第0話
「明日は……なんとかなる」
そう口にしてみても、空気は少しも軽くならなかった。
震えも涙もない。ただ淡々として冷たい。
胸の奥にぽつりと空いた穴に、自分の声が落ちて消えていくだけだった。
逃げるように、パソコンの電源を入れる。
ランチャーには、何百時間も費やしてきたゲームのアイコンがずらりと並んでいた。
『パラダイス・コンストラクター』
『キングス・プロジェクト』
『ラスト・コロニー』
『レルム・オブ・ハーベスト』
『ドミナント・スペース』
すべてシングルプレイ。
対戦もチャットもない。
誰にも邪魔されず、誰にも迷惑をかけない世界。
画面の前だけが、いつだって安全地帯だった。
保存データの一覧が表示される。
100時間プレイ
セント・フィリア:クリア
植民惑星:生存達成
「……よくやったよな、僕。」
小さく笑った。
この画面の中では、誰にも叱られないし、誰も傷つけずにすむ。
子どもの頃からそうだった。
友達とうまく話せなかった日の帰り道、真っ先に開いたのは国家運営ゲーム。
失敗しても何度でもやり直せて、違う組み合わせを試していけば、必ず成果が出た。
「……あの頃は楽だったな。」
ふと呟いたとき、無遠慮な現実が割り込んできた。
ピコン。
スマホの通知。
《今日の件、どう説明するつもり?》
《ちょっと限界なんだけど》
《誤魔化さないで》
音がやけに大きく聞こえた。
胸の奥の細い糸が震える。
ピコン。
ピコン。
《返信は?》
《逃げてる?》
《話して》
限界まで耐えてきた糸が──
プツンと、完全に切れた。
その瞬間、走馬灯のように“ゲームの記憶”が逆流してきた。
初めて都市を完成させた夜、小さくガッツポーズしたこと。
中学生で教室に入れなかった日、帰宅して植民地ゲームを開いた瞬間だけ息ができたこと。
受験に失敗して閉じこもった数週間、資源管理の効率化だけが生きている実感だったこと。
社会人になって誰とも会話が続かない日々、帰宅して国境線を引き直す作業に救われたこと。
「誰にも迷惑をかけず成果を出せる唯一の場所」が、いつも画面の向こうだったこと。
温かさが胸に押し寄せたのに、同時に悟る。
それは全部、独りでもがいてきた証拠でもあった。
ゆっくりと心が沈む。
「……もういいか。」
その言葉には怒りも悲しみもなかった。
ただ、長い旅の終わりを受け入れるような静けさだけがあった。
視線の先で、黒いネクタイが揺れている。
まるでそこだけ光が当たっているみたいだった。
手が伸びる。
布の感触が妙に柔らかい。
それが、懐かしい安心のように感じられた。
結び目を解き、折り返し、輪を作る。
「……案外、簡単なんだな。」
不思議なほど集中できた。
まるでゲームで建築パーツを配置しているように。
通知はもう聞こえない。
椅子に乗る。梁にネクタイを掛ける。長さを調整する。
ゆっくりと息を吸う。
目を閉じた瞬間、走馬灯の続きが押し寄せてきた。
夜中のデスクライトの下で描いた地図。
ノートにびっしり書いた自作攻略法。
完全クリアの瞬間に上げた、小さなガッツポーズ。
胸が熱くなる。
ほんの一秒だけ思った。
「まだ……大丈夫かもしれない。」
でも、次の瞬間──
全部、塗りつぶされた。
怒鳴り声。
失敗。
謝罪。
疲労。
通知。通知。通知。
孤独。
空虚。
胃がひっくり返り、喉が焼けるように痛む。
「……もう、嫌だ。」
体は前に倒れた。
重力が全てを支配する。
視界が反転し、黒い闇が広がる。
音も温度も、世界も遠ざかっていく。その中で、
最後に聞こえたのは、ゲームの通知音だった。
《ローディング完了》




