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第17話

執務室は、いつも通りだった。


机の配置も、書類の量も、差し込む光の角度も変わらない。

アキトの前には、今日処理すべき案件が整然と並んでいる。


署名。

確認。

次の書類。


それだけの作業。

就任直後のような緊張はない。だが、達成感もない。


アキトは、ただ淡々と筆を走らせていた。


(……戻ったな)


心の中で、そう思う。


自分が変わったわけじゃない。

仕事が変わったわけでもない。


ただ、「考える余地」を、自分で閉じただけだ。


リョウカは、完全に元通りだった。


無駄のない動き。

簡潔な報告。

必要なことだけを、必要な順で伝える。


「次に、西部戦線の定期報告です」


「問題は確認されておりません」


声ははっきりしている。


だが、アキトの耳には、水の中から聞こえるようにぼやけて届く。


理解はできる。

意味も分かる。

なのに、頭に残らない。


(……聞いてるはずなんだけどな)


意識が、ふと沈む。


そのぼやけた音の中で、一つの単語だけが、はっきりと浮かび上がった。

「――レイジ」

アキトの視線が上がる。


「はい」

リョウカは、変わらぬ調子で続けた。

「レイジ様が、本日午後に謁見を要請して来ております。多忙のため、お断りしようと考えておりますが……」


「構わない」


思ったより早く、言葉が出た。


「通してくれないか」


一瞬だけ、リョウカの視線が揺れる。だが、すぐに元に戻った。

「承知しました」


それだけだった。


午後。

執務室の扉が開き、レイジが入ってきた。公の場が苦手なのか、どこか落ち着きがない。


その視線が、自然とリョウカに向く。警戒心を隠そうともしない、鋭い眼差し。

場違いな緊張感に、アキトは思わず、口元を緩めてしまった。


「ごめん、リョウカ。ちょっと外してくれないか」

一瞬の逡巡。それから、リョウカは一礼して退出した。


扉が閉まる。

「やあ、英雄さん」

軽い声だった。

――が、言い終えた直後、レイジはぴたりと動きを止める。


「あ、いや……」

一瞬、視線が泳ぐ。

アキトの顔がみるみる曇っていくのを見て、しまったという顔をする。


「……失礼。今のは忘れてくれ」

わずかに咳払いをしてから、改めて口を開く。


「砲兵部隊の司令官――イトウさんから聞いたよ。カカに一発かましたらしいじゃないか」

アキトは、眉をひそめた。


「……からかいに来たんですか。ご用件は、それだけですか」

胸の奥から、黒い不快感がじわりと湧き上がる。


レイジは、慌てて両手を振った。

「いやいや、違う違う。冗談のつもりだったんだけど……」


苦笑しながら続ける。

「イトウさんがさ、珍しく慌てててね。それで、一回様子を見に来たくなった」


視線が、アキトを探る。

「……えっと、その…大丈夫?」


その一言で、アキトの中で、何かが切れた。

「大丈夫って……」


言葉が、止まらない。

会議の空気。

誰も否定しなかった言葉。

褒めながら引かれる線。

サラの沈黙。

ミサキの微笑。


断片が、次々と零れ落ちる。


「何が正しかったのか、分からなくて。間違ってないって言われたのに、なんでこんな気分になるのかも分からなくて……」


一度、息を吸う。


「……大丈夫なわけ、ないでしょう」


言葉が、噴水のように溢れ出る。気づけば、溜め込んでいた想いや愚痴を、すべて吐き出していた。


レイジは、遮らない。


頷きながら、ただ聞いていた。


やがて、静かに口を開く。

「この国の人たちってさ……おしゃべりじゃないんだよ。何か言う前に、だいたい一回、考える。

相手が将軍だったら、なおさらね」


アキトは、黙って聞く。


「アキトも、昔からそうだった。

みんなと同じように、考えなしに喋ることはほとんどなかった」


レイジは、机を指で軽く叩いた。

「あと、話すときさ。人じゃなくて、資料ばっかり見てた」


アキトは、思わず視線を落とす。

今も、書類が目の前にある。


「もう少し、人を見た方がいい。そうすれば、言葉の奥にある本音が、ちょびっと見えるかもしれない」

少し間があって、レイジは照れたように笑った。

「……まあ、外国かぶれの変わり者の意見だから、そんなに真剣に聞かなくていいけど」


顔を見合わせ、今度は自然に笑い声が出た。


そこから話題は軽くなる。

昔の話。

歴史上の偉人の面白いこぼれ話。

最近流行っている玩具の話。


オタクじみた話題に、アキトも少しずつ笑うようになる。


気づけば、胸の奥の重さが、薄れていた。


完全に晴れたわけじゃない。


だが、沈み切る前に、浮上できた。


レイジが立ち上がる。


「じゃあ、今日はこのへんで」


扉に手をかけ、ふと足を止める。

振り返ったレイジの表情は、それまでとは少し違っていた。

軽さが消え、真剣な色だけが残る。


「……カカの件な。心配しないでいい。俺に任せとけ」


それだけ言って、今度こそ扉を開けた。

静けさが、執務室に戻る。


アキトは、机の上の書類を見る。そして、ゆっくりと視線を上げた。

(……人を、見ろか)


人を。

空気を。

言葉の奥を。


そう思いながら、アキトは次の書類に手を伸ばした。

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