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第1章 十津川の夏、最後の思い出

奈良県十津川村の旭川は、深い山々に抱かれたように静かに流れていた。

夏の陽射しが水面を優しく照らし、川底の小石や小さな魚の影が透けて見える。

周囲は木々が密集し、時折風が葉ずれの音を運んでくる。


ここは派手な観光地ではない。

素朴で、雄大な自然がただ広がっているだけだ。

そんな場所が、タケルは好きだった。

川沿いのオートキャンプ場に軽自動車のハスラー(カーキ色のカスタム仕様)を停め、ドアを開けると、清々しい空気が肺に満ちた。


今日は日帰りキャンプ。

フィジークコンテスト関西大会で決勝まで残ったご褒美に、家族三人でやって来た。

タケルは上半身裸で水着姿になり、防水ケースに入れたスマホを岩の上に置いて録画をスタートさせた。

「よし、今日は思いっきり遊ぶぞ!」


柴原シバハラ 武尊タケル33歳。元三等陸曹。

高校を卒業し自衛隊に入隊、陸上自衛隊時代は中隊の訓練を仕切っていたが、妻・菜摘が双子を出産した日に亡くなってからは、すべてが変わった。

その日からすぐに除隊し、パーソナルトレーナーの道を選んだ。

今では、亡くなった両親が残してくれた奈良県高市郡明日香村山越の古民家を改装して小さなジムを経営し、トレーニング後のストレッチ兼マッサージが地元で評判だ。


「パパ!こっち深いよ!」

武蔵ムサシが元気いっぱいに水を蹴り上げて飛び込んでくる。

色黒の肌が陽光に輝き、柔道で鍛えた体で腹筋が薄らと浮かぶ。

小2とは思えない機敏な動きで、水しぶきを高く上げて笑う。

「俺が一番深く潜れる!見てて!」

やんちゃで正義感の強いムサシは、いつもクラスの中心。

曲がったことが大嫌いで、「誰かを守るため」の柔道が彼の誇りだ。


「待って、ムサシ!流れが速いところは危ないってば……」

大和ヤマトが心配そうに弟の後を追う。

色白で髪が肩まで伸びたヤマトは、いつも少し控えめだ。

でも今日は、弟と一緒に水を浴びて笑顔を弾けさせている。

「パパ、冷たいけど気持ちいい……!見て、この石、綺麗だよ!」

おとなしい性格だが、父親と弟に挟まれてしっかり者になったヤマトは、ピアノや読書が大好き。

明日香村の自然で昆虫採集にハマり、将来は昆虫学者を夢見ている。

アクティブな父と弟の影響で、一般的な男児より動きは軽やかだ。


菜摘がいなくなってから、タケルはこの双子を何よりも大切に守ってきた。

「生きてるだけで丸儲けだろ」という言葉は、菜摘の口癖だった。

親子三人で仲良く、自由にのびのびと過ごす。

それが、今の柴原家のルールだ。


タケルは二人の間に入り、大きな両手で支えながら一緒に水を浴びた。

「ほら、もっと深く行ってみろ。パパがいるから大丈夫だ」

三人が並んで川の流れに逆らい、じゃれ合う。

ムサシが飛び込んで水しぶきを上げ、ヤマトが小さな石を拾って見せびらかす。

笑い声が山々にこだまする。

遠くの山々が静かに見守るように佇み、木々の葉ずれが優しいBGMだ。

ここには、都会の喧騒も、誰かの視線もなかった。

ただ、親子三人の時間だけがあった。


楽しい時間は、あっという間に過ぎた。

もうそろそろ出ないと日暮れまでに家に帰りつけないだろう。


「パパ、また来ようね」

ヤマトが小さな声で言った。

タケルは頷き、スマホに向かって笑顔で言った。

「そうだな。お母さんもきっと天国で笑ってるよ。

俺たちは、生きてるだけで丸儲けだろ?」


手分けして荷物をハスラーに積み込む。

帰りの山道は細く、木々がトンネルのように覆いかぶさっていた。

ハスラーのエンジン音が静かな森に響く。

乗る前に、タケルは双子のシートベルトを念入りに確認した。


「よし、しっかり締めてるな。安全第一だぞ」

「は~い、お父さん。ムサシ、しっかりと確認して!」

「へ~~い。俺、もう眠たいよ。」



車を走らせてしばらくすると、後部座席から小さな寝息が聞こえてきた。

バックミラーで確認すると、ヤマトとムサシが肩を寄せ合って眠っている。

ムサシの頰に泥がついたまま、ヤマトの髪が少し乱れている。

タケルは微笑んだ。


――幸せだな。菜摘さん、ありがとう。

なんだかんた言いながら、男三人で仲良くやっていますよ。

この二人を、絶対に守るよ。


そう誓って前を向いた瞬間、空が突然黒くなった。

いや、空全体が渦を巻いている。

巨大な光の柱が、ハスラーを飲み込んだ。


光が爆発した。


「みんな……!」

タケルが叫ぶが、言葉は光に飲み込まれた。


――それが、柴原親子にとっての、最後の「普通の日常」だった。


