第18話
日常は、何事もなかったかのように続いていた。
会議は予定通りに進み、報告書の内容も、想定の範囲を出ない。
水利事業は滞りなく進行し、国境線に目立った動きもない。
忙しさはある。
だが、緊張はなかった。
アキトはそれを、「嵐が過ぎた後」だと受け取っていた。
そんな折、一通の書簡が、処理途中の書類の下から現れた。
差出人は、カカ王国国王。
封蝋は正しく、書式も非の打ち所がない。
心臓の鼓動が急激に早くなる。
振り返るとリョウカと目が合った。
「来た」
それだけ告げるとアキトは椅子に深く腰を下ろし、ゆっくりと封を切った。
「親愛なるアキト・カミシロ将軍閣下
春の訪れとともに、
貴国におかれましては益々の安寧が保たれていることと、
心よりお慶び申し上げます。」
形式文が、滞りなく続く。
視線を流すように進め、ようやく本題に入る。
「さて、先日の儀礼の場における一件につき、
本書簡をもって、我が国の立場を明確に申し述べる所存です。
当該の場は、本来、将軍閣下の就任を祝し、
両国間の信頼を改めて確認するための
儀礼の場でありました。
しかしながら、その場において条約の見直しが言及され、
さらに、
武力を背景とした圧力とも受け取られかねない発言がなされたことは、
外交儀礼の観点から見て、誠に遺憾であると言わざるを得ません。」
(..そう来るか)
声に出る前に、歯を食いしばった。
文章は事実を歪めている。それでも、嘘ではない。
だからこそ、余計に腹の奥に重く沈む。
読み進めるうちに、怒りは形を持たないまま、静かな不快感へと変わっていった。
「当該発言は、
長年にわたり友好関係を維持してきた二国間の信頼に、
著しい亀裂を生じさせかねないものであり、
我が国としては断じて看過できるものではありません。
本来であれば、これまで当国が配慮のもとに継続してきた
食料支援の見直し、
通商協定の破棄、
さらには安全保障上の対応を含めた
あらゆる選択肢を、 即時に検討せざるを得ない事態でありました。」
緊張で、手に力が入る。
かなり踏み込んだ表現になってきた。これは、関係断絶を意味する文面だ。
その先に何があるかは考えるまでもなかった。
――だが。
その名前を見た瞬間、アキトの目は止まった。
「ですが、
先日兄君のレイジ・カミシロ殿の訪問を受け、
直接の謝罪を受けたことをご報告いたします。
同殿は、今回の一連の事態について、
その責任はすべて自分にあると明言されました。
また、当該発言は貴国の総意ではなく、
自身の弟に対する教育の至らなさによるものであったと述べ、
兄としての責任を痛感しているとの説明がありました。」
(...兄さん)
レイジの顔が、はっきりと浮かぶ。
少し困ったように笑って、
いつも通り、余計なことを言って、
それでも一生懸命頭を下げる姿。
あの日、別れ際に言われた言葉が、
遅れて胸に締めてくる。
ーー任せとけ。
「正直に申し上げれば、
この謝罪は、
我が国が将軍就任の祝意として派遣した外交官に対する非礼に
十分に見合うものとは言い難いものであります。
しかしながら、王族としての血縁、
そして当人の覚悟に免じ、
今回に限り、本件を不問とすることといたしました。」
胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりとほどけた。
この世界のことはまだ全て理解しているわけではない。
その段階で、全面戦争は避けられてよかった。
今は素直に、そう思えた。
「貴国におかれては、
両国関係がいかなる前提の上に成り立っているのかについて、
改めて理解を深められる必要があるものと、我が国は認識しております。
我が国としては、今後、同様の誤った判断が繰り返されることのないよう、
貴国側における意思決定がより慎重かつ責任ある形で行われることを強く求めます。
本件が、貴国にとって自国の立場を再確認する機会となることを期待し、
本書簡を結びといたします。」
アキトは、最後まで読み終え、
しばらく視線を机の上に落としたまま動かなかった。
兄が、動いてくれた。
自分の代わりに、前に出て、頭を下げた。
その事実だけが、ゆっくりと胸に染みてくる。
アキトは、深く息を吐いた。
「……助かったな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
書簡をリョウカに渡すと、
リョウカは一文字一文字確かめるように視線を走らせた。
表情は変わらない。
「……妥当な内容です」
淡々とした声。
「将軍様のご懸念については、正式な外交ルートを通じて、辛抱強く交渉して参りましょう。現時点ではこれ以上無い内容かと」
アキトは、頷いた。
「兄さんが、うまくやってくれた」
その言葉に、リョウカの視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「はい」
それだけを告げ、リョウカは視線を落とした。
執務室の置時計の振り子が、変わらぬ速度で時を刻んでいた。
アキトは、その静けさを疑うことなく、次の書類に手を伸ばした。




