選びかけていた。今夜、潰さなきゃ、俺が潰れる。——それだけだ」
ふと、栄二は、力なく笑った。
「……探偵さん。一つ聞かせてくれ。『一』のところ、お前、よく気付いたな」
「あなた自身が、ほとんど答えを言ってくれましたよ。本当に完璧に偽装が成功していたなら、ここで黙秘していたはずだ。——『郎』まで書ききれなかったことに、あなた自身、内心ずっと引っかかっていたんでしょう」
栄二は、答えなかった。代わりに、ぽつりと呟いた。
「……親父も、すごいな。紅茶のカップ一つと、横棒一本で——ここまで俺を追い詰めやがった」
「——確保」
大河内の短い声と同時に、私服警官たちが栄二の両腕を押さえた。栄二は抵抗しなかった。ただ、引きずられる直前——
「……親父。分かってたんだな。ずっと、俺のことを」
低く、呟くような声だった。切塚は一拍置いた。
「……会長は、あなたを信じたかったんだと思いますよ。だから、僕に直接、合図を残した。疑いたくなかったから、保険にした。それだけのことです」
栄二は、答えなかった。
「お兄さんの方は、まだ間に合います」
切塚は、ぽつりと言った。
「意識は、まだ戻る可能性がある。今夜の自白で、警察は再捜査に入る。お兄さんに何が起きたのか——本当のことが、明らかになる」
栄二の肩が、ほんの少しだけ、止まった。ゆっくりと、視線が落ちた。
「……うるせぇ」
栄二は最後まで切塚を睨みつけたまま、警官たちに連れられていった。圭三が、ふらりと近づいてきた。
「……切塚さん。父さんが、最期に書こうとしたもの。——『栄二』、と。父さんは、最後に、栄二を指していたんですね」
「……ええ。ただ——」
切塚は、窓の外を見た。
「『一』という字は、いろんなものの始まりに使われる字です。会社のこと、家族のこと、それとも——一杯目だけで、終わってしまったものへの、名残かもしれない」
圭三は、それ以上何も言わなかった。眼鏡の奥で、一筋、何かが光ったように見えた。廊下に出ると、大河内が壁にもたれて煙草を咥えていた。火はつけていない。
「お疲れさん。長男の件、こっちで本格的に洗い直す」
「お願いします」
「……君、本当に異能なしで、よくやるよ」
「形から入ってるだけですよ」
「形だけじゃ、紅茶のカップの数までは数えられん。横棒の座標までは読めん。——壺の中まで覗き込むなんて、なおさらだ」
大河内は煙草をポケットに戻し、軽く手を上げて去っていった。
「マスター」
隣に立ったフェリシアが、静かに見上げてくる。
「お見事でした。家賃と光熱費が払えそうで、心の底から安堵しているだけですが……名探偵の風格、少しは出ていましたよ」
「……ええっ」
「えっ、じゃないんですよ」
「言い方ァ!」
切塚の情けない悲鳴が、夜の最上階の廊下に響いた。笑いが収まると、廊下にゆっくりと静寂が戻った。切塚は、もう存在しない「予備のカップ」の幻影を思い浮かべながら、そっと目を閉じた。
数日後。新宿の片隅に佇む、うらぶれた『切塚探偵事務所』。傾いた西日だけが差し込む静かな室内に、パタン、と硬い音が響いた。
「マスター。今回の報酬の第一陣が振り込まれました。これで当分の間、もやし生活からは脱却できます」
「よっしゃああ! フェリ、早速あの限定版フィギュアの第二弾を予約——」
「全額、私の名義の口座に退避させました。マスターが自由に使えるお金は、現在240円です」
「フェリの鬼!!」
——その時。切塚のトレンチコートのポケットの中で、スマートフォンが微かに震えた。非通知の着信。切塚は、わずかに眉を寄せて、画面を見た。
『——切塚悠探偵、ですね』
知らない、若い男の声だった。落ち着いていて、しかし、どこか冷たい。
「どちら様?」
『常盤源一郎氏の事件、解決お疲れ様でした。見事な推理でしたよ。ただ——一つだけ、教えて差し上げましょう。栄二さんは、ただの操り人形です。今夜の事件の、本当の作者は——まだ捕まっていない』
「……何?」
『例えば、あの壺を使った認知誘導のトリック。あの男に、SPの行動心理を完璧に読み切り、あそこの壺を死角に選ぶほどの計画をゼロから組み上げる頭はありません。彼はただ、こちらが与えた“最高級の設計図”を、持ち前の冷徹さと実行力で完璧にトレースしてみせただけです。現場でのアドリブ(紅茶のカップの偽装など)は彼の優秀さですが、大元のシステムを組んだのは——』
切塚の背中に、冷たいものが走った。栄二が電話で話していた相手——「例のあれを片しておけ」と指示していた、あの「共犯者」。
『あなたが論理だけで戦う探偵だと聞いて、興味が湧きましてね。次は、こちらから難問をご用意いたします。楽しみにしていてください。——切塚探偵』
通話が、切れた。
「……マスター?」
フェリシアが、訝しげに顔を覗き込む。
「……フェリ。もやし生活、もうしばらく続くかもしれない。次の依頼が来そうだってこと。——しかも、とびきり面倒なやつ」
切塚はそう言って、深くため息をついた。だがその口元には、いつのまにか不敵な笑みが戻っている。
「異能なしのド凡人探偵に、わざわざ挑んでくるなんてね。——上等だ。受けて立ってやるよ」
——そして、臨海地区にあるK大附属病院の特別病棟。人工呼吸器の音だけが響く静かな個室で——意識のないはずの常盤一郎の指先が、ほんのわずかに、ぴくりと動いた。
読んでいただきありがとうございました。
気が向いたら、あるいはリクエストでもあれば、またどこかでお会いしましょう。