意識が戻ったとき、タケルは白く無機質な天井を見上げていた。


消毒液の匂いが鼻を突く。

体が重い。

腕に何本もの細い管が刺さっている。

透明なチューブが点滴だけでなく、青く光る液体をゆっくりと送り込んでいる。


「……ここはどこだ……」


タケルはゆっくりと体を起こそうとしたが、腕の管が引っ張られて痛みが走った。

外傷はない。

骨折も打撲もない。

なのに、体中が妙にだるい。


胸には小さな円形のパッチが複数貼られていて、そこから細いワイヤーが伸び、ベッドサイドの透明なホログラムディスプレイに心拍数や血圧、脳波らしき波形がリアルタイムで浮かび上がっている。

ベッド自体が微妙に形状を変えていて、タケルが体を少し動かしただけで自動で背もたれが調整され、頭を起こしやすい角度に変わった。

部屋の壁は全面が淡く光るパネルで、時折「患者安定」「バイタル正常」の文字が日本語と英語で浮かぶ。

空調の音もほとんどなく、代わりに部屋の隅から小さな浮遊型センサーがブーンと音を立てて近づき、タケルの額に赤外線のような光を当てて体温を測っている。


隣のベッドは空だった。

ヤマトもムサシもいない。

部屋のドアは自動でスライドするタイプで、金属ではなく半透明の素材だ。


「ヤマト!ムサシ!」


慌てて声を上げた瞬間、ドアが静かに開いた。

白衣にスーツ姿の女性が入ってきた。

30代前半。黒髪を後ろでまとめ、シャープな目元。

スタイルが抜群で、スーツのラインが腰から脚にかけて完璧に落ちている。

胸元が少し開いたブラウスから、鎖骨のラインが美しく見える。


(なんだこの美女は!しかも、めっちゃスタイル良いな……!)


タケルは一瞬、呆然とした。

女性は柔らかく微笑み、近づいてきた。


「目覚めましたか!良かったです……。

柴原タケルさんですね。私は内閣府男性保護局の藤原凛です」


タケルはベッドの上で固まった。

「子供たちは……?」


「ヤマト様とムサシ様は先に目が覚めて、別室で休まれています。

もう少ししたらお連れします。

……それより、まずはあなたのお話を聞かせてください」


凛はタブレットではなく、手のひらサイズの透明なホログラム端末を空中に展開した。

指で軽く触れるだけで、空中にタケルの免許証の3D画像が浮かび上がる。

凛はそれを拡大しながら、淡々と続けた。


「寝ている間に持ち物検査をさせてもらいました。

免許証を確認しましたが……あなたの住所、『奈良県高市郡明日香村山越』という場所は、この世界の地図上には存在しませんでした。

明日香村に『山越』なんて地名はありません」


タケルは眉をひそめた。

「は?明日香村山越は俺の住んでる場所だ。ジムもあるし……古民家を改装して……」


凛は静かに首を振った。

ホログラム端末に地図が投影され、明日香村の衛星画像が回転しながら表示される。

確かに、山越という地名はない。

代わりに、里山のような緩やかな丘陵が広がっているだけだ。

(俺たちの家が地図上から無くなっている!?)


「それに、あなたたちはセキュ女も付けずに外出しています。

男性がセキュ女なしで外出をするなんて……あり得ません。

あなたたちは、一体何者ですか?」


タケルは言葉に詰まった。


「セキュ女……?」


凛の目が、少し鋭くなった。

彼女のホログラム端末に、タケルのバイタルデータが再び浮かび上がる。

心拍数が少し上がっているのが、数字と波形でわかる。


「ええ。保護センサー(見守りタイ)と、セキュリティレディース(セキュ女)

この世界では、男性は必ず見守りタイの装着が義務付けられており、

また、セキュ女の同行が推奨されています。

男性はかならず、男性保護局に登録がされているはずにも関わらず、

あなたたちの遺伝子データはデータベースに存在しませんでした。

……あなた方は、本当にこの世界の人間なのですか?」


タケルの胸に、冷たい予感が走った。

部屋の隅の浮遊センサーが、再びブーンと音を立ててタケルの顔に光を当てた。

「患者覚醒確認。感情変動検知。追加鎮静不要」と、柔らかい合成音声が流れる。


(この技術……俺たちの時代より、ずっと進んでる……)


でも、それ以上に、

この女性の言葉が、タケルの頭を混乱させた。


男性保護局。

明日香村山越が存在しない。

保護センサー(見守りタイ)

セキュリティレディース(セキュ女)


――ここは、俺たちの知ってる世界じゃない。


タケルは双子を抱き寄せたい衝動に駆られながら、ゆっくりと息を吐いた。


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